写真とカメラ雑感
- 2018/04/11 13:20
- カテゴリー:ふと思うこと
カメラがなぜ面白いのか聞かれたと仮定して,はて何故なんだろうと思って,ふと考え込んでしまいました。いろいろ思うのですが,やっぱり自分が見せたいと思うものを整理して記録するという行為に創造性を強く感じているからだと思います。
我々の見ているもの,あるいは脳が最終的に知覚したものは膨大な情報を持っています。これを2次元にするだけですでに奥行きの情報が落ちてしまいますし,色や明暗も同様に削られます。
細かい部分も裏側も記録されませんし,大きさだって形だって正確に記録されません。もっというと重さも臭いも,柔らかいか硬いか,冷たいか暖かいかも記録されませんし,もっと大事なもの,つまり時間の経過が落ちてしまうので,変化している状態がまったく残せません。
こう考えると情報の大部分が欠落する静止画の写真は極めて不完全で窮屈な記録方式だと言えるのですが,人間がすごいと思うのはここから先の話で,そんな小さな器にどうやって自分が知覚したものを入れ込むのかを必死になって考えるのです。
できるだけたくさんの情報を入れられるように,技術的な進歩もさることながら,どの情報を入れ込んだらいいかを長年かけて模索し確立して,写真はハードとソフトの両面で進歩してきました。特に後者は先行する絵画との親和性もあって,すでに表現としての芸術として認知されています。
芸術ですから,あるレベルからはその人の能力や才能による個性の勝負になるわけですが,それまでは学習と経験が必要なものであることに他の表現方法となにも変わることはなく,その習得も容易ではありません。
ただ,写真が絵画とちょっと違うと思うのは,写真は芸術であり趣味であると同時に,記録を残すという実用的な性格が強いことです。カメラが自動化の道を歩んできたことの理由は,確実に意味のある記録を残すためという明確な目的があったからです。
とはいえ,完全自動化などはやっぱり無理で,自動化できるところから自動化を進め,そのことで空いた手を人手でやらねばならないところに振り向けてきたのが,今に至る写真事情ではないかと思います。
そして,これがとても楽しいわけです。面倒な事は誰だってやりたくないし,面白いと思う事をじっくりやりたいと思うのも,また当然です。
考えてみると,多くのことが自動化され,デジタル化される事により,面倒な事,時間のかかること,難しい事から我々はどんどん解放されてきました。今急に暗室に入って写真を焼いてこい,といわれたら,私は断ると思います。
その昔のダゲレオタイプなんか,感剤の劣化が早かったため,銀メッキした銅版を持ち歩き,撮影直前でヨウ素の蒸気にさらしてすぐに撮影,何十分も露光にかかるから被写体は動かないように固定されて,撮影が終わったらすぐに水銀蒸気で現像,そして定着という,本当に生ものを扱う大変な作業だったわけですが,それが今やパソコンの中で出来てしまうんですから,どれほど省力化が進み,どれほど失敗なく記録出来るようになったか,思い知ります。
話を戻すと,実物から多くの情報を削り,器の小さい静止画の写真に落とし詰め込んで,それがなお記録や芸術として成立するためには,見る側にそれを見て想像し理解する力がなくてはなりません。本を読むために文字と単語が読めねばならないというのと同じで,そこにある写真を読み解くための方法を知る必要があります。
こうしたリテラシーを身につけると,確かに写真を鑑賞できるようになりますが,そうした機会はなかなかなく,特に日本は写真を鑑賞するという文化がないなあと思います。私もそうした習慣は持っておらず,若いときにやっておけば良かったなあと後悔している口です。
例えば,時間の流れを記録出来ない写真で時間を表現するためにはどうすればよいかが撮影者に問われるのと同時に,見る側にもどういう画像になっていたらそこに時間の経過があると解釈するのかを知っておいてもらう必要があります。
それ以外に,すでに柔らかいと知っているものが写っていればそれが柔らかいと想像するにたやすく,それがとても大きいものであるなら,写真にあるものはとても大きいものであると理解でき,かように実は見る側が知っておかねばならない事というのは,多岐にわたるのです。
多くは我々が普通に生活をしていれば理解出来るものですが,例えば凄惨な戦場であるとか,宇宙であるとか,顕微鏡写真であるとか,あるいは100年前の写真であるとか,ごく普通の人達にとっては想像も出来ない状況で撮影された写真は,とても理解が難しいと言わざるを得ません。
だからこそ撮影者の腕が問われるわけですが,果たして戦場を扱う報道写真が見る人に寄り添っているのか私には疑問がありますし,一方で見る側は報道写真を見るためのリテラシーを学べていないように思うのです。
そう考えると,写真というのは,撮影者と見る人との間のコミュニケーションだよなあと考え至るわけで,さらに見る人というのは未来のまだ見ぬ人さえも対象にするんだと気が付き,私などは足がすくんでしまうのです。