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2015年06月の記事は以下のとおりです。

ゲームと学習

 ひところ,「ゲーム脳」なる言葉が流行りました。

 私たちが子供の頃,ちょうどファミコンが出てから以降,その時々の大人達はゲームに没頭する子供にあれこれと負の影響を諭していたのですが,その頂点が「ゲーム脳」でした。

 海外がどうかは知りませんが,日本においてこの手の話というのは,多分に胡散臭いものであったり,非科学的であったり,感情的であったりするので,大体の場合において本論からずれたところで毎度同じような議論がなされ,やがて興味を失った人達が一人二人と抜け落ちたあげくに,どこにも着地することなく自然に消滅するという流れを踏襲します。

 長く生きているというこういう無益な議論に割く時間も労力も無駄と思うので傍観を決め込むわけですが,それがますます議論を空洞化することになることも知っており,こうした後ろめたさから逃避するために,自分とは関係ないことだ,という論理武装をすることになってしまうのです。

 しかしその実,多くは健康に影響するものであるゆえに,無関係であるはずはなく,いずれどこかで同じ問題に向き合う必要が出てくるものです。

 ゲーム脳については,ゲーム漬けになった我々の世代が,いろいろ問題を起こしつつも概ね「普通」に生きていることを考えると,極端で深刻な永久はなかったように思いますし,私が感じる日本人に対する機器間はゲーム以外の他の要因でも醸造されたものであるので,科学的な因果関係はそもそも議論を始められないなあと思っています。

 ただし,ゲームが我々40代以下の人間に,悪い影響を与えたものの1つであることは,否定できないなと思っています。

 まず,これを考えてみて下さい。

・非常に魅力的であり人を強く引きつける
・報酬を与える
・何度も何度も繰り返す

 人間は,この3つによって,学習を加速させます。

 人間は面白そうな物事には積極的に取り組みます。つまらないことよりは面白い事に没頭できるので,勉強だってそうした工夫をしているわけですね。

 人間は,報酬に弱いです。人間と言うよりおよそ生物全般と言っていいでしょうが,報酬によって快楽中秋が刺激されて,心地よさが得られるというのは,経験的にも科学的にも知られていることです。

 そして,何度も繰り返すことで,定着がおこります。公式を覚える,楽器を習う,テニスをする,あらゆることが,繰り返しによって「身につく」ことを利用して,我々は困難に打ち勝ってきたわけです。

 ということで,この3つは人間が学習し,ある技術を会得するために昔から行われて来たことです。そしてこれらを人工的に引き起こし,別の用途に応用することも行われています。わかりやすいのは,ドラッグでしょう。
 
 さて,この3つ,薄々気が付いていると思いますが,あえて主語を外しています。そこで主語として「ゲームは」を追加してみます。

・ゲームは非常に魅力的であり人を強く引きつける
・ゲームは報酬を与える
・ゲームは何度も何度も繰り返す

 いかがですか。さらにいうと,多くのゲームの目的が破壊や攻撃にあることを考えると,さらにこう読み替えることが出来ます。

・暴力行為は非常に魅力的であり人を強く引きつける
・暴力行為で報酬を与える
・暴力行為を何度も何度も繰り返す

 うーん,さすがにまずいですね,これは。

 もちろん極論ですし,言葉遊びに過ぎない気もします。ですが,冷静に考えてみて欲しいのですが,人間はなんだかんだで暴力に惹きつけられます。駅で起こった喧嘩をみんな注目しますし,ボクシングもプロレスも人気があります。

 ゲームで敵をやっつけるとうれしいですよね。そして敵が倒せるようになるまで何度も何度も繰り返しますし,ひょっとすると何度も敵を倒して快楽を得ることを目的に繰り返す人がいるかも知れません。

 少し前に話題となった「コンプガチャ」も,射幸心を煽ることに批判がありましたけど,これも報酬による快楽にあらがえずに,大金をつぎ込むことが問題だったわけです。薬物中毒と同じ構図です。

 「コンプガチャ」はアイテムを集めることが目的でしたが,もしこれが暴力行為だったらと思うと,私はちょっと恐ろしくなります。

 おわかりのように,ゲームの危うさというのは,こうした学習能力を高めるメソッドが強く盛り込まれている一方で,それこそ有益なものから暴力的なものまで幅広く応用可能であることでしょう。

 つまり,人殺しをゲームに応用すれば,人殺しは肯定され,報酬のために積極的に繰り返し取り組み,そのスキルを会得するべきものとなるわけです。まずいですね,これは。

 楽器の習得もにたようなものがあり,単調な繰り返しを辛抱して続けると,ある時突然上達を実感し,そこからはもう楽しくて楽しくて仕方がなくなります。最初の山をいかに乗り越えられるかが勝負だと思うのですが,乗り越えてしまえば報酬と繰り返しの連鎖です。

 ですが,楽器の習得には,人の生命や財産を奪うことを肯定する要素はありません。もし肯定する要素があるなら,楽器の習得というのは,否定されねばならないでしょう。

 ゲームも同じです。げーむゲームそのものは右にも左にも向かえるものですが,人の生命や財産を奪う行為が肯定されているか否定されているかは,楽器の習得と同じレベルの話でしょう。というよりむしろ,楽器の習得もゲームの1種だといっていいかも知れません。

 人じゃなければいいのね,という詭弁で行われているのが,ゾンビや怪物を敵に暴力を行うゲームです。特にゾンビはひどいですね。形状といい質感といい挙動といい,それは人に近く,生命体に近いものです。人か人でないかは,作った人が決めただけの話です。

 そもそも,人であるかないかにかかわらず,残虐な行為を肯定し,報酬を与えて繰り返し行わせて学習させるというのは,それによって何が起こるかを想像すると,やはり問題があると思わざるを得ません。

 繰り返しになりますが,ゲームにしても,楽器にしても,報酬と繰り返しは,習得のための最善のメソッドです。長期的に見て,そのメソッドで何を得られるかが重要であり,このあたりをもう少し考える必要があるのではないかと,私は思っています。

 ゲームそのものを機械的に否定しているのではありません。私はゲームが好きですし,文化的側面や技術的な魅力,クリエイター達の創造力に感嘆しますが,ゲームに限らずどんなものにも裏と表があり,毒にも薬にもなるものです。

 政府に規制を委ねるとろくな事がありませんが,かといって野放図になることも問題です。良識ある大人が,公平かつ納得いく形で,うまく表と裏を調整出来ることが理想だと思います。時に表現の自由は,他の事例と同じように制約を受けることになるかも知れません。

DP2Merrillをやっぱり買った

  • 2015/06/29 15:37
  • カテゴリー:散財

 迂闊でした。

 シグマの尖ったコンパクトデジカメであるDPシリーズのうち,1世代前のDP2Merrillが,4万円台半ばになっていることに気が付いていませんでした。

 DPシリーズもQuatrroになり,DPから小文字のdpになりましたが,まさかのdp0まで登場し,ますますその尖りっぷりにブレーキがかかりません。

 新しい世代になるたびに,延長線上ではなく否定から登場するかのような変貌ぶりに驚くのですが,それでもDPらしさを失わないあたりの妙技に,私はいつもやられっぱなしです。

 とはいえ,価格は10万円のデジカメです。そうそう簡単に手を出すような手軽さはありません。いつも憧れだけが残ります。

 かつてDP1sの時にも価格が大幅に下がった時があり,私はこの時に32800円でオーナーになっています。調べてみると2010年の6月という事ですから,なんとまあ5年も前の話なのですね。驚きです。

 このDP1s,じゃじゃ馬というか,もうまともな写真が全く撮れる気がしないデジカメでして,出番はまったくありません。この世代のDPシリーズの最大のメリットはRAW現像がLightroomで出来ることくらいで,UIは整理されておらず,動作も緩慢,レスポンスは悪く,AFもあわない,ISO200以上は使いものにならず,しかもレンズは切れ味はともかくF4と暗いので,フィルムカメラ以上にストレスのたまるカメラでした。

 それだけの制約がある中で,出てくる画像はやっぱり首をかしげたくなるようなもので,特に緑と赤の不自然さには辟易したことを覚えています。

 ローパスフィルタが存在しないFoveonX3であることは興味深いとしても,画素数が実質400万画素クラスであり,やっぱり情報量の少なさはいかんともしがたいものでした。

 それでも,この初代DPには熱烈なファンがおり,彼らが支えたおかげで,全面改良された次世代機Merrillが登場するのです。

 Merrillとは,惜しまれながらなくなったFoveonX3の生みの親からもらった名前です。実質的な画素数は実に1400万画素を越え,以前は少し小さかったセンササイズも,ようやくAPS-Cになりました。

 この段階で,最も深刻と言われた画素数由来の情報量の少なさは解決し,むしろ演算で埋め合わせをしない4600万画素のデータの大きさと情報量に,皆度肝を抜かれるわけです。

 SD1という,これも当時話題になった強烈な一眼レフに搭載されたMerrillが,DPシリーズに展開されてその能力を爆発させたのは今から3年ほど前の話です。

 F2.8と一段明るくなったのに,開放からキレキレの高性能レンズを搭載,使いやすくなったUIに高レスポンス,起動の速さやAFの精度も向上し,しかもLCDが92万画素にアップすることで,一気にDPシリーズが「使えるカメラ」に進化したのです。

 酔狂な人々が次々にその可能を述べていますが,私の目から見るとそのほとんどが「駄目だ」といいつつ,嬉々としてその画像を褒めています。どうも自虐的な人に好まれるカメラなんだなあという,そのコミュニティに本質的な共感を感じながら,その入会金として10万円払うことが難しいことも,承知していました。

 それが,私の前の前のノートPCに,46800円で出ています。

 きっかけはフジヤカメラのツイッターだったのですが,送料と代引き手数料込みでDP2Merrillが46800円でした。DP1MやDP3Mはすでになく,DP2Mだけが残っている状態でこの値段でしたから,処分もいいところでしょう。

 DPシリーズは,世代を経るごとに劇的に改良され,使いやすくなっていくのですが,むしり窮屈な制約や不条理も個性と考えると,それらを乗り越えた先にある超高画質を手に入れる旅を楽しむならば,純粋に画質だけ考えればいいわけですから,もはや私がDP2Merrillをこの値段で購入することに,何の障害もありません。

 ところが,この値段は別に今だけのものではなく,もう半年ほども前からこの値段で売られていたらしいのです。このことを知らなかったことに,私は迂闊だったと思ったのです。

 そんなわけで,DP2Merrillを,今さら買いました。

 Quattroは,少し辛抱すれば普通のカメラとして使えると言われていますが,Merrillはとんでもないじゃじゃ馬らしく,しかしそれをいなして手に入れた画像には,他の追随を許さない,圧倒的な解像度を持つと言われています。

 上等です。

 届いたDP2Merrillですが,まず手にとって分かったことは,大きいということです。DP1sに比べると一回り大きくなっており,小型一眼レフくらいある感じです。これでコンパクトというのは,もはやウソです。

 しかし,ミラーボックスのない,レンズ固定式のカメラでこの大きさというのもまた強烈で,一体中に何が入っているんだろうという疑問さえわきます。

 電池は2つついてきます。いわく,電池の減りが強烈で,2つないと話にならないからだそうです。私は,電池寿命が延びないならもう1つつけてしまえという考え方は,大好きです。

 ただ,どっちの電池も空っぽなので,充電時間も倍かかるということを見落としてはいけません。

 充電が出来たので早速起動です。なんと,UIまわりは普通のデジカメになっています。サクサク動くし,おかしなクセもありません。設定項目も少なく,よく整理されています。

 ひととおり設定も済んだので,早速撮影してみます。

 メモリカードに書き込み中は画像を再生出来ないとか,消費電力がすごくて,本体がかなり熱を持ってくるとか,ISO800以上の画質はあまりにひどくて,壊れているのかと思ったほどでした。


 D800の気分でDP2Merrillを使い始めましたが,それでは1枚も写真が撮れない事態になります。動きに追従しない,シャッター速度が上がらずぶれまくり,ホワイトバランスも無茶苦茶です。GRの時は,少し使っていれば慣れるもので,D800と同じように撮影が可能だったのですが,さすがDP2Merrillは慣れとかそういう問題ではなく,無理だとあきらめるだけの強烈さです。

 ちょっと気分を変えて,DP2Merrillにふさわしい撮影方法を模索します。まず,晴れた日であること。感度とシャッター速度を稼ぎ,かつホワイトバランスの狂いを防ぎます。

 そして動かないこと。じっくりねらって撮影出来ること。

 こうして撮影をしていくと,わずか数枚の撮影に1時間近くかかっていることにはっとします。そうです,いいカメラ,使いやすいカメラは,コマ数は増えていくのですが,果たしてそれはフィルム時代に許されたことだったかどうかです。

 1枚1枚を大事に撮影する気持ちが失われて久しく,いきおいファインダー像を吟味する時間も短くなっていきます。写真を撮影することの楽しみ,シャッターをレリーズするまでにジワジワと出てくる脳内麻薬が,最近不足していると,改めて気付かされました。

 そしてそうして撮影した画像を,印刷するまでがもう大変です。

 D800やGRは,Lightroomを使って,高速に管理し,高速に現像が可能です。もともとの状態が良いので,手を入れる箇所も少なく,大量の写真を処理する面白さを堪能出来ます。

 しかし,DP2MerrillはLightrommが使えません。最新の現像ソフト,SIGMA PhotoPro6.3は,以前より随分ましになりましたが,それでも使い勝手が独特で,現像に時間がかかりすぎます。全部の写真を現像するなど不可能で,小さいサムネールから厳選して,現像することになります。

 そして,これをTIFF16bitで現像し,Lightroomに引き渡して,レタッチと印刷というのが私のワークフローなんですが,わずか数枚現像しただけで,やはり1時間経過しているのを見て愕然としました。

 出来上がった写真は,非常に高画質で,DP2Merrillならではの写真になりました。その解像度の高さ,情報量の多さに思わず唸ってしまいましたが,これ1枚を仕上げるのにかかった時間はやはり2時間近くで,およそ商用には使えない,手間のかかるカメラという事になるでしょう。そしてこの間に,電池が一度切れています。

 私は思いました。

 これはもう,完全に趣味のカメラであると。実用性を無視して,とにかく良い写真を撮影することだけに専念せねばならない,不便きわまりないカメラであると。

 歩留まりの高い安定した性能で,日々の記録や決定的な瞬間を逃さないことも大事ですが,じっくり被写体を向き合い,自分の心の中に見えている画像が現実に切り取られることを,試行錯誤を重ねて取り組む事を味わうカメラです。

 そうして,誰かのためではなく,自分の為だけにに撮影するカメラであることに気が付くと,なんと肩の荷が軽くなることでしょうか。

 DP2Merrillとは,のんびり過ごすことになりそうです。

ライトワンスメディアの落日

 ライトワンス光ディスクを開発した最大手,太陽誘電が,とうとう光ディスク事業からの撤退を発表しました。

 同時に,子会社であるスタートラボの清算も発表になっています。

 1988年にCD-R,1998年にはDVD-Rを開発したこの老舗メーカーの本当の姿は,名前の通りセラミックコンデンサです。こうした電子部品は単価は安いですが,なにせ数が使われるので,なかなか侮れない商売です。

 とはいえ近年,本当に数が使われる部品については安い海外製のものが強くなり,太陽誘電も高付加価値高価格品にシフトすることを表明しています。

 記録型光ディスクも同じような状況で,今日日本製のものを手に入れるのはなかなか難しいです。

 私がCD-Rに出会ったのは,確か1989年のエレクトロニクショウです。当時は1年ごとに東京と大阪で交互に開催されていました。いつしか東京開催だけになったわけですが,これがまた東京への一極集中を象徴するような話だと思います。

 当時大阪に住んでいた高校生の私は,学校が終わってから急いでインテックス大阪に出向き,主に部品メーカーでカタログや仕様書を集めてまわりました。

 なかには,露骨に学生には渡さないとか,ブースから出て行けというメーカーもあったのですが,私はこの時,エレショーできちんと相手にしてもらえるような仕事をしようと,自分の将来を見定めたのでした。

 で,この時見たのがスタートラボです。

 最高音質を誇ったデジタルオーディオの代表であるCDは,すでに身近な存在になっていましたが,録音が出来ないためにあくまでレコードの置き換え,カセットテープはそのまま存続しているという状況でした。

 当然カセットテープがデジタル化するのは間違いなく,それが後にDATとなるわけですが,まさかCDと再生互換性のある記録ディスクが登場するとは,私は夢にも思っていなかったのです。

 これを使えば,誰でもCDが作れる!

 子供の頃,ドラえもんで,自分でレコードを作ることが出来る道具を見たことがあったのですが,会場で私はこれを思い出していました。同時に,もうCDを作ることは,限られた人の特権ではなくなるだろうし,同時に羨ましがられるようなことでもなくなるんだろうなと思いました。

 デモは,ピアノかなにかの演奏をその場で録音,再生するものだったのですが,あの金色のディスクに,私はすっかりしびれてしまったのでした。

 そして,これは多くの方がそうだったのではないかと思うのですが,何度でも録音できるものと,全く録音できないものの2つしかなかった時に,一度だけ録音できるというものが登場したことが驚きで,実に感心したと同時に,一度だけという制約が嫌われるんじゃないのかなあと思ったのです。

 一度だけ録音できることの問題点は,もったいないに尽きたと思います。失敗したらあやり直し,再利用も出来ないから捨てるしかないというのが,どうも当時の感覚からすると,少なくともコンスーマー用途には向かないと思ったのです。

 しかし結果を見ていればよく分かるとおり,それは問題になりませんでした。なぜなら,捨ててももったいなくないくらいの価格になったからです。

 私が始めてCD-Rを使ったのが1995年ごろです。この時1枚3000円ほどしました。これが数年後には100円まで下がったのですが。1枚100円ならもう捨ててもいいでしょう。むしろ,書き換えによるメディアの劣化を気にしなくていいだけ,信頼性が向上するくらいです。

 2000年頃までは,とにかくCD-RやDVD-Rが流行ったなあと思います。書き込み品質,書き込み速度で,どこのどのドライブがよいとか,書き込みソフトの優劣とか,それはもういろいろなことを考えねばならないものでした。

 CD-Rの書き込みは,CDの再生システムを本当に逆方向にして記録する仕組みだったので,記録中に振動すると記録に失敗しましたし,データの転送は完全にリアルタイムでなければならないので,データの送り出しが間に合わないと,そこで書き込みに失敗しました。

 それに,一度しか記録出来ないのですから,テスト書き込みが出来ません。メディアの良品判定が出来ないのです。

 これが少しずつ改善され,書き込みが中断しても続きから書き込みが出来る仕組みが当時の三洋電機の開発したCD-Rチップセットで実現してから,振動も出データ転送も,急激に問題にならなくなってきました。

 メディアの信頼性も向上し,また安くなったことでほぼ解決,書き込み速度の向上もあって,CD-Rは本当に気軽なメディアになったのです。

 もう1つ,当時はCD-ROMが出始めた頃でしたが,あくまでCD-Rは録音用を訴求していました。しかし,CD-ROMが急激にメジャーになり,CDがオーディオとコンピュータの両方の世界で使われるようになると,同時にCD-Rも両方の世界で使われるようになります。

 こうして,安価で高性能なCDというシステムは,記録することが出来るようになって,我々エンドユーザーにも本当の意味での利用機会が訪れたのでした。

 太陽誘電がCDのライセンスホルダーであるソニーと共同で,販売会社であるスタートラボを作ったのもこのころです。CDの神様と言われた中島平太郎さんが社長を務められたことを良く覚えています。

 CD-Rの値段が下がると,生産地がまず台湾に,そして中国に移っていきました。有象無象のメーカーが乱立し,粗悪品が試乗にあふれましたが,やがて大手メーカーがきちんとした品質のものを安く供給出来るようになった,やがて淘汰されました。

 これは,CD-Rが儲からなくなっても,DVD^Rで儲ける事ができたからだろうと思います。

 DVD-Rが儲からなくなったらBD-Rで儲ける事になるのですが,記録型のBDはそれほど使われているように思いません。HDDが安くなったし,重要なマーケットであった,テレビ番組の記録が,行われなくなってきからです。

 そしてBDのに続く光ディスクが実質的に存在しません。もう光ディスクの時代ではないということです。

 かつてCDのサーボで苦労した私としても,光ディスクがなくなりつつある状況はとても寂しいのですが,それでも30年も生き残っているのですから,大したものだと思います。

 ですが,光ディスクが供給されなくなると,当然ドライブも無用の長物になります。今ある光学ドライブは,もっぱら読み出し専用となり,それもいずれなくなっていくでしょう。

 いろいろ書きましたが,これでまた1つの時代が終わったなあと,感慨深いものを感じました。

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