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2012年09月の記事は以下のとおりです。

デジタルカメラ列伝 その2~SIGMA DP1s

・DP1s(SIGMA,2009年)

 レンズメーカーとしての名声が,もはや揺るぎないものとなったシグマは,しかしながら,焦っていた。

 自分達の手塩にかけたレンズ達は,本当にその実力を出し切っているのか。画質を決めるボディが,あるいはセンサが,自分達の誇りであるレンズの真価に邪魔をしているのではないか。

 レンズ屋ふぜいがなにを言うか!ボディを作り,マウントを持つ大手カメラメーカーの嘲笑が聞こえる。

 シグマは考えていた。今のCCDにせよ,CMOSセンサにせよ,足りない情報を計算で補完している以上,それはウソである。ウソは偽色として視覚化され,しかもウソをウソで塗り固めるために,せっかくレンズが集めた情報を削るローパスフィルタまで使っている。

 こんなバカな話はない。レンズメーカーの誇りにかけて,なんとかしなければ。

 シグマは,長い旅に出る。まず銀塩時代から酷評されつつも続けていたオリジナルのボディをデジタル一眼レフとして新開発。搭載するセンサに,FoveonX3の採用を決定する。

 FoveonX3は三層構造をもつ,全ての色をピクセル単位で取り込む事の出来る希有なセンサである。ウソがない,それがすべてだった。やがてシグマは,このセンサを開発するベンチャー企業を子会社にしてまで,FoveonX3の「正直さ」に惚れ込んでいく。

 こうして誕生したSDシリーズは,唯一無二の画像を吐き出すカメラとして,その名が少しずつ知られてゆく。

 そしてシグマは考えた。このセンサを使えば,究極のコンパクトデジカメが誕生するのではないか。他社がそのレンズ設計で躊躇するAPS-Cサイズのコンパクトデジカメは,自分達だからこそ到達出来る頂ではないのか。

 無骨で飾り気のない金属ボディ,あえて明るさを欲張らずに追い込んだ性能で一眼レフも真っ青な単焦点広角レンズ,そしてウソをつかないFoveonX3。役者は揃った。

 しかしシグマは自らの見通しの甘さに,愕然とする。まともな画が出ない。

 やってもやっても,これだけの素質を持つカメラにふさわしい画像が出てこない。死屍累々,もはや場当たり的な対策でしのげるレベルの話ではないと判断した時,シグマは開発中止ではなく,もう1つの険しい道を選んだ。

 作り直す。

 大幅な発売延期の結果,ようやく我々の目に前に姿を表した究極のコンパクトデジカメ,DP1。ホワイトバランスは外れ,AFは遅く,あげくに合焦しない。露出も外しがちで,2枚目の撮影まで延々待たされる。電池も早く切れて,カメラとしては最悪といってもいい。

 しかし,出てくる画に,息を呑む。

 不自然な色の強調や過度なシャープネスなど,画像そのものは幼稚であっても,そのポテンシャルの高さに気付いた人は,まるで秘密の金鉱を掘り当てた気分がした。RAWの深い淵に静かに潜む,膨大な情報。今目の前にある画像を構成しているのは,そのほんの一部に過ぎない。

 あふれんばかりの情報にどれだけ手が届くのか,狂信者はその挑戦を,嬉々として続ける。

 被写体を選び,構図を決め,光を読み,さらに一歩前に踏み出して,シャッターを切る。渾身のRAWデータを納得ゆくまで現像し続ける。暗部に隠れた輪郭が浮かび上がり,声を上げる。1枚のJPEGを得るのに,いったい何時間かかるのか。すべては,この戦いに勝利するため。

 DPシリーズは,28mm相当のDP1シリーズと41mm相当のDP2シリーズが誕生し,それぞれが初代,s,xと,着実に進化している。

 そして志半ばで故人となったFoveonX3の生みの親からその名をもらって,4600万画素相当の新世代センサを搭載したDP1Merrill,DP2Merrillが,今,圧倒的な高画質で高い評価を得ている。

 しかし,DPシリーズを愛する狂信者にとっては,自らがRAWにたゆたう豊かな情報を引き出さねばならない事実に,変化はない。

 手伝ってくれとは言わない,むしろ邪魔をするな。

 果たして,それは誇り高きレンズメーカー,シグマ自身の声ではなかったか。

デジタルカメラ列伝 その1~Nikon D2H

 私はカメラが好きですが,デジタルカメラの時代になってから,機材の陳腐化が頭の痛い問題になってきました。

 撮像機構がリムーバブルで,規格に従って作られており,最新技術で改良が続き,その結果50年前のカメラでも最新の画像が手に入るという銀塩カメラの世界は,私にはとても居心地の良いものでした。

 もちろんデメリットもあり,これを根本から解決したのがデジタルカメラなわけですが,失ったものも大きく,あくまで趣味の世界の贅沢品として,銀塩カメラが残ってくれたらいいなあと思っています。

 そうはいっても,デジタルカメラは便利です。それに,最新の技術はもう銀塩カメラではなく,デジタルカメラのために開発されます。

 こうみえて私はデジタルカメラを手にしたのは案外早く,最初のデジカメはコダックにもOEMで供給された,チノンのES-1000で,確か1996年の事でした。

 しかし,最近は新しいものを買っていません。数年前のものをそのまま,大事に使っています。画質はもう私の要求に達しましたし,慣れて馴染んだカメラだけに,買い換えても今以上の写真が撮れる気がしないのです。

 改めて自分の愛機を並べてみると,変な機種ばかりです。僭越ながら私の愛機を紹介します。

 第1回目は,NikonのD2Hです。


・D2H(Nikon,2003年)

 「これがデジタル時代の到来なのか - 」

 それまで特殊な装置と考えられていたデジタル一眼レフは,ニコンが放ったD1シリーズによって一気にプロの世界を席巻した。保守的でありながらも,自らのメリットになる変革にはいつも貪欲な彼らの目には,確実に次の時代が見えていた。

 フィルムの時代が終わる。次のオリンピックは,全てがデジタルで残される事になるだろう。

 こうして初代皇帝D1が築いた王朝を継承し,世界中のフォトグラファーの忠誠と尊敬の独占を宿命付けられた正統後継者,D2Hが誕生する。

 最速を極めたレリーズタイムラグ,秒間8コマを支える超高速なレスポンス,新開発のセンサ「LBCAST」,デジタル一眼レフ専用設計のメカ,低消費電力化とリチウムイオン電池の採用が可能にした連続動作時間の長さ。

 しかし,時が経つにつれ,賞賛は沈黙に変わった。
 
 400万画素という当時にあっても見劣りする画素数,ラーメンどんぶりの模様が浮かび上がるといわれた未熟な画像処理,そして特に高感度域でのひどいノイズによって,ハレの舞台であったはずのアテネオリンピックで,永遠のライバルであるキヤノンの前に惨敗する。

 たなびく勝者の軍旗のように,キヤノンの「白いレンズ」がアリーナを埋め尽くす。

 その悪夢のような光景に,ニコンの伝統を信じた者は言葉を失い,ただ立ち尽くすのみ。後に「アテネの悲劇」と語り継がれることとなる。

 やがて多くのプロが,ニコンを捨てた。なぜなら彼らは写真で食わねばならない。ニコンは,彼らを引き留めることは出来なかった。

 D2Hは都を追われた。そしてその個性を深く愛する一部の狂信的アマチュアだけが,細々と使い続けていた。

 だが,D2Hの実力は,彼を愛したアマチュア達によって開花する。

 まるでリバーサルフィルムと錯覚するほどの狭いラチチュードのLBCASTは,的の中心を射貫くがごとく,適正に決めた露出によって,独特の深い色と画素数を超えた解像感ををたたき出す。

 未成熟だった画像処理は,RAWデータをPCで現像することで生まれ変わった。400万画素という画素数はデータサイズが小さく,そのハンドリングの軽さはクリエイターの思考を妨げない。

 切れの良いシャッターは官能的で,一度シャッターを切ると脳内麻薬が吹き出し,快楽におぼれたその体は,次のシャッターレリーズを求め続ける。

 1kgを越える重量を全く感じさせない絶妙なグリップ感は,6時間握りしめても疲れを知らず,闘い終えてカメラを置いては,腕の痛みでその撮影の過酷さを知る。

 やはり,ニコンのフラッグシップである。その血統に偽りはない。

近況

 こういうところで,あまり個人的な事を書くのもどうかと思って避けていたのですが,大きな変化が起こっているので,メモついでに簡単に書いておこうと思います。

・娘の成長

 娘はとても朗らかで,いつもニコニコしてくれています。そりゃ,オモチャを取り上げれば目を三角にして怒りますが,それも自己主張のうちですし,一人で勝手に怒ることはありません。

 寂しければ泣きますし,構って欲しければ大きな声を出します。しかしぐずることは少ないですし,もうすぐ11ヶ月になろうというのに,病気らしい病気も全くせず,いつも元気にしてくれているので,本当に手がかからない子供です。

 そんな彼女は,身長も体重も平均より小さいことがやや心配でした。しかしここへ来て急激に身長(というより手足)が伸びてきました。しかも,足のサイズがどうも10mmほど大きいようです。祖母などは「きっと大女になるよ」と言っていますが,私個人は背の高い女の人は好きですので,全然良いのではないかと思っています。

 それで,ハイハイをした時も,つかまり立ちをした時も,大変感激をしましたが,この土曜日にはとうとう2,3歩,二本足で歩き始めました。

 嫁さんとあれこれ話をしているときに,ふと娘の方に顔を上げると,ふらふらと立ち上がって歩いているのを目撃したのですが,娘が頑張って努力してようやく歩いたわけではないだけに,我々夫婦は偶然に目撃したその光景が,実は娘にとって大事件であることに気が付くのに,しばらくの時間がかかったほどです。

 9月23日,娘はようやく自分の足で歩き始めました。

 彼女にとっての,本当の意味での,第一歩を歩み始めたのです。


・家を買う

 私はヨレヨレのサラリーマンで,収入も人並み程度,しかし嫁さんも同じ仕事をしていますので,世帯収入としては2倍です。つまり,私が出世して偉くなって,高給取りになったに匹敵するわけですね。

 一方で,我々夫婦は贅沢を知りませんので,家は物であふれていますし,無駄遣いも多いですが,それでも高額商品を買うことに躊躇する気の小ささが幸いしてか,貯金が知らぬ間にたまっていました。

 この低金利時代です。しかも世界経済は不安定で,資産運用もなかなか難しいご時世です。その貯金はなにも生み出しません。もったいない話です。

 そこで,娘もすくすく大きくなることですし,ここは人並みに,住むところに投資してみるかという話になったのです。

 嫁さんが間取りマニアで,ダラダラと不動産のサイトを見ていると,我々の貯金で実は買えてしまう一戸建てを見つけたのがきっかけです。後になってそんな甘い話はなく,いろいろウラがあることを知るわけですが,それでも住宅ローンを併用すればなんとかならない範囲ではありません。

 6月の後半から活動を開始,当初は建て売り,中古など様々な可能性を捨てずに動いていましたが,結局土地から注文建築で戸建てを立てる事になりました。

 集中的に土地を探して8月末には土地の契約を済ませ,並行してハウスメーカーを決定,現在間取りを検討中です。このまま順調に進んでくれれば,12月には着工,来年4月には引き渡しとなるので,春には新生活をスタートできることになります。

 繰り返しますが,平々凡々なサラリーマンの我々夫婦が,親や親戚を含めて誰の世話にも一切ならず,自分達の力だけで作る家です。狭いし小さいし,贅沢など全くできません。都内とは言え20坪ない土地に,3階建てを建てて住むのですから,今から足腰が不自由になる老後が心配でたまりません。

 でも,公平に半分ずつ出し合います。私だけでも,また嫁さんだけでも,買うことが出来なかったものです。我々夫婦だけではありません。土地を探す,半日かけて契約の手続きをする,ハウスメーカーの担当者と打ち合わせをする,キッチンを選びにショールームに行く,なにをするにも娘をだっこして,一緒にこなしてきました。

 いずれ娘が大きくなったとき,あなたと一緒に探した土地に,あなたと一緒に頑張って建てた家なのよと,そんな風に言ってあげようと思います。1歳未満の子供がその時の記憶を持っているはずはありませんが,自分の住んでいる家が生まれながらに存在したわけではないと知ると,少しは自分が住むところに対しての意識が変わってくれるかなあと,そんな期待を込めてです。

 我々は,本当に他の人に頼るような,つてがありません。どんな事も,頭をゴンゴンぶつけながら,自分達でなんとか解決していくしかありません。それは我々夫婦はもちろんですが,娘もやっぱりそうです。

 与えられるのをただ待つのも,子供のうちはよいでしょう。しかし,子供であっても自分の欲しい物に積極的に手を伸ばし,考え,行動すれば,待っているよりもずっと良いものを,納得して手に入れる事ができる事に気が付いて欲しいと思っています。

 つまり,当事者意識ですね。お尻を叩かれて渋々動くのではなく,自分で動けば楽しい上に,もっとよい結果がついてくることを味わってくれれば,人生を豊かに生きることができるでしょう。

 娘は大人の都合に振り回されながらも,今年の猛暑をよく頑張りました。本人の記憶になくとも,彼女の頑張りがあってこそ,我々家族の新生活がスタートするのです。その貢献に胸を張り,誇って欲しいと思うのです。

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