ここへきて政府の後押しがあったりと,何かと耳にすることの多い自動車の自動運転ですが,数年前の自動ブレーキシステムの大ヒットを発端にして,それまでの逆風がウソのように肯定的な論調が目に付くようになりました。
自動車というのはまさに,すべての工業分野を統合する工業製品といっても過言ではなく,面白いのは時代の進展と共に新しく誕生した技術も貪欲に,その範疇に取り込んでは自らの血肉としてきたところにあると思います。
自動車が生まれた直後の黎明期は機械部品だけで自動車は作られていました。これを原始的と思うことなかれ,当時の機械工学は,時代の最先端を走るハイテクノロジーだったのです。
熱力学,化学,電気工学,材料工学,電子工学,そして電子部品としてのコンピュータの搭載から,ソフトウェアまで飲み込んで,今の自動車は走っています。静粛性や居住性,安全性の向上のために人間工学や医学,大脳生理学も絡んでいることは,もはや触れるまでもないでしょう。
これが,自動車産業が限られた地域でしか成り立たない理由の1つになっているわけですが,同時にそれぞれの地域が得意とする分野の強みが,最終製品の「味」になっていることも,グローバル化が進んで無個性になりがちな工業製品にあって,俗に言う「お国柄」を楽しむ事の出来る貴重な存在になっているのだと思います。
やっぱりなあと思うのは,コンピュータとソフトウェアの最先進国であるアメリカ生まれの自動車は,やっぱり自動運転についても最先進だったということです。かつてのビッグ3の話はちょっと横に置いておいても,テスラなんかは大きなLCDをセンターパネルに持ち,タッチパネルで様々な操作をする自動車ですが,ソフトウェアのアップデートで自動レーンチェンジにまで対応するようになるというのですから,もう考え方がコンピュータかゲーム機です。
そうした個性を競う世界にあっても,普遍の価値観と言う物は存在します。安全性,信頼性,エネルギー効率という絶対的な価値に加えて,使用される環境や,人それぞれの好みで異なる居住性や静粛性,操縦性,さらにはデザインや悪路の走破性,荷物の積みやすさなどの使い勝手といったところで,多くの自動車メーカーが生まれては消え,淘汰されて今日に至っています。
ややこしいのは,ここにさらに政府の関与があります。多くの国で自動車運転には免許が必要ですし,所有や使用には登録が必要です。税金も負担しなければなりません。
設計や製造にも多くの技術基準や規格,法規制があり,業界の自主的なものから罰則つきの法律による厳しいものまで,それはもう星の数ほど制約があります。そうした制約の中で,新しい技術が生まれて進化してきたのが自動車ですが,他の工業製品と比べても決して優しくはなかった多くの制約に潰れることなく,良い方向に進化し続けた自動車の歴史を見ていると,そのたくましさにため息が出ます。
自動運転についても,やがて当たり前になると思うのですが,この手の新しい技術には必ず反対者がいるもので,積極的な否定だけではなく,懐疑的に感じている人も含めると,まだまだ大多数の人が賛成しかねているのではないでしょうか。
だからこその政府の支援なわけですが,ここで私の個人の意見を述べさせてもらうと,自動運転早く来い,自動運転バラ色の未来で万々歳,です。
要するに大賛成という立場なのですが,これは自動車を使う利用者として,そして自動車と共同で生活をする市民として,とても好ましい状況を生むだろうという期待があるからです。
まず,利用者としてのメリットです。私は運転が下手ですし,自動車の運転を楽しむだけの余裕がないほど,緊張して運転をします。ちょっとの判断ミスが自分だけではなく多くの人を不幸にするから,その責任の重さゆえに「楽しい」などと思えないからで,これが運転に集中出来る場所,例えばサーキットなどのクローズドなコースだと,車の挙動を味わって運転出来るので,とても楽しいです。
自動運転になると,この苦痛である運転から解放されるのですから,これはもう楽ちんになると言うほかありません。
これまで,誰か代わりに運転してくれる人を探すか,友人の車に乗せてもらうしかなかったわけですが,機械になら気兼ねなく運転を頼むことができるというものです。
このように,運転出来ない,運転が苦手な人,運転を面倒と思う人にとって,ある場所からある場所に移動するという移動手段として,電車,バス,タクシー,自転車と徒歩に加えて,もう1つ有力な移動手段が手に入るというのが最大のメリットです。自分で運転するにはリスクも大きく,疲れてしまう私としては,自動運転なら使ってみようと思うものがあります。
さらに,運転者の技量で大きくばらつく自動車の走行は自動運転によって均一化し,互いに連携しながら,協調運転もなされることでしょう。そうすることで道路の渋滞も緩和され,事故も減るはずです。この結果道路の効率的な利用が加速するので,自動車の移動コストは下がるでしょう。
自動車を利用するには,そのために発生する諸問題を解決,あるいはそれらを乗り越えられるくらい大きなメリットがなければならないわけですが,自動運転はその諸問題を根本的に消し去ってしまうだけの,強烈なパワーがあります。
一方,市民としてですが,自動車を使わない今の私が,なぜ道を歩いていて危険なのかといえば,それはもう自動車が走り回っているからに他なりません。社会に生きる多種多様な存在は,それぞれが相手を尊重して共存することが大切だと思うのですが,特に日本の交通社会では自動車という強者を優遇する考え方で制度設計された法律が未だに幅を利かせていることもあってか,自動車とドライバーに尊大な態度を許しているシーンが目に付きます。
私などは,そういう交通弱者に対する視点と創造力の欠如があまりに鼻につくようになり,自動車保有者というドメインにいることに強い違和感を感じたことから,自ら自動車を持たない生活を選んだわけですが,自動運転になればそうしたおかしな特権意識も薄れていくでしょうし,同時に強い倫理観を求められる人が自動運転の開発者と制度設計を行う人という,限られた場所にいる人だけに求められるようになります。これなら,そういう人達に教育と訓練,必要なら選別も可能になるでしょう。
いずれやってくる人手不足のために,今のままだとバスやタクシーの運行数が制限されてしまうかもしれません。そうすると移動手段が限られてしまうわけで,とりわけ子供や高齢者,経済的に苦しい人が影響を受けてしまいます。道路の多くに税金が投入されているのは,一言で言えばみんなが使うからなわけで,その道路を有効な移動手段として使いたくても使えない状態というは,その理念からも放置できません。
自動運転は,この問題も根本的に解決します。
より多くの人がその利便性を享受し,同じ交通社会に無理なく共存出来る,これをもたらすものが自動運転です。自動車が移動手段として生まれて発展してきたのであれば,この流れはもはや必然と言ってよいでしょう。
とはいえ,当然反論も出てきます。今後議論が深まって「なるほど」と思うような反論も出てくるとは思いますが,今のところ私が目にする反論はどれも弱く,はっきりいえば感情論と紙一重なものも多いと思います。
いくつか例を挙げてみましょう。
(1)自動運転なんか信用出来ない。機械なんかに運転を任せられるか!
運転のうまい人,あるいはうまいと思っている人が,こういう意見をよく言うのですが,私に言わせれば人間にこそ運転を任せられません。
人間の判断速度や神経の情報伝達速度は,現在の自動車の速度に対してあまりに低速で,よほど訓練をしないと安全に運転出来ません。現在のドライバーも,どれほど多くの機械にアシストされて安全な運転が成り立っているのかを,もう少し知るべきでしょう。
もう1つ別の視点から見ると,交通事故の大半は,運転者のミスによって起こっています。自動車のトラブルによって発生する事故ははるかに少ないのです。
1年前に私が幼い娘と遭遇した,横断歩道で跳ねられるというあの痛恨の交通事故は,ドライバー自身が我々を「見えなかった」と,事故の原因に挙げています。
仮にこれが事実だとして,人間には見えないものでも,機械には見えます。いや,見えるように機械を作ります。
横断歩道にいる歩行者が見えない人間は,明らかに運転者として不適格であり,そんな運転者が運転する自動車は凶器以外なにものでもないのですが,それをスクリーニングする仕組みが機能していません。こんな状況なら,歩行者が見えるように作られた機械の方が,ずっとずっと確実であることは,もはや議論の余地もないでしょう。
だから私は,あの事故が自動運転だったら起こることはなかったと考えています。
もうちょっと考えてみましょうか。無理な追い越し,ブレーキとアクセルのふみ間違い,信号無視,速度超過,酒気帯び運転,車の下にいた子供に気がつかない,高速道路の逆走といった原因は,全部自動運転でつぶせます。
こういうくだらない原因で,多くの命がなくなっています。そして,これを確実に防ぐ方法が,まさに今作られようとしています。それでも反対ですか?
(2)運転者は多くの複雑な判断をしている。自動運転にそれが出来るとは思えない。
これも変な話です。確かに人間は,複雑な条件を臨機応変に処理する能力に長けています。しかし,その能力には個人差がありますし,運転という行為は判断を動作に繋げて初めて成立するものですから,それら個人差が表面化しないように,判断条件の数をある範囲に押さえ込むため,法律や規制によって制度が設けられ,さらに機械のアシストが入っています。
もし信号機がなかったら,もし左側通行がなかったら,もし自動車専用道路がなかったら,もし舗装されてなかったら,もしカーブのきつさに制限がなかったら,もし速度規制がなかったら,といった,普段窮屈と思っている制約がない世界を,少し考えてみて下さい。
これら制約が減るほどに,条件判断は多重化して複雑化し,許される時間内に最適な答えにたどり着く人が減っていきます。
だから制約を増やして条件を減らして,多くの人に同じ判断が出来るようにしてあるのです。
ならこの制約を,自動運転も対象にしてしまえばよいのです。複雑な判断条件が減れば,それは機械にとって楽なだけではなく,人にとっても楽であるはずです。
例えば,雪が降るとセンターラインが見えなくなるので,自動運転は出来なくなるという人がいます。でも考えてみて下さい。センターラインは人にも見えなくなるのです。
それでも運転をしてしまうのは,センターラインが見えなくても運転が許されているからに過ぎず,危険な運転である事はかわりません。むしろ,そうして無理をして運転をするから,センターラインが見えないと言う問題以外に,スリップしたり坂道を登れなかったり,道路以外の所に飛び出してしまったりするわけです。
一方で,制約が多いと窮屈ですし,効率的な利用も出来ませんから,今の制度はそうした両面から折り合いのつくところで落ち着いているという事が言えます。
自動運転には,運転が均一化するというメリットもありますから,道路やエネルギーの利用効率の向上が見込めます。制約が増える事による非効率は,自動運転においてはある程度相殺されることでしょう。というより,自動運転の効率を当て込んで,これまでよりも制約を増やしても十分ペイします,と言う考え方の方が自然ですね。
(3)道路の運転は難しすぎて,自動運転なんかできる訳がない。
これは事実です。ただし,今の道路が,という条件付きです。
今の道路は,人間でも難しいくらい,複雑です。判断が難しいだけではなく,複数の判断結果が出てしまうことも多いです。それらを「滅多に起きない」とか「臨機応変に」という場当たり的な考え方で逃げてきたのがこれまでの制度ですし,また人間だけを相手にしてきたからこそ可能な仕組みでした。
なるほど,機械にはこうした状況下での自動運転は難しいでしょう。
なら,道路を自動運転が可能になるよう,変えていけばよいのです。
なんて無茶な,と思うかも知れませんが,本来道路と自動車の進化は,それぞれ別々に進んだわけではなく,双方がお互いに合わせるようにして進んで来たことを思い出して下さい。
デコボコの悪路から整備された舗装道路になることで,現在売られる自動車大半のサスペンションは,悪路を想定せず,乗り心地に優れたものに進化しました。
自動車が大型化することで,道路の幅も広がっています。安全に走行できる速度が向上することで,道路の制限速度も引き上げられてきました。
現代の自動車が,どれほど進化したシャシーやサスペンションを持っているとしても,60年前のデコボコした国道を,安全に故障することなく走ることは出来ません。60年前のデコボコ道には,それに相応しい設計があります。
道路とは違いますが,有害物質である鉛を添加しなくてもよい高性能なガソリンが生まれたり,排気ガスを綺麗にするためのエンジン制御が飛躍的に進歩したりと,自動車は様々な状況の変化にあわせて,進化しています。
自動運転用の道路も,同じ方向の進歩です。自動運転に適した道路にしていけば,自動運転は十分実用になります。
もちろん,究極的には直線だけで作られた,自動運転専用道路を作ってしまえば完璧ということになるのですが,それは極論で,これだったら鉄道と同じです。自動車のメリットを失ってまでやることではありませんから,そこはちゃんと考える必要があります。
(4)事故を起こした場合に誰の責任になるのか?
この問題は,別に新しい話ではありません。機械が自動で動くようになって100年,以来ずっと我々人間が向き合ってきた古典的問題です。
例えば,自動で動いているエレベータが故障したとき,機械に責任を問いますか?所有者,運転者,製造者,整備者が責任を問われますね?
炊飯器が美味しくないご飯を炊きあげた時に,それを炊飯器のせいにしますか?
スマホのアプリが落ちた時に,それをスマホのせいにしますか?
これも(3)の議論に通ずる物がありますが,詰まるところ自動運転を前提にしていないからこうした問題が懸念されるに過ぎません。
決まっていないなら,決めればいいのです。事故を起こした場合に,誰が責任を取るのかは,これまでの慣例からすれば割にすぐに決まるんじゃないかと思います。
そもそもですね,機械が起こした事故を誰が責任を取るのかという議論そのものが,機械より人間の方が事故を起こさないという思い込みから発生しているように思います。機械の方が事故を起こさないという前提に気が付いてしまえば,ぱっと考え方が変わります。最終的には事故が起きなければ,誰も責任を問われないのですから。
責任の所在が,エレベータと同じようになったと仮に考えてみましょう。事故の責任は所有者(と利用者),整備者にかかってきますが,運転そのものの過失が所有者や利用者に問われることはなくなります。
これまでは自動車の所有と運転の過失の両方に責任が発生したのですが,今後は所有のみに責任が発生するようになるわけですから,実は利用者にはうれしい方向です。
これが,運転にも利用者に過失があると判断されると話は少々厄介で,自動運転に利用者が介入できないからこその自動であるわけで,介入できないものに改善も反省もありませんから,やっぱり責任は問えないでしょう。
なら,自動運転機能を提供する人に責任は問われるわけですが,こんな風に少しずつ問題を解きほぐして解決すれば,割に簡単に答えは出てきます。大事な事は,反対のための理由ではなく,公平な思考を行うことです。
ところで,人間が運転する自動車を,道路から完全に排除すべきと言う考えまでは,私は持っていません。自分で運転するという非常に危険な行為を伴ってまで,自分で自動車を運転したいと思う人もいるでしょうし,特殊な自動車などでは自動化が出来ないケーズも出てくるでしょう。
そうした人を排除するのは,私は良いこととは思いません。重い責任と引き替えに,自分で運転することは認められるべきであり,特殊車両の運転同様に厳しい資格制度と,手厚い保険への加入が前提で,許されることだと思います。
ただ,後述しますが,人間が運転する方が面白いからとか,レジャーを目的にするような話になると,ちょっと別です。それでも排除すべきではなく,厳しい資格制度と手厚い保険で許可されるべきだとは思いますが,こういう目的において厳しい資格制度はかなり高い障壁になりますし,事故の危険性と加入者数から考えて,保険料も非常に高額になるでしょうから,この両面でのスクリーニングに期待したいところです。
(5)人の命を左右する大きな物体を自動で動かすなんて,恐ろしい。
これはもう感情論です。まともな反論をしても納得してもらえないエリアにあえて踏み込みますが,500人をのせて時速500kmで飛行するジェット旅客機は,すでに自動運転です。そして,飛行機事故で亡くなる人の総数は,交通事故で亡くなる人よりもはるかに少ないことを思い出して下さい。
私は,マニュアルで操作される飛行機になど,恐ろしくて乗れません。自動車も近い将来,そうした時代がやってくるでしょう。
こういうことをまず口にする人は,1トンの重量がある物体が,わずか時速10km/hでさえも,どのくらいの運動エネルギーを持っているものなのか,高校1年生で習った物理の公式で計算し,その大きさにビビって下さい。
(6)自動運転だと楽しくない。つまらない。
論外です。天下の公道で楽しむ事を声高に叫んで当たり前と思っている神経の図太さに呆れます。こういう思慮の浅い人をスクリーニングできないところに,現在の免許制度の限界があると思い知るべきです。
近頃,家の前の生活道路で遊ぶ子供にさえ厳しい視線が向けられるのに,なんで自動車の運転を楽しむ場所が,老若男女が利用する道路なわけです?楽しむ場所であることが道路に求められているんですか?
楽しむための,専用の場所で,思いっきり楽しんで下さい。私もそうなのですが,専用の場所の方が存分に楽しめて,非常によいです。
根本的な問題としてこの場合,自動車の目的が移動手段から,運転することそのものになっています。目的が違う,期待する結果が違うということです。
ゴルフをする,テニスをする,ダイビングをする,野球をする,ピアノを演奏する,全部専用の場所で行われます。同じ話です。万が一の場合の危険も大きく,周囲に迷惑になる可能性が高く,またプレイに集中出来るから,専用にするのが合理的であるわけです。当然,楽しむために応分の負担が発生します。
自動車の運転も,楽しさを求めるならそれはレジャーです。まして危険が伴うレジャーなら,専用の場所で行うのが,誰にとってもハッピーな話です。
むしろ問題なのは,これまで専用の場所が用意されていないために,道路で楽しむしかなかったことでしょう。だから固定観念として,楽しく運転出来る自動車が当たり前になっているんだと思います。
つまり,より楽しくなった自動車を楽しむための場所が,公共の道路しか実質的に存在せず,自動車メーカーも暗黙のうちに「道路で楽しく」となってしまっていることが,特殊な問題だということです。
楽しい車を作るまでは構いません。でもそれは,思う存分楽しむ場所が先に存在するのが前提ですし,そもそもそうした場所がないところには楽しい車など誕生しないはずです。なぜ楽しい車が生まれたか・・・それは楽しむ場所がすでに道路という形で存在したからです。
最近,多くの自動車メーカーが運転の楽しさを訴えるようになりました。ドイツのBとか,日本でもMとかTとか・・・自動車自体が楽しく作られることは,テニスのラケットが使って楽しくなることと同じなので,大歓迎です。
だけど,楽しむ場所として道路を前提にしていることに早く気が付いて,そのことが大きな社会的責任を負うことだと,自覚を持って欲しいと思うのです。
移動が目的というのはぶれないが,どうせならつまらないより楽しい方がいい,という話なら,構わないと思います。これは目的が移動から変わっておらず,移動という手段をより良いものにする話であり,運転することそのものを楽しむものではありません。つまり,運転がつまらないことを理由に自動運転を否定する物ではないからです。
もう1つ,免許を持たない人でも楽しくとか,歩行者専用の道路でも楽しくとか,そういう話にならないのは,すでに現在も自動車運転を楽しむために一定の制約が課せられているからであり,これまで制約が全くなかったわけではありません。子供が運転を楽しむためには専用のコースであればよく,子供が自動車を運転することそのものまで,禁止されているわけではありません。
ないものを作るのは大変ですが,あるものを改良するのは随分楽です。考え方と視点を切り替え,自動車運転を楽しむのは専用の場所で,となってしまえば,誰にとっても幸せなんじゃないでしょうか。
蛇足ですが,北欧のVなんてのは,安全性を一貫して問うています。それも,運転者を守るという,実に利己的な安全(そう,よりお金を出した人が守られるという考え方は,自動車メーカーにとっての顧客が運転者であり,歩行者ではないことを雄弁に物語っています)ではなく,自動車によって被害を受ける人すべてを守るという考え方に根ざしていることは,私は高く評価します。
(7)自動運転にしてもあまり便利になるとは思えないけど?
今自動車を運転している人というよりは,今運転していない人,今自動車の利便性を享受していない人が,とても便利になります。今運転している人も,車内で楽に過ごせるとか,携帯電話が使えるとか,渋滞が緩和されるとか,道に迷わないとか,そういうメリットがありますが,すでに楽に過ごせている人や渋滞に無関係な人,道に迷わない人にはあまり関係ないですね。
ですが,これまでは運転という高度な技能が必要だったが故に,年齢制限と取得に長時間の講習と試験が課せられた運転免許証が必要でしたし,運転技能の低い人でも運転出来るようにと,様々な工夫が技術と制度が進化してきました。
それが,自動運転なることで,一切関係なくなります。子供も高齢者も,これまで運転出来なかったような病気や怪我,体の不自由な人にも,自動車を便利に使ってもらえるようになります。移動手段を持たない,あるいは失った人が,移動手段を持つことがどれほど有意義なことか,考えてみて下さい。
社会全体で見たときに,ある種の特権であった自動車の利用が,より多くの人にまで及ぶことになり,経済的な側面だけを見ても豊かな社会になっていくと考えて良いでしょう。
さらに,長距離トラックの運転といった重労働であるとか,タクシーの運転,バスの運転というところで,自動運転はその威力を発揮します。安全,確実,重労働からの解放,人手不足の解消という面でも,こういうところから自動運転が導入されるに違いないと,私は思っています。どうですか,すごく大きなメリットがあるとは思いませんか?
長くなってしまいましたが,一番言いたいことは「人間よりは機械の方がはるかに信頼できる」「運転が機械に難しいのは,道路が人間を対象に作ってあるからにすぎない」ということです。
そしてその道路だって,100年前からずっと同じではなく,変化を続けてきました。なら,どこかの時期にその時点で自動運転が可能になるような道路を作ることは自然な事だし,自動運転のメリットと安全性を考えると十分に元が取れるのではないでしょうか。
自動車の素晴らしさ,自動車の利便性を,もっと安全に,もっと広く,もっと多くの人々に。
私は自動車好きの人間として,そして技術者として,自動運転がもたらす未来を,とても楽しみにしています。
とても残念で悲しい事ですが,これを書いている今日,スキーツアーのバスががけに転落し,多くの人が亡くなり,けが人が出ています。
事故の原因はまだわかりませんが,運転のミスならば高い確率で,自動運転によって防げたのではないかと思います。バスの故障であっても,自動運転なら故障を検知し可能な限り安全に停車するということで,被害を最小限に食い止められた可能性が高いと思います。
私は,結局の所,最後に一番不幸になる交通事故被害者の悲しさと苦しさを思うと,自動車をなくさないようにするには,もはや自動運転しか答えがないというところまで,考えるようになりました。
自動運転が一般化すれば,自動車と人間の新しい付き合い方が始まると思います。一日も早く,自動車と人間が共に寄り添う関係になることを,望んでいます。