エントリー

カテゴリー「ふと思うこと」の検索結果は以下のとおりです。

MacBook NEO雑感

 Appleが新しい商品を出すと,ワラワラ出てくるMac系のライターたちの記事。

 中身のある記事もありますが,かつての栄光はどこへやらという中身のないベテランの記事に辟易したり,あまりにAppleに傾倒するあまり欠点が利点に変わる魔法を発動する人に失笑を禁じ得なかったりと,なんというか同じタイミングでこの道30年のベテランが同じネタが被るなんてのは,恥ずかしくてやってられないと思うんです。

 愚痴はこのくらいにして,先日予測した低価格MacBook,予測の翌日に出ました。予測は肝心な価格が外れていて,故に製品そのものの位置付けやコンセプトも外してしまいました。

 反省を込めて,雑感を。

 まず価格は999ドルではなく,799ドルと200ドルも下げてきました。日本円で10万円を切ります。これだとさすがに存在価値はありますし,しかもA18というプロセッサがかつてのM1以上のパフォーマンスを持つとわかったところで,その存在価値は十分過ぎると思います。

 A18からくる制限・・・メモリは8MBのみ,ThunderboltではなくUSB3.2,しかも2つあるUSB-typeCのうち1つはUSB2.0,6コアゆえ高負荷に弱いなど,やっぱり厳しいなあと思う所もあるわけですが,ベテランライターたちが言うように,確かにメールやWEBブラウズなら問題ないでしょう。

 ん?メールやWEBブラウズなんて,Macでやるのか?

 Macは創造のマシンです。この世にないものを創る道具である以上,このスペックはちょっと厳しいんではないかと思います。

 そこはやはりA18ではなく,M1,いや最低でもM2を搭載してくれればよかったのにと思います。M1やM2のMは,おそらくMacのMなのです。

 昨今の円安やAirの高級化のせいで低価格のMacがなくなったことに対する対策というのはわかります。しかし,低価格のMacがカバーするエリアはiPadとiPhoneが担うという戦略を進めてきたのは,Apple自身ではなかったか?

 また,それをさも見て来たかのように宣ったのが,先のベテランライターたちではなかったか?

 つまり,Appleの方針転換なのです。(あるいはベテランライターたちの読み間違い)

 ただ,Airの高級化がMシリーズのせいで急激に進んだこともあり,従来Airでカバー出来た下位のエリアを取りこぼすようになってきたのは事実です。Surfaceも売れていないと言いますし,iPadでカバーするのは難しく,ゆえに低価格ノートPCを頼るという方針転換は,ひょっとしたら仕方がない事なのかも知れません。

 10万円を切る下位モデルでは,Touch IDが非搭載です。指先一つでログイン出来たりアプリをインストール出来たりする便利さは大きく,これがないことはかなり不便でしょう。中にはApple Watchを持っていれば関係ないなどという人もいるようですが,10万円のMacを選ぶ人がApple Watchを買いますかね?

 キーボードのバックライトは,普段はそのありがたみを感じることはない人もいるでしょう。しかし,実際に困るような状況で初めてそのありがたみに気が付くもので,このバックライトこそそんな機能の1つだと思います。

 ある記事によれば,NEOのメイン基板はわずか19cm x 3cmだそうです。これだと確かに安くなると思いますが,定評あるタッチパッドをグレードダウンしたことも含めて,私はこのMacBook NEOを手放しに褒めることは出来ません。

 ならどんなマシンだったら良かったのか,ですけど,個人的にはAirには元々エントリーモデルという役割は与えられておらず,持ち運び(とデザイン性)に特化した,性能や価格とは別枠の特殊なモデルだった事を考えると,Airの役割を再定義した今回の方向性は正しいとは思います。

 で,初代iBook(クラムシェル含む)がエントリーモデル,あるいは学生向けモデルという役割を担っていたことから,NEOは無印のMacBookとしてAirよりも少し小さく,12インチ程度にして持ち運びを考慮したモデルにして欲しかったなあと思います。

 私の中学生の娘はMacBook Air13 M1,2020を使っていますが,やっぱり重たいらしいです。なので,アルミボディにこだわらず,ちょっと分厚くなってもいいから軽いモデル,そして堅牢なモデルであって欲しかったと思います。

 プロセッサはA18でもいいですが,価格差が少ないならM1かM2にして欲しかったです。でも,メモリは8GB,256GBのSSDで十分でしょう。

 実のところ,ユニボディは金型で成型するのではないので,プラスチックの筐体と違い量産しても,あるいは金型代の償却が済んだ古い筐体を再利用することも,コストを引き下げる材料には出来ないでしょう。

 であれば,iPhone17で使った冷間鍛造ユニボディを使い,金型で成型して小さめの筐体を作るというのはありだったかも知れません。これで一気に数を作り,価格を下げるのです。

 まあ,勝手な妄想をしていますが,10万円を切るとさすがにインパクトが大きいです。問題はなにを引き算したかですが,私の目には余計な物を残し,必要な物を引いたように見えています。特に大きさと重さです。ここにはこだわって欲しかったです。

 NEOの処理能力は実は結構すごくて,音楽系のソフトも問題なく動くというレポートも見ました。うーん,それなら十分なのかもなあ。

新しいMacBookAirは高級機になった

 新しいMacBookAirが発表になりました。

 CPUがM4からM5になり,内蔵SSDが256GBから512GBになって,価格は20000円アップの184800円です。2020年のM1のMacBookAirは104800円だったのに,6年でこんなに値上がりするなんて,恐ろしいことだなと思います。

 本国でも999ドルから1099ドルに値上げになっていますが,円安で2万円アップですから,ちょっと厳しいなと思います。

 私は昨年秋にM4のMacBookAirを買っていますが,SSDが512GB欲しかったこととUSキーボードが欲しかったことで,194800円のモデルを選びました。ということは,むしろ値下げになったということで,ちょっと悔しい想いをしています。

 まあ,ポイントで実質価格は同じくらいになっていますし,M4とはいえGPUは10コアですのでまだ納得もできますが,メモリの速度も120GB/sから153GB/sに高速化,SSDは2倍も速いと言うことで,着実に足腰を鍛えていますし,なによりM5という最新のCPUを備えて,さらに1年の世代差があるということは,やっぱり悔しいと思います。

 もし昨年秋にMacBookAirを買っていなかったら,USキーボードモデルを予約して買っただろうと思います。その場合,M1のMacBookAirの下取り価格が随分下がっているでしょうから,トータルでは損をしたことになるだろうと思うので,やっぱり今の選択は,これはこれで正当性があるなあと思っています。

 こういう話はきりがありません。早く買った人はそれだけ処理速度が上がって時間的に得をしていますし,後で買えばそれだけ新しい技術が手に入ります。(ただし技術的に進歩している製品やメーカーに限りますが)

 当然の話ですが,今のところM4のMacBookAirに不満はありません。

 しかし,MacBookAirのスタート価格が19万円近くというのは,また随分高級モデルになったものだと思います。一声10万円で,抜群の性能と値頃感を備えたエントリーモデルだったのに,これだと価格相応のプレミアムモデルですよね。Airも出世したものです。

 それでもまあ,いろいろ値上げの要因があるなかで,その値段差をカバー出来るような機能アップをしてくるあたり,Appleの良心を感じる事はできるのですが・・・

 その,エントリー層の受け皿として,安価なMacBookが出るという噂があります。800ドルほどになるという話もあるのですが,その場合単純に計算すると135000円くらいになりそうです。

 2020年のMacBookAirの話をしても仕方がありませんが,MシリーズではないCPUのMacを,こんな値段で買うことが特かどうかは,ちょっと考えないといけないなと思います。大昔,同じ68030を搭載したMacでも,安価なClassicIIなんかは本当に遅くて話になりませんでした。あれくらいわかりやすい性能差があるなら無論ですが,そうでない場合でも,なにを妥協したのかを見極める必要はあるでしょう。

私の助手席自動車列伝

 私の父は典型的な団塊の世代で,昭和の価値観を持つ人でした。この歳になって冷静に思うのは,地主の次男坊に生まれ,病弱で甘やかされて育ち,家を継ぐことも考えず,したい放題が許されて育った故の,自分に甘いわがままな,実にみっともない人だったと思います。

 一方で母は雪国で育った地元の名士の娘で,気位の高さと賢さを備えた人ではありましたが,これもまた自分に甘い人だったので,最初から上手くいくはずがない組み合わせだったのかなと思います。

 父は当時の男としては多趣味な人で,どれもセミプロ級だったとは思います。私のようにインドアでもなかったので,野球にゴルフに釣りにと元気でしたし,模型作りもDIYも料理も上手で,高卒の割には博学だったりして,私は大人になると何でも上手になるんだと勘違いをして育ちました。

 そんな父の楽しみの1つが自動車です。なんとまあお金のかかる趣味だことと呆れるばかりですが,当時はモータリゼーションの勃興期であり,次々に新しい技術を搭載した自動車が登場し,4年に一度のモデルチェンジで乗り換えるのが普通だった時代です。

 父はモータースポーツには興味はなく,また二輪車にも関心はありません。スーパーカーや厳つい車よりも,自分の眼で見て気に入った自動車を選ぶ傾向があったようです。

 小学校にあがって友人と親が乗っている自動車について話をすると,どうも父の自動車の乗り換え頻度は多かったようで,ちょっと珍しい自動車が年に一度くらいの割合でやってくる我が家の状況を,私は密かに得意に思っていました。

 普通の中流家庭だった父がそんなに頻繁に買い換えが出来るというのも,経済的におかしな話だったのですが,父に話を聞いてみると,いわゆるリセールバリューの高い車を丁寧に乗り,価値が下がらないうちに売却し,僅かな追い金で新しい車を手に入れるという仕組みだったみたいです。

 とはいえ,まとまったお金が必要になったのは事実であり,どうやって家計を回していたのかと,今でも不思議でなりません。

 父の自動車遍歴はこの当時としてはなかなかマニアックで,話のネタとしては面白いわけですが,こうした事情もあり根本的なところで肯定的な気分にはなりません。

 ただ,小さい頃からメカ好きな私は,父の自動車の助手席に喜んで乗ったばかりか,週末の洗車やワックスがけ,ちょっとしたメンテナンスも手伝っていて,そんな自動車をまるでオーナーのように間近に触れる経験をしてきたのでした。

 今それらの自動車に乗ろうと思うと大変な手間がかかるわけで,なかなか貴重な経験をしたなと思います。当時の事を書いた本や写真を見ると,懐かしいという気持ちと共に,忘れないうちに書いておこうと思いました。

 ということで,私が(助手席に)乗ったことのある自動車列伝です。


・BMW2002ti

 私の記憶の中で最も古いもので,もはや色も覚えていないのですが,時期的にこれだろうと思うのがBMW2002tiです。小学校に上がる前の話ですので,間違っている可能性も多いです。

 覚えているのは,2ドアであったこと,ビニールのようなペラペラなシートであったこと,丸いテールランプであったこと,そしてホイールキャップがクロームメッキにBMWのエンブレムが入ったものであったこと,ドアハンドルがプッシュ式だったことです。

 どんな乗り味だったかは覚えていませんし,そもそも助手席があったはずの右側に乗っていた記憶も薄いのですが,父もかつて乗っていたと言っていますので,たぶんこのあたりのBMWでしょう。

 私が全く知らない話として,父はあの2000CSにも乗っていたそうです。トランスミッションの歯が欠けてロックし,ギアがフロアから突き出したという事故があり,怖くて手放したと言ってましたが,今ほどBMWが大きくなく,少し前には経営危機でベンツに買収されるかもといわれた時代であった当時に,なぜそこまでBMWが好きだったのかは不思議だなと思います。


・BMW320i(E21) 1982年ごろ

 これは良く覚えています。レモンイエローの2ドアで,乗り降りが面倒だと母は良くこぼしていました。

 子供心に格好いいなあと思った自動車で,もちろん左ハンドルでしたから,高速道路の支払いは私の役目でした。

 明らかに国産車とは違っていたのは,センターコンソールが運転席に向けて湾曲していたことで,ドライバーが主役の自動車であることを強烈に印象づけました。

 ドイツ車らしい重厚さや実直さも印象的でしたし,乗り心地も当時の国産車のようにふにゃふにゃではなく,特に高速道路でのしっかりした走りもあって,子どもの頃に乗った自動車の中では一番良い印象が残っています。

 180km/hを越えた速度計と速度警告音が鳴らないことは,この車が「外車」であることを物語っていて,このあたりも当時の自慢話の1つだったことを覚えています。今思えば高速道路でのエンジンの音はなかなか良かったなあ。

 ヒンジが前にある,逆アリゲータのボンネットも良く覚えていて,当時の国産車によく見られた丸いエアフィルター(ストロンバーグ式のキャブレター)がなく,スッキリとしたエンジンルームでした。

 加えて,父はこの時カーオーディオにも凝っていて,クラリオンのコンポを組み込んでいました。プリアンプとパワーアンプが分かれており,マルチアンプ構成でした。ただ,それで聴いていた音楽が演歌だったのは,ちょっと理解出来ません。

 正確な記憶ではないのですが,たしかパワーウィンドウを装備していたように思います。記憶にあるのは,その前に乗っていたBMWは手回しだったことと,ひょっとしたら三角窓もあったんじゃないかと思うのですが,それに比べてこの320iはなんと先進的だと感じた記憶があります。

 そうそう,ラジエータを繋ぐ15cm程のゴムパイプが破れたらしく,交換にえらい時間とお金がかかったと私に愚痴っていたことや,日曜日に家族で昼食に出かけた帰り,突然エンジンが止まって立ち往生して,母と弟はあきらめて歩いて帰ったのを私は父と一緒に修理に付き合い,私がヒューズを疑ってみたらと何気なく言ったことをきっかけに,本当にヒューズの交換で直ったことや,ボンネットのBMWのエンブレムを盗まれた話,キドニーグリルがどうしても豚鼻に見えたことなど,当時の記憶がたくさんあります。それだけお気に入りの自動車だったのだと思います。


・アクディ クーペ(B2) 1980年ごろ

 BMW320iよりも前だと思うのですが,一時期アウディに乗っていました。叔父が大学生の時に我が家に下宿していたのですが,その叔父と一緒に洗車を手伝った記憶があるので,時期的にも正しいと思います。

 父に,この車はなんという名前だと聞いた時,返ってきたのが「クーペ」でした。何せ初めて聞く単語ですからクーペという固有名詞と思っていたのですが,後に2ドアのボディの一般名詞だと知って,オヤジもたいしたことないなと思っていました。

 ですが先日,B2系のアウディ80の派生モデルとして,本当にクーペという名称で正規輸入されていたことを知り,父が正しかったことを知ったのでした。

 フロントの4つの輪が,オリンピックマークの偽物のように見えて,どうもパチモノくさい印象があったこのアウディですが,父もそれほど気に入ったわけでもなかったようで,短期間で我々の目の前から姿を消してしまいました。


・スカイライン2000ターボRS(DR30) 1983年ごろ

 BMWから,突然赤と黒のツートンカラーを纏った国産車に変わったことはなかなかショックな事件でした。

 ようやく排ガス規制の暗黒時代を乗り越えた国産車が,DOHCだのターボだのとパワー競走に走った時代のスカイラインです。

 父が言うには,もともと試乗車で破格の値段で売ってもらったと言ってました。毎週西部警察を見ていた父ですし,もともと日産車のファンでもあったので,久々のDOHC搭載のホットモデルに,いてもたってもいられなかったのでしょう。

 RSターボと言えば鉄仮面で知られる後期型が有名ですが,うちに来たのは前期型でした。個人的には6代目のフロントデザインは嫌いではないので,もし今RSターボを探すとしても,やっぱり前期型を選ぶと思います。

 赤と黒で塗り分けられたデザインも,ちょっと他に見ない精悍さを放っていましたし,それまでのスカイラインに比べて圧倒的にリアが格好良かったと思いました。テールランプは点灯すれば丸形ですが,四角くコンビネーションされていたのが斬新でした。

 運転席も80年代らしくボクシーで,メーターの初期位置が水平だったことも格好いいと思いましたし,エンジンもヘッドカバーが赤く塗装されていて,特別であることを主張していたように思います。(ヘッドカバーの形をしたキーホルダーがうちにいくつもありました。ノベルティだと思いますが,とっておけばよかったと思います。)

 走りは,ターボが効いてからの加速が強烈で,シートに沈み込むような感覚がありました。1980年代らしい,いわゆるドッカンターボというやつです。ただ,そんな急加速をする父もどうかと思いますし,ターボが効き始めるまでの時間の無力感が際立った当時のターボに,一体何を求めていたんだろうと思います。

 私には面白かったこのスカイラインでしたが,当時の国産車の常として,ふにゃふにゃの足回りに剛性感のないボディで,乗り心地は良くありませんでした。だから,後部座席に押し込まれた母と弟はすぐに酔ってしまい,乗り降りが面倒だったこともありとにかく不評だったようです。

 私の勝手な予想に反し,このスカイラインは短い期間で手放されることになります。理由を尋ねると,ブレーキが甘くて怖かった,加速性能に追いついていないから,といっていました。

 ボディやブレーキに目が向きにくかった,当時の国産車の傾向がよく分かる話です。


・グロリア2000ハードトップジャックニクラスバージョン(430) 1983年ごろ

 ドッカンターボと言われたスカイラインRSターボの後にやってきたのが,グロリアでした。430系ですのでエンジンはL20で,ターボとの組み合わせであの大きな車体を無理に引っ張っていた印象があります。

 ようやく4ドアになり,母も弟も喜んでいたのですが,なにより大きな車でしたのでゆったりできたことを覚えています。

 ジャックニクラスバージョンという,なんとも格好の悪い名前のモデルだったのですが,渋いツートンカラーにサンルーフ,オートエアコンとなかなかの贅沢装備で,これまでになく快適でした。

 個人的には,L20という6気筒エンジンを収めたエンジンルームが堂々としていて,ノーズの長い自動車に格好の良さを感じていました。トランクの鍵穴が隠れる仕組みも高級車だなと思わせましたし,走り出すとロックがかかるオートロックも先進的だと思いました。

 ただ,乗り心地は悪くて,とにかくふわふわと揺れました。スカイラインのMTからATになったのですが,走りも緩慢で面白味に欠いていて,キビキビとした楽しさがなかったことを覚えています。


・セドリック2000ブロアムVIP(Y30) 1985年ごろ

 430のグロリアが,ある時突然真っ白なセドリックに変わっていたから,驚きました。以前のグロリアよりもボクシーになり,ノーズも短くなって伸びやかさがなくなったデザインは私の好みではなかったのですが,父が自慢げに言うには,日本発のV型6気筒であることと,タイムラグをなくした新しいターボを装備していることでした。

 VG20ETと名付けられたこのV型6気筒エンジンは確かに画期的だったのですが,そのせいかノーズが短くなったのは高級車としてどうなんだと今にして思いますが,このエンジンがこの後しばらく日産を支える名エンジンになることを,当時の私は知るよしもありません。

 ジェットターボと名付けられた新しいターボは,タイムラグを小さくすることで,急激な加速よりも運転のしやすさを目指したもので,ターボと聞いてあの加速を楽しみにしていた私は,ノロノロとした加速にがっかりしたものです。

 調べてみるとY30のセドリックって1.5tもあったんですね。ジェットターボ搭載のVG20ETは180psだったそうで,おそらくそんなに非力な感じはなかったんじゃないかと思うのですが,スカイラインRSターボの印象が強く,お行儀の良いVG20ETにがっかりしたんだと思います。

 80年代の王道を行く高級車らしく,装備は充実していて,ステアリングの中央部が一緒に回転せず,スイッチだらけになっているのも初めて見ました。たぶんオートクルーズも搭載していたんじゃないかと思います。


・BMW325i(E30) 1986年ごろ

 セドリックの後にやってきたのが再びBMWの325iでした。今度は白でかつての320iよりはおとなしく,またキドニーグリルも角張ってしまったので,外観は好みに合いませんでした。

 しかし,乗ってみるとそれはもうBMWです。ドライバーに向いたセンターコンソールを見て,BMWのポリシーが変わっていないことにホッとしましたし,相変わらず180km/hを越えて刻まれた速度計にも,ヨーロッパの自動車の頼もしさを感じていました。

 2.5Lのエンジンにはさすがに余裕がありましたが,しっかりとした剛性感や乗り心地にはかつてのBMWの印象がそのまま合致し,いい車だなと思わせるものがありました。

 ただ,この頃になると家族でどこかに出かけることが少なくなり,私も助手席で乗り味を愉しむことは少なくなりました。


メルセデスベンツ300SE(W126) 1987年頃

 とうとう我が家にベンツが来ました。世の中はバブルで,これまでにないくらいベンツが日本に入ってきていて,程度の良い中古車が父のような庶民にも行き渡ったということでしょう。

 私にとってもベンツは初めて乗る車です。私も含めて怖い人が乗る最上級車か,小ベンツと揶揄された小さいベンツしか見た事がないわけで,この300SEというグレードのベンツがどんなものか,私には全く分かっていませんでした。

 家族での移動はほとんどなくなっていた時期でしたが,この時は母方の祖父が手術中に急死するという事件があり,急遽父が私と弟を連れて,このベンツで母の実家に急ぐことになり,期せずして高速道路での長距離ドライブを経験することになったのでした。

 その体験はまさに感動的でした。圧倒的な安定感,疲れることを知らない乗り心地,キビキビとした加速と減速,高速走行でも全く怖さを感じないのです。

 義理の父の急死ということで,父も焦っていたと思うのですが,ほぼ休憩無しで走り続けましたが全く疲れることなく,ここには書けないほどの速度を出しながらも,体感では100km/h未満かと思ったことなど,ベンツの神髄を見た気がしました。

 あれこれと文字を書いていないシンプルなインテリアもドイツ車らしくて素晴らしく,木目の高級感もやはりベンツらしい贅沢感がありましたが,いざ踏み込めばグイグイと加速し,あっという間に国産車が後ろにいます。しかし,フラフラすることもなく,どこまでもまっすぐ走っていく安心感が助手席でも味わえます。

 DOHCでもなくターボでもない,先進の装備もないし,特別流麗なデザインでもなく,目立つのは厳ついベンツマスクで,独特の威圧感がある車ですが,自動車としての本質は今もって最高水準にあるといってよいでしょう。

 ところでこの当時,父が気になる事を言っていました。この300SEには,500SEというエンブレムがついていましたが,これは嘘で本当は300SEだと。そういう話がまかり通ることにベンツの胡散臭さを感じたものですが,今調べると500SEだとエンジンはV8で,これはさすがに庶民が持つ物ではありません。

 私の記憶が正しければ,この車は右ハンドルでした。W126の右ハンドルは300SEにしか用意されなかったそうですので,やはり300SEが正しいのではないかと思います。

 私がこれまでに乗った車で最上のものが,このW126でした。今後もこれを上回る車に出会うことはないと思います。


 このあと私と父は疎遠になり,私も父を避けるようになりましたし,父も我々家族を相手にしなくなりました。私は免許を取り,自分自身が運転する車に夢中でしたから,その頃意向の父の車のことは,全く記憶にありません。

 ベンツのセダンはこの後ちらっと見た記憶があるのですが,残念ながら車種を覚えていません。また,見た事はないのですがSL500に乗っていたという話も本人から聞きました。


 また,ここにあげた車以外にも,ジャガー,マスタングに乗った記憶があります。ただ時期も車種もわかりませんし,印象もほとんど残っていないので,詳しく書くことをやめました。

 そうそう,BMW320iの前後に,318iに乗っていた時期もあったと思います。とはいえ,それほど320iとの違いも分からず,あまり記憶に残っていないばかりか,本当に318iだったのかも定かではありません。

 国産車についても,スカイラインとグロリア/セドリック以外に,ローレルやクラウンに乗っていたことも覚えていますが,これは代車だったみたいですし,父の好みでもなかったのではないと思います。

 私が生まれるずっと前には,110サニーや510ブルーバードSSSに乗っていた(ブルーバードは新車だったらしい)ので,随分といいご身分だったんだなと思います。

 父とはいろいろあって複雑な気持ちがあって,そのせいか自動車についても当時の名車に助手席とは言え乗る機会に恵まれたことを肯定したい気分と否定したい気分の2つがせめぎ合っています。同じように,自動車が好きな自分と嫌いな自分が私の中にいて,自動車を所有することの面倒臭さがその利便性を上回る現実と微妙に重なっています。純粋に自動車のことが好きになれないのは,そういうことなのでしょう。

 

キヤノンPIXUS PRO-100はいつまで動いてくれるのか

 うちには写真印刷用のプリンタとして,キヤノンのPRO-100があります。

 調べてみると2014年の5月末に4万円半ばで購入しているということですので,もう10年以上使っています。我ながらすごい。

 これに,2022年の生産終了を受け,今や伝説となっている富士フイルムの画彩写真用紙proという印刷用紙を組み合わせるのが私にとってのベストで,よく使うKGサイズを買いだめて今も使っています。

 とはいえ,以前とは違ってそんなに頻繁に印刷をすることもなくなり,今は年賀状の印刷(今どき年賀状というのもすごいですが)で年に一度12月にまとめて印刷というのが定着しました。

 しかしここ数年,さすがにPRO-100のノズルが詰まってしまい,印刷が出来ない状態が起きています。

 いや,最終的には詰まりも解消して印刷を終えて年を越すのですが,この時の対応策が年々大変になっていくのです。最初は詰まったノズルが数個に過ぎず,クリーニングを数回やればテストプリントで問題がなかったものが,今ではすべてのノズルが詰まってテストプリントは白紙で出てきますし,クリーニングだって何度繰り返しても半分くらいのノズルが開通する程度です。

 もちろんこれでは印刷に使えませんから,すべてのノズルを開通させる必要があるわけですが,3年ほど前からはヘッドを取り出しアルコールでゴシゴシ擦らないとだめになりましたし,今年はとうとうインク吸込み口に直接アルコールを流し込まないとだめになりました。

 そういえば数年前はヘッドと本体の接触不良で全滅というのがありました。この時は接点をアルコールで磨いて難を逃れたのでした。

 そうやってその場しのぎでなんとかしてきたのですが,今年は特に絶望的で,いよいよだめかと思うほど時間がかかりました。クリーニングの回数も数え切れないほどで,最後まで開通しなかったブラックについては,全くインクが減らない状態でインクカートリッジの交換が必要になってしまうほどでした。

 これにはちょっと説明が必要です。PRO-100のインクカートリッジは,実際のインクの残存量を調べるのではなく,インクの排出回数をカウントすることで交換のアラームを出します。ですので,今回のようにインクが詰まっていてインクがカートリッジに残っていても,クリーニングを繰り返すとインクを交換しないといけないわけです。

 これを使えるようにするのはリセッターが必要になりますが,そんなことまでやってられませんし,実は期限切れのインクだったりするので,もったいないですが捨てざるを得ませんでした。

 ある色が完全に出ていない状態だと,インクが詰まったと言う原因ではなく,ヘッドが壊れたとか制御回路が壊れたとか,他の要因も考えられるのですが,少しでも出てくれれば望みが出てきます。特にPRO-100についてはブラックやグレーと言った黒系のインクで詰まりやすいようですから,もったいないとか言ってないで,とにかくつまりを解消するしかありません。

 時間はかかるしゴミ箱に次々に捨てられるインクカートリッジにめまいがしますが,これを防ぐには月に一度くらいのテスト印刷を行う,特にインクが固まりにくい温かいときにやっておくのが良さそうです。昨年は一度も動かす事なく,丸1年放置していましたから,こんなにひどい事になったのだと思います。

 しかし,BCI-43というPRO-100用のインクカートリッジも,そろそろ生産終了の足音が聞こえてきますし,廃インクタンクの問題もあるので,買い換えを検討しないといけません。

 順当に行けばPRO-100の後継であるプロもしくはハイアマチュア用の写真プリンタから選ぶ事になるのですが,PRO-100を実際に使ってみて,さすがにここまでやらんでもよかったなと思う事もありました。

 まず,A3ノビまでは必要ありませんでした。4つ切りを印刷するにはA3ノビが必要ですが,実際には六つ切りやA4がいいところです。一番印刷したのはハガキサイズでしたから,どう考えてもオーバースペックでした。

 なら,同じインクを使ったA4モデルがあるといいのですが,少なくとも現時点で写真印刷に特化したA4モデルはキヤノンにはないようです。

 そうなってくると,複合機で左心印刷に強いモデルから選ぶ事になるのですが,それがどのくらいの画質を備えているのか不明ですし,それに印刷ソフトの問題もあります。PRO-100はPrint Studio Proという良く出来た印刷ソフトがあり,Lightroomからこれを呼び出して印刷することで,高画質な印刷が可能になっています。

 複合機はPrint Studio Proから印刷出来ませんし,そうなるとLightroomから直接印刷することになりますが,その場合のカラーマッチングはどうするか,そもそも私の古いLightroom6で印刷出来るのかなど,難しい問題を解決しないといけません。

 これをきっかけにLightroomもサブスクリプションに移行し,写真編集もMacBookAirで行うようにすればすべて綺麗に解決しそうですが,作業効率を除けば古いMacに古いOS,古いLightroomで十分に自分の意思を込めた写真印刷が出来ているので,大金をかけてシステムを総入れ替えするだけのモチベーションが沸いてきません。

 そのうち娘も撮られるのを嫌がるようになるでしょうし,そうなるともう写真を撮ることすら減っていくことになるでしょう。このまま延命をするのが一番だという結論にいつも達して,そうやって年を越すことになるわけです。
 
 今年もそんな感じで年末になりました。一番先に壊れるのは,やはりメカもののプリンタでしょう。ハガキサイズばかりでとはいえ4300枚の印刷を行った老兵は,もういつ止まってもおかしくありません。

 自宅で写真の印刷を行うと言うこと自体,大昔は考えられない事でしたし,それが30年ほど前に現実的に可能になり,私も良い時代になったものだと思ったものですが,年賀状の衰退と高コスト,そして写真印刷がコンビニで出来るようになって,自宅での印刷は風前の灯火となりました。

 当然プリンタの新機種も以前より出なくなりますし,たくさんあった高性能な写真用紙も入手が難しくなっていきます。どこでも買えたインクカートリッジは通販でしか買えなくなり,それもいずれ生産中止になります。

 こうして年々状況が悪くなる未来を当時の私が知るはずもなく,この分野に限らずあらゆる事で「今日より明日が悪くなる」ということが起きている事は,とても寂しいと同時に受け入れなければならない現実として,私に重くのしかかっています。

 ここに至って,とにかく延命です。そしていよいよダメになってしまったときには,もう悪あがきせずスッパリあきらめることも,必要になると思います。

 ここで改めて,便利な生活というのは,誰かがそれを実現してくれているからだと痛感するわけです。

 この先,どうなるのかなあ・・・

中学受験というものを実際に済ませて思うこと

 さて,先日書きましたように,うちは娘に中学受験に挑んでもらいました。

 はじめに,いつから始めるか,どうやって始めるか,です。

 この2つは別の軸であるように思えて,実は互いにかみ合った歯車のような関係にあります。もし,人に頼らず自分たちだけで出来るなら,いつ始めてもよいでしょうが,現実的にはそれは難しく,誰かに頼むなり,どこかに所属することが必要になります。

 ここでいう頼むというのは,言うまでもなく受験用の勉強です。学校の勉強だけで受験が出来る程甘い世界ではありませんし,学校の勉強以外に必要な学習を自分だけでこなすことは不可能でしょう。

 近年,中学受験に挑む人が増えています。受け皿となる学校が増えているわけではありませんから,どうしてもそこに競争が発生します。「普通」では負ける,それが実体です。

 普通から一歩前に出るためには,普通の人に出来ない事が出来るようにならなければならないです。それは,いわゆる学習塾に通うなり,家庭教師を付けるなりといった「余計な学習」が必要となることを意味します。

 そうすると自ずと「いつから」という話が浮上します。あまり早くから取りかかっても効果は薄いですし,お金もかかります。本人も遊びたい盛りですので,くじけてしまうでしょう,

 さりとて,遅いと受験に間に合わなくなります。受験のために必要な知識を学習する時期というのがあり,そこを外すと以後の学習が出来ません。

 さらにいうと,塾によっては定員に達して入塾出来ないケースもあります。こういうところでもすでに競争が始まっているわけです。

 受験までの時間があるほど,学習にゆとりも生まれますし,方向を修正するチャンスにも恵まれます。何事も時間的な余裕がないと失敗する可能性は増えるものです。

 うちは,大手の塾に通ってもらう事にしました。嫁さんが主に選定を行ったのですが,私個人が考えたのは3つの点です。

 1つは家の近所にあることです。数年間通うことになる塾ですから,電車に乗ってとか,片道30分かかるとか,そういう通うための壁があると,それでくじけてしまいます。長く続ける事だからこそ,無理なく持続できることが一番大切です。

 雨の日も風の日も,暑い日も寒い日も通ったという実績は,なにかをコツコツと成し遂げることへの自身に繋がります。遠かったから,時間がかかるからという理由で遅刻したり休んだりするようなことでは,結局成し遂げたことにはなりません。

 次に宿題が多いこと。塾によっては宿題は少なく,授業をみっちりやるところもあるようです。本人の自主性に任せているということで,それはとても美しい言葉なのですが,考えてみると相手は小学校の3,4年生です。目の前にあるものが面白く,1時間後のことなど気にならない,そんな子どもが自分で勉強出来ないのは当たり前です。

 やらなければならないからやる,そういう強制力がないとやろうとしませんし,我々親もやらせようとはしません。勉強なんかやりたくないに決まっています。だから,宿題だけはやろう,それ以外はやらんでいい,というルールを作った上で,宿題がしっかり出ているところ,そしてその宿題をちゃんとチェックすることを選びました。

 次に変に競争心を煽るような所も避けました。順位が出るのは結構です。しかし,席順を変えること,短いスパンでクラスを入れ替える事は,頑張って結果を出した人に対する報償として機能する一方で,誰かへのペナルティとしても機能します。

 単純な数字の比較が,その子どもの人としての有り様まで決めてしまうくらい,悩んでしまうかも知れません。大人と違って子どもは,そんなに離れた場所のことも,そんなに遠い未来のことも,見えないものです。

 私自身は,小学校のうちは競争ではなく,楽しんでで和気藹々と勉強すべきと思います。もちろん,結果はシビアですし,順位も出ます。でもそれはあくまで結果であって,それを利用して競争心を煽るような仕組みは,本来自分の仲間である友達を,排除すべき敵と短絡的にとらえてしまうことに繋がります。

 共に闘う仲間として,成績のいい人に素直憧れること,私は小学生のうちはこれが大切なんじゃないかと思います。

 そんなわけで,うちは近所にある大手の受験塾に小学3年生の春休みから通うことにしました。本格的には4年生からですが,ピアノは4年生の途中から続ける事を断念して,その後は塾だけに通ってもらいました。

 最初のうちは授業数も少なく,宿題も大した事はなかったのですが,5年生にもなるとさすがに週3回,17時から21時前までみっちり授業がありました。授業があるということは,その時に新しい宿題が出るという事で,ようやく片付いたと思った宿題がすぐにリセットされてしまうという,終わりのない借金地獄のようになってしまう事に,くじけてしまいそうでした。

 しかしその宿題がどんどん難しくなっていきます。授業を聞き漏らしてしまうとアウトなのは当然として,授業では説明しないことも増えますし,解答や解説を読んでも分からない事が出てきます。そうなると貴重な時間がどんどん減っていき,タダでさえ足りない時間が融けていって,徹夜になることもしばしばです。

 しかし,ここで諦めることを許してしまうと,もう「せめて宿題だけは」という縛りに意味がなくなってしまいます。だから,宿題については何が何でもやり遂げるという姿勢を崩さないようにしていました。

 あと,その宿題についても,勝手にやってもらうのではなく,一緒にやるように心がけました。うちは国語についてはなにも対策が必要ないほど出来たので本人に任せていましたが,算数は一人では先に進めず,歩が止まってしまったら背中を押す伴走者が必要でした。

 その算数ははっきりいって受験用のもので,先々の数学に繋がるようなものは私の感覚ではありません。受験算数などはその場しのぎに過ぎないと今でも思っていますが,将来の財産となるのは計算能力で,これはひたすら鍛えてもらいました。計算で時間がかかってしまうと,そこだけで時間切れになってしまいますから,算数が苦手な人ほど計算能力を鍛える必要があると思います。

 理科と社会については,中学はおろか大人になっても使い道のある本質的な学習だと感じたので,正攻法でみっちりやることにしました。

 理科にはコツがあって,言葉を覚えることと,結局比例で融けることの2つを信じてもらいました。手を変え品を変え,化学や物理の問題を作ってきますが,結局最後には比例で解ける問題ばかりです。正しく問題を読む力(すなわち国語力)を養い,それを最後に単純な四則演算に落とし込むという訓練で,苦手意識も消えてくれるはずです。

 社会は本当に役に立つ知識を学ぶチャンスで,中学校の勉強を先取りしています。やったことは全く無駄にはならず,しかも世の中で起きていることが見えるようになってくるという点で,学んだ瞬間から実生活の役に立ちます。

 最初は暗記が主になりますが,ある時期を過ぎるとその知識を使って問題を自分で解きほぐすことが求められるようになります。これこそ社会科の醍醐味。子どもによっては暗記は得意でも考えるのが苦手な場合があるそうですが,暗記したことがどうやって新しい価値を生むのかを知れば,暗記したことが多ければ多いほど問題が見えるようになり,問題見えるとより暗記することが面白くなるわけで,そうした相乗効果が出てくるまで,暗記を面倒くさがらせないようにリードすることが大事だと思いました。

 一緒に勉強をやっていて感じた事は,良く一般的に言われる子どもの知能の発達家庭が,まさにその通りに進んでいったことでした。

 単純な加算や減算の次は九九,そして割り算や分数と進むにつれ,目の前にあるものではなく頭の中にイメージして考える事が必要になります。そしてそれはやがて見えないものが見えるようになる力,抽象化という一報進んだ知能が求められるようになります。

 立体図形を頭の中に描くこと,隠れている面を想像すること,ある数列から規則性を見いだしてその先にある数字を予想すること,10分前の状況から1時間後の状態を想像することなど,時間と空間を行き来する能力が伸びるのは,まさに初学5年生くらいのことでした。

 同じ事は理科にも言えます。生物とか地学は見える者を相手にするので大丈夫なんですが,電気や磁気の分野は,見えないものを扱うのでわかるはずがありません。しかし,見えないものを見えるようにする工夫を学び,可視化が自然に出来るようになると,もう怖い物はありません。これも5年生位で出来るようになったと思います。

 社会も同様です。地理は実体を学ぶ者ですが,歴史は時間を越えたところで学ぶものですし,公民分野は社会制度という実体のないシステムを学ぶものです。これらを理解するにはやはり見えない物が見えるようにならねばならず,とても高度な脳の働きが必須です。

 そして,この抽象化や想像力こそ,国語の能力だと思います。そしてその国語の能力は,読書と会話が高めてくれます。

 手の届くところにいつも本があること,気が付いたら誰かが本を読んでいる姿を見ることで,文字を読むことが当たり前になります。そして,親がおしゃべりで,面白い会話が出来る事もプラスに働くと思います。

 そして,とにかく考えること。本当にそれだけ?もっと他に考えられない?理由はそれでいい?と,いろいろな角度から考える事を癖にしつつ,思ったことを口にすることを家族みんなでやっていくと,会話も弾みますし一石二鳥です。

 さて,塾の役割はもちろん授業による解法の学習と課題の設定ですが,もっと大切な事を私は期待していました。コンサルティングです。

 塾は良くも悪くも受験産業の担い手です。つまり受験というテーマに対するプロであり,それで収入を得ている専門家の集団です。私が回路設計の専門家であり,お医者さんが医学に関する専門家であるのと同様に,彼らは受験に関する専門家であって,同時に我々はその分野における素人です。

 素人が困った時に助けてもらうためには,専門家に相応の対価を支払う必要があります。受験においては塾がその専門家であり,塾の費用にはそのコンサルティングの代金が含まれていると考えています。

 面倒見の良い塾というのは,本人の学力向上はもちろんですが,保護者に対する支援も手厚いです。我々は初めて受験を経験するのですから,分からない事があって当たり前です。しかし,塾は毎年のことですから,我々が困ったケースは概ねこれまでに経験済みで,処方箋ももっているものです。

 分からない事をわかったふりをして済ませたり,わからないまま放置するのはもったいないです。分からない事は専門家に甘えて,ぜひ教えを請いましょう。わからないことがわからない場合でも,素直にそのことを伝えて不安を解消しましょう。

 こんなこと聞くのは失礼かな,こんなことはわからないかもな,と思う前に,先生に相談です。なーに,先生にしてみれば,毎年のことに過ぎず,よくあることの1つだったりするものです。

 校舎外で行われる模試はもちろん,頻繁に行われる確認のテストについても,すべて受けるべきだと思います。場慣れすることに近いと思いますが,公式なテストへの緊張感が適度に薄れますし,問題の傾向などのクセも,子どもなりにちゃんと見抜いてくれます。

 何事も習熟には練習が必要で,どんなことでも習熟度は練習量に比例するものですが,テストも同じです。

 通常の授業以外の講習会なども,出来れば参加しておきたいです。低学年ではしんどい思いをしてやる必要があるのかと迷う物ですが,そうやって迷った講習会への参加を,後で後悔することは結局ありませんでした。

 しかし,学校がおろそかになってはいけません。あくまで学校が第一であり,学校に優先して塾や受験に取り組むのは間違っていると本人にも理解してもらいました。実際には学校よりも優先せねば回らないこともあるのですが,それを当然と考えるのはなく,悪いことだと思いながらやることは,最低限必要なことだったと思います。

 振り返ってみると,多くの先生がおっしゃったように,小学校5年までに新しい事はすべて済ませてしまい,残りの1年は反復練習による定着だったと思います。もちろん新しい事もやりますし,複数の知識を組み合わせて解くことも練習しますが,多くの子どもにとっては,基礎はやってもやっても固まらない難攻不落の城だっただけに,しつこいほど反復練習をやった覚えがあります。

 反復練習はとても効き目があるのですが,一方で楽しくないし延びている実感を掴むまでに時間がかかるので,どうしてもくじけてしまいます。ですが,これは私自身の経験から,今やっている勉強の効果が出るのは3ヶ月後だと言い聞かせて,今すぐ効果が出なくても焦らず,毎日続ける事を徹底しました。

 すると3ヶ月後には結果が出てきます。我慢して続けておけば,そのずっと効果が出てきたまま本番を迎えることが出来る訳です。

 苦しいのは,結果が出始めるまでの3ヶ月間で,この木感は確かに暗闇を手探りで歩くようなものです。この方向で正しいのか,立ち止まった方がいいんじゃないいか,引き返すべきではと,いろいろ考えてしまうものです。

 ですが,やったらやっただけ前に必ず進むことを信じることで,この苦しい3ヶ月を乗り切る事ができると思っていました。そう,練習は裏切らない,という格言は,この3ヶ月を乗り切るために存在するのです。

 うちは幸い,成績が安定していました。受験校の決定も難しくはなく,本人の希望に添う形で計画を立て,受験に臨みました。それでも,第一志望は1回目に不合格でした。聞けば,やはり力を出し切れなかった様に思う,と言ってました。

 幸い2回目の受験で第一志望に合格出来たのですが,やるだけのことをきちんとやったという自信と,それを思い通りに発揮出来たという手応えが揃って,ようやく合格に至ったという感じがします。私は,受験は準備が8割と思っていましたが,やっぱり準備と本番が半分半分,そしてそれぞれで求められる力が違うということを,つくづく感じました。

 入学試験というのは,もちろん競争ですし,少ない椅子を巡って争う場です。学校にしてみればより優秀な生徒に来てもらうためのふるいですから,良い印象を持つことはあまりありません。特に受験者にとっては,嫌なものであるはずです。

 ですが,私が娘に言い続けたのは,これは先生と生徒の会話の道具だということです。もちろん学校によって違うのですが,娘が目指した学校は記述多く,部分展をしっかりくれる学校でしたから,これは自分を積極的にアピールして,私こそこの学校に相応しいと訴える場だと,考え方を変えてもらっていました。

 先生も,自分たちの学校に来て欲しい人を探して,わざわざ時間をかけて入学試験をやるわけです。先生からのメッセージを問題から読み解き,自分を受け入れて欲しいという意思表示を答案を通じて行うのが,入学試験です。

 もしかすると一生接点のないまま終わる相手かもしれません。顔を合わせたこともない相手との会話に意味があるかどうかもわかりませんが,それでもこういう形式で意思の疎通が行われる事って,楽しい事だと思うのです。

 だから,ぜひ本番を楽しんで欲しいと願っていました。結果は結果として,とにかく本番の試験を楽しんで,自分を精一杯わかってもらうことに全力で取り組んでもらえれば,それでもう受験の価値はあったと思っていました。

 最終的に,合格者はそういう先生たちのお眼鏡にかない,自分を十分に理解してもらえた人たちの集団となります。そうした集団で学ぶことが,どれほどワクワクすることか。私は娘が羨ましいです。そして若いときに,同じような意識で受験に臨みたかったとつくづく思います。

 春から,私の娘は自分を迎え入れてくれた学校で学びます。決して公立の中学校を悪く言うのではないのですが,何もせずとも自動的に入学することになる学校と,自分で目指し,そこに向けて頑張って,試験当日に戦線としっかりコミュニケーションをして,その結果入学を許されるということは,また別の価値があると思います。

 地域や世代によって中学受験に否定的な方がいらっしゃることも承知していますが,それはどこか,子どもの意思ではなく親の意識で行われているということへの批判があるんじゃないかと思います。そうした側面は多分にあり,私もそこには批判的ですが,一方で自らの希望と努力で自分の進む道を決めることの素晴らしさは,無条件に認めて良いのではとも思います。

 確かにお金も時間もかかります。熱意も途切れさせるわけにはいきません。公平性を欠いていることも事実でしょう。しかし一方で,それぞれに限られた資源を中学受験に割り振ったことは,そこに大きな価値を見いだした結果でもあるので,尊重されてもよいだろうと私は思います。

 少なくとも「お受験」などと茶化した言葉で,揶揄するようなことは,失礼なことだと思います。

 さて,中学受験を終えて,娘は今完全にだらけきっています。あの熱意,あの学習量はどうしたのかと思うほど,なにもしません。

 学校からの課題は最低限しかせず,人より少しだけ余計にやることで少し前に出ることが出来るという教訓などどこ吹く風,与えられたスマホを「唯一の楽しみ」と豪語して,日々小さな窓に向き合って暮らしています。

 どうしたものかなあ。

ページ移動

ユーティリティ

2026年03月

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

検索

エントリー検索フォーム
キーワード

ユーザー

新着画像

過去ログ

Feed