原子力発電~11の疑問
- 2011/03/31 20:14
- カテゴリー:ふと思うこと
原子力発電には,かねてからいろいろな意見があり,必要だとする人とやめるべきだという人とに分かれているように思います。どちらの意見にも正当性があり,かつ単純な良し悪しではない要素を含んでいるため,なかなか綺麗に判断出来ません。
そんな曖昧な中で国の原子力政策は進んできたところがあるのですが,今回の大きな事故で原子力政策はおろか,原子力そのものに対する信頼は地に落ち,私のようなかつて推進派だった人間の目から見ても,もう日本で原子力が受け入れられることはないだろうなと思わざるを得ません。
反対派の人も推進派の人も,それなりの論拠を持って自らの主義主張を組み立てているわけですが,中にはそれが正確ではなかったり,それまでの経緯を知らなかったりで,当てはまらないものもあるように思います。
私も同じ疑問を持っていたことがありますが,今知る限りのことを書いてみます。
(1)そんなに原子力発電が安全なら,東京になぜ作らない?
これは,作らないのではなく,作る事が出来ないが正しいようです。
原子力発電所の建設には,地震が起きにくい地域であること,万が一の地震にも十分耐えうる固い地盤,消費地に近く,冷却用の水資源に恵まれ,かつ広大な土地である必要があります。
実は,東京の周辺には,こうした土地が少ないのです。そこで,福島や新潟といった所に建設せざるを得ないのです。決して原子力発電が危ないから東京を避けているというのが理由ではなく,無理に東京に作ったら本当に危ない施設になってしまうから,と考えるべきと思います。
東京に作ると土地の獲得に膨大なお金が必要になり,建設費が高騰するでしょうから,土地の価格が安いところに作ろうという理屈は,地方に半導体の工場が多くあるのと同じ理屈でしょう。原子力発電所も大規模プラントですから。
ただし,誰も口には出しませんが,万が一の時に首都が消滅するか地方都市が1つ地図から消えるか,どちらを選択しますか?という話が,内緒で議論されなかったはずはないと,私は思っています。
(2)原子力発電所を受け入れたところにお金をばらまくのは買収じゃないか?
そういう側面があることは否定できないと思いますが,これも1970年代のエネルギー政策にその経緯を見ることが出来ます。
経済成長が進み電力需要が高まるなか,日本は主に水力発電所を建設してその需要に応えてきました。しかし,日本国内にはもう大規模な水力発電所を建設する場所はなく,また天候に左右されることもあって,次の一手を考える必要が出てきました。
その頃,ちょうど石油が安く安定して供給されるようになったので,水力発電を主にするのではなく,火力発電所を主にする方針に切り替わりました。そこにやってきたのがオイルショックです。
ここに至って国はさらに新しいエネルギーを考える必要が出てきたのですが,その結論が原子力だったのです。原子力発電は戦後多くの国で稼働し,その安全性も信頼性も一定の評価を得ていました。また,規模の大きな発電所を作る事も可能で,しかも発電コストが安く,燃料の枯渇を心配することもないという,まさに理想のエネルギー源だったのです。
火力発電所は東京の周辺,例えば川崎などにもあったのですが,同じような場所に原子力発電所を作る事は立地条件から難しいため,どうしても地方に建設せざるを得ません。
そこで,当時の政府が考えたのが,
東京に建設できない発電所を地方に作る->
発電所で作った電気を東京に送ってもらう->
その電気で東京がお金を稼ぐ->
感謝の気持ちを込めて地方に儲けたお金を戻す
という仕組みです。この「感謝の気持ち」は私の脚色ですが,当時の政府の考え方は,新幹線と高速道路で国中を結んぶ列島改造がプランとしてありましたし,再配分による富の平均化という観点から考えても,あながちウソではないのではと思うのですがどうでしょうか。
ところが,こういう流れを勝手にやるわけにはいきません。そこで作られた法律がいわゆる電源三法です。この法律によって,上記の仕組みが整備されたわけです。
これを「買収」というのは確かに事実かも知れません。しかし,原子力が安全という前提で話をすると,米の産地,魚の産地,工業地帯,首都機能,と言ったように,それぞれの地域がそれぞれの役割を担っていくことはごく普通のことです。
原子力発電所にはそれ相応のリスクもあるし,そこに済んでいる方々の心情も考えねばなりません。お金で解決といえばダークな話ですが,現実問題としてお金以外に再配分する方法もまた,見当たらないのです。
ところで,この考え方は,経済成長が続き,法人税を含む税収が毎年伸びて,そのお金をどこに使うか,と贅沢な悩みをしていた高度成長期のころのお話であることも頭に入れておいた方がいいかも知れません。現在のように収入の多くを借金に頼り,人口は減り続け,毎年税収が落ち込むかも知れないという状況では,必ずしも正しい方法とは言えないと思います。
(3)なんで原子力発電でなくてはならないの?
原子力発電所を1つ作ると,ざっと100万キロワット以上の発電能力のある発電所が,安定して数十年間稼働し続けます。こんな発電所は,今は他にはありません。
火力発電は石油にしても天然ガスにしても,日本にないエネルギーを燃やしますので,ハードウェアとしての発電所を作っても,それが安定して稼働するかどうかはわかりません。それに,昨今の環境問題を考慮すると,これが本命の発電方法とはどうしても思えません。
水力発電は理想的かも知れませんが,発電量が圧倒的に小さく,原子力発電所の1/4とか1/5程度しかありません。それこそ,大きな川をせき止め,山間の村を1つ2つ水没させ,それでこの程度の発電量というのは,私には割が合わないように思えます。
太陽熱発電,風力発電など,確かにいろいろ考えられていますが,1機で100万キロワットを安定して発電できるような設備にはほど遠いのが現状で,現実問題として原子力発電以外に,今の電力需要に応える方法がない,というのが私の結論です。
ただし,これも原子力発電が安全であることが,大前提です。
(4)電気は貯めておけないの?
電気を貯めておければ,夜のうちに作って貯めておくとか,外国から買うとか,いろいろ手は考えられそうな気がします。
しかし,電気は貯めておけません。もちろん,充電池を使えば貯めることは出来ますが,これは電気エネルギーを化学エネルギーに変換して蓄えるものであり,電気そのものを貯めているわけではないことに注目してもよいでしょう。
エネルギー変換を行うわけですので損失も結構出ますし,充電にも放電にも一度に出し入れできるエネルギー量に制限があるので,実はとても面倒なのです。それに,発電所の代わりになるような大きな電力を蓄えるだけの電池は世の中には存在せず,それは最近ようやく実用になった電気自動車が,それでも走行距離で200km程度だったりすることからも,明らかでしょう。
ということで,電気を貯めておくことが出来ない以上は,必要な需要分だけ発電しておくしかありません。しかし,最近の計画停電で広く知られるようになったとおり,電力需要には一日,あるいは一年で変動があり,その最大値に合わせて発電を行っていると,無駄が大きすぎて話になりません。
かといって,原子力発電や火力発電は発電量のコントロールが難しく,最大効率で動かすには一定の発電量を維持するのが望ましいのです。
そこで,発電量の調整に,先程の水力発電をつかうのです。水力発電は発電量こそ小さいですが,水を落とせば発電し,止めれば発電も止まりますから,発電量の調整が比較的簡単にできるのです。そこで,原子力発電や火力発電で一定の電力を発電しておき,変動分を水力発電でカバーする方式が,最近は一般的です。
もう1つ,揚水発電という方式もあります。夜,電力需要の小さい時にダムに水を電気でくみ上げておき,電力需要の大きくなった昼間にその水をダムから落として,発電します。これは,電気エネルギーを位置エネルギーに変換して蓄える仕組みです。
大変合理的な方法だと思ったのですが,これもどんな発電所でもできる訳ではなく,一説ではすでに日本で揚水発電が可能なダムは新規に建設出来ないのだそうです。
(5)原子力発電を使えば石油と違って無限のエネルギーを得られるんだけど?
これは間違いです。よく,原子力は夢のエネルギーと言われますが,現在の原子力発電所は天然ウランのうちわずか0.7%しか含まれていない,「燃えるウラン」しか使えません。現在の燃えるウランの需要と採掘コストを勘案すると,ざっと60年で枯渇します。
例えば30年後に巨費をかけて建設した原子力発電所は,ウランが枯渇する30年以上の長期稼働が出来ないことになり,それ以後はゴミになります。恐ろしい話です。
なにも,埋蔵量の少ないウランを燃やすことはないのでは,という発想から,プルトニウムや天然ウランの主成分である「燃えないウラン」を無理矢理燃やす原子炉も研究されています。これが高速増殖炉ですが,とても難しい技術ですので,まだ誰もこれを商用に実用化したことはありません。
(6)原子力発電は低コストの発電だよね?
その発電量と稼働率,稼働期間から考えると,確かにエネルギーあたりのコストは他に比べてずっと低いと言われています。
経済産業省が出した2008年エネルギー白書のデータですが,1kWあたりの発電コストは,
水力:8.2~13.3円
石油:10.0~17.3円
天然ガス:5.8~7.1円
原子力:4.8~6.2円
と言うことです。
この数字を信じると「ほらみてみ原子力は安いんやで~」と推進派は小躍りしそうなものですが,ここには3つの要素がかけています。
1つは,燃料価格の高騰です。日経によると,昨年秋のスポット価格は,昨年春に比べて4割以上も上昇したとのことです。世界的な原子力発電ブームを受けてウランの需要が高まっていること,旧ソ連の核兵器を解体したときに出てくるウランをアメリカが購入する契約が2013年に切れること,そしてこれらを見越した投機マネーが流れ込んで来ることから,ウランの価格が上がっています。ウランは一度装填すれば数年燃え続けますので,短期的な変動の影響は受けにくいかも知れませんが,それでも価格高騰の影響があることは避けられないと思います。
2つ目は,稼働率です。この白書では,稼働率を最大85%としていますが,小さいトラブルがあったりして,実際には50%程度と言われています。稼働率の低下はコストにきいてきますので,今の稼働率で考えるとこの価格ほど安くはないでしょう。ある試算では,稼働率が50%で約8円になるそうです。ん?天然ガスよりも高くなってる?
そして最後に,廃炉の費用です。これは私も正しい情報の入手をしていないのですが,1989年以降,毎月の電気料金に広く薄くのせられ,積み立てられているようです。ただし問題なのはその金額で,1基あたり約550億円を前提にしてあります。
しかしながら,100万キロワット級の原子力発電を廃炉にした例がほとんどなく,その費用がどのくらいかかるか正確に分かるはずもありませんし,そもそも放射性廃棄物は処分ではなく保管しか手がない中で,最終的な処分費用など見積もれるはずがありません。
費用だけではなく放射性廃棄物という負の遺産まで,未来にかかる負担を先送りにし,今のコストで電気代を我々は支払っているわけで,いわばツケを次世代に先送りしているだけなのかも知れません。これって許されることなのかなあと,私などは心配になります。
参考までに,中部電力は浜岡原発1号機と2号機の廃炉に,それぞれ約900億円を見積もっているのだそうです。本当にこの費用で収まるのか,解体中に事故でも起きたら一気に費用は膨れあがりますし,お金だけではなく解体作業にかかる時間が何十年(一説では30年もかかるらしい)もかかること,その間危険を伴うこと,そして廃材の一部は結局保管するしかないということから考えて,これほど後始末が大変なプラントを作る事が果たして正しかったのか,やっぱり首をかしげたくなります。
そうそう,1つ言い忘れていました。この積み立てのお金は,先の発電コストには入っていません。さらに,かなり大きな金額になる核燃料の再処理費用も含まれていません。
(7)核燃料サイクルと原子力発電の関係は?
とてもややこしい話なのですが,前述の通り原子炉で燃えるウランは天然ウランのうち0.7%ほどしか含まれていませんし,全量輸入に頼る日本としては,安定した燃料の供給を考えていかないと,原子力発電が継続できません。
ところで,この燃えるウランを燃やすと,プルトニウムができます。本来このプルトニウムは普通の原子炉では燃えないのですが,実は一部は核分裂を起こして燃えています。
こうして,使用済みの核燃料にはプルトニウムが生成されています。もともとウランを燃やす原子炉は,核兵器製造用のプルトニウムを作る原材料プラントとして稼働を始めたという経緯もあるくらいです。
このプルトニウムを取り出し,燃えないウランと混ぜて新しい燃料を作ります。そしてこれを「高速増殖炉」と呼ばれる原理的に異なる原子炉で燃やします。高速増殖炉は燃えないウランやプルトニウムを燃やすことが出来るばかりか,投入した燃料以上のプルトニウムを作り出す,夢の原子炉です。
最初は,高速増殖炉が実用になり,燃えないウランとどんどん作られるプルトニウムによって,ほぼ無限のエネルギーを得る予定でした。しかし前述の通り高速増殖炉はあまりに難しく,結局予定通り実用にはなりませんでした。
しかし,燃えるウランは数十年で枯渇し,しかも燃えた結果プルトニウムはどんどん溜まっていきます。これでは原子力発電は近い将来立ちゆかなくなります。
そこで,普通の原子炉でも一部のプルトニウムは燃えていることに目を付け,使用済み核燃料から燃え残った燃えるウランとプルトニウムを取り出し,新しい燃えるウランと適当な割合で混ぜて,普通の原子炉でも燃える燃料に再加工します。これが再処理です。
こうすると,今までどうすることも出来なかったプルトニウムを燃料として使うことができ,同時に燃えるウランの使用量も減らせます。これをプルサーマルといいます。(プルサーマルは和製英語で,日本でしか通じませんのであしからず。)
しかし,問題はここからです。プルトニウムの割合を増やしたプルサーマルでは,ほとんど燃えないアメリシウムやキュリウムという馴染みのない元素が生成されてしまいます。これはもう本当に使い道がないそうで,プルサーマルばかりをやっていても結局高い放射能を持つ生成物が溜まってしまうのです。
ところで核燃料サイクルにはもう1つ大事な意味があります。それは,核兵器を作る原料となるプルトニウムの使い道を作り,「ためてないよ」という国際的な宣言をすることにつながることです。
プルトニウムは大変やっかいな元素ですが,なんと言っても核兵器を作る事の出来る材料だけに,作るだけ作って使い道がない,などということはとにかく物騒です。核兵器を作ってません,といっても信じてもらえるかどうかわかりませんし,本当に作っていなくても盗まれたら終わりです。作った分だけ厳重に管理しておかねばなりません。
だから,使ってしまわないといけないわけですね。繰り返しになりますが,本来ならプルトニウムや燃えないウランを直接燃やす高速増殖炉が実用化していれば,こんなことは心配なかったのでしょうが,人類が無限のエネルギーを手に入れるなどというのは,神様もお許しにならなかったということでしょうか。
(8)他のエネルギーはないの?
現実問題として,かなり難しいのではないかと思います。先程のエネルギー白書によると,1kWの発電コストとして,太陽光が46円,風力が10~14円と試算されています。
太陽電池があるじゃないか!じゃんじゃん作っていけば問題ないよという皆さん,太陽電池を作るために必要なエネルギーを忘れていませんか?ここ数年で,製造時に必要なエネルギーを,その太陽電池が寿命までに生み出すエネルギーがようやく上回ったと言われています。これまでは,太陽電池を作れば作るほど,エネルギーは減っていました。
ただし,太陽電池も途中で壊れますし,光りが当たらないときもあります。そういう状態まで考えるとまだまだ製造時に必要となったエネルギー以上を生み出せるようにはなっていません。
燃料電池という話もありますね。でも,これも同じ理屈です。燃料電池の燃料は水素,もしくはエタノールや天然ガスなどの炭化水素です。これを作るのに電気がいるのです。
究極的には,人工太陽である核融合炉を作る事でしょうが,これはもう全く,可能性さえ見えないくらいに遠いところにある未来技術です。それに,核融合炉を研究し,作るのに,エネルギーがふんだんに使えることが前提です。
そういう尺度で見た場合,やっぱり現実的な話として,今のエネルギー政策を延長させていくしか,もう方法がないんじゃないかと,そんな風に思うのです。
(9)電気じゃなきゃだめなの?
そんなことはありません。しかし,電気は貯められない代わりに,熱にも動力にも計算能力にも,様々なものに高効率で化けることの出来る万能エネルギーであることを忘れてはいけません。
石油も天然ガスも高いエネルギーを持つ燃料ですが,基本的にこれらからエネルギーを取り出すには燃やすしかありません。燃やしてしまうと熱にはなりますが,これを別の形にするには手間もお金もかかって,しかも多くを熱のまま失ってしまいます。もったいない話です。
火力発電も原子力発電も熱を電気に変えるところまでは同じなのですが,なにせ規模が大きいので,その変換効率をあまり悪くしないで済みます。プラントというのは,規模が大きい方が効率がよいのが普通です。火力発電では実に40%もの効率を達成していますし,一部には60%もの効率を誇るものもあるそうです。これはすごいですね。
(10)この際,昔のエネルギー消費量の水準に戻して慎ましく暮らさないか?
うーん,私もそれが出来るなら,そうした方がよいのではないかと思うのですが・・・少し考えてみましょうか。
空調は,この際我慢しましょう。熱い寒いは昔の人は辛抱しました。テレビなんかどうせ見てませんし,なくても困りません。いらないです。
冷蔵や冷凍はどうしましょうか。産地と消費地を距離に関係なく結ぶこの技術がなくなったら,昔のように消費地の周辺に産地を作らねばなりません。これは結構大変かも知れないですね。
鉄道や物流などのインフラもずっと慎ましいものになります。工場などの企業活動も大幅に小さなものになり,日本のGDPはぐぐっと押し下げられます。
さーて,携帯電話はどうでしょう?当然廃止です。基地局がどれだけ電気を食っているか,考えたことがありますか。
パソコン?当然停止です。電気が計算能力に化けるとはいえ,その計算能力が本当に必要かどうかは精査しないといけません。
インターネットも動きません。世界中のサーバ,ルータ,ストレージがどれほどの電気を消費しているか,その量は膨大です。そうして維持されているインターネットで我々はなにをしているでしょうか?
てな具合に,今は昭和の時代と違って,電気が本当に多くの用途に使われています。トイレを流すにも電気が必要,高層マンションなんてのは電気で動くエレベータが前提の建築物です。
電気が湯水のようにあることを前提にして作ってきた社会を,今になって電気なしで動かそうとしても,それはもう急には無理な話,なのです。
(11)そもそも,大前提であるはずの安全は大丈夫なの?
原子力発電所は,万が一の事があると大事故になり,その影響は何十年,あるいは何百年と続くもので,人類を破滅させかねません。膨大なエネルギーを少しずつ取り出すことの難しさ,生命にとって毒となる放射線を扱う事の難しさを,ここ数十年で嫌と言うほど経験しても,それでもなおこのエネルギーを手なずけるに至っていないことを,我々は真摯に受け止めるべきだと思います。
人の作ったものに絶対はありません。ミスをしますし,不測の事態も起こります。それを天災ということも人災という事も簡単でしょうが,原子力発電はどちらを理由に起こったことでも,やり直せない,取り返しの付かないことになってしまうものです。
絶対のない我々が使うものが,やり直しの利かないものでよいのでしょうか?
絶対がないならやり直しが出来ないといけないし,やり直しが利かないのであれば,我々人類には荷の重い,扱いきれないものと考えなければいけないでしょう。
この点で,今の原子力発電と人間という生き物との組み合わせにおいて,安全でないという結論を出さざるを得ません。
今回の事故は,想定外の地震と津波だったといいますが,想定外である時点でもうすでにアウトです。やり直しが利かないものを作ってしまったのだから,全部想定できていないといけないはずでした。
実際には,全部想定するなど不可能です。人間には未来を知る力はありません。ならば,ミスをしない人間になるしかありません。でもそれも無理です。ということは,これはもう人間には扱いきれない代物であったとあきらめるほかないのではないでしょうか。
そう考えると,人類は身の丈に応じたエネルギー生産と,それに応じたエネルギー消費で生きていく必要がありますね。(10)とは矛盾した結論を出していますが,新しい原子力発電所はもう作らない,そしてその発電所が生きているうちに,少しずつ計画的にエネルギー消費を押さえていく,結果日々の生活が今以上に不便になり,貧しく,慎ましくなっても,それはそれでもう受け入れる,なぜなら,それが我々の身の丈だから,そういう民意を醸造するしかないのではないでしょうか。
省エネの技術は重要です。しかし,削減された電気が,別の用途に使われ,より便利で豊かな生活に費やされる仕組みが改まらないと,根本解決にならないことも,我々はまた知るべきでしょう。
新幹線は,昔に比べて随分少ない電力で走るようになりました。しかし,以前よりもずっとずっと本数も増えました。人の移動が増えたからです。人の移動を制限しますか?経済活動を抑えないといけませんね。それもやっぱり我々の身の丈を越えたところの話だった,ということなのでしょうか。
難しい話です。