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中学受験というものを実際に済ませて思うこと

 さて,先日書きましたように,うちは娘に中学受験に挑んでもらいました。

 はじめに,いつから始めるか,どうやって始めるか,です。

 この2つは別の軸であるように思えて,実は互いにかみ合った歯車のような関係にあります。もし,人に頼らず自分たちだけで出来るなら,いつ始めてもよいでしょうが,現実的にはそれは難しく,誰かに頼むなり,どこかに所属することが必要になります。

 ここでいう頼むというのは,言うまでもなく受験用の勉強です。学校の勉強だけで受験が出来る程甘い世界ではありませんし,学校の勉強以外に必要な学習を自分だけでこなすことは不可能でしょう。

 近年,中学受験に挑む人が増えています。受け皿となる学校が増えているわけではありませんから,どうしてもそこに競争が発生します。「普通」では負ける,それが実体です。

 普通から一歩前に出るためには,普通の人に出来ない事が出来るようにならなければならないです。それは,いわゆる学習塾に通うなり,家庭教師を付けるなりといった「余計な学習」が必要となることを意味します。

 そうすると自ずと「いつから」という話が浮上します。あまり早くから取りかかっても効果は薄いですし,お金もかかります。本人も遊びたい盛りですので,くじけてしまうでしょう,

 さりとて,遅いと受験に間に合わなくなります。受験のために必要な知識を学習する時期というのがあり,そこを外すと以後の学習が出来ません。

 さらにいうと,塾によっては定員に達して入塾出来ないケースもあります。こういうところでもすでに競争が始まっているわけです。

 受験までの時間があるほど,学習にゆとりも生まれますし,方向を修正するチャンスにも恵まれます。何事も時間的な余裕がないと失敗する可能性は増えるものです。

 うちは,大手の塾に通ってもらう事にしました。嫁さんが主に選定を行ったのですが,私個人が考えたのは3つの点です。

 1つは家の近所にあることです。数年間通うことになる塾ですから,電車に乗ってとか,片道30分かかるとか,そういう通うための壁があると,それでくじけてしまいます。長く続ける事だからこそ,無理なく持続できることが一番大切です。

 雨の日も風の日も,暑い日も寒い日も通ったという実績は,なにかをコツコツと成し遂げることへの自身に繋がります。遠かったから,時間がかかるからという理由で遅刻したり休んだりするようなことでは,結局成し遂げたことにはなりません。

 次に宿題が多いこと。塾によっては宿題は少なく,授業をみっちりやるところもあるようです。本人の自主性に任せているということで,それはとても美しい言葉なのですが,考えてみると相手は小学校の3,4年生です。目の前にあるものが面白く,1時間後のことなど気にならない,そんな子どもが自分で勉強出来ないのは当たり前です。

 やらなければならないからやる,そういう強制力がないとやろうとしませんし,我々親もやらせようとはしません。勉強なんかやりたくないに決まっています。だから,宿題だけはやろう,それ以外はやらんでいい,というルールを作った上で,宿題がしっかり出ているところ,そしてその宿題をちゃんとチェックすることを選びました。

 次に変に競争心を煽るような所も避けました。順位が出るのは結構です。しかし,席順を変えること,短いスパンでクラスを入れ替える事は,頑張って結果を出した人に対する報償として機能する一方で,誰かへのペナルティとしても機能します。

 単純な数字の比較が,その子どもの人としての有り様まで決めてしまうくらい,悩んでしまうかも知れません。大人と違って子どもは,そんなに離れた場所のことも,そんなに遠い未来のことも,見えないものです。

 私自身は,小学校のうちは競争ではなく,楽しんでで和気藹々と勉強すべきと思います。もちろん,結果はシビアですし,順位も出ます。でもそれはあくまで結果であって,それを利用して競争心を煽るような仕組みは,本来自分の仲間である友達を,排除すべき敵と短絡的にとらえてしまうことに繋がります。

 共に闘う仲間として,成績のいい人に素直憧れること,私は小学生のうちはこれが大切なんじゃないかと思います。

 そんなわけで,うちは近所にある大手の受験塾に小学3年生の春休みから通うことにしました。本格的には4年生からですが,ピアノは4年生の途中から続ける事を断念して,その後は塾だけに通ってもらいました。

 最初のうちは授業数も少なく,宿題も大した事はなかったのですが,5年生にもなるとさすがに週3回,17時から21時前までみっちり授業がありました。授業があるということは,その時に新しい宿題が出るという事で,ようやく片付いたと思った宿題がすぐにリセットされてしまうという,終わりのない借金地獄のようになってしまう事に,くじけてしまいそうでした。

 しかしその宿題がどんどん難しくなっていきます。授業を聞き漏らしてしまうとアウトなのは当然として,授業では説明しないことも増えますし,解答や解説を読んでも分からない事が出てきます。そうなると貴重な時間がどんどん減っていき,タダでさえ足りない時間が融けていって,徹夜になることもしばしばです。

 しかし,ここで諦めることを許してしまうと,もう「せめて宿題だけは」という縛りに意味がなくなってしまいます。だから,宿題については何が何でもやり遂げるという姿勢を崩さないようにしていました。

 あと,その宿題についても,勝手にやってもらうのではなく,一緒にやるように心がけました。うちは国語についてはなにも対策が必要ないほど出来たので本人に任せていましたが,算数は一人では先に進めず,歩が止まってしまったら背中を押す伴走者が必要でした。

 その算数ははっきりいって受験用のもので,先々の数学に繋がるようなものは私の感覚ではありません。受験算数などはその場しのぎに過ぎないと今でも思っていますが,将来の財産となるのは計算能力で,これはひたすら鍛えてもらいました。計算で時間がかかってしまうと,そこだけで時間切れになってしまいますから,算数が苦手な人ほど計算能力を鍛える必要があると思います。

 理科と社会については,中学はおろか大人になっても使い道のある本質的な学習だと感じたので,正攻法でみっちりやることにしました。

 理科にはコツがあって,言葉を覚えることと,結局比例で融けることの2つを信じてもらいました。手を変え品を変え,化学や物理の問題を作ってきますが,結局最後には比例で解ける問題ばかりです。正しく問題を読む力(すなわち国語力)を養い,それを最後に単純な四則演算に落とし込むという訓練で,苦手意識も消えてくれるはずです。

 社会は本当に役に立つ知識を学ぶチャンスで,中学校の勉強を先取りしています。やったことは全く無駄にはならず,しかも世の中で起きていることが見えるようになってくるという点で,学んだ瞬間から実生活の役に立ちます。

 最初は暗記が主になりますが,ある時期を過ぎるとその知識を使って問題を自分で解きほぐすことが求められるようになります。これこそ社会科の醍醐味。子どもによっては暗記は得意でも考えるのが苦手な場合があるそうですが,暗記したことがどうやって新しい価値を生むのかを知れば,暗記したことが多ければ多いほど問題が見えるようになり,問題見えるとより暗記することが面白くなるわけで,そうした相乗効果が出てくるまで,暗記を面倒くさがらせないようにリードすることが大事だと思いました。

 一緒に勉強をやっていて感じた事は,良く一般的に言われる子どもの知能の発達家庭が,まさにその通りに進んでいったことでした。

 単純な加算や減算の次は九九,そして割り算や分数と進むにつれ,目の前にあるものではなく頭の中にイメージして考える事が必要になります。そしてそれはやがて見えないものが見えるようになる力,抽象化という一報進んだ知能が求められるようになります。

 立体図形を頭の中に描くこと,隠れている面を想像すること,ある数列から規則性を見いだしてその先にある数字を予想すること,10分前の状況から1時間後の状態を想像することなど,時間と空間を行き来する能力が伸びるのは,まさに初学5年生くらいのことでした。

 同じ事は理科にも言えます。生物とか地学は見える者を相手にするので大丈夫なんですが,電気や磁気の分野は,見えないものを扱うのでわかるはずがありません。しかし,見えないものを見えるようにする工夫を学び,可視化が自然に出来るようになると,もう怖い物はありません。これも5年生位で出来るようになったと思います。

 社会も同様です。地理は実体を学ぶ者ですが,歴史は時間を越えたところで学ぶものですし,公民分野は社会制度という実体のないシステムを学ぶものです。これらを理解するにはやはり見えない物が見えるようにならねばならず,とても高度な脳の働きが必須です。

 そして,この抽象化や想像力こそ,国語の能力だと思います。そしてその国語の能力は,読書と会話が高めてくれます。

 手の届くところにいつも本があること,気が付いたら誰かが本を読んでいる姿を見ることで,文字を読むことが当たり前になります。そして,親がおしゃべりで,面白い会話が出来る事もプラスに働くと思います。

 そして,とにかく考えること。本当にそれだけ?もっと他に考えられない?理由はそれでいい?と,いろいろな角度から考える事を癖にしつつ,思ったことを口にすることを家族みんなでやっていくと,会話も弾みますし一石二鳥です。

 さて,塾の役割はもちろん授業による解法の学習と課題の設定ですが,もっと大切な事を私は期待していました。コンサルティングです。

 塾は良くも悪くも受験産業の担い手です。つまり受験というテーマに対するプロであり,それで収入を得ている専門家の集団です。私が回路設計の専門家であり,お医者さんが医学に関する専門家であるのと同様に,彼らは受験に関する専門家であって,同時に我々はその分野における素人です。

 素人が困った時に助けてもらうためには,専門家に相応の対価を支払う必要があります。受験においては塾がその専門家であり,塾の費用にはそのコンサルティングの代金が含まれていると考えています。

 面倒見の良い塾というのは,本人の学力向上はもちろんですが,保護者に対する支援も手厚いです。我々は初めて受験を経験するのですから,分からない事があって当たり前です。しかし,塾は毎年のことですから,我々が困ったケースは概ねこれまでに経験済みで,処方箋ももっているものです。

 分からない事をわかったふりをして済ませたり,わからないまま放置するのはもったいないです。分からない事は専門家に甘えて,ぜひ教えを請いましょう。わからないことがわからない場合でも,素直にそのことを伝えて不安を解消しましょう。

 こんなこと聞くのは失礼かな,こんなことはわからないかもな,と思う前に,先生に相談です。なーに,先生にしてみれば,毎年のことに過ぎず,よくあることの1つだったりするものです。

 校舎外で行われる模試はもちろん,頻繁に行われる確認のテストについても,すべて受けるべきだと思います。場慣れすることに近いと思いますが,公式なテストへの緊張感が適度に薄れますし,問題の傾向などのクセも,子どもなりにちゃんと見抜いてくれます。

 何事も習熟には練習が必要で,どんなことでも習熟度は練習量に比例するものですが,テストも同じです。

 通常の授業以外の講習会なども,出来れば参加しておきたいです。低学年ではしんどい思いをしてやる必要があるのかと迷う物ですが,そうやって迷った講習会への参加を,後で後悔することは結局ありませんでした。

 しかし,学校がおろそかになってはいけません。あくまで学校が第一であり,学校に優先して塾や受験に取り組むのは間違っていると本人にも理解してもらいました。実際には学校よりも優先せねば回らないこともあるのですが,それを当然と考えるのはなく,悪いことだと思いながらやることは,最低限必要なことだったと思います。

 振り返ってみると,多くの先生がおっしゃったように,小学校5年までに新しい事はすべて済ませてしまい,残りの1年は反復練習による定着だったと思います。もちろん新しい事もやりますし,複数の知識を組み合わせて解くことも練習しますが,多くの子どもにとっては,基礎はやってもやっても固まらない難攻不落の城だっただけに,しつこいほど反復練習をやった覚えがあります。

 反復練習はとても効き目があるのですが,一方で楽しくないし延びている実感を掴むまでに時間がかかるので,どうしてもくじけてしまいます。ですが,これは私自身の経験から,今やっている勉強の効果が出るのは3ヶ月後だと言い聞かせて,今すぐ効果が出なくても焦らず,毎日続ける事を徹底しました。

 すると3ヶ月後には結果が出てきます。我慢して続けておけば,そのずっと効果が出てきたまま本番を迎えることが出来る訳です。

 苦しいのは,結果が出始めるまでの3ヶ月間で,この木感は確かに暗闇を手探りで歩くようなものです。この方向で正しいのか,立ち止まった方がいいんじゃないいか,引き返すべきではと,いろいろ考えてしまうものです。

 ですが,やったらやっただけ前に必ず進むことを信じることで,この苦しい3ヶ月を乗り切る事ができると思っていました。そう,練習は裏切らない,という格言は,この3ヶ月を乗り切るために存在するのです。

 うちは幸い,成績が安定していました。受験校の決定も難しくはなく,本人の希望に添う形で計画を立て,受験に臨みました。それでも,第一志望は1回目に不合格でした。聞けば,やはり力を出し切れなかった様に思う,と言ってました。

 幸い2回目の受験で第一志望に合格出来たのですが,やるだけのことをきちんとやったという自信と,それを思い通りに発揮出来たという手応えが揃って,ようやく合格に至ったという感じがします。私は,受験は準備が8割と思っていましたが,やっぱり準備と本番が半分半分,そしてそれぞれで求められる力が違うということを,つくづく感じました。

 入学試験というのは,もちろん競争ですし,少ない椅子を巡って争う場です。学校にしてみればより優秀な生徒に来てもらうためのふるいですから,良い印象を持つことはあまりありません。特に受験者にとっては,嫌なものであるはずです。

 ですが,私が娘に言い続けたのは,これは先生と生徒の会話の道具だということです。もちろん学校によって違うのですが,娘が目指した学校は記述多く,部分展をしっかりくれる学校でしたから,これは自分を積極的にアピールして,私こそこの学校に相応しいと訴える場だと,考え方を変えてもらっていました。

 先生も,自分たちの学校に来て欲しい人を探して,わざわざ時間をかけて入学試験をやるわけです。先生からのメッセージを問題から読み解き,自分を受け入れて欲しいという意思表示を答案を通じて行うのが,入学試験です。

 もしかすると一生接点のないまま終わる相手かもしれません。顔を合わせたこともない相手との会話に意味があるかどうかもわかりませんが,それでもこういう形式で意思の疎通が行われる事って,楽しい事だと思うのです。

 だから,ぜひ本番を楽しんで欲しいと願っていました。結果は結果として,とにかく本番の試験を楽しんで,自分を精一杯わかってもらうことに全力で取り組んでもらえれば,それでもう受験の価値はあったと思っていました。

 最終的に,合格者はそういう先生たちのお眼鏡にかない,自分を十分に理解してもらえた人たちの集団となります。そうした集団で学ぶことが,どれほどワクワクすることか。私は娘が羨ましいです。そして若いときに,同じような意識で受験に臨みたかったとつくづく思います。

 春から,私の娘は自分を迎え入れてくれた学校で学びます。決して公立の中学校を悪く言うのではないのですが,何もせずとも自動的に入学することになる学校と,自分で目指し,そこに向けて頑張って,試験当日に戦線としっかりコミュニケーションをして,その結果入学を許されるということは,また別の価値があると思います。

 地域や世代によって中学受験に否定的な方がいらっしゃることも承知していますが,それはどこか,子どもの意思ではなく親の意識で行われているということへの批判があるんじゃないかと思います。そうした側面は多分にあり,私もそこには批判的ですが,一方で自らの希望と努力で自分の進む道を決めることの素晴らしさは,無条件に認めて良いのではとも思います。

 確かにお金も時間もかかります。熱意も途切れさせるわけにはいきません。公平性を欠いていることも事実でしょう。しかし一方で,それぞれに限られた資源を中学受験に割り振ったことは,そこに大きな価値を見いだした結果でもあるので,尊重されてもよいだろうと私は思います。

 少なくとも「お受験」などと茶化した言葉で,揶揄するようなことは,失礼なことだと思います。

 さて,中学受験を終えて,娘は今完全にだらけきっています。あの熱意,あの学習量はどうしたのかと思うほど,なにもしません。

 学校からの課題は最低限しかせず,人より少しだけ余計にやることで少し前に出ることが出来るという教訓などどこ吹く風,与えられたスマホを「唯一の楽しみ」と豪語して,日々小さな窓に向き合って暮らしています。

 どうしたものかなあ。

中学受験というものを経験する前に考えたこと

 東日本大震災の年に生まれた娘もこの春に小学校を卒業し,中学校に進みます。

 生まれたその日から毎日違った姿を見せる娘を観察し続けることは,私の何よりの幸せでしたが,おそらくそれはそれまでの経験から類推できる未来とは異なり,知らないこと,分からない事の連続だったから,そう思えるのかも知れません。

 無論いいことばかりではありません,頭にくることも,どうしていいやらわからなくなることもたくさんありましたが,それでも我々の娘はとても「いい子」でしたので,振り返ってみても大変だったと思い返すようなことは少なく,むしろ後悔や反省が私を責めることの方が多いと思います。

 つくづく思うのは,子どもと一緒に過ごすことは,親の特権であるという事です。もちろん親なんだから当たり前の事なのですが,親という理由だけで子どもと過ごすことが許されるというのはなんと楽しい事か,なんとうれしいことかと思います。

 特に我々夫婦は遅くに結婚し,人様よりも10年は遅れて子育てに臨みました。私たちのような年齢の人間でもこれだけ自分と自分の周辺を抑えるのに苦労したことを思い返すと,もし私が人並みに10年若く子育てに挑んだなら,およそ務まらなかったんじゃないかと思います。

 そう考えると,世の中のお父さんお母さんというのは,本当によく頑張っているなあと感心するわけです。


 閑話休題。そんな子育てのイベントの1つに,進学というのがあります。義務教育であればほっといても小学生や中学生にはなるわけですが,高校からはそうはいきませんし,与えられた進路ではなく積極的に選び取る進路であるなら,そこに受験という自己研鑽と残酷な競争の世界があることから目をそらすわけにはいきません。

 我々夫婦は競争心も向上心も少なく,子どものお尻を叩くことをしませんでしたし,まして自分たちの名誉や都合で子どもの時間の使い方を決めたりするようなことはしませんでしたが,当然のこととして自分たちの成功体験(あるいは失敗体験)から,こういう選択肢を選んで欲しいと考えていたことはありました。

 ピアノを習ってもらったのもその1つで,嫁さんはピアノをきちんと習った事から,私は習わなかったことから,ピアノを習って欲しいと考えました。その目的はシンプルで,練習は裏切らないことを実体験してもらう事と,上手いとか下手ではなく,自分の頭の中で鳴っている音を表現する手段を持って,たとえひとりぼっちになっても楽器を絶対に裏切らない友人として一生付き合って欲しいと思ったことにありました。

 同じ文脈で,ぜひ進んで欲しい進路が,女子校でした。嫁さんは女子校の出身者で,周りに男がいないから,男に頼ることができない,故に自分たちでなにかをやるのが当たり前になったと言っています。その通りでしょう。私にも経験がありますが,自己顕示欲の強い年代の男というのは,なにかと女の子の前でいい格好をしがちなもんです。

 いや,やってくれると言うんだから任せりゃいいんだと思うのですが,それはやる側の視点です。見方を変えれば,経験するチャンスを奪う行為であり,それはつまり同じ経験による体験の共有を損なわせる行いです。

 過去に同じ事をやった人間同士の会話を想像するとわかりやすいですが,「あるある」で盛り上がるためには,同じ経験をしないといけません。それは楽しいだけではなく,同じ経験をしたものとしての連帯感も生まれますし,価値観の共有も起こります。

 しかし,その経験を肩代わりした人と,肩代わりさせた人が顔を合わせた時,両者の間には,同じ経験による体験の共有がないばかりか,やった人とやらなかった人という経験の差に加え,やってもらった人とやらされた人という精神的な違いも生まれ,そこに上下関係が生まれかねません。

 私の嫁さんはこのあたりに実に敏感で,こうした事柄から自分を振り返り,かつ自分の娘に良い人生を歩んで欲しいと願っています。

 私は私で,13歳から18歳までの,なにをやっても楽しく,なにをやっても上達するこの時期に,高校受験に邪魔されることなく青春を謳歌して欲しいと思った事と,同じ理由でそのエネルギーを不用意に異性からの視線に邪魔されることなく使い切って欲しいと,女子校に進むことを願っていました。

 いやね,10代というのは良くも悪くも異性の目が気になるじゃないですか。例えばですよ,乗り鉄の中学生と,ギターが弾ける中学生と,どっちがもてますか?

 自分の楽しい事を,異性からの目が気になって我慢したり隠したりすることって,しんどいことだと思います。

 大人になれば,互いの趣味や自分との違いを楽しめるようになるものでも,10代はなかなかそこまで出来ません。自分との違い,多数派との違いを「気持ち悪い」とか「怖い」と考えるのは人として自然な事ですし,多数派に属するための行動や努力はそれはそれで経験で,その先にある安心感や楽しさには大きな価値があります。

 でも,出来れば自分のあり方は,否定されるのではなく,歓迎されたいじゃないですか。あわよくば互いに尊敬し,互いに一目置き合う関係が続けば,きっとそれは生涯の友となるでしょう。

 私は共学でしたから,同じ趣味の人と誰憚ることなく行動するチャンスを,クラブ活動で得ることが出来ました。彼らとは今でも友人であり,尊敬しています。

 端的に言えば,女の子にもてるかどうかが絶対的価値になるのではなく,それぞれの趣味や人間性を互いに認めて高めていくことに価値があるという,大人の世界ではごく当たり前のことを,最もエネルギッシュな時期にやって欲しいということです。

 もてるために費やすエネルギーは膨大ですし,もしそのエネルギーを別の事に使えても,共学だと異性の目が気になるでしょう。もてない状況に納得するために,ある種の割り切りを必要としたり,自らを卑下するような考えに陥るかも知れません。

 それも青春ですが,邪魔されずに何かに没頭するのもまた青春です。

 中高の6年間を,雑音なしに集中出来る期間に出来るなら,これほど素晴らしいことはないでしょう。そのために私が考えたのが,中高一貫の女子校だったというわけです。

 私は男ですから,女子校は経験がありません。裕福でもなかったですから中高一貫の私学も全く知りません。そこは,経験者の嫁さんの目利きを信じて,自分の娘が雑音のない空間で,自分を磨いていく姿を早いうちから想像し,娘の進学と受験を能動的に考えてきました。

 その結果が,この2月の受験で結論されたわけです。

 こうした受験に至ったバックボーンのようなマクロな視点も,算数の難問を一緒に解くことや日々の宿題の多さに絶望すること,体調やメンタルの維持といったミクロな視点も,とにかくすべての結果が出たのが2月です。

 悪い言い方かも知れませんが,小学6年生の2月というのは,我々親にとっても,これまでの子どもとの接し方が評価されるタイミングの1つであったと,思います。

 ならば,これを振り返る意味は大きいでしょう。

 人の親になることのしんどさの1つである,進路と受験について,次回振り返っていこうと思います。

 

北陸新幹線敦賀延伸

 北陸新幹線が来年3月に,いよいよ敦賀まで延伸されます。

 私は大阪の生まれで,社会人になってからは東京で暮らしていますので,北陸地方に住んだことはありません。

 しかし,母の実家が福井県の今庄というところだった関係で,子どもの時には夏休みに毎年のように,長いときには2週間も滞在していました。

 これは私にとってはとても大きなイベントで,何から何まで特別な,非日常な毎日を長期間(かつ毎年)過ごす体験でした。

 まず長距離の鉄道による,太平洋側から日本海側への移動があります。機構も違えば言葉も違うし,食べ物も違います。人口密度も街の賑やかさも違いますし,思い出せば光の色も違っていました。

 川の水は綺麗で冷たく,農業用水にはサワガニもいたりして,自然がそのまま残っていました。日本有数の豪雪地帯で,冬は雪に閉ざされる集落ですが,そのおかげで水は豊かだったようです。

 雪国ですので夏は涼しく,といいたいところですが,残念ながら山に囲まれた盆地だったので,夏は蒸し暑く,冬は強烈に寒いという,気候の厳しいところでした。とはいえ都会の暑さとはまたちょっと違っていて,特に夕方の爽やかさはもう一度味わいたいと思う心地よさがありました。

 母の実家は築100年にもなろうかという大きなしっかりした家ですが,なにせ豪雪地帯の農家ですから,2階はとても高い位置に作られます。ゆえに階段はとても急で,上りよりも降りるときの怖さは,今思い出しても恐ろしいです。

 今庄駅から5kmほど離れた山間の集落にあった母の実家は,かつて小学校があった場所に隣接しています。それなりに立派な学校だったようで,大きな運動場にプールまで備えたもので,1980年代前半に建て直されたりしたのですが,1990年代半ばに統合され廃校になっています。ただ,この小学校については驚くほど情報がなく,本当に存在していたのか,私の記憶違いかと思うほどでした。

 今庄と言えば,かの司馬遼太郎さんの「街道をゆく」でも採り上げられた,北国街道の宿場町として栄えたところでしたし,鉄道が交通の主役になった時代には日本有数の難所とされた柳ヶ瀬越えのため大きな機関区があった,まさに交通の要衝でした。

 当時日本最長と言われた北陸トンネルが出来てから今庄はただの通過点に成り下がり,かつての賑わいを失ったそうですが,それでも地元に人に言わせると北陸トンネルが出来た事で交通の便が良くなったことを歓迎する声が強いようです。

 大阪にいたときには,敦賀や今庄と言った嶺南地方は湖西線をかっ飛ばす特急・雷鳥に乗って直通でしたので身近に感じたものですが,東京から今庄というのはとても遠い場所でした。

 一度東京から今庄に向かったことがあるのですが,この時は新幹線で名古屋まで行き,ここから在来線の特急・しらさぎに乗り換えました。よほど大阪や京都に向かった方が早く着くので,敦賀や今庄という所はやはり大阪に近いところなんだなあと思いました。

 敦賀と言えば原子力発電所です。これも地元を二分した事件だったそうですが,今のところ大きな事故もなく,海水浴場からドーム型の原子炉が見えていて,すっかり共存しているような感じです。

 とても良くしてくれた叔父がいて,父親とは反対のとても優しい,気遣いの出来る人でしたので,私はとにかく大好きでした。あちこちに連れて行ってもらったことを覚えていますが,そういうことも,懐かしい思い出です。

 手放しに歓迎してくれた祖父が突然なくなり,その数年後に祖母も亡くなってしまうと,母ももう実家に帰省することはなくなり,大きくなった我々兄弟もかえって迷惑になるという理由で今庄に向かう機会は失われました。

 しかし,今庄駅に降り立った瞬間の,空気の違いや光の色の違いというのは今も記憶に残っていて,出来ればもう一度訪れてみたい場所です。彼の地でも様々な事があり,記憶に残っていますが,どれ1つとして悪い思い出のものはありません。

 とはいえ,自動車がなければ移動もままならないし,結局見るところも会うべき人もおらず,何をしに行くのかと改めて問われれば,難しいなあと言うため息しか出てきません。

 そんな,記憶の中だけに繋がりがかろうじて残っている敦賀と今庄ですが,当時から新幹線が通るという話だけは聞いていました。でも,当分先のことで,ほぼ無関係と考えていた「北陸新幹線」が,とうとう敦賀まで来ることになったというので,なんだか感慨深いものがあります。

 大阪と敦賀の間はまだ工事の着工も行われていない状態ですので,当面は敦賀が北陸新幹線の終点という事になるでしょう。期せずして敦賀が交通の要衝に躍り出た感じですが,それまで大阪と福井や金沢まで直通していたものが,敦賀でなからず乗り換えないといけなくなるわけで,これは大阪と福井以北との距離を遠ざけてしまうものになると思います。

 一方で,敦賀と大阪との縁は切れることはなく,なんと新快速が一部乗り入れるくらい関西の経済圏に巻き取られている現状を考えると,敦賀から大阪が新幹線で繋がらなくても,その位置付けは変わらないように思います。

 それより,東京から敦賀まで新幹線で乗り換えなしというのが驚きで,この心理的な距離の近さというのは,ちょっといってみるかと思わせるものがあります。(ただし所要時間は30分ほど短くなるだけです)

 北陸新幹線が金沢まで開業したとき,金沢と東京がぐっと近くなりました。観光客も増えたそうですが,それは関東の人にも知られた金沢だったから言えることで,福井,まして敦賀と言えばもう関東の人からすれば遠い別の世界に思えるものです。

 有名な観光地があれば別ですが,私でさえ特に目的を見つけることの出来ない敦賀に,わざわざ新幹線で出かける理由を作れません。そもそも,私の生まれ育った大阪でさえも,今はもう縁もゆかりもない土地になってしまっています。

 もともと出不精で観光が好きではない私が,長距離の移動をしたのは,そこに縁やゆかりがあり,会いたい人がいたからです。そう考えると,敦賀や大阪は,もう記憶の中だけに残るものになっていくように思います。

2022年とAppleII

 さて,2022年もそろそろおしまい,今年は仕事面で10年に一度の挫折があり,5月頃から半年ほど毎日がとても苦しい年でした。今もってその状況は根本的には変わっておらず,気の持ちようとある種のあきらめで,なんとか平静を装っていられる感じですが,挫折の時こそ趣味のみに生きるのが私。

 これまでも,カメラの修理などがどん底から引き上げてくれた(もしくはそれ以上沈むことを防いでくれた)のですが,今回はそれがレトロPCでした。

 レトロPCというのは1970年代から1990年代にかけて発売されたパソコンのことです。各社まちまちのハードウェアで互換性など全くなく,むしろその非互換こそが他社との差別化に繋がっていたという,よく言えばエキサイティングな,悪く言えば消費者そっちのけだった,黎明期のパソコンたちです。

 私も当時を知る人ですので,実家から持ち帰った古いパソコンのうち,当時のものをレストアして当時のまま使うことは,とても簡単なことでした。しかしそれはすでに分かっている結論までのプロセスを,ただなぞるだけの行為に過ぎません。

 新しい発見は少なく,動いたという安心感だけが残るもので,おそらくすぐに触らなくなるだろうなあと,目に前に並ぶ実家からの荷物を見て思ったものです。

 しかし,新しい体験が伴うなら話は別です。1980年代当時,私は学生であり,百花繚乱だったわずか数年間を楽しむには幼すぎました。お金も知識も交友関係もです。

 分厚い雑誌の広告を見ては「いいなあ」「欲しいなあ」と思ったり,「すごいすごいとは聞いているけどなにがそんなにすごいんだろう」とか「いつかは貯めそう」と思って結局試せずにいたりしたものが,とにかくたくさんあります。

 おそらく,現在のレトロPCのブームは,当時を懐かしむことだけではなく,当時のものを現代の技術で拡張したり,現在の自分の能力で動かして,新しい体験をすることにも支えられているんじゃないかと思います。

 そう,大人となった今では,お金もあります。知識も技術もあります。新しい部品も手に入ります。そして多くの資料が手に入るようになっています。

 あたかも転生もののように,かつて出来なかったことを今楽しむこともそうですし,当時は手に入らなかった素晴らしい性能の部品を使って,当時は構想だけで終わっていたものや実現が難しかったものを現実にしたりと,シンプルなマシンだからこそ自由にいじることが出来るレトロPCで楽しんでいるんだろうと思います。


 私の場合,年齢が高くなってから触り始めたX1turboIIIは,やり残したturboZ-BASICの起動で興味が失せてしまったわけですが,小学生の時に触り始めて,いつかはフロッピーディスクで動かすんだと夢見ていた当時を,現実に堪能しました。

 しかし,もっとも楽しんだのはAppleIIです。私がパソコンに興味を持っていた頃はすでにAppleIIは日本国内でもマイナー機種になっていました。もちろん熱心なファンはたくさんいましたし,最初からマイナーだったマシンとは違い,AppleIIはこの世界のパイオニアでしたし,性能は当時も全く色褪せず,高嶺の花であり続けたマシンでしたが,それゆえに持っている人がほとんどおらず,お店で見かけることも少なかったのです。

 1970年代生まれのAppleIIは,その後隆盛を誇るMicrosoft BASICをROMに内蔵した多くのマシンとは異なる流儀で動かすマシンで,仮に当時AppleIIを与えられてもきっとなにも出来なかっただろうと思います。

 実際,1990年代前半にAppleIIを初めて手に入れた時には,電源を入れるところまでは出来ても,そこから先はなにも出来なかったことを覚えています。

 東レ時代の本物のJ-plusだということで捨てずに持っていましたが,それが実家にやってきてから,なんとか動かして見ようと思ったのが今年の2月頃のお話です。

 少しgoogleで調べてみると,AppleIIの情報は,それはもうザクザク出てきます。日本国内では海外製の高価なマシンだったAppleIIは,当然のことながら海外ではベストセラーモデルで,多くの人にとって最初の1台だったモデルなのですから,海外の情報に簡単にアクセスできなかった当時とは,見える色が異なるはずです。

 加えて円高。昨今円安と言われていますが,AppleIIのころは1ドル300円ですから,円は今の半分以下の価値しかなかったわけです。当時日本国内で36万円だったAppleIIは,今でも15万円くらい,最も安いときなら10万円くらいだったりするのです。
 
 そういう気持ちでAppleIIを眺めてみると,当時全く縁がなかったAppleIIを今当時のつもりでトレースすると,全く新しい経験を得ることになるんじゃないのか,もっと言えばあの時代にタイムスリップすることに等しいんじゃないのか,と思うようになりました。

 当時と違ってお金はほとんどかかりません。情報もあふれています。難しいのは当時のハードウェアを手に入れる事ですが,AppleIIは幸い数が出ているので,探すのは難しくありません。最悪自作も可能です。

 ということで,この10ヶ月ほど私はAppleIIにどっぷりでした。

 最初はとにかく電源を入れたところから先に進もうということでしたが,そのために必要になったのはディスクイメージをディスクに書き戻す手段です。これにはこの界隈でよく使われているツールを動かす必要がありますが,そのために16kBの拡張メモリが必要でした。

 メモリは,基本的な入出力仕様が当時のままなのに,中身は強烈に増えているという珍しい部品で,AppleIIの時代には4kBitだったSRAMは,今ではその1000倍以上のものが簡単に入手できます。

 手持ちの256kBitのSRAMを使って自作したあとは,AppleIIの扉が一気に開いたような面白さで,憧れた有名なゲーム,ツールを楽しみ,新しい技術や知識を得てまるで当時のようなワクワクした毎日を過ごしていました。

 DIskIIの修理もそうですし,Z80カードでCP/Mもそうです。CP/Mは,当時X1turboで少し囓りましたが,面白いと思えず,とても不便で面倒くさいという印象しかありませんでした。

 しかし今触って見ると,非力なZ80でよくここまでやるもんだなあと思うほど,良く動いてくれます。これが当時の世界標準だったのかと,その頃いかに無知だったのか,あるいは自分の少し外側には全く見た事のない輝くような世界があったことを知らずに過ごしていたのか,思い知ることになりました。

 AppleIIは何度も壊れてしまいましたが,その都度修理をあきらめなかったのも,まだやり尽くしていないという知識欲からだったと思います。それに修理が現実的だと思えるくらいの情報が入手出来ることも,カスタムチップが少なく部品の入手も難しくないことも,あきらめなかった理由だと思います。

 ということで,AppleIIでやりたいことはほぼやり終えました。ここから先は例えばAppleIIで音楽を作るとか,AppleIIGSを手に入れるとか,自分で6502のコードを書いてみるとか,そういうことをやるしないでしょう。しかし,当時私がそこまでやっていたかと言えば疑問で,詰まるところ歳を取っても私は私ということです。

 当時,こんなに面白い世界を楽しんでいた人たちがいたんだなあと,羨ましく思いましたし,とはいえ当時ここまでの環境を持っていてもきっと使いこなせずに終わっただろうなあと,美しいデザインのAppleIIを見ながら思います。

 同じ事をあの当時にやろうとすると,おそらく数百万円かかったでしょう。ほとんどがオープンになっていて,今なら無償で使えるソフトウェアを全部購入すると考えると,高級車が買えるほどの経済力がないと経験出来なかったでしょう。

 当時の価値観ではありますが,その楽しみは費用に見合うものだったはずで,楽しくないはずがありません。だから私にとって,それは懐かしいのではなく,新しい体験でした。

 残念な事に,新しい経験も済んでしまえば懐かしさにいずれ変わります。次から次へと試したいことが出てきたAppleIIの探検も,CP/Mが起動した時にもう掘り尽くした感じがしました。さみしいことですが,AppleIIの追体験という旅は,ここら辺で終わりのようです。

 

AppleM1 Proについて考える


 新しいMacBookProが,噂通り発売されました。AppleM1を搭載したMacBookAirを,私もほぼ発売と同時に買ってもうすぐ1年になるのですが,「生活マシン」には十分過ぎるM1も,コンテンツ作成に十分な性能かと言われれば心許ないこともあり,そこはきっとAppleM2なるものがでてくるんだろうと,みんな思っていた訳です。

 しかし,出てきものはM1 PROとM1 MAXで,あくまでM1の派生でした。

 MacBookAirは,その性能を一気にハイエンドノートの領域に引き上げつつ価格は10万円そこそこと,かなりのお買い得感があったのですが,今回のMacBookProは14インチが24万円から,16インチが30万円からと,随分高くなったなあと言う印象です。

 もっとも,M1を搭載した13インチのMacBookProは併売となっていますし,お値段も16万円ということですので,棲み分けという点では問題ないのですが,14インチモデルが13インチの後継ならば値上がり,15インチモデルの後継なら妥当な価格,と言うことになるので,ここはもう考え方次第なのかも知れません。

 さて,私の興味はやっぱりプロセッサです。

 M1が高速であったことに偽りなく,また消費電力が極端に低いことを昨年12月に私も喜んで書いているのですが,実は1つだけ納得いかないものがありました。

 x265のエンコードの速度です。ffmpegからx265を使っているのですが,MacBookProLate2016(Core i7-6700HQ)を1とすると,M1はRosetta2上で0.5,ネイティブだとなんと0.3くらいまで低下します。

 M1の高性能コアでありFireStormの1コアの性能は,TigerLakeのコア1つとほぼ同じ程度ですので,この結果はどう考えてもおかしく,x265がM1に最適化されていないせいだろうと思っていました。

 あれから1年,しかし未だに速度に変化はありません。そろそろ誰かが指摘してもいいだろうと思うのですが,少なくとも日本語でここを突っ込んだ記事を見かけることはなくて,もしかしたら私だけの話かも知れないと焦っていました。

 実はmacOSには,VideoToolBoxというサービスがあり,これを使うとハードウェアアクセラレーションを利用することができます。ffmpegでも利用可能なので,これを試したこともあるのですが,速度は大幅に向上しつつもエンコード品質があまりにひどく,使うことはありませんでした。

 そんなこともあってMacBookProを買い換える気も起きず,今回の祭りは静観していたわけですが,先日真面目に調べたところ,ようやく詳しいことがわかりました。

 x265は,NEONに対応していなかったのです。

 NEONはARMのSIMD命令セットです。それなりに昔からあるものなので,まさかこれにx265が対応していないとは思っていませんでした。AppleはHandBrakeというソフト向けに,M1のNEON対応パッチを出しているのですが,ffmpegで利用することは現時点では出来ていません。

 これを使えば速度は品質そのままで3倍になるという事ですので期待出来るのですが,まずは本当かどうかを確かめてみる必要があります。

 調べてみると,ffmpegでもNEONに対応したバイナリを配布してくれている奇特な方がいらっしゃって,ビルドが面倒な私はこれで試してみることにしました。

 すると確かにエンコード品質に影響なく,3倍の速度になりました。ファンレスのMacBookAirで,ファンが唸るMacBookPro2016と同じ結果が得られるというのは,確かにすごいです。しかし,fdkaacを使えないので,このバイナリを常用することはあきらめざるを得ません。

 ならばとHandBrakeを試してみたのですが,こちらも同じ結果です。M1のMacBookAirとMacBookPro2016は,ほぼ同じ速度でした。

 うーん,そうなると,新しいMacBookProのM1 PROとM1 MAXが俄然気になってきますよね。どれくらい高速化されるのだろう,この際買い換えちゃうかとか・・・

 ということで,M1シリーズについて,少し辻褄が合うように調べてみました。

 まずM1から。

 M1は高性能コアであるFirestormが4つ,高効率コアであるIcestormが4つの8コアのプロセッサで,TDPは15W,クロック周波数は最大3.2GHzです。

 この1年で様々なベンチマークが発表されていますが,シングルコアの性能は,インテルの現行のアーキテクチャであるTigerLakeとFirestormがほぼ互角となっています。(一世代前のIceLakeに比べたらFirestormは圧勝です)

 高効率コアのIcestormは,ベンチマークの結果からざっくりForestormの0.3倍と考えてよさそうです。そうすると,M1のパフォーマンスはシングルコアの5.2倍と計算出来そうです。(ちなみにIcestormの電力はFirestormの1/10ということですので,随分電力効率の良いコアなんだなあと思います)

 インテルのCPUではノート用では4コアですからこれが4倍となるわけで,M1との差は約1.3倍。これはMacBookAirが登場した時によく見たベンチマークの結果とほぼ一致しています。

 で,当時は,インテルだと20万円のマシンがファンをぶん回しているのに,M1だと10万円でファンレスというのがすごいという話だったのですが,今数字を並べてみるとなるほどと思います。

 メモリについてはLPDDR4-4266で128ビットで繋がっているということでしたから,4266*128/8=68.2GB/sという帯域幅です。これでCPUからGPUからなにからなにまで面倒を見ます。

 次に本題です。M1 Proです。

 M1 Proは,FirestormもIcestormもM1と同じと見て良さそうです。だからM1という名前を継承しているんだと思いますが,M1 ProではFirestormを8コア,Icestormを2コアと,高性能コアに割り振っています。

 よってTDPは60W台ということらしく,M1に比べて大幅に大きくなっています。

 さて,問題のパフォーマンスを考えてみます。M1 ProはFirestormが8コア,Icestormが2コアですので,シングルコアの性能の8.6倍ということになります。M1が5.2倍でしたから,M1に対して65%ほど高速という計算になりますが,これはAppleの公式発表の70%や,各種ベンチマークの結果である60%程度という数字と大体合っています。

 インテルですが,8コアのTigerLake-Hが今年の5月に発表になっています。TDPは65Wということですので,M1 Proと性能も電力もほぼ互角なんじゃないでしょうか。

 ところで,M1 Proには8コア版もあります。一番安いMacBookProに搭載されるM1 Proがそれなのですが,これは先程の計算だと6.6倍となりますので,10コアのM1 Proとの性能差は約25%となりますが,これも実際のベンチマークの結果によくあっています。

 メモリ幅についてはM1 Proは大幅に向上していて,LPDDR5-6400を256ビット接続しているとのことです。ざっと計算すると6400*256/8=204GB/sと,Appleの公式発表の数字に合います。

 私はGPUにはあまり関心がなく,それはつまりグラフィック関連で重たいソフトを使わないということなんですが,それにしても200GB/sという数字は強烈だと思いますし,M1 MAXになるとさらにその倍ですから,そりゃ高くもなるわな,と思います。

 ということで,名前はM1のままではあるのですが,搭載するコアの能力を選ぶ事でハイパフォーマンス向けのCPUも作る事が出来るということがわかったのですが,これがコアそのものに手が入るM2世代になると,一体どうなることやらと思います。

 よく考えてみると,CPUをインテルに委ねていたAppleは,MacBookAirに適したCPUとMacBookProに適したCPUを,今あるラインナップから選ぶしかなかったわけです。

 しかし,M1ではFirestormとIcestormの構成比率を変更するだけで,パフォーマンスも電力も調整可能になりました。しかもその調整幅が10万円の生活マシンから,40万円のプロ用ノートまでカバー出来るようになるわけです。

 Appleがやりたかったことは,まさにこれなんだろうと思うのです。

 これも,Firestormがインテルのシングルコア性能に匹敵するものであるからこそ成り立つ作戦であって,従来Armはインテルのコアにはパフォーマンスでかなわなかったことを知るものとしては,多くの人が言うように,大した設計能力だと感心せざるを得ません。

 さて,Appleは2年かけてApple Siliconへの移行を宣言しています。今回のMacBookProはちょうど1年経過して登場したメインストリームでしょう。あと1年でMacProまでサポート出来る強烈なCPUが出てくるのと同時に,もっと安価なモデル用のものも出てくるかも知れません。

 私はと言うと,結局MacBookProを買い換えるには高すぎるし,MacMiniにM1 Proが搭載されることを期待しつつ,もうしばらく様子を見ようと思っています。


 

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