エントリー

2011年02月の記事は以下のとおりです。

マイクロコンピュータ小史~その2 第二次マイコンブーム

 今回は第2回目,日本の,世界のマイコンが熱かった,あの時代を振り返ります。

・第二次マイコンブーム(1978年から1980年代中盤)

 電子工作の延長で始まった第一次マイコンブームは,その動機がコンピュータを作り,所有するという点にあり,コンピュータそのものの実用的利用を念頭に置いたものではなかった。

 しかし,ワンボードマイコンが完成品として安価に手に入るようになって,自分で部品を集め,組み立てる必要がなくなり,また拡張機器が充実することにより,やがて実用的な利用を動機とする人々向けのコンピュータが主流になる。

 それまでワンボードマイコンを販売してこなかった家電メーカーや事務機メーカーなど,多様な会社の参入があり,多くの機種が誕生し,雑誌にも多くの広告が掲載されるようになった。

 また,この時期のマイコンの使用目的としてBASICを使ったプログラミングとゲームに加え,家計簿や住所録,学校教育のアシストといった真面目な用途ついても期待されたが,これらはそもそものコンピュータの性能が低いことやプリンタやフロッピーディスクといった外部記憶装置を含む周辺機器が本体並みに高価だったことから実現出来ず,結局BASICプログラミングとゲームが主な用途となっていた。


・この頃のマイコンの特徴

1.8ビットのCPUを搭載している

 かつては多くのCPUが存在していたが,このころになると8ビットCPUはインテルの80系か,モトローラの68系の2つに集約される。80系の代表は8080上位互換のザイログ製Z80であり,68系の代表は8ビットCPUとしては最高性能とされた6809である。

 8ビットのCPUは,一度に管理できるメモリ空間が64kバイトであり,当時主流となりつつあった64kビットのDRAMチップと相性が良かったことに加え,フロッピーディスクやハーフVGA程度までのグラフィクス,あるいは3和音程度の音楽機能を持たせるには適当だったということもあり,どうしても高価なシステムとなる16ビットCPUは「ビジネス用途」のコンピュータに限定される時代が長く続いた。

2.OSは存在せず,BASICインタプリタがOSとエディタの機能を持っている

 OSは存在せず,電源を入れると即座に起動するBASICインタプリタがOSとエディタの機能を包含していることが,この時代のマイコンの最大の特徴である。

 これ以前のワンボードマイコンの場合,モニタからBASICインタプリタを起動する必要があるなど,BASICインタプリタが単独のソフトウェアとして位置づけられていたが,ベーシックマスターやPC-8001の登場によって,電源を入れると即座にBASICインタプリタが動作することが標準となった。

 これは,BASICインタプリタがダイレクトモードによってコンピュータに指示を出せたこと,外部記憶装置や画面制御などの資源を管理出来るようになったこと,スクリーンエディタの機能も持つようになったことで,これらを区別せずに実装する方が,より使いやすかった上に,メモリも小さくて済んだことによるものと考えられる。

 また,現実的な問題として,高級言語としてBASICは習熟が容易であり,扱いの難しいコンパイラではなくインタプリタとして実用になったことも,BASIC以外の言語を選択する必要がなかった理由であると考えられる。

 ただし,シャープのMZシリーズやX1シリーズはBASICインタプリタをROMに持たず,メモリ空間の大部分をRAMに割り当ててあった。ユーザーはブートローダによって外部記憶装置からBASICインタプリタをロードしなければならなかったが,反面BASIC以外の言語を利用出来たり,CP/MなどのOSを簡単に動かすことが可能であった。

3.メーカー間,あるいは機種間の互換性がない

 異なるCPUを選択したマイコンに互換性がないことは当然として,周辺LSIの違いやメモリマップといったハードウェアの違いや,BASICの言語仕様の違い,BIOSコールのアドレスやROMサブルーチンの仕様の違いといったソフトウェアの違いによる機種間の非互換性は,当時はごく当たり前のこととされていた。

 機能の違いや使いやすさ,価格の高低などはこうした違いから生まれるものであり,むしろ積極的に他との違いをアピールすることが普通であった。

 結果として,マイコンごとに得意なことや不得意なことが生まれることになり,用途や目的を満たすために最適なマイコンを選ぶことから始める必要があった。

 また,このことがユーザーの派閥を生むことに繋がり,特定の機種に入れ込む熱狂的なファンが他機種を非難するなどの行為が,実質的なパーソナルコンピュータのアーキテクチャの統一が図られる1995年頃まで続くことになる。


・このころのマイコン

 1978年に登場した日立製作所のベーシックマスターは,その名の通り電源を入れれば即座にBASICインタプリタが立ち上がる,後のマイコンの源流となった記念すべきコンピュータであり,この点において日本で最初のパーソナルコンピュータと位置づけられる。CPUには6800を装備し,多くのユーザーによって支持されたが,絶対性能の低さ,市販ソフトのスクなさゆえ,次第に存在感が薄くなってゆく。

 1980年には日本で最初に6809を搭載したマイコンとしてベーシックマスターLevel3が登場,1984年にはその後継となるS1が登場するが,意欲的な機能と性能に評価は高かったものの,大ヒットすることはなく日立製作所は独自アーキテクチャのマイコンから撤退することになる。

 同じ1978年にはシャープからMZ-80Kが登場する。CPUにはZ80を搭載し,ディスプレイとキーボード,カセットデッキまでを1つの筐体に格納したオールインワン設計と,BASICインタプリタをROMに持たず,メモリ領域の大部分をRAMに割り当てたクリーン設計によってヒットする。

 MZ-80Kはキーボードの組み立てにハンダ付けが必要なセミキットとして販売されたが,このアーキテクチャを踏襲するMZ-80C,MZ-1200,MZ-700,MZ-1500などの機種では完成品として販売されることとなる。

 1981にはMZ-80Kを大幅に機能アップしたMZ-80Bが登場する。オールインワン設計とクリーン設計を踏襲しつつ,メモリの拡張,高解像度グラフィックのサポートなどで高度な処理に対応し,後にMZ-2000,MZ-2200,MZ-2500といったマシンの源流となる。

 一方,MZシリーズとは異なる事業部において,テレビとの融合を図ったX1シリーズが1982年に登場する。クリーン設計は引き継ぐもディスプレイとキーボードは本体から分離したデザインで,当時の家電を意識したデザインとレッド,シルバー,ホワイトのカラーバリエーション,サウンド機能や640x200ドットで8色カラーのグラフィクス,PCGといったゲームに有利な機能と業界標準であったマイクロソフトBASICに近い文法を持つ高機能なHu-BASICを搭載し,独自のユーザーを獲得する。

 1984年にはZ80ファミリを全面採用し,16ビットマシンに匹敵する表示能力を持ったX1turboシリーズが登場し,8ビットマイコンの終息期まで生き延びた。

 1979年には日本電気からPC-8001が登場する。PC-8001はこの当時求められた機能の多くを搭載した完成度の高いモデルであり,かつ168000円という低価格によって大ヒットとなり,その後の日本電気のパーソナルコンピュータ事業の礎となった。

 CPUにはZ80,カラー表示とセミグラフィックを備えており,世界標準であったマイクロソフト製の強力なBASICインタプリタをROMで実装,電源投入で即座に利用可能となっていた。

 1981年には基本的なアーキテクチャを踏襲して日本語の表示機能や大容量メモリを搭載したPC-8801と,機能を落としより低価格にしながら,グラフィックとサウンド機能については強化を図ったPC-6001が登場し,この後しばらくのラインナップとなる。

 1985年にはPC-8801の後継機種であるPC-8801mk2SRが登場し,他メーカーを押さえて8ビットマイコンの覇者として君臨する。ゲームを始めとしたソフトウェアはこのPC-8801mk2SR向けに優先的に開発される傾向が強くなり,当初のビジネス向けの性格からホビー向けの性格を強くしてゆく。

 この後,PC-9801などの16ビットマシンに移行するに従い,8ビットマイコンはその使命を終えることになる。

 1981年に富士通から登場したFM-8は,CPUには6809を2つ用い,マイクロソフト製のBASICをROMに持つ8ビットマイコンとして登場する。当時最先端だった64kビットDRAMを採用し,大容量メモリを標準で実装し,オプションでJIS第一水準の漢字ROMまで搭載できた。

 グラフィックは640x200ドットの8色カラーであるが,48kバイトにもなるVRAMの実装と高速化のためにグラフィックを担当するサブCPUを用意し,ここにも6809を搭載したことを大きな特徴とする。

 また,バブルメモリという当時期待された外部記憶装置のスロットを本体に装備しており,豊富なオプションと共にどんなことにも対応出来る意欲的なコンピュータであった。

 1982年にはFM-8からADコンバータなどあまり使用されない機能を省き,サウンド機能を追加,処理速度を向上させた下位機種のFM-7が発売になる。126000円という低価格で20万円近いライバルと真っ向勝負が可能というコストパフォーマンスの高さにより大ヒットとなる。このことで富士通はNEC,シャープと列んでパソコン御三家と呼ばれるようになる。

 1985年にはFM-7を源流に,大幅にグラフィック性能を向上したFM-77AVが登場し,このアーキテクチャが8ビットマイコンの終息まで生き残る。


・MSXの流れ

 こうした個性的なコンピュータが販売される一方で,8ビットマイコンの共通規格を策定し,各メーカーはこれに従ってハードウェアとソフトウェアの互換性を維持する動きもあった。

 BASICインタプリタで圧倒的なシェアを持つマイクロソフトと,日本のアスキーによるMSXがそれで,CPUにはZ80を,VDPにはTMS9918,PSGとしてAY-3-8910を採用し,これに強力なMSX-BASICインタプリタが搭載され,各社から1983年に発売された。

 ゲームを主な用途に据えていたこともあり,ROMカートリッジによってソフトウェアが供給されるような仕組みを備えていたほか,BIOSによってBASICのバージョン違いやちょっとした非互換部分を隠蔽化する仕組みも持ち,機種間の互換性は非常に高いものがあった。

 しかし,実際にはMSXという単一の8ビットマイコンがいろいろなメーカーで製造され,販売されただけのことといえ,それぞれのメーカーでは個性を出すことと互換性を維持することの両立に頭を痛めていた。

 結局NECとシャープはMSXの発売を行わず,富士通も1機種出すにとどまった結果,パソコン御三家対その他の弱者という構図が定着することとなる。

 ただし,MSXは世界展開を視野に入れ,韓国やヨーロッパでは一定の成功を収めた。また1985年にはグラフィック性能を向上したMSX2が登場,1998年にはグラフィック周辺を改善したMSX2+が登場し,MSXにおける事実上の標準となった。1988年にはCPUを高速化したMSXturboRが登場するが,10万円以上という価格と絶対性能の低さ,また結局松下電器1社しか発売しなかったことなどからこれを最後にMSXは消滅した。


・周辺機器の進化

 1980年代は,劇的な技術革新による価格の低下により,それまで高嶺の花だったものが民生品として手に届くようになっていた。

 1980年代初期には本体価格よりも高価だったフロッピーディスクドライブは1980年代後半には5万円台の本体に内蔵されるようになり,メディアの価格も大幅に下がることで,爆発的普及を果たした。

 プリンタについても,日本語ワープロの爆発的普及に端を発した高精細な日本語熱転写プリンタが安価に提供され,カラー印刷も可能になっていった。

・機能の進化

 複雑な処理と高度なグラフィックに不可欠なRAMも大容量化が進み,1980年代初頭には16kビットが標準だったDRAMは,1984年頃には64kビットに,1980年代後期には256kビットのものが使われるようになった。

 また,サウンド機能も大きな進化を遂げ,初期にはビープ音のみだったものが,タイマICを使った音程を可変出来る仕組みに発展,やがて3和音を奏でるPSGと呼ばれた専用LSIが標準的に搭載されると共に,これをBASIC上で駆動するためのMMLというマクロ言語が普及することで,コンピュータによる自動演奏への道が開けた。

 さらに,LSI化することが容易という特徴を生かして,ヤマハによるFM音源を搭載したデジタルシンセサイザLSIが搭載されるようになると,多くの和音を多種多彩な音色で演奏することが可能なり,その豊かな表現力によってマイコン利用の1つのジャンルとして定着するに至った。


・表示能力の進化

 初期の代表機種であるPC-8001は160x100ドットのセミグラフィック(1つの文字に2x4ドットのグラフィックパターンを書き込んでおきこれをテキスト画面に並べることで擬似的にグラフィック表示を行うもの)を持っていたが,メモリの価格が下がることで256x192ドットや320x200ドットといったフルグラフィックが利用出来るようになる。

 そして高解像度グラフィックとして640x200ドットのフルグラフィックが1つの到達点となり,高級機種はこの表示能力を持つことが標準となる。16ドットの漢字が1行に40文字表示することが出来るこの能力は,特に国内のコンピュータに強く求められるものであった。

 PC-8801などは,水平周波数を15kHzから24kHzにした超高解像度表示をサポートしており,モノクロながら640x400ドットという表示能力を持っていた。このモードでは16ドットの漢字を40x25文字という十分な文字数表示することが可能であり,特にビジネス用途において必須となっていった。

 しかし,この画素数は,処理速度やメモリ容量から8ビットCPUには荷が重く,本格的に利用されるようになるのは16ビットコンピュータが主流になって以降の話で,ディスプレイとして家庭用テレビをそのまま利用したり,専用であっても安価であった200ライン表示が,この頃の標準であった。


・ファミコンとゲーム

 8ビットマイコンによって,ゲームを作る,ゲームで遊ぶことが家庭で実現したが,それでもゲームセンターにあるゲーム機に比べてハードウェアもソフトウェアも貧弱だったマイクロコンピュータで作ったゲームは大きく見劣りするものであった。

 そんなおり1983年に登場したファミリーコンピュータは,ゲームセンターのゲーム機を基本性能を損なわないような形で簡略化し,徹底的なコストダウンによって14800円という低価格を実現し,大ヒットとなった。

 それでも,いわばプロ仕様であるゲームセンターのゲーム機の進化は激しく,ゲームセンターでヒットしたゲームがどのくらい家庭用の機器で忠実に再現できるのかが,そのゲームソフトの評価基準の1つであったといえる。

 また,基本的にゲームセンターのゲーム機の開発を専門とするメーカーが,ファミコンなどの家庭用ゲーム機に参入してソフトウェアの開発と販売をビジネスにするのも,このころの大きな転換点の1つであった。


・ポケットコンピュータの存在

 科学技術計算の現場や大きな金額を取り扱う事務所などでは,処理能力の高い電卓がしばしば利用されていた。これらは自動計算を行うためのプログラムが可能だったり,複雑な関数を持っていたり,小型のCRTディスプレイで高い表示能力を持っていたり,プリンタを内蔵したものもあった。

 これらの中には,プログラム電卓専用の言語を引き継がず,BASICを搭載するものも現れた。電卓を源流に持つマイクロコンピュータの誕生であるが,一般の量販店では販売されることが少なく,高価なものが多かった。

 やがてこれらの電卓はポケットサイズになってゆくが,通常の関数電卓とは違った流れとして,BASICを搭載したプログラム電卓という独自のジャンルを形成し,ポケットコンピュータと呼ばれるようになる。

 最初のポケットコンピュータは1980年に登場したシャープのPC-1210である。小型で安価,フルキーを備えBASIC言語が扱えるマイクロコンピュータとしてヒットしたが,翌1981年には弱点であった処理速度とメモリ容量を改善し,本格的なBASIC言語を装備したPC-1500を登場させ,この分野を確立した。

 また1981年にはカシオがfx-702Pを発売,翌1982年にはシャープがPC-1210の後継であるPC-1250を発売し,速度,メモリ容量を拡大,またさらにサイズを小型化して真のポケットコンピュータと呼べるものが登場するようになる。

 そしてカシオから,14800円という低価格で1982年にPB-100が登場し,BASIC言語を扱えるコンピュータとして初めて15000円を切った価格で衝撃を与え,多くのユーザーを獲得した。

 ポケットコンピュータはその後,PC-1250を源流に持つもの,PB-100を源流に持つものを軸に1990年代中頃まで販売が続けられるが,BASIC言語に対するニーズが激減し,工業高校や理工系の大学における教育用のコンピュータとしての役割もほぼ終えたことから,現在新品でポケットコンピュータを入手することは難しい。

 ポケットコンピュータは,BASICによってプログラムを作成出来るプログラム電卓の一種であり,当然関数電卓としての基本機能を失っていない。よって多くの機種で電卓モードとプログラムモードを備えており,電卓モードでは通常の電卓同様に扱うことができる。

 学校で教材として触れた学生もいれば,安価なマイクロコンピュータとして手に入れた人も,また持ち運びが可能なコンピュータとして活用した人もおり,現在も一部の人々の間で重用されている。

 
・このころ参入した8ビットマイコンメーカーと機種

 東芝:パソピアシリーズ・・・Z80を中心に構成されたパソコンで,特に後期に登場したパソピア7は,高いグラフィック能力とサウンド機能を武器に一定の存在感を示したが,販売台数が伸びず,市販のソフトも少ないまま消滅。その後MSXに軸足が移る。

 三菱:マルチ8・・・Z80を中心に構成されたパソコンで,ビジネスにも対応出来る能力を備えてはいたが,いかんせん市販ソフトがほとんどなく,存在感を示すことなく消滅。こちらもMSXに参入するが,ここでも存在感を示せず撤退。

 松下電器:JR-100/200・・・実際には松下通信工業が開発した初心者向きのマイクロコンピュータで,CPUには6800を使っていた。JR-100は54800円という廉価な価格でBASICを学習できるホビーマシンで,モノクロでグラフィックを持たないがPCGを装備していた。JR-200ではカラー対応とサウンド機能を持った後継機種である。JRシリーズは松下電器産業がMSXに参入する際に終息している。

 ソード:M5・・・ゲームを志向した小型のマイクロコンピュータで,CPUにはZ80,VDPにはMSXと同じTMS9918を使っていた。Z80のモード2割り込みを使った数少ない機種の1つ。TMS9918の機能であるスプライトや,サウンドジェネレータをフルサポートしたゲーム作りに最適なBASIC-Gが別売りで用意され,人気のあった機種であった。しかしMSXと似たようなスペックであったことと発展型の後継機種が出なかったこと,メーカーであるソードの経営不振などもあって,早い時期に市場から消える。

 タカラ;ぴゅう太・・・オモチャメーカーであるタカラが作った16ビットマイクロコンピュータで,CPUにはTMS9995,VDPにはTMS9918を搭載していた。国内仕様ではBASICがすべてカタカナによる日本語で記述することになっていた。その後英語表記のBASICに戻した後継機種も出ているが,これもMSXと似たようなスペックだったこともあり,それ程普及せず終息。

 バンダイ:RX-78・・・バンダイが発売したマイクロコンピュータで,ゲームを主な用途としていた。製造はシャープが請け負ったが,ヒットせず市場から消える。

 セガ:SC-3000・・・ゲームメーカーのセガが発売した廉価版のマイクロコンピュータで,29800円という低価格で発売された。SC-3000からキーボードを省いた専用ゲーム機がSG-1000であり,セガの家庭用ゲームマシンの源流である。CPUにZ80,VDPにTMS9918というMSXと類似の仕様となっており,ほぼ同時期に発売されたファミリーコンピュータからは見劣りした。
 
カシオ:FP-1000・・・カシオが発売したセパレート型のマシンで,CPUはZ80 ,内部BCD演算の高精度なBASICを搭載,PC-8801に匹敵する性能をはるかに安い価格で実現した良心的モデルであった。計算機のカシオらしいマシンであったがシリーズ化されることなく終息。

ソニー:SMC-70・・・CPUにZ80を搭載,アナログRGBによる中間色を扱える高度なグラフィック機能に,新開発の3.5インチフロッピーディスクが用意された,CP/Mを思考した意欲的なマシン。後に低価格化したSMC-777も登場したが,MSXへの参入をきっかけに終息。

エプソン:HC-20・・・電池で長時間駆動するフルスペックのマイクロコンピュータとして注目された,世界初のハンドヘルドコンピュータ。CPUはCMOS版のHD6301Vで,メモリを含むほとんどのICがCMOSで構成されていた。強力なマイクロソフトBASICを装備し,RAMもバックアップが行われ,内蔵のNi-cd電池で50時間の動作が可能,当時としては大型のLCDとフルキーボードを装備,プリンタやカセットデッキも内蔵していた。HCシリーズはその後長く機種展開を続け,周辺機器として音響カプラも用意され,今で言うモバイルコンピューティングを具現化した記念碑的マシンと言える。

三洋電機:PHC-25・・・CPUにZ80,VDGに6847というPC-6001によく似た構成を持っているが,BASICで作られたプログラムに多少の互換性があるという程度であり,よく言われるような互換機ではない。サウンド機能などを省いて価格を下げたホビー向けのマイクロコンピュータであった。この後PHCシリーズはMSXに移行し,独自アーキテクチャのマシンは終息する。


・このころの外部記憶装置

 当初,外部記憶装置と言えば,音楽用のカセットテープであった。FSKを変調方式に使い,300bps程度のシリアルデータと音を相互に変換し,この音をカセットテープに録音する仕組みであったが,低速で信頼性が低く,また寿命も短い上にランダムアクセスが出来ないなど,致命的な欠点を持っていた。

 8ビットマイクロコンピュータとはいえ,64kバイトを越えるメモリを搭載するようになると,高速化されたカセットテープであっても10分程度の待ち時間を要する場合もあり,フロッピーディスクへの憧れがユーザーの間で高まっていった。

 フロッピーディスクは当初8インチのものしかなかったが,高速大容量であった一方で非常に高価であり,扱いも決して楽ではなかった。ほぼ同じ構造を踏襲し小型化した5.25インチのフロッピーディスクが登場し,Apple][で標準的に利用されるようになると,マイクロコンピュータの外部記憶装置として手頃なものとして急激に普及するようになった。

 1980年代中盤にメディアは1枚1000円エイド,ドライブは2ドライブのもので20万円弱というのが相場であったが,徐々に値段も下がり,1980年代後半にはメディアは1枚100円程度,ドライブも2ドライブで6,7万円で手に入るようになった。また10万円程度のマシンにドライブが標準されるようになったことも大きい。

 後に固いジャケットとシャッターを備えた3.5インチフロッピーディスク,5.25インチの互換性を重視した3インチフロッピーディスクなど,小型化されたものが登場するが,最終的には5.25インチと3.5インチが生き残ることになる。

 一方,カセットテープ並みの安さ,手頃な記憶容量と,ディスクの高速性を両立した手軽なメディアとして,クイックディスクの存在がある。大きさは約2.5インチで,渦巻き状に記録される。片面64kバイトという8ビットマイクロコンピュータにぴったりな容量を持ち,8秒でセーブとロードが完了する高速性と,特にドライブが安価であったことから,MZ-1500やファミリコンピュータディスクシステム,電子楽器などに用いられた。

 バッテリバックアップが可能になったC-MOSのSRAMを用いたRAMカートリッジやRAMカードを採用したケース,バブルメモリという時期バブルを応用した新しい記憶装置を採用したもの,MSXのようにマスクROMをカートリッジに収めたものなど,高価なフロッピーディスクの代わりになるメディアがいくつも提案されたが,結局フロッピーディスクの低価格化によってそれらはほとんど消滅した。


・このころのデバイス

 ロジックICはTTLの74LSシリーズが多く用いられたが,マイクロコンピュータ用の大規模なLSIはnMOS化が進み,ほとんどのLSIが5V単電源のnMOSとなっていた。

 DRAMは16kビットから64kビット,256ビットと順調に集積度が上がり,また扱いやすく改良されるようになって,多くのマイクロコンピュータで使われるようになった。

 一方のSRAMは低消費電力でバッテリバックアップ可能なC-MOSで作られた6116シリーズが登場し,DRAMとは別の用途に用いられるようになる。特にポケットコンピュータやSRAMカードといったバッテリバックアップという性能を十二分に生かした用途は,これらがなければ成り立たなかった。

 CPUはもちろん,周辺LSIの充実もこの時期に行われ,PPI,UART,DMAC,タイマといった基本機能を実現するファミリLSIを始め,PSG,CRTC,LCDC,FDC,GDC,GPIBコントローラや浮動小数点演算を行うプロセッサなど,多くの品種が揃っていた。

 ROMについては大容量で安価なマスクROMが主流であったが,紫外線で消去し,専用のライタで書き込むUV-EPROMが書き換え可能なROMとして主役の座にあった。また,マスクROMにあらかじめJIS第一水準や第二水準の漢字フォントを書き込んだ状態のROMを漢字ROMとして販売していた。

 1980年代後半から,nMOSやTTLよりも消費電力を引き下げ,かつ高速動作が可能なC-MOSのICを製造する技術が確立し,TTLシリーズと肩を並べるようになった74HCシリーズがロジックICとして急速に普及を果たす。同時にnMOSで作られたCPUなどもC-MOSで作られるようになり,電池駆動が可能なマイクロコンピュータが実現するようになった。


・このころの汎用OS

 8ビットのマイクロコンピュータでは,一般にOSを持たず,BASICインタプリタがその役割を果たすことは既に述べた。しかし,汎用のOSを動作させて,この上でプログラムの開発や実行を行うケースも多く,一部のマニアや技術者が利用していた。

 このころのマイクロコンピュータ用OSは,特定の機種専用という形ではまだ販売されておらず,ハードウェアに依存した部分をユーザー自らが変更して,自分のコンピュータで動作させるのが普通であった。

 CP/Mはデジタルリサーチが開発した8080用のOSで,当時ようやく利用出来るようになってきたフロッピーディスクを前提にした,マイクロコンピュータ用の汎用OSとして世界最初のものである。CP/Mは8080やZ80では標準となっていたOSであり,FORTRANやCOBOL,Cをはじめとした各種高級言語,マクロアセンブラやリンカ,Wordstarなどの高機能なエディタなど充実したソフトウェアが揃っていた。

 OS/9はマイクロウェアが開発した6809用のOSで,6809の高い性能を生かすことの出来る,非常に優れたOSであった。もともと6809用の高級言語であるBASIC-09が開発され,この言語が動作する環境として整備されたOSという経歴を持つ。マルチタスク,リエントラントといった特徴を持つもので,その信頼性の高さから製造機器の制御などの工業用途にも多くの採用例があった。

マイクロコンピュータ小史~その1 第一次マイコンブーム

 今でこそ,手元に必ずあり,家電量販店の一角で主力商品の1つとして販売されるようになったパーソナルコンピュータですが,こうなるまでに紆余曲折が随分とありました。

 電子工作が大好きで,作る事と使う事を楽しめた私も,何度か訪れたパソコンのブームにはそれなりの経験をしていますが,その頃を語る資料や書籍に目を通すと,必ずしも自らの記憶と合致するものとは限らないことがままあります。

 これは,住んでいた場所,周囲の人々との関わり合い方,お金持ちだったか貧乏だったかという経済状況,他のことに興味があったかなかったかに大きく左右されるところがあって,特に1980年代中盤を少年として過ごした人々にとって,それこそ千差万別の記憶として残るものだからと思います。

 というところまで考えた上で,私なりに少しまとめてみることにしました。今後不定期に書いていこうと思います。

 私は1971年の生まれで,住んでいたのは大阪の郊外,両親はどちらも文系で,どちらかというと貧しく,私自身もそれほど勉強が出来たわけではありません。ま,当時としてはごく普通の家だったんじゃないでしょうか。

 まず第1回目は,第一次マイコンブームです。

 そもそも,マイコンブームとは何だ,と言うところから考えなければなりません。諸説ある中で,私自身が考えるマイコンブームを定義し整理します。また,本来その中心地であるアメリカの状況を無視して考えるわけにはいかないのですが,とりあえず国内の状況を軸にします。

 なお,私自身は第一次マイコンブームは経験しておらず,どんなものかをリアルタイムでは知りません。第二次マイコンブームはの渦中にいた時,一昔前の話として当時の雑誌や人づてで知った事が中心になっているので,例えばこの時すでに30歳代だったミニコンのSEの人たちの感じた印象と食い違っていることは,当然あり得るでしょう。


・第一次マイコンブーム(1970年代中盤から1979年)

 1971年に登場した4004というマイクロコンピュータをきっかけにし,それまで大きく高価だったコンピュータが,個人で所有出来るようになったことから,マイクロコンピュータが技術者だけではなく,学生や一般の人々を巻き込んだ一大ブームになった。最初のマイコンブームだったことから,これを第一次マイコンブームと呼ぶ。

 それまで,トランジスタやゲートICなどの部品を多数集めて作らざるを得なかったコンピュータは,専門の知識,技能,そして相応の経済力を持たなくては買う事も作る事も出来ず,きちんとした利用目的を持った専門家が購入するものであった。

 しかし,半導体技術の進歩によって登場したマイクロコンピュータを利用すれば,LSIを数個から数十個組み合わせるだけで小型のコンピュータを作る事が出来るようになり,アマチュアが趣味で取り組む事が可能になった。

 初期は処理能力も低く,高価だったマイクロコンピュータも,1976年頃になるとミニコンピュータの下位機種程度の性能を持つ8bitのCPUが1つ数千円で購入できるようになり,またその入手や取り扱いも簡単なものになってきた。

 このブームの中心にいたのは,電子工作を得意とするホビーストやアマチュア無線家,理系の学生や企業の技術者など,すでにコンピュータとは何かを知っている人たちであり,コンピュータを自分達で作り,また所有して独占使用するという憧れが,強い動機になっていた。

 CPUやRAMなどを部品で購入し,これをハンダ付けして組み立てる事は,個人が趣味で出来るようになったとはいうものの,やはり技術力と根気,そして大きな資金が必要であった上,組み立てた後のソフトウェアを作る事も当然自分達で行わねばならず,基本的には全てが手作りであった。

 この頃創刊されたマイコンに関する雑誌として,I/O,ASCII,マイコンなどがある。これらはまだまだ少なかったコンピュータを作るという作業に必要な情報を発信する,非常に貴重な存在であった。

 このブームの後半である1976年には,日本電気からTK-80というトレーニングキットが登場する。これは面倒なハードウェア製作の手間を減らし,マイクロコンピュータの利用と習熟を目的とした,CPUを売る立場の半導体メーカーが用意したキットの1つだが,当初顧客であるメーカーの技術者をターゲットに想定したTK-80は,その思惑から外れアマチュアが秋葉原などの小売店で購入し,自ら組み立てるという形で異例のヒットを記録し,NECのパソコンビジネスの途端を開いた。

 TK-80のヒットに触発され,日立製作所やシャープ,富士通といったCPUメーカーから相次いで同様のトレーニングキットが発売され,これらは総じてワンボードマイコンと呼ばれるようになる。

 こうしてワンボードマイコンは,本来の技術者のトレーニングにも使われる一方で,一般の消費者にも小売店で販売され,フルキーボードやTVモニタ,大容量のRAMやBASICといった高級言語が利用出来るようになるなどの拡張が行われていった。そして,誰でもお金さえ出せばコンピュータが手に入るワンボードマイコンによって,第一次マイコンブームはピークを迎えることになる。

・このころのCPU

 国内外の半導体メーカーから多種多様なCPUが登場し,価格も性能もまちまちであったこの時代,自分で気に入ったCPUを探してこれを中心にコンピュータを作り上げるのが普通であったことから,まずどのCPUを選ぶかがコンピュータを手に入れる,最初の作業であった。

 8080はインテルの8ビットCPUであり,現在まで続くx86の原点と言えるもの。この当時の代表的CPUの1つであり,64kバイトのメモリ空間やスタックポインタの実装など,当時の8ビットCPUの基準となった。ただしハードウェアの設計はやや難しく,これが大きく改善されたZ80が登場すると,主役の座を降りることになる。

 6800はモトローラの8ビットCPUであり,現在小型の組み込みマイコンとして使われるフリースケールのHC08の源流である。ミニコンピュータの設計を手本にしたアーキテクチャで知られる。6800は後に6809となり大幅に機能が強化され,究極の8ビットと呼ばれるようになる。

・このころのメモリ

 大容量を実現出来るダイナミックRAMはまだまだ扱いが難しく,また高価で信頼性も低かったことから,もっぱらアマチュアにはスタティックRAMが用いられた。スタティックRAMは現在のような低消費電力を特徴とするものではなかったため,わずか4kバイトのメモリを実装するのに1kビットのSRAMが32個も必要なるなど,規模の大きな回路と大きな消費電力,そして発熱に悩まされた。

 ROMはUV-EPROMがまだ一般的ではなく,マスクROMが主流であったが,ユーザーの手元で書き込みが出来るROMとしてはヒューズROMもしくはEEPROMが使われた。

・このころのデバイス

 ミニコンピュータを始め,多くの電子機器で大量に使われたICがTTLであり,特に当時最新だったLSシリーズが消費電力と性能を高次元でバランスしており,主流であった。

 現在主流のCMOSは,低速でも低消費電力で,広い電圧範囲で動作するといった特徴を有した特殊なICであり,腕時計やおもちゃなどに限定的に使われたに過ぎない。また,pMOSやnMOSについては集積度が上げられること,TTLに比べて消費電力を下げられることから次第に大規模なLSIに使われるようになっていった。

・このころの技術な流れ

 マイクロコンピュータが普及するに至り,民生品へのマイコン搭載が当たり前になってくると,技術者達に求められる技術として,デジタル回路とソフトウェアが求められるようになる。しかしその主流はまだまだアナログ技術であり,完全なリアルタイムで動作する電子回路を複雑に動作させることで,所望の仕様を実現していた。

・このころのヲタク

 第二次ベビーブームの少年達の趣味は,豊かになった親の世代に支援を受け多様化する。ブルートレイン,テレビゲーム,アマチュア無線,電子楽器,カメラ,生録音,ステレオ,BCL,スロットレーシング,簡単なラジコン,電子工作,Nゲージ鉄道模型,などが流行った。総じてエレクトロニクスの発展が新しいホビーを生み出すきっかけになっていた。

新しいGOPANで早速2斤作る

 E:10エラーのため,新品交換となったGOPANですが,週末に試してみました。2斤作りましたが,どちらも全く問題なしです。

 新品だから当たり前ですが,ミルが動作している時のモータは全くしんどそうな感じはなく,音や動作を見ている限り不安は全く感じません。音は相変わらずの爆音ですが。

 また,個人的に安心したのは,ミルの後の捏ね工程で,ハネがちゃんと回転するときの動作でした。

 以前,捏ね工程になってもハネが回転しなかったことが何度か(3回か4回ですから少ない回数ではありません)ありましたが,今回はハネの可動部分が柔らかくなったこともあって,確実に回転してくれるような頼もしさがあります。これなら予約で予約で米パンも可能でしょう。

 あと,ハネの傷も今のところ全く出来ていません。先端のシリコーンの部分もかける事はありませんし,ハネ本体の塗装が剥げた部分もありません。我々が注意して使うようにしていることで,我々自身が傷を付けることを避けられていることもあるでしょうが,どちらにしても傷がないという事は本当に助かります。

 作ったパンの味は以前と変わらずおいしいです。

 ただ,ミルのモータが回転しているとき,独特の金属臭がします。新しいモータが回転するときの,あの臭いです。結構無理をして回っているような感じがするので,GOPANが壊れるとしたらまずこのモータから壊れるんでしょう。1年くらいはもってほしいですが,では3年持つかと言われれば,ちょっと無理そうな感じがします。

 米からパンを作るという,他には代わりがない商品ですので,買い直せばいいやという話にはならないかも知れません。その意味では,大事に使いたいと思いますし,長持ちして欲しいなとつくづく思います。

 耐久性という点で,ちょっと人にお勧め出来ないなあというのが,私の偽らざる気持ちです。

GOPANの新品交換

 この間の土曜日に,E:10エラーを起こしたGOPANですが,メーカーに連絡をしたところ新品交換の話になり,交換分をまず送ってくれることになったことを,以前ここにも書きました。

 その電話では,本体の色を聞いてくれなかったり,シリアルナンバーを言わなくていいのかとこちらから尋ねたりと,なかなか不安のあるものだったのですが,新品交換の話そのものについては同じような事が何度も起こっているのか,とても慣れた感じでした。私から交換して欲しいなどとは一度も言わなかったです。

 いろいろ勘ぐりました。月産2万台の体勢で製造を行っていながら,11月発売の商品が今年の4月まで販売をしないとか,E:10エラーがなぜ「新品交換」なのか,など,どうも邪推をしたくなる要素がチラチラします。

 それも,やっぱりメーカーが気の毒に思えてならないからです。別に1週間や2週間の間使えないことは辛抱できますし,サービスマンに来てもらうための時間を平日に作る事だって可能です。

 それに,勝手な話ですが,やっぱり発売日に予約して我が家にやってきたその個体には愛着もあり,むしろ修理であった方がよかったかもな,と思うことがあったりします。

 それはそれとして,昨日の夜,その交換分の新品が,はるばる鳥取の三洋電機さんからヤマトで送られて来ました。電話で「箱は捨てた」と話をすると,中身だけ取り出して,返品分を箱に入れて送り返して下さいと言われたのですが,その事が大きな紙に印刷されて箱に貼られていました。

 この時,付属品はどうしましょうか,と話をすると,一式全て入れ替えて下さいという事でした。きっと細かい部分が改良されたりしているのでしょうね。

 ヤマトの配達員の方はとても印象の良い方で,一緒に箱詰めを手伝ってくれたのですが,二人で手際よく,5分ほどで新しいGOPANだけが私の手元に残りました。

 さて,交換分の動作確認は,夜だったこともあり行っていません。ちゃんと動く物なのかどうかは週末まではっきりしないわけですが,私としてはなぜ交換になったのかも含め,興味は尽きません。記憶をたどって,変わったんじゃないかと気が付いた部分を書いてみます。


・ミル

 GOPANは付け根の部分にミルがあり,これが高速回転することで米を粉にするわけですが,30秒回転して5分休む,を10回繰り返すという動作からも,どれほどこれがモータなどに負担の大きいものか,想像出来るというものです。

 事実,E:10エラーもミル動作の時に起きたわけで,私はこのミルの部分が改良されたのではないかと思っていました。

 ところが,ほとんど,というか全く変わったところがありません。強いて言えばハネの部分が軽く動くようになったこと,ミルのブレードを覆う渦巻き状のカバーの形状が少し変わったかなと程度です。肝心のブレードの回転は以前と同じ程度の重いのですが,手で回した限りでいえば,回り始めるまでが重たく,回ってからは比較的軽く回るという感じです。これは新品だからかも知れないですし,部品のバラツキかもしれないのでなんとも言えませんが,高速開店時の負荷が軽くなるような改良だとすれば,これは大きな改善ではないかと思います。

 金色の塗装はややくすんだ色合いになっていますが,これもバラツキの範囲でしょう。

 前回は,使っている内いつの間にか塗装が剥げ,ハネの先端に付いているシリコーンゴムが欠けたりしましたが,いつそうなったのか分からずじまいでした。今回は注意して使っていこうと思います。


・本体

 本体はどこも変わっていないように思いますが,シリアルナンバーが底面から背面に貼られています。今までシリアルナンバーはGOPANを持ち上げないと見えなかったのですが,これなら楽に確認出来ます。

 あと,販促用のステッカーが貼られていません。展示の特に目を引く大きなステッカーだったのですが,これがなくなってみると結構寂しいものです。派手なステッカーで最初は邪魔だと思っていたわけですが,なくなってしまうとその存在感の大きさに寂しさを感じるほどです。

 嫁さんは,もう展示する必要なんかなくなったんだねぇ,と言ってましたが,ひょっとすると最終組み立てラインが中国から日本に移ってきていることも関係しているかも知れません・・・ということは,初期ロットのGOPANは中国製で,現在のロットは日本製,と言うことになるんですかね。


・グルテンケース

 わかりやすい改良は,こねる工程で自動投入されるグルテンとイーストを入れるケースです。このケース,横に長く深いケースなので,50gという結構な量の小麦グルテンを計って入れるのはなかなか手強く,専用の計量スプーンを使った場合は慎重にいれないと,フタがぱたっとしまってしまいます。

 なにせ,軽く背の高いケースですし,フタの部分が重く重心の位置が高いですから,不安定なのです。

 これが,フタのヒンジの部分に突起が付けられ,フタを全開にした場合にぱちっと引っかかって簡単に閉まらなくなりました。これはさすがに最初からやっておいて欲しかった事ですが,なんにせよ改良されたことはよいことです。


・説明書など

 ちゃんと覚えていませんが,説明書以外に米パンを取り出すときのコツを書いた,緑色のインキで印刷された紙が今回目に付きました。もしかすると私が気が付いていないだけで,前回も付いていたのかも知れません。

 というわけで,この程度の改良しか見当たらなかったのですが,きっと実際に使ってみると他にも気が付くところがあることでしょう。

 嫁さんに言わせると,修理対応にしなかったのは,どれか1つを修理すれば良いという事ではなく,複数の箇所に問題があって,それを一度の交換しないとまずいという話があったりするんじゃないかなといってました。なるほど,そういうことがあるように思います。

 実はここのところ,米パンが上手に出来るようになってきて,おいしく食べるコツも分かってきたところなのです。ふっくら作るコツ,作ったパンを上手に冷まして形が崩れないようにカットするコツ,そして出来上がったパンをトーストすると実においしく食べられるのです。

 小麦のパンも作りますが,最初の風味は小麦の価値でも,数日おいた後の味の劣化は,小麦の方が進みます。米のパンはなかなか味が落ちないものだなと実感しています。

 今の私なら,米パンと小麦のパンを並べておいてあったら,米パンを選んで食べると思います。そんなときだっただけに,GOPANの故障は頭が痛かったですし,ゆえに週末に間に合う形で交換してもらえたことは,本当に助かりました。

 縁あって私の手元にやってきた交換前の初期GOPANは,故障品としてメーカーに戻されました。彼がその後どうなるのかとても気にはなりますが,再生されて他の人の所に行くのか,それとも処分され粉砕されてこの世から消えるのか,それはもう想像するしかない世界です。いずれにせよ今時珍しく,個体に愛着のわいた家電ですので,新しいGOPANが末永く私の手元で米パンを作り続けてくれることを,願っています。

土曜日のアキバ

  • 2011/02/15 13:04
  • カテゴリー:散財

 この三連休は寒く,ここ東京地方でも雪や雨にたたられましたが,私は以前から計画していたとおり,知り合い二人と秋葉原に買い物に行ってきました。

 今回は,昨年の秋頃に一緒にいった方に加えて,もう一人私と同世代の方にも声をかけました。みんなそれぞれ忙しく,いろいろ都合がある中,いい歳のオッサンが連れ立ってアキバ(それも部品屋さんめぐり)に繰り出そうというのですから,なかなかない機会と考えてか,どうにか都合を付けて集まってくれました。

 私は実は雨男,それも出向いた先の天気が悪化するというたちの悪さで,今回も寒く雨がぱらつく空模様でした。おかげで人は比較的少なく,買い物そのものは楽でした。

 今回は主に私の用事でアキバに来ましたので,私がルートをある程度決めました。買ったものを整理しておきたいと思います。


・真空管

 知り合いが「ぜひみたい」と言っていたのが,真空管の専門店であるクラシックコンポーネンツです。小さな店で真空管が売られているのは想像出来るらしいのですが,ビルのワンフロア全部が真空管で埋め尽くされている店というのはなかなかみあたりません。

 自らをアキバ通だという人でも,クラシックコンポーネンツによく通ったものだという人にはあまりお目にかかったことはなく,アキバの面白さを伝えるにはちょうどいい店かなあと思います。

 とはいえ私も最近は行くことなく,移転先の場所を忘れてしまうくらいご無沙汰だったのですが,いけばいったで面白いものがあるものですから,ついつい買ってしまいます。今回は6J7/EF37と同等とされる1851を2つと,WE420Aと同等という5755を4つ買ってきました。

 1851は愛用の300Bシングルアンプの初段用に買いました。この手の五極管は種類も在庫も多いので今ストックを持つ必要はありませんが,300BやEL34,6L6GCや12AX7などと違って用途がオーディオやギターアンプ用とはっきりして現在も生産されているものとは違って,高周波増幅用の五極管など新しく生産されるわけはありませんし,特に6J7は以前あっという間に壊れたという経験もあるので,見かけたらとりあえず買っておくことにしています。安いですし。

 1851は1本1000円と安いのですが,なにせメタル管ですし,形も思わず「うーん」と唸ってしまうほど不細工です。これが音を出していても心理的にいい音に聞こえないんじゃないかと,1851には悪いですが思ってしまいます。

 5755は双三極管で,店頭にWE420A同等品とあります。私はWEの真空管には疎いのですが,素人お断りなレイセオン製で,電極構造を見ると随分と精密かつ堅牢に作られているのがわかります。これが1本600円。

 μが70ということも書かれていましたが,スペックが頭に入っていない私が思ったことは,まあ12AX7,12AU7,12AT7のどれかと似たような特性で,コンピュータとか差動増幅とか,そういう用途向けの高信頼管だろうから,とりあえず買っておくか,ということでした。

 家に帰って検品しますと,1851は1本だけ,かちゃかちゃと音がします。嫌な音です。6J7が壊れた時も同じような音がしました。怖くて通電できないので,これは交換してもらうことになりました。

 5755はさすがに高信頼管で頼もしい印象です。調べてみると12AX7に近い真空管ですが,ピン配置が違っていますのでそのままの差し替えは無理。μも少し低く,相互コンダクタンスも小さめですので,そのままの差し替えで本当に済むかどうかはわかりません。回路によるでしょう。

 でも,600円ですからね,これはこれで使いこなせると,いい買い物だったと思えることでしょう。


・半導体など

 HC-20の修理をしていてつくづく感じたのは,古いマシンはカスタムICが使われていないからいつまでの修理が可能だ,と言う話がウソであるということです。カスタムICは壊れたらおしまいですが,実はほとんど壊れません。

 一方の汎用品ですが,古いこともあって案外壊れるものです。壊れた場合は交換出来るからいつまでの修理が出来る,と言うのは事実ではありますが,その汎用品でさえも生産中止になって在庫のみという状況が見られるようになってきました。

 とりわけCPUのような汎用品でも汎用性の低い部品(なんかおかしな言い方ですね)は今後の修理のネックになる可能性があります。HC-20では,HD6301Vが使われていますが,そもそもこのCPUは6800の改良版である6801のCMOS版であり,かつ内蔵のマスクROMに小さなプログラムを書き込んで使われるものですので,あまりメジャーなものではありません。

 若松には1つ1300円近い値段で在庫があることはわかっていましたが,今回鈴商に言ってみると高速版のHD63B01Vが400円で見つかりました。2つ買ってきました。そういえばTCA955を買い忘れた・・・

 秋月では,半導体と言うよりコンデンサ類を買ってきました。100uFの大容量チップセラミックコンデンサや,1Fの電気二重層コンデンサ(これは安いものを探して買ったら中国製であることが家で分かってがっかりでした)を買ったり,あと以前から欲しかったSMDテスタを買ったりしました。

 SMDテスタは2000円くらいの安物ではありますが,ピンセットのお尻の部分に小型のテスタがついている感じのもので,先端を閉じてチップ部品を挟んで使います。

 ところがピンセットを閉じても,先端がぴったりあわないのです。これを中国の人はイライラしないのでしょうか・・・

 先端は交換可能なので,ビスを緩めて固定位置を微調整しました。これでなんとか先端が閉じます。ところが,この状態で抵抗値を見ると,本来なら0Ωであって欲しいところ,0.3Ωとわずかにずれています。

 10kΩで0.3Ωずれても大したことはないのですが,33Ωで0.3Ωはちょっと悲しいですね。といいますか,ゼロがゼロにならないって,中国の人はイライラしないのでしょうか・・・

 そういえば,CdSとLEDを使ったフォトカプラをいくつか買いました。LEDとCdSのフォトカプラは速度は遅いですが,アナログ信号を伝送できるもので,他に代わりが見つけにくいものです。とりわけ1970年代から1980年代にエフェクタや電子楽器に多用されたケースでは,代わりのものがありません。フォトカプラそのものをされる方もいる程です。

 千石では水を使わないハンダゴテのコテ先クリーナを買いました。水がなくても使える利便性と,コテ先を急激に冷やさないことで長寿命を期待できます。

・ハードディスクとケース

 家で自炊したPDFデータの置き場所が手狭になってきたので,2TBのHDDも買うことにします。今使っている1TBのHDD向けにケースも買うことにしますが,10ヶ月ほど前に来たときにはUSBとeSATAのケースが安く売られていたのに,今はほとんどないのですね。仕方がないのでUSBオンリーのものを買ってきました。HDDが7000円,ケースが2000円で合計約9000円ですが,これだともう少し出せば日立GSTのケース付きが買えたのではないのか,と家に帰ってきてから気が付きました。

 ここでは,16GBのclass10のmicroSDカードが2880円で売られていました。class10ですからかなり高速です。

・バッテリ関係

 それと,IDEOSの予備の電池と補助電池を買いました。予備の電池はあきばおーで買いましたが,2500円とそれなりの値段がする上,ホログラムまでついている正規品のはずなのに,なぜかIDEOSに付属する電池より容量が2割も小さいです。

 しかも本体にはめ込もうとすれば,きつくてかなり苦労します。やや大きいようです。中国製の電池に純正も偽物もあんのか,と笑ってしまいそうになりますが,電池の消費が激しいIDEOSですから,やむを得ません。

 それと補助バッテリーです。型名は忘れましたが大容量5000mAh,USBの端子が2つ付いており,ここから同時に2台の充電が可能です。ケーブルは様々な機種に対応し,これでお値段は4000円です。問題は本体よりも随分大きく重いことでしょうか。なんとなく本末転倒というか,木を見て森を見ず,というか・・・

・模型

 模型関係では,ヘッドライト用のDCCデコーダをTamTamで買う予定だったのですが,あいにく品切れ。ポポンデッタでは1つあたり200円も高いので,これを4つも6つも買うと昼ご飯代が簡単に出てくるほどの差額になります。結局入手はあきらめました。残念。

 ところで,今回初めてポポンデッタに連れて行ってもらいました。思った以上に大きく,また本当に好きな人が集まる店なんだなあと思ったのですが,それは例えば非常に豊富でかつ高価な古本や,大きなレイアウトを完備していること,海外モデルや昔の真鍮製のHOなど,数を売るようなものではない模型が,ちゃんと揃っているところに好感を持ちました。

・夕食

 タバコは吸うけど酒は飲まない人がいたり,お酒よりも甘いものが好きな人がいたりと,案外秋葉原が好きな人の集まりというのは食事に困るものなのですが,今回はせっかく秋葉原に来たのだから,どこでもいけるチェーン店の居酒屋とかはやめようという話が最初に出ていたので,肉の万世にしました。

 ここは秋葉原名物ですし,誰にでもどんなものが食べられるかわかり,なおかつおいしいので,概ね上手い具合に事が運びます。

 ただ,肉の万世は,価格の幅がとかく大きいものですから,何を食べるか,どのくらいを目指すかをある程度共有しておかないと,テーブルに着いてから皆が黙り込んで様子見を決め込んでしまいます。

 我々は無難にハンバーグでした。私自身はステーキが今ひとつ好きではなく,お子様だなあと笑われながらも,ほくほくのハンバーグが何よりのご馳走ですので,率先してハンバーグを選びましたが,このことで緊張がふと解け,和やかさが戻ってきたことを付け加えておきます。

 夕食の後喫茶店でお話をしましたが,700円払うとケーキとコーヒーのセット,コーヒー単品では500円というどう考えてもケーキセットに誘導したいというお店の気迫に負け,滅多にケーキなど食べない私も思わずチーズケーキを食べてしまいました。嫁さんに曰く「おっさん3人でケーキセットってきもい」らしいです。

・総括

 今回は,13時30分に集合,18時に買い物終了,という前回以上のハードさでした。さすがにTamTamから肉の万世へ歩くときには皆無口になっていましたが,ある人は「気が付いたら万世だった」というほど,はっきりいって疲れていました。

 買い物をした私でも疲れていたのですから,引っ張り回された人はもっと疲れたことでしょう。反省ですね。

ページ移動

  • ページ
  • 1
  • 2
  • 3

ユーティリティ

2011年02月

- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 - - - - -

検索

エントリー検索フォーム
キーワード

ユーザー

新着画像

過去ログ

Feed