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2024年03月の記事は以下のとおりです。

中学受験というものを実際に済ませて思うこと

 さて,先日書きましたように,うちは娘に中学受験に挑んでもらいました。

 はじめに,いつから始めるか,どうやって始めるか,です。

 この2つは別の軸であるように思えて,実は互いにかみ合った歯車のような関係にあります。もし,人に頼らず自分たちだけで出来るなら,いつ始めてもよいでしょうが,現実的にはそれは難しく,誰かに頼むなり,どこかに所属することが必要になります。

 ここでいう頼むというのは,言うまでもなく受験用の勉強です。学校の勉強だけで受験が出来る程甘い世界ではありませんし,学校の勉強以外に必要な学習を自分だけでこなすことは不可能でしょう。

 近年,中学受験に挑む人が増えています。受け皿となる学校が増えているわけではありませんから,どうしてもそこに競争が発生します。「普通」では負ける,それが実体です。

 普通から一歩前に出るためには,普通の人に出来ない事が出来るようにならなければならないです。それは,いわゆる学習塾に通うなり,家庭教師を付けるなりといった「余計な学習」が必要となることを意味します。

 そうすると自ずと「いつから」という話が浮上します。あまり早くから取りかかっても効果は薄いですし,お金もかかります。本人も遊びたい盛りですので,くじけてしまうでしょう,

 さりとて,遅いと受験に間に合わなくなります。受験のために必要な知識を学習する時期というのがあり,そこを外すと以後の学習が出来ません。

 さらにいうと,塾によっては定員に達して入塾出来ないケースもあります。こういうところでもすでに競争が始まっているわけです。

 受験までの時間があるほど,学習にゆとりも生まれますし,方向を修正するチャンスにも恵まれます。何事も時間的な余裕がないと失敗する可能性は増えるものです。

 うちは,大手の塾に通ってもらう事にしました。嫁さんが主に選定を行ったのですが,私個人が考えたのは3つの点です。

 1つは家の近所にあることです。数年間通うことになる塾ですから,電車に乗ってとか,片道30分かかるとか,そういう通うための壁があると,それでくじけてしまいます。長く続ける事だからこそ,無理なく持続できることが一番大切です。

 雨の日も風の日も,暑い日も寒い日も通ったという実績は,なにかをコツコツと成し遂げることへの自身に繋がります。遠かったから,時間がかかるからという理由で遅刻したり休んだりするようなことでは,結局成し遂げたことにはなりません。

 次に宿題が多いこと。塾によっては宿題は少なく,授業をみっちりやるところもあるようです。本人の自主性に任せているということで,それはとても美しい言葉なのですが,考えてみると相手は小学校の3,4年生です。目の前にあるものが面白く,1時間後のことなど気にならない,そんな子どもが自分で勉強出来ないのは当たり前です。

 やらなければならないからやる,そういう強制力がないとやろうとしませんし,我々親もやらせようとはしません。勉強なんかやりたくないに決まっています。だから,宿題だけはやろう,それ以外はやらんでいい,というルールを作った上で,宿題がしっかり出ているところ,そしてその宿題をちゃんとチェックすることを選びました。

 次に変に競争心を煽るような所も避けました。順位が出るのは結構です。しかし,席順を変えること,短いスパンでクラスを入れ替える事は,頑張って結果を出した人に対する報償として機能する一方で,誰かへのペナルティとしても機能します。

 単純な数字の比較が,その子どもの人としての有り様まで決めてしまうくらい,悩んでしまうかも知れません。大人と違って子どもは,そんなに離れた場所のことも,そんなに遠い未来のことも,見えないものです。

 私自身は,小学校のうちは競争ではなく,楽しんでで和気藹々と勉強すべきと思います。もちろん,結果はシビアですし,順位も出ます。でもそれはあくまで結果であって,それを利用して競争心を煽るような仕組みは,本来自分の仲間である友達を,排除すべき敵と短絡的にとらえてしまうことに繋がります。

 共に闘う仲間として,成績のいい人に素直憧れること,私は小学生のうちはこれが大切なんじゃないかと思います。

 そんなわけで,うちは近所にある大手の受験塾に小学3年生の春休みから通うことにしました。本格的には4年生からですが,ピアノは4年生の途中から続ける事を断念して,その後は塾だけに通ってもらいました。

 最初のうちは授業数も少なく,宿題も大した事はなかったのですが,5年生にもなるとさすがに週3回,17時から21時前までみっちり授業がありました。授業があるということは,その時に新しい宿題が出るという事で,ようやく片付いたと思った宿題がすぐにリセットされてしまうという,終わりのない借金地獄のようになってしまう事に,くじけてしまいそうでした。

 しかしその宿題がどんどん難しくなっていきます。授業を聞き漏らしてしまうとアウトなのは当然として,授業では説明しないことも増えますし,解答や解説を読んでも分からない事が出てきます。そうなると貴重な時間がどんどん減っていき,タダでさえ足りない時間が融けていって,徹夜になることもしばしばです。

 しかし,ここで諦めることを許してしまうと,もう「せめて宿題だけは」という縛りに意味がなくなってしまいます。だから,宿題については何が何でもやり遂げるという姿勢を崩さないようにしていました。

 あと,その宿題についても,勝手にやってもらうのではなく,一緒にやるように心がけました。うちは国語についてはなにも対策が必要ないほど出来たので本人に任せていましたが,算数は一人では先に進めず,歩が止まってしまったら背中を押す伴走者が必要でした。

 その算数ははっきりいって受験用のもので,先々の数学に繋がるようなものは私の感覚ではありません。受験算数などはその場しのぎに過ぎないと今でも思っていますが,将来の財産となるのは計算能力で,これはひたすら鍛えてもらいました。計算で時間がかかってしまうと,そこだけで時間切れになってしまいますから,算数が苦手な人ほど計算能力を鍛える必要があると思います。

 理科と社会については,中学はおろか大人になっても使い道のある本質的な学習だと感じたので,正攻法でみっちりやることにしました。

 理科にはコツがあって,言葉を覚えることと,結局比例で融けることの2つを信じてもらいました。手を変え品を変え,化学や物理の問題を作ってきますが,結局最後には比例で解ける問題ばかりです。正しく問題を読む力(すなわち国語力)を養い,それを最後に単純な四則演算に落とし込むという訓練で,苦手意識も消えてくれるはずです。

 社会は本当に役に立つ知識を学ぶチャンスで,中学校の勉強を先取りしています。やったことは全く無駄にはならず,しかも世の中で起きていることが見えるようになってくるという点で,学んだ瞬間から実生活の役に立ちます。

 最初は暗記が主になりますが,ある時期を過ぎるとその知識を使って問題を自分で解きほぐすことが求められるようになります。これこそ社会科の醍醐味。子どもによっては暗記は得意でも考えるのが苦手な場合があるそうですが,暗記したことがどうやって新しい価値を生むのかを知れば,暗記したことが多ければ多いほど問題が見えるようになり,問題見えるとより暗記することが面白くなるわけで,そうした相乗効果が出てくるまで,暗記を面倒くさがらせないようにリードすることが大事だと思いました。

 一緒に勉強をやっていて感じた事は,良く一般的に言われる子どもの知能の発達家庭が,まさにその通りに進んでいったことでした。

 単純な加算や減算の次は九九,そして割り算や分数と進むにつれ,目の前にあるものではなく頭の中にイメージして考える事が必要になります。そしてそれはやがて見えないものが見えるようになる力,抽象化という一報進んだ知能が求められるようになります。

 立体図形を頭の中に描くこと,隠れている面を想像すること,ある数列から規則性を見いだしてその先にある数字を予想すること,10分前の状況から1時間後の状態を想像することなど,時間と空間を行き来する能力が伸びるのは,まさに初学5年生くらいのことでした。

 同じ事は理科にも言えます。生物とか地学は見える者を相手にするので大丈夫なんですが,電気や磁気の分野は,見えないものを扱うのでわかるはずがありません。しかし,見えないものを見えるようにする工夫を学び,可視化が自然に出来るようになると,もう怖い物はありません。これも5年生位で出来るようになったと思います。

 社会も同様です。地理は実体を学ぶ者ですが,歴史は時間を越えたところで学ぶものですし,公民分野は社会制度という実体のないシステムを学ぶものです。これらを理解するにはやはり見えない物が見えるようにならねばならず,とても高度な脳の働きが必須です。

 そして,この抽象化や想像力こそ,国語の能力だと思います。そしてその国語の能力は,読書と会話が高めてくれます。

 手の届くところにいつも本があること,気が付いたら誰かが本を読んでいる姿を見ることで,文字を読むことが当たり前になります。そして,親がおしゃべりで,面白い会話が出来る事もプラスに働くと思います。

 そして,とにかく考えること。本当にそれだけ?もっと他に考えられない?理由はそれでいい?と,いろいろな角度から考える事を癖にしつつ,思ったことを口にすることを家族みんなでやっていくと,会話も弾みますし一石二鳥です。

 さて,塾の役割はもちろん授業による解法の学習と課題の設定ですが,もっと大切な事を私は期待していました。コンサルティングです。

 塾は良くも悪くも受験産業の担い手です。つまり受験というテーマに対するプロであり,それで収入を得ている専門家の集団です。私が回路設計の専門家であり,お医者さんが医学に関する専門家であるのと同様に,彼らは受験に関する専門家であって,同時に我々はその分野における素人です。

 素人が困った時に助けてもらうためには,専門家に相応の対価を支払う必要があります。受験においては塾がその専門家であり,塾の費用にはそのコンサルティングの代金が含まれていると考えています。

 面倒見の良い塾というのは,本人の学力向上はもちろんですが,保護者に対する支援も手厚いです。我々は初めて受験を経験するのですから,分からない事があって当たり前です。しかし,塾は毎年のことですから,我々が困ったケースは概ねこれまでに経験済みで,処方箋ももっているものです。

 分からない事をわかったふりをして済ませたり,わからないまま放置するのはもったいないです。分からない事は専門家に甘えて,ぜひ教えを請いましょう。わからないことがわからない場合でも,素直にそのことを伝えて不安を解消しましょう。

 こんなこと聞くのは失礼かな,こんなことはわからないかもな,と思う前に,先生に相談です。なーに,先生にしてみれば,毎年のことに過ぎず,よくあることの1つだったりするものです。

 校舎外で行われる模試はもちろん,頻繁に行われる確認のテストについても,すべて受けるべきだと思います。場慣れすることに近いと思いますが,公式なテストへの緊張感が適度に薄れますし,問題の傾向などのクセも,子どもなりにちゃんと見抜いてくれます。

 何事も習熟には練習が必要で,どんなことでも習熟度は練習量に比例するものですが,テストも同じです。

 通常の授業以外の講習会なども,出来れば参加しておきたいです。低学年ではしんどい思いをしてやる必要があるのかと迷う物ですが,そうやって迷った講習会への参加を,後で後悔することは結局ありませんでした。

 しかし,学校がおろそかになってはいけません。あくまで学校が第一であり,学校に優先して塾や受験に取り組むのは間違っていると本人にも理解してもらいました。実際には学校よりも優先せねば回らないこともあるのですが,それを当然と考えるのはなく,悪いことだと思いながらやることは,最低限必要なことだったと思います。

 振り返ってみると,多くの先生がおっしゃったように,小学校5年までに新しい事はすべて済ませてしまい,残りの1年は反復練習による定着だったと思います。もちろん新しい事もやりますし,複数の知識を組み合わせて解くことも練習しますが,多くの子どもにとっては,基礎はやってもやっても固まらない難攻不落の城だっただけに,しつこいほど反復練習をやった覚えがあります。

 反復練習はとても効き目があるのですが,一方で楽しくないし延びている実感を掴むまでに時間がかかるので,どうしてもくじけてしまいます。ですが,これは私自身の経験から,今やっている勉強の効果が出るのは3ヶ月後だと言い聞かせて,今すぐ効果が出なくても焦らず,毎日続ける事を徹底しました。

 すると3ヶ月後には結果が出てきます。我慢して続けておけば,そのずっと効果が出てきたまま本番を迎えることが出来る訳です。

 苦しいのは,結果が出始めるまでの3ヶ月間で,この木感は確かに暗闇を手探りで歩くようなものです。この方向で正しいのか,立ち止まった方がいいんじゃないいか,引き返すべきではと,いろいろ考えてしまうものです。

 ですが,やったらやっただけ前に必ず進むことを信じることで,この苦しい3ヶ月を乗り切る事ができると思っていました。そう,練習は裏切らない,という格言は,この3ヶ月を乗り切るために存在するのです。

 うちは幸い,成績が安定していました。受験校の決定も難しくはなく,本人の希望に添う形で計画を立て,受験に臨みました。それでも,第一志望は1回目に不合格でした。聞けば,やはり力を出し切れなかった様に思う,と言ってました。

 幸い2回目の受験で第一志望に合格出来たのですが,やるだけのことをきちんとやったという自信と,それを思い通りに発揮出来たという手応えが揃って,ようやく合格に至ったという感じがします。私は,受験は準備が8割と思っていましたが,やっぱり準備と本番が半分半分,そしてそれぞれで求められる力が違うということを,つくづく感じました。

 入学試験というのは,もちろん競争ですし,少ない椅子を巡って争う場です。学校にしてみればより優秀な生徒に来てもらうためのふるいですから,良い印象を持つことはあまりありません。特に受験者にとっては,嫌なものであるはずです。

 ですが,私が娘に言い続けたのは,これは先生と生徒の会話の道具だということです。もちろん学校によって違うのですが,娘が目指した学校は記述多く,部分展をしっかりくれる学校でしたから,これは自分を積極的にアピールして,私こそこの学校に相応しいと訴える場だと,考え方を変えてもらっていました。

 先生も,自分たちの学校に来て欲しい人を探して,わざわざ時間をかけて入学試験をやるわけです。先生からのメッセージを問題から読み解き,自分を受け入れて欲しいという意思表示を答案を通じて行うのが,入学試験です。

 もしかすると一生接点のないまま終わる相手かもしれません。顔を合わせたこともない相手との会話に意味があるかどうかもわかりませんが,それでもこういう形式で意思の疎通が行われる事って,楽しい事だと思うのです。

 だから,ぜひ本番を楽しんで欲しいと願っていました。結果は結果として,とにかく本番の試験を楽しんで,自分を精一杯わかってもらうことに全力で取り組んでもらえれば,それでもう受験の価値はあったと思っていました。

 最終的に,合格者はそういう先生たちのお眼鏡にかない,自分を十分に理解してもらえた人たちの集団となります。そうした集団で学ぶことが,どれほどワクワクすることか。私は娘が羨ましいです。そして若いときに,同じような意識で受験に臨みたかったとつくづく思います。

 春から,私の娘は自分を迎え入れてくれた学校で学びます。決して公立の中学校を悪く言うのではないのですが,何もせずとも自動的に入学することになる学校と,自分で目指し,そこに向けて頑張って,試験当日に戦線としっかりコミュニケーションをして,その結果入学を許されるということは,また別の価値があると思います。

 地域や世代によって中学受験に否定的な方がいらっしゃることも承知していますが,それはどこか,子どもの意思ではなく親の意識で行われているということへの批判があるんじゃないかと思います。そうした側面は多分にあり,私もそこには批判的ですが,一方で自らの希望と努力で自分の進む道を決めることの素晴らしさは,無条件に認めて良いのではとも思います。

 確かにお金も時間もかかります。熱意も途切れさせるわけにはいきません。公平性を欠いていることも事実でしょう。しかし一方で,それぞれに限られた資源を中学受験に割り振ったことは,そこに大きな価値を見いだした結果でもあるので,尊重されてもよいだろうと私は思います。

 少なくとも「お受験」などと茶化した言葉で,揶揄するようなことは,失礼なことだと思います。

 さて,中学受験を終えて,娘は今完全にだらけきっています。あの熱意,あの学習量はどうしたのかと思うほど,なにもしません。

 学校からの課題は最低限しかせず,人より少しだけ余計にやることで少し前に出ることが出来るという教訓などどこ吹く風,与えられたスマホを「唯一の楽しみ」と豪語して,日々小さな窓に向き合って暮らしています。

 どうしたものかなあ。

中学受験というものを経験する前に考えたこと

 東日本大震災の年に生まれた娘もこの春に小学校を卒業し,中学校に進みます。

 生まれたその日から毎日違った姿を見せる娘を観察し続けることは,私の何よりの幸せでしたが,おそらくそれはそれまでの経験から類推できる未来とは異なり,知らないこと,分からない事の連続だったから,そう思えるのかも知れません。

 無論いいことばかりではありません,頭にくることも,どうしていいやらわからなくなることもたくさんありましたが,それでも我々の娘はとても「いい子」でしたので,振り返ってみても大変だったと思い返すようなことは少なく,むしろ後悔や反省が私を責めることの方が多いと思います。

 つくづく思うのは,子どもと一緒に過ごすことは,親の特権であるという事です。もちろん親なんだから当たり前の事なのですが,親という理由だけで子どもと過ごすことが許されるというのはなんと楽しい事か,なんとうれしいことかと思います。

 特に我々夫婦は遅くに結婚し,人様よりも10年は遅れて子育てに臨みました。私たちのような年齢の人間でもこれだけ自分と自分の周辺を抑えるのに苦労したことを思い返すと,もし私が人並みに10年若く子育てに挑んだなら,およそ務まらなかったんじゃないかと思います。

 そう考えると,世の中のお父さんお母さんというのは,本当によく頑張っているなあと感心するわけです。


 閑話休題。そんな子育てのイベントの1つに,進学というのがあります。義務教育であればほっといても小学生や中学生にはなるわけですが,高校からはそうはいきませんし,与えられた進路ではなく積極的に選び取る進路であるなら,そこに受験という自己研鑽と残酷な競争の世界があることから目をそらすわけにはいきません。

 我々夫婦は競争心も向上心も少なく,子どものお尻を叩くことをしませんでしたし,まして自分たちの名誉や都合で子どもの時間の使い方を決めたりするようなことはしませんでしたが,当然のこととして自分たちの成功体験(あるいは失敗体験)から,こういう選択肢を選んで欲しいと考えていたことはありました。

 ピアノを習ってもらったのもその1つで,嫁さんはピアノをきちんと習った事から,私は習わなかったことから,ピアノを習って欲しいと考えました。その目的はシンプルで,練習は裏切らないことを実体験してもらう事と,上手いとか下手ではなく,自分の頭の中で鳴っている音を表現する手段を持って,たとえひとりぼっちになっても楽器を絶対に裏切らない友人として一生付き合って欲しいと思ったことにありました。

 同じ文脈で,ぜひ進んで欲しい進路が,女子校でした。嫁さんは女子校の出身者で,周りに男がいないから,男に頼ることができない,故に自分たちでなにかをやるのが当たり前になったと言っています。その通りでしょう。私にも経験がありますが,自己顕示欲の強い年代の男というのは,なにかと女の子の前でいい格好をしがちなもんです。

 いや,やってくれると言うんだから任せりゃいいんだと思うのですが,それはやる側の視点です。見方を変えれば,経験するチャンスを奪う行為であり,それはつまり同じ経験による体験の共有を損なわせる行いです。

 過去に同じ事をやった人間同士の会話を想像するとわかりやすいですが,「あるある」で盛り上がるためには,同じ経験をしないといけません。それは楽しいだけではなく,同じ経験をしたものとしての連帯感も生まれますし,価値観の共有も起こります。

 しかし,その経験を肩代わりした人と,肩代わりさせた人が顔を合わせた時,両者の間には,同じ経験による体験の共有がないばかりか,やった人とやらなかった人という経験の差に加え,やってもらった人とやらされた人という精神的な違いも生まれ,そこに上下関係が生まれかねません。

 私の嫁さんはこのあたりに実に敏感で,こうした事柄から自分を振り返り,かつ自分の娘に良い人生を歩んで欲しいと願っています。

 私は私で,13歳から18歳までの,なにをやっても楽しく,なにをやっても上達するこの時期に,高校受験に邪魔されることなく青春を謳歌して欲しいと思った事と,同じ理由でそのエネルギーを不用意に異性からの視線に邪魔されることなく使い切って欲しいと,女子校に進むことを願っていました。

 いやね,10代というのは良くも悪くも異性の目が気になるじゃないですか。例えばですよ,乗り鉄の中学生と,ギターが弾ける中学生と,どっちがもてますか?

 自分の楽しい事を,異性からの目が気になって我慢したり隠したりすることって,しんどいことだと思います。

 大人になれば,互いの趣味や自分との違いを楽しめるようになるものでも,10代はなかなかそこまで出来ません。自分との違い,多数派との違いを「気持ち悪い」とか「怖い」と考えるのは人として自然な事ですし,多数派に属するための行動や努力はそれはそれで経験で,その先にある安心感や楽しさには大きな価値があります。

 でも,出来れば自分のあり方は,否定されるのではなく,歓迎されたいじゃないですか。あわよくば互いに尊敬し,互いに一目置き合う関係が続けば,きっとそれは生涯の友となるでしょう。

 私は共学でしたから,同じ趣味の人と誰憚ることなく行動するチャンスを,クラブ活動で得ることが出来ました。彼らとは今でも友人であり,尊敬しています。

 端的に言えば,女の子にもてるかどうかが絶対的価値になるのではなく,それぞれの趣味や人間性を互いに認めて高めていくことに価値があるという,大人の世界ではごく当たり前のことを,最もエネルギッシュな時期にやって欲しいということです。

 もてるために費やすエネルギーは膨大ですし,もしそのエネルギーを別の事に使えても,共学だと異性の目が気になるでしょう。もてない状況に納得するために,ある種の割り切りを必要としたり,自らを卑下するような考えに陥るかも知れません。

 それも青春ですが,邪魔されずに何かに没頭するのもまた青春です。

 中高の6年間を,雑音なしに集中出来る期間に出来るなら,これほど素晴らしいことはないでしょう。そのために私が考えたのが,中高一貫の女子校だったというわけです。

 私は男ですから,女子校は経験がありません。裕福でもなかったですから中高一貫の私学も全く知りません。そこは,経験者の嫁さんの目利きを信じて,自分の娘が雑音のない空間で,自分を磨いていく姿を早いうちから想像し,娘の進学と受験を能動的に考えてきました。

 その結果が,この2月の受験で結論されたわけです。

 こうした受験に至ったバックボーンのようなマクロな視点も,算数の難問を一緒に解くことや日々の宿題の多さに絶望すること,体調やメンタルの維持といったミクロな視点も,とにかくすべての結果が出たのが2月です。

 悪い言い方かも知れませんが,小学6年生の2月というのは,我々親にとっても,これまでの子どもとの接し方が評価されるタイミングの1つであったと,思います。

 ならば,これを振り返る意味は大きいでしょう。

 人の親になることのしんどさの1つである,進路と受験について,次回振り返っていこうと思います。

 

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