社内失業ということ
- 2006/10/30 15:02
- カテゴリー:ふと思うこと
こういう事は,なかなか扱いが難しい問題なので,基本的にここでは書かないようにしていました。しかし,私にとって結構大きな事件でもあるので,例外的に記録に残そうと思いました。
実は,先週一週間,会社をお休みしていました。
といっても,別に旅行に行ったとか,身内に不幸があったとか,そういう健全な理由ではありません。
社内浪人とでもいうのでしょうか,社内失業とでもいうのでしょうか,とにかく,ここ数ヶ月仕事がないのです。
仕事がないということは,誰とも関わりがないということ。朝来て夕方帰るまで,誰とも一言も話をしない一日を過ごすことが珍しいことではなくなりました。
仕事がなくとも給料はもらえていますし,別に上司からの叱責があるわけではないので,考え方を変えれば気楽なことこの上ないのですが,自分の周りの人間が忙しくしている中,自分だけがポツンと取り残されたような気分になるのは,やはりなかなか慣れるものではありません。
また,本当に失業なさった方々にすれば,私のように「ただ仕事がない」というだけの人間を自虐的に「社内失業」などという言葉で表現することに,納得できない感情もおありかも知れませんが,結果に対しての期待もされず,今起きてる問題解決に必要ともされず,のみならずこれまでに出した成果も全くあてにされない,そこにいる理由をどんなにこじつけても見いだせない状況に置かれているという点において,また別の苦しみがあることを私は知りました。
なぜこんなことになったのかなと思うのですが,何度か起きた組織変更や体制の変更に巻き込まれたというのが1つ,自分がある程度の権限をもらって進めていたプロジェクトが中止になり,今やそのプロジェクトについて知る人も少なくなったというのが1つ,そしてやっぱり大きいなと思うのが,私の能力や適正が,今の職場においては余剰であるということではないかと思います。
私自身がもっと器用であれば,どんな仕事でもこなせて社内失業などしなくて済むのかも知れませんが,あいにく私の能力にそれほどのフレキシビリティはありません。また,もういい歳ですから,いちから新しいことを覚えて「即戦力」になれるわけでもありません。
ついでにいうと,使命感の問題もあります。どんな仕事でもそうですが,なぜこの仕事をやるのか,やった結果誰を幸せにするのか,ということが必ずあります。使われる側の一般社員にとって,この2つは動機付けという点で必要不可欠な入力条件ですし,モチベーションの維持にも必要なものです。
それを見失ってしまうことが起こると,なかなか大変であることも今回分かったことです。
組織に忠誠を誓えない,上司に忠誠を誓えない,お客様に忠誠を誓えない,それでもやってる仕事が楽しければいいかと,これまで過ごしてきたところもありましたが,する仕事がないという状況に至って,その最後の砦さえも失うことになりました。
そのせいかどうかわかりませんが,やはりここ1ヶ月ほど体調が優れず,極端な体のだるさと睡眠不足が続き,朝会社に出るのが辛くて仕方がありませんでした。
以前のように大事な仕事があれば,多少しんどくとも辛抱して出社する価値があるのですが,重い体を引きずって出社しても何もすることがなく,自分に関係のないメールをさーっと斜め読みして,業界関係のニュースをWEBでちょろちょろとチェックする程度を無理に仕事と思いこんで取りかかっても,そんなもの1時間もすれば全部片付いてしまうのです。後は本当になにもありません。
果たして,無理をして頑張って会社に行く必要性があるのだろうか,合理的に考えて,私が出社してもしなくても,世の中何も変化が起きないではないか,そんななのに,なぜ私は無理をおして会社に行かねばならないのか。
それが仕事なんだよ,と言われてしまえばその通りで,返す言葉もありません。だけど,本当にそれが仕事でしょうか。
明らかに余剰という言葉がついて回る昨今の状況に耐えられなくなり,とにもかくにも私は2週間のお休みを上司にお願いしました。2週間はさすがに長すぎるということで1週間になったのですが,この1週間の楽なことといったらありません。
自分に無関係な理由で騒がしいわけでもなく,自分の周りにあるものすべてが自分に関係する自宅にいるとほっとします。私がいて不自然にならない場所,私がいる理由がはっきりしている場所のありがたいこと。
いつものように予定を立てず,その日その日を空気のように生きてみるということを初めてやってみました。1日一冊の本を読もうと思いましたが,それが半分程度のペースになっても慌てません。
確かにそこに生きてはいるが,誰にも何にも影響を与えない存在(厳密に言えばただ生きているだけで地球を汚すし,お金も使うのですが)というあり方は,今の私の最後の逃げ場所になっていました。
ですから,週明けの今日から会社に行くのが嫌で嫌でたまりませんでした。
そんな状況になってまで,なぜその職場にしがみつくのかと思われるでしょう。社内で異動するなり,思い切って転職してみてはどうか,と。
以前の私なら,そういうこともやっていたかも知れません。しかし,歳を取るという事は人間を臆病にします。なにをやっても今より悪くなることはないと分かっていても,年齢と共に背負い込むものも大きく重くなりますし,それなりの事情もしがらみもでてきてしまいます。
なにより,そこで自分を必要としてくれるかどうか,全くわかりません。気分で転職して,失敗した人を私もたくさん知っています。転職で成功する人は,転職しなくても成功する人です。
社内の異動もしかりです。今の組織は非常に大きいのですが,そこで余剰となる私が,他の部署で必要とされるかどうか,全く疑問です。
動く前に決めてかかるのは愚かだと思われるかも知れません。でも,こういう時の直感というのは,意外にあたるものなのです。きっとうまくいかないなと思っているうちは,何もうまくいかないものなのです。
もっというと,今の私は,かつての私に比べて能力が下がってしまいました。頭が凝り固まっているという実感があります。実際に昔なら解決できたことが,今だと全然思いつかないということも経験しました。
こういうのは現場で日頃から養っておくべきものなので,何の仕事もない私がダメになっていくのは至極当然のことで,それを食い止めることは,なかなか難しいものだと感じます。
だから,例えば明日から急に私に仕事がやってきても,それを以前のようにきちんとこなせる自信はありません。といいますか,どうやったらいいのか,右往左往することと思います。
私が大学を出るとき,結局お世話になることがなかったある会社の常務の方に,「会社というのは高速道路と同じで,合流してしまえば流れに乗ってそれなりに仕事が出来てしまうもので,いかに合流するか,に尽きる」と言われたことがあります。
なるほど,軽自動車だろうがトラックだろうが,若葉マークの初心者だろうが30年のベテランだろうが,高速道路に乗ってしまえば,すーっと走っていけます。でも,合流はそうはいきません。私は若いときに,この方以外にも多くのいい大人に出会うことが出来ました。
私の背後にはこの春入社した新人がいますが,彼もすっかり高速道路の速度になれ,立派に仕事をこなしています。大したものです。
この例えが非常に面白いのは,一度高速道路を降りてしまって,一般道の速度になれてしまった後に再度合流することの難しさをもきちんと包含していたということです。
今の私は,さしずめ一般道をだらだら走っているか,もしくはパーキングエリアで居眠りをしているか,というところでしょう。しかし時間は公平で,どんどん残り時間はなくなっていきます。
高速道路の合流に,誰かの助けがあるはずがありません。うまかろうが下手だろうが,自分でやるしかないものです。今の私がこの状況から復活するには,自分自身が合流することを望まねばなりません。
しかし,その時は,未だ来ずです。