私がScanSnapのS500を購入したのが2007年3月,自分で本を電子化するいわゆる「自炊」を始めて3年半ほどの期間が経過しました。
昨日,そういえばいったどのくらいスキャンしたのだろうと考える事があり,調べて見ることにしたのですが,定期刊行物を除く書籍やムックはわずか562冊でした。
定期刊行物,つまり月刊誌や週刊誌のたぐいは蔵書管理の対象になっておらず,正確な冊数は数えてみないとわかりません。
全てを正確に確認するのは難しいとして,ざっと数えてみることにしました。
まず,トランジスタ技術。1980年から現在までで352冊でした。別冊付録は71冊ありましたので,合計すると423冊です。
以下,
インターフェース 14冊(少ない・・・職場で捨てましたから)
Oh!X 13冊(復刊後の5号を含みます)
子供の科学 34冊
ラジオ技術 39冊
無線と実験 38冊
オートメカニック 9冊
日経エレクトロニクス関連 22冊
その他電気電子関係 31冊
その他ゲーム関連 3冊
鉄道関係 7冊
その他 40冊
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合計250冊
トランジスタ技術と合わせると・・・673冊になりました。
さらにここに,あの「鉄道データファイル」を1号1冊としてカウントするというズルをするとさらに300追加で,雑誌の合計は973冊となります。
先程の562冊の書籍とムックに973冊の雑誌を加えると,1505冊。大体1500冊くらいかなと思っていたので,案外正確に把握していました。
そして,ScanSnapのスキャン枚数は,約176400枚。消耗品の交換時期はとっくに過ぎていますが,まだ交換していません。(一応部品は買ってあるのですが,ちゃんと使えていますので・・・)
スキャンをやり直したケースもあるので単純計算は出来ませんが,1冊あたりの枚数は約117枚,ページにして234ページですから,まあそんなもんではないでしょうか。
個人的にはまだまだ少ないなあと感じています。1冊平均500円として1500冊ですからざっと75万円。そう考えると新たなショックを受けそうなもの(しかも500円なんてことはないですよね実際は)ですが,自宅と実家にある本と雑誌の数を考えると,この3倍くらいはあると思います。
ここで,私はふと気付くわけです。
もともと,書籍や雑誌のPDF化は,増え続ける本の置き場所がなく,年に3回段ボール箱をいっぱいにして実家に送り,その屋根裏部屋に保管していたことに,限界が出てきたことがスタートです。
新しく本を買うには,古い本を処分して場所を確保しないといけないという事態は非常に深刻で,本屋を憩いの場としている私には,そんな理不尽な理由での禁欲生活はゲシュタルト崩壊を招きかねません。
さりとて,書物は宝です。捨てるなどと言う行為は,神をも恐れぬ愚行です。私は昔,本を跨いだだけで母親に怒られました。
そもそも,本,あるいは雑誌というのは時間を経てもそれなりに価値を維持する場合がありますし,なにより10年,20年を経て昔のものを読み返すことは,とても楽しいことです。わざわざそれを捨ててしまうというのも,なんだかもったいないです。
この解決不可能に思われた問題を,根本的に解決するのが,電子化という作業です。この頃の私は,自分で電子書籍を作る「自炊」という考え方は全くなく,とにかく電子化することで物理的な場所を作るという,アーカイブという目的がモチベーションでした。
ここに,大きな意識の変革があります。
書物をつぶさに眺めてみると,装丁やレイアウトなどによる工芸品として,安定した品質で安価に大量生産される工業製品として,携帯性が高く,内容を蓄え伝え広める器(パッケージメディア)として,そして徹底的に読まれることにこだわって計算し尽くしたユーザーインターフェースを持つものと,実に様々な側面を持つ複合機能デバイスです。
機能として,蓄積,伝搬,入出力といった基本機能に加え,存在自身が持つ文化的な価値など,書物を愛する人間の価値観が産み出すものとして,単なる「文字と文章の器」を越えたものがあるわけです。
我々は,本そのものと,本の中身,内容とを区別する必要がなかった時代においては,この両者を同一視していました。
しかし,電子化という概念が入ってくると,果たして電子化されたファイルは本なのかどうかに悩むことになります。我々の知る本とは明らかに違いますが,しかし本の機能は確実に備えています。
ここに至って,本は,実体と内容の2つに分離され,別々の価値を評価されて,別々の道を歩くことになります。
音楽や映像がそうであったことを思い出すかも知れませんが,本質的に違うのは,音楽や映像を入れる実体は,銀色の12cmの円盤に過ぎず,再生するための装置がなければ何の価値も持たない,純粋な工業製品の性格が強いと言う点です。従って文化的な役割も実体にはそれ程期待されておらず,重要なものは中身であるという考え方が支配的になり,今や配信されるものとして抵抗なく認知されているわけですね。
本はちょっとその辺が違います。美しい装丁は工芸品であり,特別な再生装置がなくとも内容にアクセス可能であり,字体やレイアウトはその時々の時代を写しています。
ご存じかどうか分かりませんが,紙の厚さや色は,その本の内容にあわせて選ばれ,そして同じ黒に見えるインクの色も,その紙にフィットするように微妙に違った色が選ばれています。
さらに,文字の太さ,文字の間隔,行の間隔などは,白と黒の総面積比から最も読みやすいものに調整が行われ,読むという行為に徹底的に最適化されるのです。
こうしたレイアウトはもちろん,書体にもその時代時代に流行廃れがあり,太いものが好まれる時代があるかと思えば,流れるような流麗な文字が好まれた時代もあります。
50年前の古い本を手に取り,ぱっと開いた瞬間に「古いな」と一瞬で感じるのは,こうした時代性を,内容以外の要素が雄弁に語っているからです。
こうしたノウハウは,人が鉛の活字を使って写植を行っていた時代から100年続く写植と印刷の文化と伝統で,これを数値化,機械化することを「日本の文化を守ること」と位置づけ,ある種の使命感を持って推し進めたのが,大手印刷会社各社です。
職人が文字を拾って1ページが完成した時代から,電子写植になって職人が消えても,本は決して読みにくいものにはなりませんでした。私はここに,彼らのノウハウの継承が機械化という形においてさえも実現されたことに驚嘆するのです。
さて,本には,中身と実体の2つの価値が別々に存在していることがわかりました。しかしこのことは案外昔から存在しているし,実用的に区別を持って利用されていたこともまた事実です。
例えば週刊少年ジャンプです。B5版で大きく,マンガにとっては迫力があり,好ましいのですが,いかんせん紙の質が悪く,印刷も装丁も簡単です。その代わり安いですね。
このマンガ雑誌には,残しておくだけの価値を込めて作られていません(一部のコレクターは別の所に価値を見いだしているので話は別です)。従ってマンガ雑誌には,内容を安く大量にばらまくことが第一の使命とされているわけです。
そしてそのマンガは,単行本としてしばらく後に書店に並ぶことになりますが,明らかに上質な紙と綺麗な装丁,判型が小さくなっても全く情報の欠落がない高品位な印刷と,まさに残されることが前提となった高度な作りをしています。
単行本は少々高価ですが,これも「残す」ことが使命に加えられているからであり,ここで我々は内容が重要で実体がすぐに廃棄されるものと,内容と共に実体も重要で残されるものとが,案外昔からあったことに気が付きます。
前者は,安くばらまくことにその役割がありました。その性能がもっと高いメディアが現れたら,そちらに切り替わるのが当然です。考えて見て下さい。安く大量に,そしてあっという間にばらまく手段は,電子化であるということを。
そして,単行本にも2つの役割が拮抗します。内容が重要であり,実体は内容が頭に入ってくることを妨げずむしろアシストするために徹底的に最適化されるということと,もう1つは内容以上に装丁や実体の存在が重要であるケースです。
後者はそうですね,古文書や貴重な原本がそうでしょう。そこまで大げさでなくとも,古本屋でも初版本の値段が高いことは,後者の理由がなければ説明がつきません。
ではもし,前者の「読むことに最適化された」ことが,他の方法でも可能になったら,実体としての本は存在しなくてもいいことになります。極端な話,脳に電極を差し込んで電子化された文章を直接流し込むのが最適化の極限です。
もちろん,単に内容を手に入れるだけでも,実体そのものを愛でるわけでもなく,文字を読むことで,文字から想像力を働かせるという,実に人間的な豊かな体験が本の醍醐味です。しかしこれも,携帯電話で小説が読まれる時代になっていることが,紙であること,印刷であることを現実に否定しています。
平たく言うと,本には知る楽しさ,読む楽しさ,持つ楽しさが別々にあるということです。そして,知る楽しさは本以外の方法でもよく,読む楽しさは実体がなくてもよく,持つ楽しさだけが,本の機能として残っていくと考えられるのです。
ここを読み誤ると,「自炊」や電子書籍,電子出版を誤解しかねません。
私の場合,Scansnapによって1500冊分のスペースが確保され,そこに新たな本を置くことが出来ました。中身が持つ情報の欠落を,私の基準で許せる範囲にとどめ,電子化して小さなハードディスクに蓄えることで,大変なコストを必要とする実体の維持管理を回避したことになります。
しかも,電子化された本が増えれば増える程,そのメリットである保存スペースがいらないこと,検索や管理が容易であること,伝送や持ち運びが楽であることが,際立って来ることに気が付きました。
内容だけが必要ならテキストデータにすればかなりサイズが小さくなります。しかし私はそうはせず,600dpiの画像データで残してあります。プリンタで印刷すれば,文字の形や太さ,行間や文字間隔,ページのレイアウトを再現できるように,それらの情報をちゃんと持っていたいと考えたからです。
しかし面白いのは,この情報を取り扱う事の出来る紙以外のデバイスが,徐々に安価に提供される様になったことで,大きな価値を持ち始めたことです。
先日購入したKindleDXは,ほぼ毎日使うことになっています。これで本を2冊ほど読むことが出来ましたが,単に読むという事だけを考えれば,Kindleで十分なところまで来たように思います。それだけでなく,分厚く重い本が薄いKindleに収まり快適に読めること,数十冊の本がKindleに全て収まっていることなど,電子化のメリットが際立ってきます。人によっては,文庫本がA5サイズくらいまで大きく拡大されることが,より読みやすい状況を作ってくれるかも知れません。これらは電子書籍によって得られる,新しい体験です。
私はここで,また新しいフェイズに入ったことを実感します。書籍の電子化は,アーカイブコストを下げるためという消極的な理由から,紙に変わるデバイスを使って電子化のメリットを享受しつつ読むためという積極的な理由にスイッチしているのです。
このことで何が起こったかというと,読んだ本しか電子化しないという基準が,これから読む本でも残す価値のないものは電子化する,と言う基準に切り替わったのです。電子化対象となる本が一気に増え,Kindle購入後にさらに多くの本がスキャンされました。
先に書いた本の3つの楽しみのうち,知る楽しさと読む楽しさは,もうKindleやiPadなどの端末の登場によって,あるレベルで達成されたということを感じます。
残る実体そのものを持つ楽しさについては,もうどうにもなりませんから,コストをかけて残す事になります。私の本棚には,1950年代60年代の古い本ばかりが列ぶことになってしまいました。
このように,知る楽しみ,読む楽しみは電子化によって理論的に妨げられません。本が紙でなくなると味気ないなどと,感傷的に言う人がいますが,それは本の役割を正確に理解していないか,浅い考えで本を表面的に捉えている人の言葉であり,もう一歩だけ踏み込んでもらえると,電子化された本のメリットが,デメリットを十分に上回る場合も多いことに,気が付いてもらえるはずです。
つまり,棲み分けです。雑誌やビジネス書や文芸書,エッセイなどは実態以上に内容が重要なので電子化が進み,実体を残す事が目的にされる書籍についてはお金をかけて装丁を美しくし,いかにも残さねばという雰囲気に身を包んで,非常に高価になります。二極分化が進むわけですね。
コンピュータとネットワークとエレクトロニクスは,人間の知的生産性を飛躍的に高め,同時にその生産コストを押し下げました。この流れは書物を作り,広め,残すという点においても確実にやってきます。
かつて,書物は貴重品で,文字を読む能力が特権階級の証であったことと相まって,庶民には作る事はおろか,読むこともそうそう許されるものではありませんでした。ヨーロッパでは教会が,日本ではお寺が,庶民への知識の伝搬の場として役割を担う時代が長く続きましたが,印刷技術の発明により,安く書物が手に入るようになり,その書物の恩恵にあずかるため文字の習得が広く一般化しました。
この,庶民が知るチャンスが何をもたらしたかというと,特権階級による搾取からの解放でした。それがやがて民主主義に繋がるのです。
今,コンピュータとネットワークとエレクトロニクスが,これまで長く続いた印刷技術のデメリットを根本的に解決しようとしています。人類ははるかに豊かになりましたが,それでも紙が貴重で手に出来なかった多くの貧しい人々が人類の英知に安価にアクセスする手段を提供し,そして自分で作る事が難しかった本を低リスク低コストで作る事が可能になります。やがて爆発的に増えるであろう本は,形を持たない知識と情報という本質で蓄えられていくのです。
この流れは,もう止まらないかも知れません。大げさな言い方ですが,人類はいよいよ,実体を持たない情報や概念といったものに,価値を見いだすフェイズに入ったのです。個人的に,このことはとても大きな進化だと考えています。
それでも,実体への憧れやこだわりは,決してなくなりません。A地点からB地点へ移動したいというモビリティの欲求には,別に電気自動車でも鉄道でも構いませんが,内燃機関を持つ自動車を運転したいという要求はおそらく消えることなく,それ自身を目的とする人々を尊重する形で,社会との共存がなされていくものと思います。乗馬などと同じといえるでしょうか。
本もしかり。実体は消え去らず,必ず残り,次代に引き継がれていきます。
週刊誌の実体が無価値というのは言い過ぎだろう,そんな意見もあるでしょう。私もそう思います。現在世に出ている実体については,100年後の人が見れば面白いと思うでしょうし,研究対象にもなるでしょう。そして貴重な資料として残されることも間違いないでしょう。
でも考えてみて下さい。週刊誌を作った人は,安く広く広めることを目的に,あの印刷と装丁を行っています。100年後の人に残そうと思って作ったわけではないのです。
その目的が電子化によってさらに洗練されるなら,実体が役目を終え電子化されたという事実こそが,100年後の人にとっては最も重要で興味深く,研究の対象となるべきことではないでしょうか。そう,100年後の人だって,実体そのものではなく,実体から得られる世相や文化へのヒントに,価値があると考えるはずです。
凸版印刷とKDDIとソニーがくっつき,docomoと大日本印刷がくっつき,ソフトバンクはすでに新聞社と共同でサービスを始めているという賑やかな状況が短期間で起こって,さながら「黒船来航」のようです。
しかし,私は,もう少し冷静になって欲しいと思います。繰り返しになりますが本は,音楽や映画とは,ちょっと違った複合機能デバイスです。どこまで分解するのか,なにをなにで代替するのか,感情論だけでも,経済論だけでもなく,はたまた文化論だけでも技術論だけでもない,広い観点からのあるべき姿を,今こそ模索すべきではないかと思います。
それは本が大好きな日本人だからこそ,楽しんで行えることではないでしょうか。
私が「積極的」な自炊を行うようになってまず思ったことは,自炊なんて楽しくないし,こんな面倒なことはできればしたくないと言う人が大半だろうなということです。私にとっての自炊というのは,決して自慢にならず,誇れるようなことでもなく,ただ自分がそうしたいからそうしているだけの極めて自慰的な行為です。
ですから,本を買ったら,そこにPDFが付いてきてくれると,普通はうれしいわけです。これは私もうれしいです。
本を買ったら,購入者特典として,ホームページから同じ本のPDF版を50円でダウンロードする権利を得ます。50円の支払いはクレジットカードで行うので,クレジットカードの情報の登録と,本人の認証が必要です。別に50円でなくてもいいですが,手間賃程度の適当な価格を付けるべきでしょう。
PDFのメタデータには,持ち主と通し番号,購入日時など,購入者と購入事実が特定出来る情報を埋め込んでダウンロードされます。読むことは自由に出来ますが,暗号化されているのでメタデータを含め改変は出来ません。
本を買っていないのに買ったとウソをついてダウンロードする人がいるかも知れません。このシステムでは防げませんが,個人情報と個人認証が必要なことが,ライトな犯罪者予備軍を思いとどまらせてくれるでしょう。
高価な本なら,本ごとにシリアルナンバーを付けておいて,この番号ごとにダウンロードを管理できればよりよいです。
ダウンロードした人は,実体に価値があると思えば実体を残しますし,電子書籍端末で読むだけが目的なら実体はさっさと資源ゴミに出してしまうことでしょう。
もちろん,ダウンロード後に実体を古書として流通させることはよいのか,やら,ダウンロードしたPDFをwinnyに流されてしまったらオシマイだ,やら,考えなければならないことはたくさんあると思います。
でも,現状で自炊すれば,全部同じ事ですね。数が少ないと言うだけの話で,最近はスキャン後の本を「裁断済みの本」としてオークションで売る悪い人もいるくらいです。
手間がかかるからする人が少ない,だから黙認というのは,かつてアナログレコードをカセットにダビングしていたのと同じような話です。いずれ,確実に,無視できないようになります。
どうしますか,その時は必ずやってきます。