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さようなら,東芝未来科学館~その5

 東芝未来科学館の5回目,身近な家電品です。

(9)国産初の電気冷蔵庫 SS-1200(1930年)

 加熱,冷却は今では当たり前で珍しくもないのですが,考えてみるとこれは大変なことです。発熱も吸熱も化学的あるいは物理的な性質に頼るほかありませんが,エネルギーの供給をどうするかという問題と,温度をいかに制御するかという問題が解決しなければ,利用することが出来ません。

 どちらも強い要望があり,つまりは商売になるからということで開発が進んだ結果だといえるのですが,それにしてもものを燃やしたり,抵抗に電気を流せば済む発熱に対し,吸熱はなかなか大変だったろうなと思います。

 この電気冷蔵庫は現在主流のヒートポンプ式で,原型はアメリカGE社のものです。当時の小学校の先生の年収に匹敵する金額だったというから,どんな人が買った(買えた)のでしょうか。

 戦後の高度経済成長期に電気冷蔵庫が一気に普及し現在に至るわけですが,そのことで食品の売り方や買い方が大きく様変わりします。夕飯を作り始める直前に近所の魚屋や肉屋にその日の分だけ買いに行き,買ってきたらすぐに調理を始めるという方法しかなかったものが,現在は一週間分の買いだめが可能にほどになっています。まさに冷蔵庫さまさまです。

 とはいえ,それまで家庭に冷蔵庫がなかったのかいえばそうでもなく,氷を入れて冷やす冷蔵庫は普及していました。氷ですから,定期的な供給が不可欠ですので,そのために街に一つは必ず氷屋さんがあったと聞きます。

 私が子供の頃はまだ氷屋さんがありましたが,それもいつしかなくなってしまいました。氷で冷やす冷蔵庫もギリギリ見た事があるのですが,容量も今の独身者用の冷蔵庫よりももっと小さく,現在の冷蔵庫に求められる役割を果たせるようなものではありません。どんな使い方をしていたのか,知りたい所です。

 さて,このSS-1200ですが,せっかくだからとアテンダントの方が特別に扉を開いて見せてくれました。それがこの写真です。

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  中を見るまではドキドキしていましたが,開けてみると案外普通。アテンダントの方も「普通でしょ」と言われたことを記憶していますが,それだけ冷蔵庫の基本機能に変わりはないということでしょう。

 ただ,すごいなと思ったのは製氷皿があることでした。つまりこの冷蔵庫は氷が作れるという事なのですが,氷は庶民にとって手軽なものではなく,一般家庭で常備できるようになるというのは画期的なことでした。

 氷式の冷蔵庫は当然氷など作れるはずがありません。だからこそ氷屋さんが商売として成り立っていたわけですから,電気を使って冷却することの目に見える進歩は,おそらく氷が家で作れることにあったのだろうと想像します。


(10)ゆで卵器 BC-301(1959年)

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 卵は昔から日本人のタンパク源として重用されてきました。ゆで卵は食べやすく,持ち運びも困らず,高度経済成長くらいまでは歩きながら食べられるファストフードのような役割を果たしていたと聞きます。

 私もゆで卵は好きですが,難しいのは作ること。茹でると言いつつ適当に茹でてしまうと半熟だったり(私は柔らかいのはだめなのです),殻がくっついてむけなかったり,白身が飛び出してしまったりと,上手くいった試しがありません。

 それ以前にそれなりの時間がかかり,調理中完全に眼を放すわけにもいかないところが,私に取ってあまり親しみのある調理方法ではない理由かも知れません。

 このゆで卵器は1959年ですので,高度経済成長前夜の商品。戦後の電力不足が落ち着き,各家庭で灯りとラジオ以外に電気を使う製品で生活を豊かにと言う機運が高まると共に,各家電メーカーも創意工夫を凝らし,あの手この手で新商品の開発に夢中だった時代です。

 ジューサーや餅つき機などのこうした電気を使ったニッチな用途向けのキワモノ商品のうち,結局生き残ったのは炊飯器くらいのものだと思うのですが,このゆで卵器は今でも欲しいと思わせる商品です。

 だって,ここに水と卵を入れて放置するだけでゆで卵が出来上がっているんですよ,こんな便利はものはないでしょう。


(11)芝浦電気扇 C-7032(1928年)

 これは日本で最初の扇風機とは違って,一般家庭に普及し始めた頃のものです。原理的には現在売られているものと変わらず,交流100Vで動作し,風量の調整も首振りも可能なものです。これ,戦前の100年近く前のものですからね,

 その意味では,これをここで採り上げることもないのですが,アテンダントの方の計らいで,実際にうごかして頂いたので採り上げました。

 動いてしまえば今の扇風機となにも変わりません。風邪もしっかり来ますし,首も振ります。独特の風斬り音も今のものとそんなに変わりません。

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 感心したのが,現在一般家庭に普通に供給されている交流100Vで動作するということです。例えばですね,20年前の携帯電話を持っていたとして,これが今使えますか?

 カセットテープはまだいいとして,オープンリールテープが出てきても,これを再生することはかなり難しいはずです。

 ブラウン管のテレビはどうですか?ミニディスクだって大変でしょう。フィルムのカメラでも,110フィルムと呼ばれたカートリッジフィルムを使うポケットカメラなんか,かなり難しいんじゃないでしょうか。

 そう,大切に持っていても動かす事が出来ないのが当たり前であるなかで,今もそのまま一般家庭で使えることを目の当たりにすると,システムの継続性がいかに大切な事かを痛感します。


(12)マツダ電気蓄音機オリオン800号(1933年)

 1933年といえば,日中戦争が起こる4年前,そろそろ世の中がきな臭くなり,対象から昭和の初期にかけての自由な空気が変わるころです。

 真空管の発明に端を発したエレクトロニクスは,リアルタイムで音声を飛ばすラジオと,過去の音声を何度も再生出来るレコードの2つのオーディオ製品を一般的なものにしました。

 とはいえ,本場アメリカでも高価だったものが,当時100%もの関税をかけて輸入されたされたのですから,まさに家一軒のお値段。そこにさらにレコードを買う必要も出てくるとあれば,本物のお金持ちしか買うことが出来ません。

 ゼンマイとラッパを持つ蓄音機の価格よりもずっと高価だった電気蓄音機がこうした立派なキャビネットにおさまっているのはそうした理由からでしょうが,これも偶然実際に音を出してくれている場面に立ち会うことが出来ました。

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 当然SP盤なのですが,これが想像以上にいい音がするんですよ。もちろんノイズも多いし,強弱はつかないし,高音は出ないのですが,低域の豊かさと中域の艶やかさは素晴らしいものがあります。これを100年前の人が聞いたら,そりゃー感激するはずです。

 ちゃんと調べていませんが,当時の高級電蓄では2A3がよく使われたと聞きます。これももしかしたら2A3かも知れません。

 

 本当はもっともっと紹介したいのですが,きりがないので今回で最後です。

 繰り返しになりますが,今回紹介したものだけでも,東芝という会社が果たした先駆的な役割は大きなものがあると思います。

 我々はあまりその事実を知りませんし,東芝も声高に言いはしません。ですが,私のような興味のある人が知っているというだけではもったいなく,もっと広く知られてもよいと思います。。

 東芝という会社は我々からとてもとても遠いところに行ってしまいましたが,身近だった時代でさえも控えめだったことは否めません。今からでも構いません,日本の電気は全方位で東芝が先頭に立ってきたと,胸を張ってアピールしてくれたらなあと,そんな風に思います。

 

さようなら,東芝未来科学館~その4

  東芝未来科学館の4回目,今回は半導体です。

 前回も書きましたが,東芝は電球を祖業としていて,電子管でも確固たる地位を築いたメーカーでした。

 能動素子である電子管のトップメーカーになったことから,次の世代の能動素子であるトランジスタへの移行は既定路線で,当然のようにICやLSIでも先頭を走り続けます。

 総合電機メーカーが半導体を手がけるのは日本独自の傾向と言っていいかもしれないのですが,自社の家電が大きな商売になっていて,半導体の大口顧客が確実に存在したことに加え,ICやLSIが自社製品の競争力を高めると言ったような互いにメリットのある関係が,日本の半導体を底上げしてきたと思います。

 アメリカの半導体が軍事に支えられて発展したことは有名ですが,日本では家電がその役割を担いました。だから,日本のメーカーはDRAMなどのデジタルだけではなく,民生用のアナログ半導体も世界最強だったのです。

 日本の家電が凋落し,同時に日本発のユニークなアナログ半導体も存在感を失いました。東芝もその1つですが,皮肉なことに中国や台湾の半導体メーカーが東芝生まれの民生用アナログ半導体の互換品を生産してくれています。

 いわば世界標準になったということですが,1980年代,アメリカやヨーロッパのICの互換品を日本の各メーカーが生産していた時代に,私などは日本のオリジナル品種を海外メーカーが互換品として生産する日が来るのだろうかと思ったものです。

 まさに今そうしたことが起きているという事に,隔世の感があります。

 それから,これも過去に書きましたが,東芝はアマチュアに優しいメーカーでした。東芝のトランジスタやダイオードは高性能で安くて入手しやすいことから自作の標準部品として君臨しますし,子供向けの工作の雑誌には広告も出してくれていました。

 そういうこともあり,私にとって東芝の半導体は育ての親のようなもので,もう少し展示を増やして欲しいと思っていたのですが,まさか一般公開をやめることになるとは・・・


(7)NANDフラッシュメモリ TC584000(1990年)

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 今や半導体メモリのテクノロジーリーダーとなったNANDフラッシュ。書き換え可能,電源を切ってもデータは消えず,しかもHDDを置き換えるほどの大容量を実現したこの記憶素子は半導体の新しい応用分野を切り開きました。これも東芝の発明品です。

 もちろん,記憶素子は以前からありました。古くは水銀遅延線,後に主役となったコアメモリは電源を切ってもデータが消えないメモリでした。

 半導体を使ったメモリはフリップフロップを応用したスタティックRAMと,コンデンサに電荷を蓄えることで記憶するダイナミックRAMが大きく発展します。前者は回路技術で,後者は素子の特性で記憶を行うメモリという根本的な違いがあります。

 一方で,スイッチとして機能するトランジスタのゲートに,あらかじめ電荷を閉じ込めておくことで半永久的にそのトランジスタをON/OFFしておく,書き換え可能な読み出し専用メモリ(ROM)が登場します。

 実はトランジスタ1個で1ビットの記憶が可能なROMは,読み書き可能なRAMに比べて集積度が高く,同じ世代では最も大容量を実現出来ていました。しかし,電気的に書き込みが可能なEEPROMについては書き込みや消去の回路が大きく,なかなか普及しません。

 そこでインテルが,消去や書き込みをバイト単位ではなく,ページというもっと大きな単位で行うフラッシュメモリを開発,一気に市場が大きくなりました。

 そんな中,NANDフラッシュが登場します。NANDフラッシュは隣り合うFETを部分的に共用することで,1ビットの記憶を平均1個以下のトランジスタで実現しました。

 ただし,読み書きには強い制限がつきます。コントローラでその制約を隠蔽化して各種メモリカードに搭載されるようになって,大きな市場を手に入れました。

 1998年頃だと思いますが,それまで高価だったコンパクトフラッシュがいきなり半額ほどになったことがありました。これがNANDフラッシュの実用化によるものだったと知るのは,もう少し後のことです。

 写真は4MbitのNANDフラッシュ,TC584000です。世界で最初に市場に投入されたNANDフラッシュです。

 容量は4Mbitですから512kバイトですが,4Mバイトという当時大容量のメモリカードがわずか8チップで構成できるという事で,HDDなどの回転系メディアの独壇場だった外部記憶装置が,いよいよ半導体に置き換わるんじゃないかという気配を感じました。

 そんなNANDフラッシュも,今や東芝の手を離れ,別の会社として開発と生産を担っています。半導体は文字通り桁違いのお金がかかるので,経営者に熱意や意地がなければ続けられないものですが,本当に危険なギャンブルという性質が強いだけの産業なら,とっくの昔になくなっていても良さそうなものです。

 でも,実際にはそのギャンブル性はおさまるどころかますます強まりながら,技術の進歩と各国の思惑を飲み込み,今も巨大産業として君臨しています。

 総合電機メーカーが半導体を手がけるデメリットは,特に半導体に思い入れも興味もない人が経営者になったときに,簡単に撤退や縮小が起こってしまうことにあるのかも知れません。


(8)1MbitダイナミックRAM TC511000(1984年)

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 コンピュータにとって記憶装置は不可欠な要素なのですが,かつてはとても作るのが大変な代物でした。10個や20個の記憶ならいざ知らず,数百数千数万もの記憶素子を規則的に並べ,しかもエラーがないように作るというのは気が遠くなるような話ですし,事実黎明期のコンピュータにとって頭の痛い問題は,このメモリをどうするかでした。

 最初期にはフリップフロップを用いたり,コンデンサを使ったもの,磁気ドラムなどもメインメモリに使われた例があるようですが,どれも大量生産に向いておらず,高価なものでした。

 やがてコアメモリが多く使われるようになりますが,これとて電気-磁気変換を応用したものでしたし,米粒のようなコアに銅線を縦と横に通すという,まさに「編む」という作り方でしたから,小型化,大容量化,低価格化には限界が見えていました。

 そこに登場したのが,ICメモリです。ICはフォトマスクから同じ物がどんどん生産でき,歩留まりが上がれば価格も一気に下がります。まさに印刷であり,これを単純な阻止が多数集まったメモリを作るのに最適と考えるのは自然な流れでしょう。

 まずはフリップフロップを集積したスタティックRAMがICになりました。シフトレジスタという形で数個からスタートしたスタティックRAMは,数十,数百と容量を増やしますが,表面化したのは消費電力です。

 例えば,256bitのチップ(インテルの1101Aなど)で1kバイトのメモリを構成するには32個のチップが必要です。それでも1kバイトというメモリをたった32個のICで構築出来ることは画期的な事だったのですが,この時の消費電力は1チップあたり最大685mWなので実に20Wを越えます。

 ここでインテルは次の一手に出ます。ダイナミックRAMです。コンデンサに電荷を蓄えて記憶するメモリですが,スタティックRAMに比べてトランジスタの数は1/4で済みます。

 つまり,同じ世代のICなら,スタティックRAMの4倍の容量になるわけで,事実先程の1101Aと同世代の1103は1kbitの容量でした。ということは,1kバイトのメモリはたった8個で作る事が出来るわけです。

 ただ,コンデンサの電荷は時間が経つと抜けてしまいますので,定期的に再書き込みが必要です。こうした欠点を持っていながらも,ダイナミックRAMは今なおコンピュータのメインメモリとして王座を守り抜いています。

 さて,4kbit,16kbitとアメリカのメーカーの後塵を拝し,互換品メーカーとして少しずつ規模を拡大しつつあった日本の半導体メーカーですが,1970年後半に世界に先駆けて64kbit品の開発に成功,その後数世代にわたって大容量品の開発をリードし,品質の高さも相まって世界市場を席巻します。

 そんな中,東芝は64kbit品の開発の後れをとり,存在感が希薄になってきました。ある新聞には東芝がダイナミックRAMから撤退する,とまでかき立てられる始末ですが,ここで東芝は256kbit品での勝負を捨て,一気に1Mbit品の一番乗りを目指すことになります。

 当時はちょうど,プロセスがNMOSからCMOSに切り替わる時期で,東芝はこの1MbitのDRAMをNMOSとCMOSの両方で同時並行で進めました。最終的にCMOSが有利とみて製品化されたのはCMOSだったわけですが,実はこの製品によって,汎用のダイナミックRAMはCMOS化に舵を切ることになるわけです。

 その点では,単なる大容量化ではなく,現在当たり前になっているCMOSのダイナミックRAMの第一号だったわけで,特に消費電力の低減に威力を発揮して,その後のメモリの歴史を書き換えるのです。

 写真はそのCMOSダイナミックRAM,TC511000です。

 東芝はその後4Mbit,16MbitとダイナミックRAMを主力商品として開発を続けますが,その後は韓国企業の追い上げと価格競争に敗れ,撤退を余儀なくされます。他の日本のメーカーも同じような状況でしたが,かつてインテルが日本のメーカーに敗れて祖業であったダイナミックRAMから撤退したことと重なって見えたものです。

 

 さてさて,今回紹介したのは展示があったものですが,本当なら以下の展示もあって当然だと思っています。


・世界初の自動車用エンジン制御マイクロプロセッサ T3153(1973年)

 アメリカのフォードの要求で開発された,世界初のエンジン制御用のCPUです。世界初のCPUとは言いませんが,4bitそこらの電卓用CPUでリアルタイム制御が出来るはずもなく,タンスくらいあった12bitのミニコンをLSIで作ったものです。

 当時,PDP-8などのミニコンピュータは生産設備や計測機器の制御にも使われていて,エンジンの制御も当初ミニコンで実験されていたそうです。

 これをそのまま自動車に搭載可能に,というフォードの要求はまさに無茶で,トランクに収まるくらいが現実解だったことでしょう。

 でも,それではコンピュータを運んでいることになるわけで,エンジンの付属品として実用に供されるには,やはりLSI化しか答えはありません。

 ただLSIで作ると言うだけではなく,振動,高温や低温,寿命や信頼性という点で桁違いのスペックを要求される車載半導体における,世界初のCPUです。もっと注目されてしかるべきでしょう。

 面白いのは,このCPUはマイクロプログラム方式で作られていました。そう,KT-Pilotです。改良版のT3190では乗除算命令が追加になりましたが,これもマイクロコードで実装されていたそうです。


・トランジスタ

 世界の標準品種として使われる2SC1815は,1970年代に登場した2SC372を源流とします。2SC372から2SC1815,そして2SC2458から2SC2712と,その基本性能は変わらず現在も親しまれています。

 もちろん,2SC372以前にも標準品として2SB56といったベストセラーがあり,当時のトランジスタラジオにはよく使われていました。トランジスタの生産量がアメリカを抜いて世界一になった頃の製品です。

 FETについても実は大きな足跡を残しています。初期のFETである2SK19は高周波用として,2SK30Aは低周波用として現在も使われているロングセラーです。東芝の半導体は日本のオーディオブームも性能と価格でささえましたが,2SK170や2SK389,2SK405などはその音質で定評がありました。

・スマートメディアとSDカード

 NANDフラッシュの発明は前述の通りですが,その応用製品としてスマートメディアは異色でした。

 当初,SSFDC(Sold State Floppy Disk Card)と呼ばれたものですが,いってみればNANDフラッシュをカードサイズにパッケージしただけのものでした。

 記憶が正しければセガのデジカメに初採用,その後デジカメブームにのっかって,当時の有力メーカーである富士フイルムとオリンパスに採用されたことからメジャーなメディアになりました。

 しかし,容量アップやプロセス進化,電源電圧の低下といったNANDフラッシュそのものの違いがそのまま外部に出てしまうことから,本体側での対応が必須で互換性の維持が大変で,いずれ破綻することは目に見えていました。

 さて,SDカードも実は東芝が開発メーカーです。厳密には東芝と松下電器の共同開発で,ドイツのシーメンスが開発したMultiMediaCardに著作権保護機能を追加して,音楽や映像を記録する媒体として登場しました。

 デジカメの市場が拡大するに従ってコンパクトフラッシュ,メモリースティックと激しい覇権争いが起こりましたが,さすがにNANDフラッシュを自ら作る東芝が主導するだけあって,容量や速度で常に先頭を走り,小型メモリーカードを制しました。

 日本初の規格が世界を制覇するケースは未だにそんなに多いわけではなく,しかも現在進行形で先頭を走っているSDカードが日本生まれであることを,もっと知って欲しいなあと思います。
 

さようなら,東芝未来科学館~その3

 東芝未来科学館の興味深い展示シリーズ,今回は電子管です。

 はて,電子管ってなんやねん,と思う人もいるかも知れませんが,真空管なら聞き覚えのあるかがいらっしゃるかも知れません。真空管というのはラジオやテレビで使われた部品で,今のトランジスタやダイオードといった半導体に相当します。

 真空にしたガラスの筒の中に複数の電極を入れて増幅や発振などの機能を持たせたもの,ということなのですが,この真空管という名前はどちらかというと民生品に使われたものを指す俗称で,真空,あるいはなんらかの気体の中を電子が飛び交ってある機能を果たすような電子部品を,広く電子管と呼んでいます。

 懐かしのブラウン管もそうですし,電子レンジに使われているマグネトロンも電子管の一種です。このうち,ラジオやテレビ,オーディオと言った分野で使われる電子管を,特に真空管と呼んでいる感じです。

 電子管は人類が初めて手にした「能動素子」です。電子管によって我々は電力を増幅,発振,信号の処理に使うことが出来るようになりました。電球が光,モーターが動力を電気を原料にして変換するものだったわけですが,電子管は電気を原料にして音を大きくしたり,映像を遠距離に無線で伝送したり,足し算や引き算をしたり出来るようになりました。

 そんな電子管ですが,トランジスタが登場して80年を過ぎ,ほぼ半導体に置き換わりました。半導体が単機能の素子を複数組み合わせて「回路」としてなにかを成し遂げる傾向が強いのに対し,電子管はそれ自身が特定の機能を持つように作られてきた歴史があります。

 従って電子管の種類を眺めてその歴史をたどることは,実は産業や工学の歴史をそのままなぞることに繋がります。私が電子管にワクワクするのは,そのためです。


(3)三極真空管UN-100(1917年)

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 日本で最初に作られた三極真空管です。当時はオージオンバルブといいました。

 三極真空管は,小さい電圧を大きな電圧に「増幅」する機能を,人類が初めて手にした偉大な発明品です。これ以前に同類のものは存在せず,これ以後の人類史を書き換える,希有な発明品だと私は思います。

 増幅が出来れば発振が出来ます。発振が出来れば無線が出来ます。さらに増幅はスイッチングを可能にし,それは計数と計算の扉を開きます。増幅が出来なければ,エレクトロニクスという分野は何一つ実現しなかったのです。
           
 その偉大な発明は,アメリカのディ・フォレスト(ド・フォーレ)が1906年に行い,1907年には商品化に成功します。その商品名がAudionでした。

 日本でも各社がこの発明品に追随し開発を進めましたが,Audionが登場してから10年後,東京電気で今で言うデッドコピーが作られて,日本で最初の三極真空管が誕生しました。

 展示されているのがまさにそれで,UN-100という形式名が与えられています。電子管という最新の革命的デバイスの登場に注目し,デッドコピーとは言え形にしたこと(しかも1917年ですからね)は,いかに日本のエンジニアの視点が新しいものに向いていたのかを示すものであると同時に,実現の基盤となる金属加工,ガラス加工,真空,そして電気という最新の工学に対する基礎体力をきちんと育てていたことを示すものであると思います。

 事実,東京電気と合併後の東芝は電子管のトップメーカーとして君臨し,さらにトランジスタ,IC,LSIと現在に至る半導体と電子部品の礎となるわけです
 さて,少し話を脱線させます。アメリカのディ・フォレストですが露文で,フランス系移民の牧師の子供として生まれた彼は,エール大学を卒業,無線関係の論文で博士号を取得後,名門ウエスタンエレクトリックで無線の研究に取り組みます。

 無線の実験から,電極を炎の中に投じると検波作用が見られる事を発見します。彼はこの電極に電池を繋ぎ,検波出力を「ブースト」することを狙います。

 ガスイオンによるこの検波と増幅の作用は,炎を用いるという不安定さから再現性に乏しく,やがて彼は熱源として当時使われるようになってきた「電球」に注目します。

 試行錯誤はありましたが,彼は電球に電極を封入し,これに電圧をかけて検波と増幅を行うこのとできる真空管を誕生させます。

 この電極は当初,金属板に穴を開けたものだったのですが,やがて針金をウネウネと曲げた,魚焼き器の網のようなものになり,そこからグリッドと命名されます。

 ここに三極真空管が誕生しました。

 この時のAudionは片翼型と呼ばれるもので,プレートが1枚だけのものです。効率向上を狙ってプレートを2枚持つ両翼型が1909年に登場します。展示されているオージオンバルブは,これをコピーしたものです。

 この段階でディ・フォレストは,炎の実験から真空管の動作原理は熱電子ではなくガスイオンであると信じていて,完全な真空ではなく僅かに空気を残す方が農政が出ると思っていました。真空度の低い真空管のことをソフトバルブと言いますが,このあと1920年頃までソフトバルブの時代が続くことになるのです。

 ただ,この時の用途はあくまで検波であり,増幅や発振ではありません。これが増幅という一里塚に届くのは,長距離電話の中継器への応用を目指したウエスタンエレクトリックの基礎研究の成果です。

 ソフトバルブのせいで高電圧で扱うと放電して使い物にならなくなり,その対策として真空度上げることにしたところ,それでも十分機能する事がわかり,真空管は熱電子で動作する事が判明し,ここに増幅用の真空管が完成します。

 タイプAと呼ばれたこの真空管は,交換が簡単になるようにソケット式になり,TypeMに進化します。このTypeMこそ,後にWE101Aとなり,すべての米国系真空管の始祖となるわけです。


(4)送信管UV-171(1934年) 

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 1925年に日本でラジオ放送が始まります。無線で音声を届けるという画期的なサービスが初めってもうすぐ100年です。

 当然今で言う中波放送で,変調はAMですので,送信電力はそれなりに大きいものが望まれます。送信管という,最終的に電波を出力する電力増幅を担う真空管の開発も並行して進み,1919年には30Wの試作品が完成,1925年には水冷式の10kWものが誕生します。

 水冷式の送信管というのは真空管の世界ではロマンあふれるもので,人の背丈ほどあるUV-171というこの大きな送信管も,見ていて惚れ惚れします。

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 真空管の魅力の1つは,その複雑な電極が外から見えることにあります。UV-171くらいの大きさだと,普段オーディオやラジオ用の小さな真空管に見慣れた私には巨大な昆虫を見るようなおぞましさがあり,これに高電圧がかかり,水で冷やされるなんていうのは,恐怖さえ感じます。

 UV-171は水冷式の250kWで,ラジオ放送用に開発された真空管です。直径25cm,高さ165cmという大きなものでしたが,戦争の拡大による送信管の需要は増大,生産の増強を迫られるようなこともあったようです。

 東芝はこの時すでに電子管のトップメーカーで。1934年には28種類もの真空管がラインナップされています。まさにアメリカ生まれの真空管の国産化が定着したといっても良く,この時点で電子工学はヨーロッパ,アメリカ,日本の3極で盛んだったことが伺えます。

 

(5)万能真空管「ソラ」(1943年)

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 「ソラ」の話をするには,戦時中の軍用真空管に触れないわけにはいきません。

 第二次世界大戦は,電子工学,とりわけ無線を駆使した戦争でした。日本でもその認識は当然あり,無線通信だけではなくレーダーの開発も熱心に取り組んでいました。

 当時の電子デバイスは当然真空管でしたが,その先頭はアメリカ,そしてドイツでした。特にドイツの真空管は最先端で,短波を楽々扱うドイツ製の真空管を元に,日本無線で開発された軍用万能真空管がFM2A05Aというものです。

 海軍は品種を統一することを歓迎していましたし,性能も申し分なかったので東芝はもちろんNECにも量産するように圧力をかけていたそうですが,実のところ量産はかなり難しく,歩留まりも上がらないことが分かっていたので,東芝もNECも断り続けていたとのことです。

 当時の海軍のことですから,そうですかと引き下がるはずもなく,出来ない理由よりも出来る方法を考えろと,これまた無茶ぶりでエンジニアを困らせます。

 そんな中,東芝はこれまで海軍に納めてきたHシリーズのうち,シャープカットオフ五極管であるRH2をベースとし,量産性の向上を狙った万能五極管として,「ソラ」の完成で応えます。

 ソラはFM2A05Aの性能には及びませんでしたし,当然互換性もなかったのですが,程ほどに使いやすい性能と,素人でも製造できるという量産性と製造マニュアルの完備,材料もトタン板でもOKという合理性から,主に戦闘機の無線機用としてその需要に応えてきたという事です。


(6)X線管「ギバX線管球」(1915年)

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 ドイツのレンチェンが人の体を透過する放射線を発見し,X線と名付けたのが1895年。体を切り開くことなく内部を観察することの出来るX線診断装置は,日本ではレントゲンと呼ばれてどんな病院にも1台はあるというメジャーな医療機器となっています。

 当時のX線は,レンチェンが実験に使ったクルックス管そのものという感じだったそうで,ドイツのものが市場を抑えていました。第一次世界大戦前後という時代もあり,日本ではX管の入手が絶望的という状況でした。

 そこで国産化に踏み切ったのが,このX線管です。時代的に現在使われているものとは異なり,イオンX管と呼ばれる物だと思います。

 イオンX管は,陰極と陽極に高電圧が印加されたとき,内部の電子が封入されている気体の分子に衝突し,電離します。

 こうして電離によってできた電子は電界によって加速し,さらに電離を繰り返していきますが,このうち陽イオンは陰極に衝突するとき自由電子を発生,この電子がさらに陽極に衝突し,この時X線が発生します。回りくどいですねえ。これ,電子なだれといいます。

 このように,結局X線の発生に寄与するのは電子ですので,電子源としてのこんな不安定な仕組みを使うイオンX線管はすぐに使われなくなるのですが,さすが日本最初だけに,展示されているのはイオンX線管です。

 写真を見て,誰もがなにやら奇妙な形をしたガラス細工だと思うでしょうが,ちゃんと理由があります。

 写真の左側が陰極,右側にあるのが陽極でプラスの電圧をかけます。発熱して融けてしまわないように,膨らんだ部分に水を入れて冷却します。水冷式ですね。

 中央に見えているのが電子がぶつかってX線を出す対陰極,右側に伸びているのが補助陽極と呼ばれるプラスの電圧をかける端子です。

 下側にあるのがガス調整器と呼ばれる物で,内部にはガスをため込む性質のあるパラジウムやアスベストが入っています。その左側にちょろっとあるのが調整棒です。本来調整棒は陰極にくっつくくらいの長さがあるのですが,この展示品では短くなっているようです。

 X線管を使っていると,イオンが消費されてガスが減っていきます。こうなると電流が流れにくくなってしまうので,ガスを追加しないといけません。

 そこで調整棒を陰極に接触させて放電を起こし,その熱でパラジウムやアスベストからガス(水素らしいです)を発生させて,内部のガス圧力を調整します。

 簡単に言いますが,これがまた職人技らしく,電流の大きさから自動的に調整を行う装置が作られたりと,なにかと大変だったそうです。

 海外ではすでにこうした仕組みとは無鉛のクーリッジ管に移行していましたが,日本では第一次世界大戦の関係から輸入品が途絶えてしまい,この旧式のイオンX線管が使われ続けたという話もあります。

 こうして,日本で最初のX線管が東京電気から生まれたのは電球の生産技術があったからなのですが,それが後々レントゲン装置の有力メーカーからCTやMRI,超音波診断装置といった医療機器のトップメーカーになる,きっかけになるのです。

 

さようなら,東芝未来科学館~その2

 さて,東芝未来科学館の話,初回は大型の手作りコンピュータであるTACとKT-Pilotについて書きます。

(1)TAC(1954年)

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 個人的に,東芝未来科学館の最大の目玉と思っているのが,このTACというコンピュータです。日本のコンピュータの歴史を紐解くと,必ず登場するのがこのTACです。その実物がここにあります。

 TACは東大と東芝がタッグを組んで作った最初期の電子計算機だったのですが,実はなかなか動いてくれませんでした。当時のコンピュータは作ったらすぐ動くようなものではなく,必ず「調整」と呼ばれる工程があり,この調整が上手くいくかどうかで動作するかどうかが決まるようなところがありました。

 正直なところ,私も調整で具体的に何をやっていたのか正確には知りませんし,マニュアル類を見たこともないのですが,想像するに,当時のコンピュータはアナログ回路で構成されていて,これらに調整箇所が多かったという事ではないかと思います。例えば,メモリとして使われた遅延線などは完全なアナログでメカの要素も多かったですから,これらを細かく調整していただろうと思います。磁気ドラムなんかもそうでしょう。

 東芝が言うには,調整に使うトリガ式のオシロスコープにまともなものがなく,波形の観測がままならなかったそうで,結局動作する事なく1957年に東芝はTACから手を引いてしまいます。

 その後東大だけで再設計,製作までやってのけ,トリガ式オシロスコープを入手して調整も完了,無事に稼働まで持っていったそうです。その後3年間活躍したそうですが,ブラウン管メモリは当時高速で知られていて,これが安定動作するということで貴重な存在だったという話もあります。

 東芝は戦前から真空管やブラウン管のトップメーカーで品質,信頼性,ノウハウなどもずば抜けていましたから,TACのような真空管を大量に使うプロジェクトには最適なパートナーと東大も考えていたことでしょうが,1954年という終戦から10年も経過していない時点で,これだけの巨大システムを構築することの難しさを,関係者は痛感したことでしょう。

 さて,展示品ですが,最大の特徴であるブラウン管メモリがわかりやすい位置にあります。右側にある丸いカバーの中にあるのが,ブラウン管です。

 その横にはミニチュア感がずらーっと並んでいますが,高信頼管である4桁の真空管の名前が書かれています。希に6BQ5なんかの同じ皆名前があってホッとしますが,よく見るとフィリップス製の真空管が刺さっていたりして涙を誘います。

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 そうそう,上部には電源回路と思われるものがあり,真空管も一回り大きなレギュレータ管がささっています。おそらく6AS7(6080)か5998あたりでしょう。

 さてこのTACですが,裏側や横側を見ることも可能です。左側には電源スイッチだろうナイフスイッチがありました。電子計算機といえど,そこは1950年代の電気製品です。戦後まもなく,何もかも不足していたこの時代,身近なものをかき集めて電子計算機をなんとしても作ろうと燃えた先人達に脱帽です。

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(2)KT Pilot(1961年)

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 もう1つ目玉になるのが,このKT Pilotです。聞いたことないという人もいると思いますし,聞いたことがあるという人でも,京大が作ったコンピュータだということくらいしか記憶にないと思います。

 1961年ですからね,すでにシリコントランジスタが使われた商用機も存在していた時代で,コンピュータが社会に組み込まれ始めた時期でしたから,このKT Pilotが特別珍しい物ではないというのも事実でしょう。

 概略を言うと,日本で最初のマイクロプログラム方式を採用,非同期方式で高速,商用機であるTOSBAC-3400のプロトタイプ,というところです。

 このうち非同期方式についてはその後の主流にならなかったという点で,TOSBAC-3400のプロトタイプについては数ある商用機の1つのプロトタイプであることを特筆っすることはないという点でそそるものはない(失礼)のですが,問題はマイクロプログラミング方式です。

 CPUの命令セットをハードワイアードで定義せず,ROMなどを使って設定するこの方式は現在では知らない人などいないくらい当たり前の技術となっています。特にCISCプロセッサの代表である8086や80286,80386は,その複雑な命令をハードワイアードで作るには無理があり,マイクロプログラム方式を採用していました。

 もちろんマイクロプログラム方式は速度が遅くなります(というよりクロックの上限の足を引っ張る)から,80486では力業でハードワイアードだったそうですし,NECのV33も同様だったと聞いています。

 また,RISCプロセッサは命令セットが単純でハードワイアード出来る事もメリットの1つでしたから,その頃からマイクロプログラム方式は過去の技術みたいな雰囲気を持っていたように思いますが,現在はざっくりいえばx86の命令をRISC風の命令に変換しているので,これがマイクロプログラム方式の様なものといえば,その通りかも知れません。

 実際,このマイクロプログラム方式のメリットとして挙げられたのは,複雑な命令の実装が楽ちんであること,もしバグがあってもマイクロコードを修正すれば対応出来るというものがあり,後者については最新のCPUでもこっそり行われていたりします。

 そんなマイクロプログラム方式ですが,1950年代においては亜流も亜流,猫も跨いで通るような技術だったそうです。そんな中,京都大学ではマイクロプログラム方式を採用したコンピュータの実装が検討されます。

 目指すは命令の拡張や修正が可能なコンピュータです。当時,コンパイラやOSなどのプログラムを開発する過程で,こんな命令があったらなあとか,こういう動きをして欲しいのになあとか,ハードウェアに対しての要望がいろいろあったそうですが,要望が出る時はすでにハードウェアの開発がほぼ終わっているわけで,上流も上流である命令セットの問題など,諦めるほかなかったのです。

 しかし,マイクロプログラム方式にすれば,そうした要望を実現することが出来ます。こうしてハードウェアとソフトウェアが協調してよりよい形で完成していくことを狙ったのが,この時計画されたコンピュータでした。

 ただ,それだけでは面白くないと思ったのか,速度の向上も狙って,非同期式(動作の終了した回路が次のステージの回路に「終わったよ」というシグナルを出し,このシグナルを受けた次の回路が動き出すという仕組みで,いわゆるクロックを持たなず常に最速で動く)を採用し,かつ当時最新のデバイスだったメサ型のシリコントランジスタで動作速度そのものも上げちゃおうという試みでした。

 当時,高速なメサ型のシリコントランジスタの量産に成功していたメーカーとして東芝があり,こうした事情からのちにKT-Pilotと呼ばれることになるこのコンピュータは東芝と開発することになったということだそうです。

 マイクロプログラム方式は当時考案されたばかりで実験的な意味合いで実装されたわけですが,のちにIBMがシステム360で採用しコンピュータの世界を塗り替えてしまった後は主流の技術に上り詰め,それまで批判的だった人たちも手のひらを返したように賛成派に回ったということです。

 なので,その後のコンピュータのあり方を変えたマイクロプログラム方式という一点で大変興味深いKT-Pilotですが,その歴史的な意義が一般にわかりにくいにもかかわらず,その実物が残っていること,そしてそれが一般に公開されていることは,奇跡に近いことだと思う訳です。

 KT-Pilotの最大の特徴であるマイクロプログラムは,最終的にはプラグボードという配電盤のようなものを使って配線で行われてしまったのですが,当初の計画では大変面白い仕組みで実装されていました。

 「東芝1号機ものがたり」によると,

"マイクロプログラム用の固定記憶装置はダイオードによる記憶装置を用い、可変記憶装置としてはパッチボード方式およびフォトトランジスター(光センサー受光デバイス)による独自方式を用いた画期的なものであった。"

 とあります。

 命令を固定しておいても構わないものはダイオードを使うROMで構成,まあこれはわかります。

 しかし,可変する物をフォトトランジスタで実装というのはどういうこと?

 これ,実物を見ればよくわかります。

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 写真はKT-Pilotを横から覗き込んだものです。ちょうど正面のプラグボード(まるでエアコンの吹き出し口みたいなやつ)の裏側あたりです。

 網のように穴が開いている板がありますよね,この下にフォトトランジスタがあります。おそらくですがマトリクス状に組まれているので,手前にトランジスタが並んでいます。(一部交換されたものがあって微笑ましい)

 で,この板の真上には,ランプがあります。筐体の天井からぶら下がる形です。

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 SEALEDという文字が見えるので,反射板を内蔵したシールドランプだと思うのですが,こいつが強力な光を先程の網に照射します。で,マイクロプログラムはこの板の上に乗せた紙に,フォトトランジスタをONにしたい所は穴を開けて光を通し,OFFにしたい所は閉じたままにして光を通さないようにしておくというアイデアでした。

 なんと,マイクロコードを2次元の紙で実現するという面白いアイデアだったんですね。いやー,これは面白い。これだと確かにマイクロコードの入れ替えは簡単ですし,修正も楽です。いわばパンチカードの光学式読み取りのようなものですが,こういう手作り的な,というかアマチュア的な工作が創意工夫の結果として最先端の高速コンピュータに使われるというのが,黎明期のコンピュータ開発にはあります。

 残念な事にこの仕組みは上手く動かず,結局プラグボードという当たり前の方式に落ち着いたそうです。プラグボードは確実ですが修正は面倒ですし,全部を入れ換えるなんてことをさっと出来る訳はありません。

 とはいえ,マイクロプログラム方式であることを最大限に生かし,円周率πを100桁求めるマクロ命令を定義し,他のコンピュータがシコシコと100桁分をループで計算するところを,命令1個でだだーっと計算し,世界最速の称号を手に入れます。

 まあ,はっきりいってズルですし,チートです。かつてインテルはベンチマークテストで使われる命令を超高速で処理できるようにして,自社製品の高速性を謳ったことがあり,バレてから随分叩かれたことがあったわけですが,それをまさに地でやっていた感じです。

 でも,当時はずるいという話が出る以前の問題で,そんなに速く計算出来るわけがないとか,ウソだろうとか,そうした批判ばっかりだったということです。

 こうした考え方で作られたコンピュータを現代的な視点で見てみると,1つの命令で多くのことをこなすのではなく,単純な命令を組み合わせることでハードウェアを軽くして高速化を目指すという手法とは逆で,現代的ではないという味方もあると思います。

 しかし,一方で最新のCPUでもx86やx64といった複雑な命令を内部で単純な命令の組み合わせに置き換えて高速化を図っているという点では,同じ事をやっているともいえます。

 もちろん,どちらもその目的や動機はKT-Pilotとは異なりますので,単純な比較は出来ません。ただ,命令セット,処理速度,ソフトとの連携,という3つを跨いだ問題が,今も昔も重要かつ楽しい課題だということに変わりないように思います。

 さて,成功裏に終わったKT-Pilotは後に東芝の商用機TOSBAC-3400になり,ヒットします。ソフトの開発効率や互換性の観点から,マイクロコードを入れ換える機能はなくなり,固定化されてしまいましたが,非同期で高速という特徴はそのまま継承されて,ヒットしました。

 

さようなら,東芝未来科学館~その1

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先日,とても残念なニュースが目に入りました。

 東芝未来科学館が6月いっぱいで一般公開を取りやめるというものです。

 いち企業の展示施設が一般公開をやめるからと言って大騒ぎするようなものでもないのはずですが,ニュースになるくらいのインパクトがあるお話なのだと思います。

 東芝未来科学館は,10年ほど前からなにかとお騒がせな東芝が運営する施設で,川崎にあります。日本を代表する製造業の企業博物館ですので,その展示内容は自社の紹介でありながら,同時に日本の電気に関する産業の歴史を網羅します。

 前身であった東芝科学館(これは川崎駅からバスで10分ほどかかる東芝の事業所の中にありました)が1961年にオープン,2014年に現在の場所に移転して通算63年もの間,大きすぎて見えづらい東芝という会社と我々一般の人との間の接点を果たしてきました。

 大企業の展示施設でありながらその志は高く,その存在意義を「先端科学技術・事業の情報発信」「産業遺産の保存・歴史の伝承」「科学技術教育・啓発活動の推進」と定義し,本気で取り組んでいた様は東芝という会社の真面目さを象徴するものであったと思います。

 特に,産業遺産の保存と科学技術教育の啓発には熱心で,前者は日本初,あるいは世界初の製品を世に送り出した企業の足跡が即科学技術の歴史になるという希有な立場を負担に思うことなく,その責任を進んで果たしていたように思いますし,後者は特に子どもたちへの温かい視線が時代を超えても変わらず,多くの小学生の社会科見学を受け入れていたことからも頷けるものがあります。

 もちろん,時代と共に展示内容は変わりますし,子どもたちの興味も変わるわけですが,ちゃんと学芸員の資格をもつ方々によって「本気で」運営されていたガチの博物館という点は変わらず,自社の紹介を目的とした単なる広報施設を越えた社会的使命を長年にわたって務めてこられました。

 東京や川崎の周辺で子ども時代を過ごした人にとっては馴染みのある東芝未来科学館ですが,私のように大阪で生まれ育った人にとっては憧れの聖地でありました。

 大阪ですから,テレビも冷蔵庫も洗濯機も東芝よりは松下,シャープなわけですが,子供心に東芝という会社への「こちらを見てくれている」という安心感は強くあり,そのおかげか今でも東芝には特別な思いが残っています。

 というのも,東芝は昔から子どもに優しかったのです。サザエさんでその存在を知ったあとは,おもちゃを買えばついてくる電池は「キングパワー」です。

 キングパワーにはベルマークがついていて,遊んだ後は学校に持っていくと,それがいつしかボールに変わっていたりするわけです。

 やがて電子工作を始めれば「初歩のラジオ」で使う部品の多くは東芝製。古くは2SB56,2SC372,そして定番2SC1815です。C-MOSの4000シリーズも東芝のものが多く使われました。そして特殊なICになるリニアICも,なぜか東芝のものは頻繁に顔を出しました。

 本来,この手の電子部品というのは家電などの量産品を作るために用意されるものであり,大口の顧客相手にしか販売されないものです。1つ2つ欲しい人のために一般の販売店で小売りされるには価格が安すぎて商売になりません。

 だから電子部品のメーカーは(売ったもののサポートも含めて)小売りを嫌がるのですが,東芝は初歩のラジオに広告を出すほど,こうした小売りを大切にしてくれていました。

 いってみれば大口の客のおこぼれが工作少年の手元に届いていたわけで,それも東芝という会社の余力と気高いポリシーによるものだったんじゃないかと思います。

 とはいえ,電子部品ですのでその性能が悪かったり,品質のばらつきが大きかったり,はたまた高かったりしたら話にならないのですが,東芝の電子部品はアマチュアにはもったいないくらい高性能,品質も安定していてハズレなし,しかも安くて手に入りやすいということで,私にも「東芝なら安心だ」という気持ちがあったことを覚えています。

 子供の科学には家電品の仕組みを解説したページを長年持っていましたし,初歩のラジオには「東芝ラジオ教室」なる製作記事のページをスポンサードしていました。雑誌が広告の役割を強く持っていた時代ならではですが,自社の製品を売るためというよりは,もっと広い意味で子どもたちの目にとまることを期待していたように思います。

 そんなイメージの東芝が,まさに子どもをメインに考えて運営していた施設が東芝科学館でした。子供の科学を愛読していた小学生の私は,時折見る紹介記事を羨望の眼差しで眺めておりました

 しかし遠く大阪に暮らす私にはどう転んでも見学は無理な話です。いつか機会があったら行こうと心に決めたわけですが,就職して東京に来てみれば「結婚して子どもでも出来れば」と後回しになってしまいました。

 いざ子どもが出来ればそれどころではなく,やがてコロナがやってきて,そのうちにそのうちにと言っているうちに,一般公開終了のアナウンスです。

 あぁこうしてはいられない,ここで見学しないままいたら,死ぬときにきっと後悔すると思った私は,意を決して会社を休み,平日の見学を決行するに至ったのでした。

 そもそも,土曜日はすでに予約でいっぱいで見学できません。ですが仮に土曜日に予約が取れたとしても,平日は人数が少なく,じっくり見ることが出来る事も大きいので,会社を休むことに罪悪感はかけらもありません。

 ということで先日,念願の東芝未来科学館に足を運んだのです。

 もちろん,産業史が大好きな私は図録である「東芝1号機ものがたり」を事前に入手してあり,予習に抜かりはありません。しかし,そこにあった実物には,実物だけが持つ圧倒的なリアリティで強く訴えかけるものがありました。

 また,「東芝1号機ものがたり」にあったそれぞれの解説は,実物の前では非常に控えめであるとわかります。そう,実物を見て,アテンダントの方の説明を聞きながら当時の状況を想像すると,解説に書かれたことはかなり遠慮がちであり,実はもっと大きな意義がある事に気が付きます。

 東芝は,我々に,普段から,もっともっとアピールすべきだったと思います。

 そんなわけで,早速見学開始です。受付でQRコードをかざすだけで手続き完了。あとは好きなように見ていくだけなのですが,私は本命のヒストリゾーンから見学です。

 と,ちょうど私が入った時に,からくり人形の実演が行われる事になりました。人が集まってくるので静かに見学したかった私には複雑な気分があったのですが,言われてみれば滅多に見られるものではないですし,楽しみながら見させて頂きました。

 茶運び人形はテレビでも動く様を見ていましたし,原理も分かっているので復習のようなものでしたが,驚いたのは鳥かごに入った小鳥が鳴くからくり人形「からくりほととぎす」でした。

 ふいごを使って鳴くようになっていたのですが,実際の音(声)を聞いたのは初めてだったので,これは素晴らしい体験でした。

 いわゆる白物家電のうち,洗濯機と掃除機,扇風機は動かして頂いたのでこれも感激しましたし,電気蓄音機もその音を実際に聴かせて頂いたので,オーディオ好きとしては思いがけず感動。動く状態を維持することはとても難しいので,とても丁寧に愛着を持って収蔵品を管理されていることにもう一度感動です。

 こうしてみると,東芝という会社は,芝浦製作所の流れを汲む重電と家電品の流れと,東京電気の流れを汲む電球と電子部品の流れに加えて,合併後に生まれたコンピュータや放送機器といった別の流れがある事に気が付きます。

 特にコンピュータについては,大型コンピュータから早期に撤退したことで,後にドル箱となるシステム開発力を得ることが出来なかったと指摘する意見もあるようですが,富士通やNECなどのやり方が必ずしも正しいとは思っていない私は,東芝がとりわけコンピュータを苦手にしていたとは考えていません。

 もう1つ感じた事は,ヒストリゾーンが小さいなという事です。自社の製品の歴史を語る展示なのであまり大きくするのも憚られたのかも知れませんが,東芝ほどの歴史があり,東芝ほど世界初,日本初が多く,IEEE等からも表彰を多数受けるという実績があって,実際に多くの製品が我々の日常生活を豊かにしながら科学技術に大きな貢献をしている会社は決して多くなく,公平な目で見てもっとたくさんの実績を展示しないとかえって東芝という会社が正しく表現出来ないのではないかと思いました。

 具体的には,まず鉄道車両です。日本で最初の国産電気機関車については触れていますが,戦前の直流電気機関車EF52やEF53,戦後の新性能電気機関車の嚆矢であるED60,交流電気機関車であるED71,そして当時狭軌最大と呼ばれたEF66と,その開発に東芝の貢献は非常に大きいものがあります。

 のみならず,VVVFインバータでは日立と並んで先駆的な役割を果たし,現在も多くの車両に搭載されていますし,現役のEH200やEH800は東芝製です。鉄道車両では日立が最近なにかと表に出てきますが,いやいや東芝もすごいんですよ。

 それからトランジスタ。東芝は真空管に強くてトランジスタに乗り遅れたと言われていますが,それも最初の頃の話で2SB56では日本の標準品種になりましたし,2SC1815はラジオやテレビからモータードライブ,LEDのスイッチまで,まさになんでもこなす汎用品として安価に出回ったくせに,そこら辺のオーディオ用トランジスタよりもローノイズで音も良く,もはや究極の万能文化トランジスタと言っていいかもしれません。

 ICは自社のテレビやオーディオのために,非常に高性能なものが多数開発されていました。価格も安くなぜか入手も容易だったことで,自作のラジオが製品並みの性能を手に入れる,まさに魔法の部品でした。

 LCDも実はすごいものを持っていました。超高精細なTFTのカラーLCDを作る技術に長けていましたが,最終的に売却し東芝としてはLCDから撤退したのであまり紹介されていません。でも当時どれほど先頭を走っていたか・・・

 まだあります。そう,医療機器です。国産第一号のX管を開発したことはよく知られていますが,レントゲン装置でもトップメーカーでした。

 そしてイギリスEMIとの関係から国産のCTスキャナとMRIの開発に成功し,GEやシーメンス,フィリップスといった競合と熾烈な競争を繰り広げていました。世界のトップ集団にいたことは間違いなく,まさに抜きつ抜かれつだった伝統あるこのカテゴリを,あろうことか東芝は売却してしまいました。

 電池もおなじみでした。乾電池のブランドであるキングパワーは,松下のハイトップと並んでよく知られていましたが,子どもの工作に関係する雑誌にはなからずと言っていいほど広告が出ていて,子どもたちにはすっかりおなじみでした。

 プラス側の電極に紙の帯がかかっていて,使う前にはこれを破って端子を露出させます。不要なショートを防ぐと共に新品の証明になっていたわけですね。ついでにいうとここにベルマークがありました。

 ボタン電池,コイン電池,Ni-CdやNi-HMの二次電池は言うに及ばず,現在も産業用にSCiBという独自のリチウムイオン電池を作っていて,ハイブリッド車やN700A新幹線にも採用されています。これ,結構すごい電池なんですよ。

 電池に関して私が特に言いたいのは,ベルマークです。自分が小学生の時と,自分の子どもが小学生になったときしか意識しないベルマークは,その仕分け作業が過酷で無駄なPTAの仕事の代名詞としてやり玉に挙がることが多いのですが,その志は高く,実際にベルマークで学校の備品や施設が拡充されてきたことは事実です。

 そんなベルマークも近年協賛する企業にゆとりがなくなってきたからか,離脱する会社が後を絶ちません。もし関心があれば調べてみて下さい。昔当たり前のようにあったベルマークが,今や目にすることがなくなってきていることに驚くでしょう。

 TDKも富士フイルムも今やベルマークから離れています。そんな中,東芝は電池でベルマークを続けてくれています。Ni-MH電池の4本パックなどは高額なのでベルマークも10点を超える高得点なのですが,この電池に支払った金額の一部が学校に行くのかと思うと,決して楽ではないはずの東芝が未だにベルマークを続けている事に感心するほかありません。

 異色なところでは,音楽です。日本のビートルズのファンで,東芝EMIを知らない人はいないはずです。そしてつい最近まで,東芝は音楽レーベルを持っていて,クラシックからヘビメタ,歌謡曲から落語のテープまで,まさに幅広く音楽を作っていたのです。

 ソニーが後に音楽や映画で多くの利益を上げていることを考えると,東芝もそうできたはずです。残念でなりません。

 こうしたことをなぜもっと発信しないのか,それも東芝未来科学館という施設を持っていながら,なぜアピールしないのか,控えめにも程があると思うのです。


 さて,東芝未来科学館の見学記をこうして書いていたら,1回や2回で書いてしまうともったいないくらい面白い体験であったことがわかってきました,今回はこのくらいにして,展示品に関するお話は次回以降に続けていこうと思います。

 洗濯機や冷蔵庫などの家電品は身近ですしわかりやすいので,東芝未来科学館の紹介記事では必ず目にするでしょうし,アテンダントの方々の説明にも気合いが入ります。

 しかし,それ以外の展示品にも見るべきものがあります。だからこそ厳選されて展示されているのですが,記事にすらならないそれらは,知識や興味がないとその意味が見えてきません。

 次回以降では,私の心を震わせたマニアックな展示品を語ろうと思います。他では写真入りで取りあげることも少ないでしょう。

 一般公開がなくなれば,いよいよそうしたものを目にすることがなくなり,自ずと話題にも上らなくなります。社会的に消えてしまうのと同義ですが,私はそれが残念でならないので,せめてここで書いておこうと思っています。

 続きます。

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