100年目の皮肉
- 2012/08/28 12:27
- カテゴリー:ふと思うこと
日本を代表する電機メーカー,シャープが大変なことになっています。早川徳次が創業して今年で100年という節目に,存亡の危機に立たされています。
100年か・・・すげーな・・・戦後生まれのそこらへんの会社とはまさに桁違いです。1980年代,東芝,ヤマハといった伝統あるメーカーが100周年を迎えたときには感動さえ覚えたものですが,いよいよシャープも仲間入りという時に,こんな皮肉があるものかと思います。
大阪らしいと言いますか,生きた金しか使わん,という堅実な気質を,私はシャープという会社に見ていました。古くは1970年の万博に出展せずその費用で天理に工場を建てた話や,最近だと大阪の阿倍野に出来る超高層ビルに本社を移さないかという誘いを断ったなどは,素人にわかりやすいが本業の直接のプラスにならないような話には財布の紐が固いというのが,この会社の文化なんだろなあと思っています。(余談ですが,1980年代後半のパソコンのイメージキャラクタとして,PC-8801のNECは斉藤由貴,FM-77の富士通は南野陽子なのに,X68000のシャープはツタンカーメンのマスクと,その三段オチに当時も苦笑が漏れたものです・・・)
私はもともと大阪の人ですし,実家は当時主力工場の1つだった八尾工場の近く,本社のある阿倍野は大阪市内への玄関口で,シャープという会社にはとても親近感がありました。お隣さんや友人の兄貴がシャープの社員なんてこともあって,気さくな印象を持っていたのかもしれません。
1970年代は,シャープはやっぱり二流三流のメーカーでした。テレビも冷蔵庫もラジカセも,安かろう悪かろうだったように思います。当時は一流メーカーである松下電器と,安売りを標榜して急成長したダイエーとの間が険悪でしたから,ダイエーなどのスーパーマーケットの家電売り場には,シャープや三洋などのちょっと垢抜けない家電品が並んでいたものです。
ちょっと横道にそれますが,今でこそヤマダ電機やヨドバシカメラなどの量販店が幅を利かせていますが,家電量販店が小売りの主軸になる前は,ダイエーやジャスコなどのスーパーマーケットが,家電販売の主戦場だった時代があります。
それまでは,そうそう高額商品を在庫で持つわけにいかない小さな街の電気屋さんが,基本的に定価で家電を売っていたわけで,数をバックに安く仕入れるというスーパーマーケットの手法が家電にも浸透した結果,消費者はいろいろなメーカーの商品を見比べて,しかも値引きをして安いものを買うことが出来るようになったのです。これはとても画期的なことでした。
全国津々浦々にナショナルショップを持ち,各店舗に1個ずつ仕入れてもらうだけで数万個も売れてしまう圧倒的な販売力を持つ松下電器が,ダイエーの安売りを認めてしまうと,ナショナルショップを裏切ることになります。今風に言えば,ビジネスモデルの崩壊です。
だからダイエーには品物を卸さないといった強硬手段を講じることになりましたし,ダイエーはダイエーで,松下以外のメーカーのものを安く売ることにしたわけです。やがて,街の電気屋さんは次々に廃業し,一方でスーパーマーケットを経て大規模な家電量販店へと主な販路が移り変わっていったのです。
結果的に,配下のチェーン店が少ないメーカーほど,スーパーマーケットで売られることになり,次第に大きな存在感を示すようになります。そしてこの流れは松下電器でさえも無視できなくなっていきました。
つまり,この時日本の家電の売られ方が大きく変わったのです。我々から見れば,安くても良いものがすぐに買えるようになるという,その布石が打たれたといえるでしょう。
さらに時は流れ,松下はナショナルショップの扱いに苦慮することになるのですから,潮目を読み違えることの怖さを感じてしまいます。
話を戻しましょう。
シャープがかつて,家電品では垢抜けない二流メーカーだったことは否めません。定価販売はなく,スーパーの家電売り場でよく見かけるメーカーでした。
しかし一方で,なかなか手広くいろいろな新しい事に手を出していた面白いメーカーでもありました。電卓,液晶なんてのは有名ですが,特にコンピュータやOA機器(あんまりこういう言い方は最近しませんね,要するに事務機のことです),半導体といった分野に,ちゃんとユニークな足跡を残しています。
コンピュータについては,HAYACという小型のオフコンを手がけていました。シャープはその昔,早川電機という社名でしたから,そこからHAYACと命名されたわけですが,その最初の製品であるHAYAC-100は1964年に誕生しています。
日立や富士通,NECのような大型機を作っていたわけではありませんが,NECや三菱などのオフコンと混じって,HAYACは1980年代初頭まで販売されていました。
さらに,UNIXを搭載したワークステーションのOAシリーズを開発しており,これは1990年代前半まで販売されています。そう,当時ダウンサイジングという言葉と共に隆盛を誇ったUNIXワークステーションにも,ちゃんと参入しているのです。
そしてパソコンです。1978年,日本で最初のパソコンである日立のベーシックマスターに遅れること数ヶ月でMZ-80Kを発売,以後2010年に撤退するまでパソコンを販売していました。AXパソコンで取り組み始めたIBM互換機路線以後は別にして,それ以前のシャープのパソコンにはとても個性的なものが多く,また当時のユーザーの技術レベルの高さは語りぐさになっています。
そうそう,ワープロを忘れてはいけませんね。書院シリーズは,当初はHAYACのような大型のものでしたが,1990年代までの個人用ワープロブームの中ではダントツの強さを誇っていました。
電卓の強さは言うまでもありませんが,ここから派生した2つの流れ,事務機という流れからは複写機やFAXなどの事務機,電池で動くポータブル電子機器という流れからはポケットコンピュータや電子辞書,電子手帳,PDAが誕生します。直接の関係はないのですが,携帯電話にも圧倒的な強さを誇った時期がありました。
もう1つ,家庭用の電子レンジについては先駆者でした。戦争中のレーダー技術だったマグネトロンを民生に応用した電子レンジは,当初は厨房用品としてプロに向けて売られていましたが,これを家庭用に最初に量産したのもシャープで,松下より1年早い1962年のことでした。まさに電子レンジのパイオニアなのです。
こうしてみると,シャープという会社はモーターをぶん回す,「動力家電」には今ひとつだったかも知れませんが,電子機器,半導体を使う機器については,なかなか強いものがあったことがわかります。
で,もう少し深掘りすると,シャープが半導体メーカーとして強力な存在であったことに目が行きます。
シャープは,半導体製造に乗り出した時期こそ新しく,いわゆるゲルマニウムトランジスタなどは一切生産していませんし,汎用のシリコントランジスタも私の知る限り,作っていなかったように思います。
しかし,シャープの電卓開発を推進した佐々木正さんがザイログと仲良しだったこともあり,当時世界的にも珍しいザイログのセカンドソーサとして,Z80を作りまくって売りまくりました。
Z80は8080の欠点を改良した8ビットCPUですが,シャープ製の品質と価格,そして納期の確実さを抜きにして,ここまで普及したかどうかは,私はわからないなと思っています。Z80といえばシャープ,MSXを分解すればそこにシャープのZ80,そんな時代があったのです。
Z80はNECも生産していましたが,シャープはCPUだけではなく,Z80ファミリも生産します。Z80CTC,Z80PIO,Z80SIO,Z80DMAなど,8080のペリフェラルよりもはるかに高機能なLSIを大量に生産していました。のみならずZ8000シリーズやZ8シリーズも手がけていて,シャープが果たした役割はとても大きかったと言えると思います。
また,光半導体もシャープは強く,古くからLEDは定番化していましたし,フォトトランジスタもよく知られていました。またフォトカプラのPC900は,MIDIインターフェースには必ず使われたと言っていいほど,メジャーな存在でした。
今ではWindowsさえも動いてしまうくらい立派になったARMも,シャープは無名時代からライセンスを受けて生産をしていました。
カスタムLSIの一種であるゲートアレイも自社で開発する体制を持っていたり,NOR型フラッシュメモリではインテルと共同で開発にあたり,一時期圧倒的な存在感を示していたことがありました。SRAMもシャープ製がよく出回っていましたね。ラジオやテレビ用のアナログICも多くラインナップされていましたし,シャープの半導体というのは,実は結構凄かったのです。
そんなシャープが,なぜ転がり落ちるように,業績を悪化させたのでしょうか。私は経済分野の専門家ではありませんので,分析は専門家に任せるとして,こうしたここ30年くらいの歴史を鳥瞰して思うところを書けば,液晶事業にちょっと重心を置きすぎた,あるいは液晶以外を軽く考えすぎていたという,液晶偏重が元凶だったと思います。
これは結局,当たればでかいが外れればすってんてん,という一点買いの大ばくちのようなもので,電卓に端を発し世界をリードしてきた液晶技術とその応用に絶大なる自信をもち,その結果冷静さを欠いた結果だろうと,そんな風に思います。
液晶ビューカムがなければ,未だにデジカメはファインダーを覗き込んで撮影をしていたかも知れません。初代PSPのLCDには,その画質故にあえてライバルメーカーであるシャープ製のものを使うことになったそうです。
誰もが「無理だ」と思っていた液晶テレビへの切り替えは,シャープの言うとおりに進み,ブラウン管はとっくに駆逐されてしまいました。液晶応用製品として誕生した電子手帳やザウルスは,あの時代にモバイルコンピューティングを具現化していました。
こうしたシャープの強さの証には,枚挙にいとまがありません
しかし,その裏で,あれほどの存在感を持っていたCPU,LED,SRAM,フラッシュメモリなどの半導体はすっかり勢いを失いました。ARMも本来ならシャープは老舗として君臨していても良いはずなのに,全く話を聞かなくなってしまいました。
パソコンもワープロも撤退,ビデオカメラもPDAも撤退,携帯電話はじり貧で,自社の半導体の強みを生かした電子機器も,軒並み力を失っています。集中と選択という言葉が流行りましたが,液晶こそ正義とばかりに液晶に肩入れしすぎたことが,この結果を招いたと思っていますし,他がやらない分野を技術力で席巻するシャープの個性が失われたことを,とても残念なことだと思っています。
同時に,これら液晶以外の製品に関わり,それなりの成果を上げていた社員の皆さんが,集中と選択の結果受けた仕打ちと,そして現在の状況に対して抱く複雑な感情を察すれば,液晶のシャープは文字通り「液晶のシャープ」であって,かつての個性豊かな「目の付け所がシャープでしょ」ではないことを,改めて私に突きつけます。
果たして,これは年寄りの懐古主義でしょうか。そうかも知れません。しかし,それまで二番手三番手だったシャープが,液晶によって憧れの「一流クラブ」に入ってから有頂天になり,足下が見えなくなってしまったように思えてなりません。
人が変わってしまった・・・単純な「昔は良かった」とは,ちょっと違うかなと思います。
こういうとき,創業者の存在というのは,いろいろな意味で大きいもので,水道哲学は今のパナソニックにも通じるものがありますし,独自技術で世間をあっと言わせることは今のソニーにも受け継がれていますから,その点では創業者がやったことが今でも肯定され尊敬されています。
しかし,シャープは早川徳次が何を見いだし,何をしたのかと考えると,創業者が例外なく抱いたはずの強烈な使命感や哲学は,今のシャープにとって影響を与えず,また経営陣や社員たちが頼ることもない,伝説になっているように思います。
極論すれば,シャープは100年の会社ですが,設備産業である液晶にどかんと投資した新興メーカーと何も変わらん,と言われても仕方がありません。のみならず,現状と創業者の意志との間の距離感を,誰も確かめずにここまで来てしまったことが,シャープの最大の問題であったと私は思います。
果たして,これが100周年を祝う会社のあり方として,妥当かどうか。気の毒なことに,企業にとって奇跡的と言える100周年を大々的に口に出来ないシャープに,ある種の後ろめたさがあるのではないかと,私はそんな風に勘ぐってしまうのです。