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2023年08月の記事は以下のとおりです。

北陸新幹線敦賀延伸

 北陸新幹線が来年3月に,いよいよ敦賀まで延伸されます。

 私は大阪の生まれで,社会人になってからは東京で暮らしていますので,北陸地方に住んだことはありません。

 しかし,母の実家が福井県の今庄というところだった関係で,子どもの時には夏休みに毎年のように,長いときには2週間も滞在していました。

 これは私にとってはとても大きなイベントで,何から何まで特別な,非日常な毎日を長期間(かつ毎年)過ごす体験でした。

 まず長距離の鉄道による,太平洋側から日本海側への移動があります。機構も違えば言葉も違うし,食べ物も違います。人口密度も街の賑やかさも違いますし,思い出せば光の色も違っていました。

 川の水は綺麗で冷たく,農業用水にはサワガニもいたりして,自然がそのまま残っていました。日本有数の豪雪地帯で,冬は雪に閉ざされる集落ですが,そのおかげで水は豊かだったようです。

 雪国ですので夏は涼しく,といいたいところですが,残念ながら山に囲まれた盆地だったので,夏は蒸し暑く,冬は強烈に寒いという,気候の厳しいところでした。とはいえ都会の暑さとはまたちょっと違っていて,特に夕方の爽やかさはもう一度味わいたいと思う心地よさがありました。

 母の実家は築100年にもなろうかという大きなしっかりした家ですが,なにせ豪雪地帯の農家ですから,2階はとても高い位置に作られます。ゆえに階段はとても急で,上りよりも降りるときの怖さは,今思い出しても恐ろしいです。

 今庄駅から5kmほど離れた山間の集落にあった母の実家は,かつて小学校があった場所に隣接しています。それなりに立派な学校だったようで,大きな運動場にプールまで備えたもので,1980年代前半に建て直されたりしたのですが,1990年代半ばに統合され廃校になっています。ただ,この小学校については驚くほど情報がなく,本当に存在していたのか,私の記憶違いかと思うほどでした。

 今庄と言えば,かの司馬遼太郎さんの「街道をゆく」でも採り上げられた,北国街道の宿場町として栄えたところでしたし,鉄道が交通の主役になった時代には日本有数の難所とされた柳ヶ瀬越えのため大きな機関区があった,まさに交通の要衝でした。

 当時日本最長と言われた北陸トンネルが出来てから今庄はただの通過点に成り下がり,かつての賑わいを失ったそうですが,それでも地元に人に言わせると北陸トンネルが出来た事で交通の便が良くなったことを歓迎する声が強いようです。

 大阪にいたときには,敦賀や今庄と言った嶺南地方は湖西線をかっ飛ばす特急・雷鳥に乗って直通でしたので身近に感じたものですが,東京から今庄というのはとても遠い場所でした。

 一度東京から今庄に向かったことがあるのですが,この時は新幹線で名古屋まで行き,ここから在来線の特急・しらさぎに乗り換えました。よほど大阪や京都に向かった方が早く着くので,敦賀や今庄という所はやはり大阪に近いところなんだなあと思いました。

 敦賀と言えば原子力発電所です。これも地元を二分した事件だったそうですが,今のところ大きな事故もなく,海水浴場からドーム型の原子炉が見えていて,すっかり共存しているような感じです。

 とても良くしてくれた叔父がいて,父親とは反対のとても優しい,気遣いの出来る人でしたので,私はとにかく大好きでした。あちこちに連れて行ってもらったことを覚えていますが,そういうことも,懐かしい思い出です。

 手放しに歓迎してくれた祖父が突然なくなり,その数年後に祖母も亡くなってしまうと,母ももう実家に帰省することはなくなり,大きくなった我々兄弟もかえって迷惑になるという理由で今庄に向かう機会は失われました。

 しかし,今庄駅に降り立った瞬間の,空気の違いや光の色の違いというのは今も記憶に残っていて,出来ればもう一度訪れてみたい場所です。彼の地でも様々な事があり,記憶に残っていますが,どれ1つとして悪い思い出のものはありません。

 とはいえ,自動車がなければ移動もままならないし,結局見るところも会うべき人もおらず,何をしに行くのかと改めて問われれば,難しいなあと言うため息しか出てきません。

 そんな,記憶の中だけに繋がりがかろうじて残っている敦賀と今庄ですが,当時から新幹線が通るという話だけは聞いていました。でも,当分先のことで,ほぼ無関係と考えていた「北陸新幹線」が,とうとう敦賀まで来ることになったというので,なんだか感慨深いものがあります。

 大阪と敦賀の間はまだ工事の着工も行われていない状態ですので,当面は敦賀が北陸新幹線の終点という事になるでしょう。期せずして敦賀が交通の要衝に躍り出た感じですが,それまで大阪と福井や金沢まで直通していたものが,敦賀でなからず乗り換えないといけなくなるわけで,これは大阪と福井以北との距離を遠ざけてしまうものになると思います。

 一方で,敦賀と大阪との縁は切れることはなく,なんと新快速が一部乗り入れるくらい関西の経済圏に巻き取られている現状を考えると,敦賀から大阪が新幹線で繋がらなくても,その位置付けは変わらないように思います。

 それより,東京から敦賀まで新幹線で乗り換えなしというのが驚きで,この心理的な距離の近さというのは,ちょっといってみるかと思わせるものがあります。(ただし所要時間は30分ほど短くなるだけです)

 北陸新幹線が金沢まで開業したとき,金沢と東京がぐっと近くなりました。観光客も増えたそうですが,それは関東の人にも知られた金沢だったから言えることで,福井,まして敦賀と言えばもう関東の人からすれば遠い別の世界に思えるものです。

 有名な観光地があれば別ですが,私でさえ特に目的を見つけることの出来ない敦賀に,わざわざ新幹線で出かける理由を作れません。そもそも,私の生まれ育った大阪でさえも,今はもう縁もゆかりもない土地になってしまっています。

 もともと出不精で観光が好きではない私が,長距離の移動をしたのは,そこに縁やゆかりがあり,会いたい人がいたからです。そう考えると,敦賀や大阪は,もう記憶の中だけに残るものになっていくように思います。

カセットテープへの郷愁のようなもの

 先日,過去に発売されたTDKのカセットテープをすべて網羅したという本が出たので,懐かしさに負けて勝ってみました。私はちょうどカセットテープのど真ん中世代で,自分で録音することが出来る唯一のメディアであったカセットテープには,随分とこだわっていたものです。

 最初に手に入れたまともなカセットデッキはTEACのA-450で,これは当時の友人がゴミ捨て場で拾ってきたものを,メンテをして私に譲ってくれたものです。A-450は当時の最高級機で,オープンリールなみのACモーターと大型フライホールを持ち,ワウフラッターをメカ的に押さえ込んだマシンですが,録音と再生の回路にもお金がかかっていて,テープの性能が向上していたこの時代,カタログスペック以上の音が出ていたように思います。

 A-450は古いモデルですのでメタルテープにも対応していませんし,フェライトヘッドだった関係でバイアスも深く出来ませんでしたので,当時ハイポジションとして売られていたテープの中にはバイアスが浅すぎ,高域が出すぎる傾向がありましたし,もっと悪いケースでは消去不良を起こすものもありました。

 結局基準テープとして使われていたTDKのSAを中心に使うことになるんですが,そうした事情に加えて,実際に使った感じとしてTDKが一番気に入って使っていました。

 テープそのものの耐久性がずば抜けていて,某S社のテープのようにA面とB面で時間が違うという事は絶対にありませんでしたし,某S社は3回使うとテープがヨレヨレになったり磁性体が剥げたりして捨てるしかなくなりましたが,TDKだと致命的な劣化が起きるのはもっと使い込んでからでした。

 一番最初に録音するときだって,某S社のものはドロップアウトがひどいのですが,TDKはそうしたものはなかった(1990年代前半にはひどいものがありましたが)ので,大事な録音を行う時や,FM放送を丸取りするときのマスターテープ,あるいは長期保存を行うような場合には,迷わずTDKを使っていました。

 A-450を手に入れるまでは,安いモノラルのラジカセでノーマルポジションを使うことしか出来なかったので,ハイポジションのテープを試したくて仕方がありませんでした。A-450が手に入ると念願叶ってハイポジションが使えるようになりましたが,ノイズの少なさと高域の伸びに驚いたことが思い出されます。

 そういえば,この時のテープは,確か初代のSFだったと思います。SAなんて高価でもったいなくて手を出せず,ソニーが先鞭を付けた安価なハイポジションにようやくTDKも参入し,登場したのがSFです。それでもADよりも高かったですし,私としてはそれなりの覚悟で,あのくすんだ水色の格好悪いテープを手に,ワクワクしながら自宅まで早足で帰ったことを覚えています。確か年末,12月も30日近かったんじゃないかなあ。

 その後,いろいろなメーカーのいろいろな銘柄のテープを試してきましたが,どれも基本性能で抜群の安定感を持っていたのがTDKでした。生まれて初めて箱買いを経験した(UDIの46分でした)マクセルも,耐久性や信頼性は申し分なく,安心して使えるテープでしたが,音質jについては低域が盛り上がり感じがあって,私の好みと違っていたので,積極的に使ってきませんでした。

 あとは富士フイルムです。AXIAブランドになってから,(デザインの軽さに似合わず)その性能の良さに驚き,積極的に使いたいテープだったのですが,TDKの同クラスのテープに比べて1割ほど高かったので,あまり選ぶことはありませんでした。

 A-450はワウフラッターを物量で押さえ込む思想が気に入って,大事に使っていました。回路を修正することはしませんでしたが,トランジスタはすべてローノイズ品に,抵抗はすべて金属皮膜に,コンデンサも高音質なものへ変更し,イコライザもバイアスもアジマスも再調整して使っていました。

 これが高校生くらいまでの話で,大学生になると,もうこの時期を逃すと二度と買えなくなるかも知れないという恐怖感から,AKAIのGX-Z9100EVという高級機を背伸びして買いました。A-450の後釜ですし,TEACは大好きなメーカーでしたからTEACからと選ぼうと思いましたが,AKAIのデッキを使っている人の良い評判を聞いて,買うことにしました。

 GX-Z9100EVはAKAI(A&D)のカセットデッキとしては最終モデルだったと記憶していますが,現在に至っても致命的な故障や部品の破損もなく,30年も前に買ったにもかかわらず,今も調子よく動いています。

 GX-Z9100EVの源流はおそらく1986年のGX-93にあると思うのですが,もともと会話録音程度を想定して誕生したカセットテープに,3ヘッド,クローズドループデュアルキャプスタン,PLLによる回転数制御,リールモーターを別に用意といったオープンリール顔負けのメカを奢り,さらにDOLBY-B/Cノイズリダクションでダイナミックレンジを最大20dBも改善,DOLBY HXPROで高域のバイアスを動的に補正,OP-AMPを使わずディスクリートで組み上げたアナログ回路といった電気回路を組み合わせたGX-Z9100EVは,テープを傷めることなく,ほぼ原音そのままを記録出来るカセットデッキとして私はとても重用しました。

 もちろん,DATも使っていたのですが,DATはテープが高価でしたし,耐久性が低い上,テープの劣化や不良があると音が突然途切れるというデジタルならではの問題点もあって,主役の椅子に座ることはありませんでした。

 GX-Z9100EVを買ってからは,念願だったメタルテープを使うようになりました。ノイズはやや多いのですが,DOLBY-Cでかなり低減できますし,中低域のパワーだけではなく,高レベルで録音すると落ちがちな高域もしっかり出てくるので,その音の良さに驚きました。この頃にはメタルテープの価格も下がっていて,クセのあるハイポジションを使う理由は完全になくなったと思いました。

 磁気記録,特にカセットテープについてはなぜか今でも心地よさがあり,好きなメディアです。磁気を使った記録が我々の身近な所から廃れてしまって久しいですが,物理学的にも独特の世界を持つ磁気記録は,やっぱり興味の尽きない分野だと思います。

 そんなカセットテープから,驚くような音が出てくるということを,もちろん据え置きのGX-Z9100EVでは体験していますが,手のひらサイズのポータブル型でも,信じられないような良い音が再生出来るということを,もう一度普段の生活に取り入れてみたくなりました。

 あいにく,当時使っていたウォークマン(WM-EX60)は,ゴムベルトが切れてしまったために捨ててしまいました。今またWalkmanがちょっと見直されているようで,ゴミベルトも手にはいやすくなっているので,捨てずにおいておけばよかったと後悔していますが,こうなるとなかなかあきらめが付かないものです。

 ポケコンもそうだったのですが,お店でジャンクを漁ることが出来ない私が頼るのは,某オークションです。程度の悪いものが高価だったりするのでここももうあてにはならないんですが,とにかく手を出さないと始まらないと,Walkmanの修理の世界にこぎ出すことにしました。

iPad2のLCDを再利用する

 先日,部屋を見渡して見ると,もう使う事のないタブレットが出てきました。3年ほど前に購入した中国製の安物で,その時は便利に使っていたのですが,1年もすると性能も追いつかず,画面も擦り傷だらけになってしまって,いつの間にやら使わなくなってしまいました。

 使わないタブレットというのもなかなか始末に負えないもので,どうやって処分するんだろうと首をかしげてしまいます。10年ちょっと前には存在しなかった家電製品だったわけですから,さもありなん,というところでしょうか。

 基本的には電池を抜いて,プラスチックは燃えるゴミ,金蔵などは燃えないゴミで出してしまえばよいと思うのですが,なにか再利用できないものかと考えていると,ふとタブレットのLCDをHDMI入力のディスプレイに改造している例を思い出しました。

 こうした情報機器が安価になっていくのは,最初はカスタム品で作られる部品が徐々に標準化され,複数の選択肢から部品を選ぶことが出来るようになることで競争が起き,部品の値段が下がるようになります。

 こうした標準部品を上手に使うことも設計者の力なわけですが,1万円ほどで買える中国製のタブレットなんて,もう標準品をぱぱっと組み合わせて作っているものだと思っていたのです。

 そういえば,LCDはLVDSからeDPにインターフェースが移行したと聞いていますし,これはLCDを再利用出来るかも知れません。

 どうせ持っていても仕方がないので,さっさと分解してLCDを取り出します。このLCDは1280x800の10インチなんですが,部品名を検索しても引っかかりません。この段階でもう雲行きは怪しいわけですが,コネクタはeDPでよくある30ピンです。

 ならばと,手持ちの11インチLCD(レトロPC界隈で有名になってしまったWIMAXITです)を分解して,中のコントローラ基板に,取りだしたLCDを繋いでみます。というのはこの基板はeDPの30ピンのLCDが繋がる基板で,もしかしたらなにか画面が出るかもしれないと思ったのでした。

 ただ,解像度が違いますので,まともな表示になるとは思えません。結果は電源すら入りませんでした。たぶんですが,ピン配置が違っているんだと思います。

 amazonやaliexpressで出ているこれらのコントローラ基板をよく見てみると,それぞれ対応するLCDの型名が書かれています。つまり汎用品ではなく,特定のLCD向けの専用品です。

 そりゃーそうだよなあと思いつつ,型名を検索してもなにも出てこなかったこのLCDはあきらめました。

 ならばと古いkindle Fireを分解してみましょう。Fireタブレットと呼ばれる前の製品で,もう10年近く前になるんじゃないかと思いますが,さすがに古いものは分解も楽です。

 しかし残念なことに,LCDを取り出すところまで進めることはしませんでした。というのは,すでにLCDのコネクタのピン数がピンと,標準的に使われている30ピンでも40ピンでもありません。ピン配置を調べなおす根性もなければ,ケーブルの自作をするような気力もありませんので,これもそのまま廃棄です。

 もう1つ,これは結構覚えているのですが,iPad2がありました。

 iPad2は嫁さんが産休に入ったときに,ノートPCは大変だろうとプレゼントしたものだったのですが,その後彼女はiPad信者になってしまい,iPadminiから現在は最新のiPadProを使っています。

 このiPad2は,メモリも小さいですしOSもアップデート出来ませんから実用にならないだけではなく,娘が赤ちゃんだったときにヨダレがLCDに染み込んでいてもう使い物になりません。

 これを引っ張り出して早速分解して見ますと,LCDはsamsungのiPad用のおなじみのものが出てきました。これに対応したコントローラ基板は見た事があります。探してみると,amazonで3000円ほどで売っていました。早速購入。

 翌日届いたので試してみます。コントローラ基板から出てくるコネクタをLCDに差し込むだけなのでとても簡単なわけですが,電源を入れるとあっさり動いてくれました。

 iPad2ですので1024x768というXGAのLCDに過ぎませんし,3:4というのも今となっては違和感があります。しかし発色は素晴らしいので,これを汎用のLCDモニターとして使えたらなかなか良さそうです。

 まずHDMIは問題なし。VGAは31kHzから対応で,残念ながら15kHzや24kHzは表示されませんでした。うーん,PC-386BookLで使えたら面白そうだったんだけどなぁ。

 電気的に動作する事は確認出来ました。あとはケースに入れること,そして使い道を考えることが残っているのですが,このへんもぼちぼち考えていこうと思います。

PC-386BookLはいよいよ完成

 先日PC-386BookLの復活について書きましたが,その後さらによい方向に検討が進みました。なにかと問題を抱えていたコンパクトフラッシュの問題が根本的に解決したのです。

 MS-DOSや初期のWindowsといった20世紀のOS,むしろそれらが動作するシステムすべては,NANDフラッシュと言う半導体メモリが同じ場所に何度も連続して書き込むことで寿命を大幅に縮めてしまうことを考慮していません。

 というよりも,フラッシュメモリでシステム全体を運用することなど夢物語だった10年ほど前までは,専用につくられたSSDでさえシステム側での対応は十分とは言えず,なにかしらの問題を抱えた上で使われていたものです。

 特にスワップの発生する仮想記憶を持つOSでフラッシュストレージを使うことは,その書き込み頻度の多さから慎重でなければならず,きちんとした対策が行われている最新のOSを用いることのないPC-386BookLで私がコンパクトフラッシュを使うことにしていたのも,その運用がMS-DOSに限られていたからです。

 ですが,やはり原理的に壊れるものを使うことへの抵抗は大きく,できればハードディスクを使いたいと思ってはいました。それに当時のマシンですから,ハードディスクの遅さを味わうのも,また一興と言うところでしょう。

 残念なことに,PC-386BookLに内蔵して使えるハードディスクは当時のものを中古で探すしか手はありません。仮に手に入れることができたとしても,ドライブ自身は著しく信頼性を落としていると思いますし,適合する新品のドライブ探して入れ替えることは簡単ではありません。

 そこで私は思い切ってTrue-IDEモードを持つ,古い小容量のコンパクトフラッシュを使って40MBのIDE接続(DOSからはSASI接続に見える)のハードディスクとして使うことにしたわけです。手持ちのコンパクトフラッシュの大半はうまく動いてくれませんでしたが,256MBと32MBだけは動いてくれて,このうち256MBのもので40MBのハードディスクを再現して使うことにしました。

 この目論見は案外うまくいき,その高速性も手伝って快適なMS-DOSの環境を手に入れることがかなったわけですが,MS-DOSとはいえ古いコンパクトフラッシュには荷が重く,使っているうちに長時間反応を返さなくなったり,ハングアップしたりする頻度も増えてきました。

 これではいつ動かなくなってもおかしくはないと,使えるコンパクトフラッシュを探さねばと新品の64MBなども買って試してみましたがうまく動いてはくれませんでした。もし現在動作している貴重な256MBのコンパクトフラッシュが壊れてしまうと,PC-386BookLそのものが動かなくなるということが起きてしまいかねません。

 そこで目をつけたのが,もう二度と使うことがないであろうマイクロドライブです。一世を風靡したコンパクトフラッシュサイズの超小型ハードディスクは,まだIBMがハードウェアメーカーとして世界を牽引していた時代の製品で,確か最初は340MBからスタートしていたと思います。当時340MBと言えば大容量で,このサイズのコンパクトフラッシュは非現実でしたから,これこそハードディスクの生きる道であると話題になったことを思い出します。

 圧縮音楽を詰め込む音楽プレイヤーが丁度登場した時期で,にたようなサイズの超小型ハードディスクはIBM以外のものも含めて以外に身近にあったのですが,基本的には印刷と同じような技術である半導体にかなうはずもなく,6GBまで発売されましたがその後はその使命を終えました。

 私はデジタルカメラ用に1GBと6GBを買って使っていました。しかし,その後フラッシュメモリが安くなったこともあり,使うことはなくなっていたのです。

 この1GBのマイクロドライブがPC-386BookLに使えたら好都合です。書き込みよる劣化も基本的には起きませんし,もともと衝撃には十分な配慮をしてつくられたマイクロドライブをコンピュータの内蔵ストレージに使うと言うのですからまったく問題はありません。消費電力も小さいですし,遅いといっても当時のハードディスクに比べたら随分高速です。

 しかし,残念なことにこのマイクロドライブはうまく動いてくれず,このときは結局あきらめたのです。

 今回,もしかすると動くかもしれないともう一度試したところ,なんとあっさりフォーマットができて,MS-DOSが起動するところまで出来てしまいました。それならとバックアップしてあったコンパクトフラッシュのイメージをそのまま書き込んでみたところ,これもあっさり動作してしまいました。

 これでフラッシュメモリの劣化の心配をしなくても済みます。それに,ドライブの起動時間からくるタイムラグも,当時の使用感を思わせて個人的には懐かしい感じがします。
 ただ,使い勝手は確実に悪くなっているので,コンパクトフラッシュの時には使う必要がなかったディスクキャッシュを復活させました。2回目以降のアクセスでハードディスクにアクセスしないと言うのも当時の感覚そのものですし,当時のマシンを使うならこういうところも味わないといけないと思います。

 ということで,フリーズもなくなり,安心して当時の使い勝手をそのまま再現したPC-386BookLが出来上がりました。当時はこの環境でガンガン日本語を書いていたんだなあと思うと信じられない気がするのですが,ものは試しにとこの文章はPC-386BookLで書いています。

 FEPは懐かしのWX3,エディタはMIFESです。ちょっと遅いですし,変換精度もさすがに良くないのですが,普通に文章を書くくらいなら十分に使えると言う印象です。

 ただ,PC-386BookLのキーボードは今の水準で言えば良くないキーボードで,音はうるさいわ変なクリック音は出るわストロークは深いわバネは重いわで,正直疲れます。ここだけでも改良できれば随分使い勝手のいいマシンになるんじゃないかと思うのですが,うまく改造する方法が浮かびません。

 それともう1つ,冷却の問題です。PC-386BookLには小さな空冷ファンがついていますが,普段は止まっています。冷却が必要な内部温度になると勝手に回り始め,温度が下がると自動停止する賢いファンです。

 1年ほど前は問題なく動作していたこのファンも,いつの間にやら動作しなくなっていました。かといって故障したわけではなさそうで,電源を入れなおせば回転しますから,制御回路の問題かなあと思っていました。

 もし本当に制御回路の故障なら長時間の使用で電源ブロックが壊れてしまうでしょうし,壊れなくても熱による劣化が進んでしまうので,長時間使うのをためらっていました。

 この文章を書いているうちにも,どんどん温度が上がってきています。いよいよ心配になったその時,ようやくファンが自動的に回り始めました。どんどん温度が下がっていくのがわかりますし,基板をIPAで洗浄したため,あの嫌な臭いもしなくなっています。

 ということで,PC-386BookLは,本当に実用的に使えるマシンになってくれました。なんだかんだで1年かかりましたし,これはもう本当にだめだろうとあきらめそうになったことも一度や二度ではありません。爆発や出火の危険もありましたし,その意味では今も安全だとは言い切れません。

 次にやるべきことはこのキーボードをもっと使い易くすることでしょうけど,それはもう30年前のマシンにするような改造とは違うように思います。当時のマシンそのままに,いいところも悪いところもまとめて味わうことが,このPC-386BookLの正しい使い方のように思います。

 CPUはCX486SLCですからメモリのバスはなんと16ビットですし,クロックはわずかに25MHz,メインメモリはたったの640KBで拡張メモリも2MBに過ぎません。

 画面は640x400でVGA以下,LCDはもちろんモノクロですがそれもSTN液晶と言う,いまなら時計か電卓くらいにしか使われていないようなパッシブマトリクスの液晶です。モノクロも白と黒ならまだしも,青と白ですから目が疲れて仕方がありません。バックライトも当時のことですから冷陰極管という蛍光燈の一種でLEDではありません。

 マウスもトラックパッドもなく,これを今時の人にわたしても,きっとどうしていいかわからなくなってしまうでしょう。なにせ画面に出てくるのは,16ドットの荒く大きな文字だけなのですから。

 そんなマシンで動作するのはMS-DOSという原始的なOSです。今となっては本当に原始的としかいえなくて,コマンドを打ち込まないとなにも出来ません。しかし,こうして日本語の文章が書けています。キー配列ももう慣れて,すらすら書けるようになってきました。

 うーん,この用途には,これでもう十分なんじゃないでしょうか。

 有り余るCPUパワーや膨大なメモリは,結局見た目の美しさや操作に費やされているということでしょう。それは作業内容そのものにはそれほど関係はなく,商品として魅力的にみえるかどうかということに,大きな役割があるように思います。

 もちろん,使い勝手そのものに貢献した進化も多いでしょうし,目の不自由な方や手や指がうまく動かせない方に寄り添うような機能の実装も,昨今のCPUパワーやメモリがあったからこそといえるかも知れません。

 でも,やっぱり私は,今のPCやスマートフォンが,装飾過多になっているんじゃないかと,思わざるを得ません。

 一方で,同じように進化を劇的に遂げた自動車を考えてみると,本来の目的である移動をより快適に行うために進化してきたことに,私は疑問を感じません。

 同様にPCだって,例えば目的である文書作成を快適に行うための進化と捉えれば,このきらびやかな画面もまた納得せざるをえないのでしょうか。

 どうやら問題は,こうした進化の結果の選択肢が,我々ユーザーに少なすぎることにある用に思えます。自動車はそれこそ星の数ほど選択肢があります。しかしPCはOSを入れてしまえば,どんなマシンも向き合うのは結局OSです。

 自動車は基本操作はどれも共通で,PCも共通の操作系を持つことは当然でしょう。しかし見え方なんかは,もっと選択肢があってもいいんじゃないかと思います。

 その昔,PCはカスタマイズのためのツール類が商品として売られていました。それらは次第にOSに取り込まれていき,カスタマイズはOSを新しくしたときにまず最初に行う儀式になりました。

 しかしそれも下火になり,今我々が新しいPCに買い替えたときに行うことは,これまでの環境をそのまま移行させることです。いつからでしょうか,新しいマシンに買い替えたことがワクワクしなくなったのは。

 そうこうしているうちに冷却ファンが自動停止しました。これで一安心。もうこのマシンは大丈夫でしょう。




DiskIIコンパチ品の回転数が狂う

 お盆休みのある日の午前,30年も前に秋月電子で購入した韓国製のテスターに付属していたフロッピーディスクを見つけました。Goldstarの5インチで,なんと2Dです。IBM-PC用ですね。

 貴重な5インチ2Dですので,早速使えるかどうか試してみたくて,久々にAppleIIの電源を入れてみました。Locksmithを起動してチェックしますが,フォーマットをかけるとどうにもエラーばかりです。これはおかしいと,他のディスクをフォーマットしてみたところ,やはりエラーです。

 エラーが出ているのは松下製のドライブを使ったコンパチ品ですので,純正ドライブで試してみたところちゃんとフォーマット出来ました。ドライブの問題です。

 いやー,面倒なことになりました。フォーマットが出来ないというのをもう少し調べてみると,最初のセクターでエラーが出ているようです。こういう場合は回転速度がまずい場合が多いので回転速度を調べたところビンゴ!

 回転速度が狂っていて,随分速めになっているようです。わずか1年で狂うというのも変な話で,原因ははっきりしませんがとにかく速度を純正ドライブと同じ程度に合わせ直します。

 するとフォーマットもきちんと出来るようになりました。やはり回転速度の問題だったようです。この松下のドライブですが,その後の国産ドライブの隆盛が信じられなくなるくらい,SA-400の完全コピー品といっていいくらい,寸分違わぬコピーっぷりです。その割には回転ムラも大きいですし,シークの音も大きく激しいです。総じて品質は悪く,1970年代の日本の精密機器産業の実力を見る思いです。

 回転ムラが大きいことは書き込み品質を低下させるのでうれしくないのですが,これはモーターの問題かもしれませんし,スピンドルの軸受の精度や,ベルトの劣化が問題かも知れません。まあ,40年も前のものに文句を言うのも筋違いですが,純正品は未だに安定して動作していますし,当時の広告を見ても「信頼の国産ドライブ」と書いてあるわけですから,実際はこの頃のアメリカ製には見るべき者があるなあと思った次第です。(とはいえモーターなどは日本製だったりするわけですが)

 どっちにしても,コンパチ品は個体差も含めて程度はあまり良くなさそうです。回転速度もこまめにチェックをしないといけないでしょうし,書き込みが頻発する用途には使わないようにしないといけないと思います。

 それはそうと,AppleIIの調子も今ひとつだったりします。しばらく動かさないと起動しなくなるというトラブルはありましたが,今回初めて,動作中に突然画面が乱れてフリーズしました。暑いせいかも知れませんが,やっぱり私と同じように歳を取るものなんでしょう。

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