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2014年03月の記事は以下のとおりです。

小ネタ集

 2月から3月にかけて,忙しかったり体調を崩したりと,なかなか日誌を更新できなかったのですが,それなりに書くべきこと,書きたいことは毎日起きています。


・実家にいる猫

 実家には猫がいます。とはいえ,私が実家を出てから随分後に,念願叶って母が飼い始めた猫ですので,猫にとって私は全くの他人です。

 その猫の名前はチョボといいます。全くの雑種で,白と黒のぶちのある猫ですが,顔の模様もなにやら不思議で,鼻のあたりに「ちょぼ」があるように見えるので,チョボと命名されたそうです。

 チョボはなかなか不幸な猫で,母の友人に乗馬を趣味にする人がいて,その牧場に捨てられていた子猫のうちの1匹だったとの話ですが,チョボだけがあまりになつかないという理由で,里親から戻されてきたそうなのです。

 なつかないといっても,とにかく攻撃してくるらしく,手に負えないということでモッドされるのもやむなしなところがあるわけですが,ほとほと困り果てて母親に相談したところ,じゃうちで飼おうかという話になったようです。

 それでもなつかなければ駄目なわけですが,果たして母親にだけは,甘えて甘えて,ずっとくっついているという話です。母親以外には絶対に甘えなかったこの猫は,めでたく相思相愛で母との共同生活を始めることになったのでした。

 おそらく,ですが,その牧場できっと人間に怖い目に遭わされたんじゃないでしょうか。それこそ命に危険が及ぶほどの体験があって,警戒すべき特徴を持つ人間に怯えることを,小さい子猫のうちにすり込まれたんじゃないかと思います。

 母は,長く猫を飼ってきましたし,体も小さく,動作も大きくありません。声も小さく高いですから,少なくとも警戒すべきタイプの人間と認知されることはありません。このことは,後日,弟や私,あるいは父に対してチョボが取った行動でも,裏付けられると思っています。

 いつも怯えて,やせて小さかったチョボは,絶対的な安全を保証される母との共同生活において,徐々に心身ともに正常な猫に戻っていきました。体も大きくなり,トイレ等の生活習慣も素早く覚え,家中を散策することを楽しむようになり,厳しかった表情に豊かさが戻り,なにより母親に甘えて暮らすようになりました。

 母もそんなチョボとの生活がとても楽しいようで,両者はまさにベストパートナーとなりました。

 しかし,母以外の人間には相変わらず隙を見せず,鋭い眼光を見せるのです。最初は弟に対してそうでした。数日間押し入れから出てこなかったそうです。既製の機会が多い弟には,そのうち慣れて,今では母同様にすり寄ってくるそうです。

 父には絶対近寄らないそうです。詳しいことは知りません。

 私はと言うと,これまで1度だけチョボに会いましたが,この時は一度も姿を見せてくれませんでした。やっぱり体が大きく,声も太い男の人には警戒心を解かないのかもなあと思っていましたが,あれから3年,なんとチョボは私にお腹を見せて,ごろんと転がって甘えてくれたのでした。

 私がこの3年で変化した訳ではありませんから,これはもうチョボが変わったとしか思えません。母がチョボの傷を癒やしたのだろう,チョボももう怖がる必要はない,母と一緒にいる人間なら大丈夫と,そんな風に思ってくれるようになったのかも知れません。

 D800に24-70を持ち帰っていたので,これでチョボを撮影してきました。次に会えるのがいつになるか分からないですから,貴重な機会になりました。

 チョボの尻尾は,L時に曲がっていて,遠くから見ると尻尾の先端がハート型になっているようにみえるのです。そんな尻尾を触られることを,チョボはとにかく嫌がるのですが,以前と違って柔らかい表情になったチョボは,私から見てもとにかくかわいらしい猫だと,思いました。


・なくした本が出てきた話

 先日,大阪で私の持ち物を整理してきたことをここに書きましたが,後日談を1つ。「最盛期の国鉄車輌」というシリーズがネコパブリッシングから出ているのですが,かさばるのである時期までは実家に保存してありました。

 引っ越してからはこちらにのこしてあるのですが,今回実家の分を持ち込むことで,全館自宅に揃えられると喜んでいたのです。届いた荷物をほどき,実家にあった分を本棚に並べてみると,1冊足りません。あれ,第7巻がぬけています。

 自宅にあったのは第8巻からですので,本来なら実家に第1巻から第7巻までなければなりません。第7巻の発売時期を調べてみると,ちょうど引っ越しの前後です。実家に送った可能性もあるし,引っ越しの荷物に紛れている可能性もあります。最悪なのは引っ越しのどさくさで紛失したことでしょう。

 引っ越しというのは細かい事に気が遣えませんので,何が起きても不思議ではないだけに,本が1冊なくなるなんてことは十分に考えられることです。

 そして,決め手になったのは,私の蔵書管理データベースです。これによると,第7巻は自宅にあるということになっています。つまり,実家には送っていません。

 そこで,未開梱の荷物や嫁さんの持ち物など,私がまだ見ていないものをざっと調べてみたのですが,やっぱり見つかりません。これはもう,なくしたと考えるほかなさそうです。

 なくしたなら買えばいいじゃない,とどこかの王妃がいいそうですが,amazonで調べると注文できないと出てきます。他の本屋さんを見てみると品切れ絶版と出てきて,どこも注文できません。第6巻までは増刷がかかっているのか注文できますし,第8巻はまだ在庫があるようなのですが,第7巻だけはちょうど手に入らない状況です。

 かの王妃も,自分ではどうにもならない時代の渦に飲み込まれましたが,私も自分ではどうにもならない事態に遭遇してしまいました。

 まず,絶版の本がなぜか注文できて,どうせ駄目だろうと思っていたら届いてしまったという経験を何度かしているブックサービスを見ます。すると,なんと注文できるじゃありませんか。納期も明確に書かれているので脈はありそうですが,なんといっても版元が「ない」といっている本ですから,望み薄です。しかし,他に手はないので注文をします。

 その後,ジュンク堂を調べてみると地方のお店に在庫があることが判明。もしブックサービスが駄目だった場合には,ここに直接電話して,送ってもらうことにしましょう。

 さらに,鉄道の本なら模型屋にもあるはず,と調べた結果,いくつかの模型店にも在庫があると判明。ダブってもいいから,ブックサービスの状況が判明する前に買ってしまってもいいかもしれないと,その時は思いました。

 その数時間後,ブックサービスから「発送しました」とメールが届きました。あれ,本当に手に入ってしまった・・・恐るべしブックサービスです。

 翌日受け取ることが出来なかったので,週末に再配達をお願いしたのですが,金曜日の夜別件で母親と電話で話をしていると,母親が最後に「そうそう」と切り出しました。

 いわく,「あんた,本が数冊残ってるで」

 もしやと思って,残っている本のタイトルを読み上げてもらうと,やはり「最盛期の国鉄車輌」でした。そう,実家にあったのです。

 母親が言うには,この本が入っていた箱は屋根裏にはなく,別の部屋の隅っこに置いてあったそうです。これはどうも私が引っ越しの直前に実家に送った本らしく,最後の荷物だっただけに実家でも,そして自宅でも管理されない,宙に浮いたものになったようでした。

 ブックサービスの本が翌日の朝に届くという時に,実家にあると判明する・・・なんと残酷なことでしょう。

 母親も悔しがっていましたが,私はどういうわけだかさっぱりしていて,自分のミスをお金で解決してなかったことにしようとした罪が,なんだか濯げたような気がして,うれしくなりました。

 果たして,届いた「最盛期の国鉄車輌第7巻」は,背表紙は日焼けしていますが,本そのものはとても綺麗で,これもなにかの縁だなと,私はこいつを本棚に収め,全巻揃ったことに,満足しました。


・消費増税前のささやかな抵抗

 あと数日で消費税があがります。3%の増税ですので,1万円につき300円の値上げに相当します。どうぜ値上げするなら,その300円は有効に活用されるであろうメーカーに入って欲しいと思うわけですが,不本意とはいえ選挙で決まった結果ですので,仕方がありません。

 なら,抵抗できるのは買いだめくらいです。安いものを買いだめても面倒なだけなので,高価で長持ちするものを買っておくのが賢い買い方です。

 そして,その代表はなんといっても,お酒です。私は500mlの缶ビールを4ケース(そのうち2ケースはエビスですよふふ),紹興酒を12本,そしてスコッチウイスキーを12本買いだめました。しばらくはこれで安心です・・・って,これにいったいいくらかかったのか!

 しかも,収納場所も問題です。嫁さんにだまって,使っていない部屋の押し入れにこっそり入れてありますが,もしばれてしまって,嫁さんが飲んだり誰かに売り飛ばしたりしても,もともとなかったものなだけに,私も嫁さんを問い詰めることはできません。なら,自分でさっさと飲んでしまうべきかと思いましたが,それなら何のための買いだめでしょう。

 消費税のアップが,こんなジレンマを生むとは,想像だにしませんでした。

 一方で,買うのをやめたものもあります。

 増税前にレンズを1つ買おうと思っていましたが,年末からずっと現行のニコン純正の60mmマクロレンズ(Micro-Nikkorですね)の値段が下がるのを待っていました。

 このレンズ,実売で5万円そこそこにも関わらず登場時からその卓越した性能で評判になっていたレンズで,D800が登場した時にニコンが推奨したレンズ一覧の中で,最も安価なものでした。ナノクリスタルコートを採用したこともあって,この価格でこの画質が買えるのは大サービスですね。今もって大人気の高画質レンズです。

 4万円中頃だった時期もありましたが,年末の段階で5万円程度,そこから徐々にあがり,今は6万円弱というところです。

 年末に買っても良かったのですが,いや,年度末には下がるはずと我慢したところ大ハズレで,今もって値段は高止まりです。このまま待っても値段は下がらないだろうから,この際買っちゃうかと思ったのですが,冷静に考えると増税分は6万円弱で3%ですから,ざっと1800円。先々1800円以上値下がりするなら,今買わない方がよいですよね。

 私にまだこうした冷静さが残っていることに感謝しつつ,とりあえず購入を保留しました。そういえば,2歳半になる娘が,最近カメラを意識するようになり,カメラを向けると逃げるんです。新しいレンズを買う理由が,また1つ減ってしまいました。


・電気工事士の資格が役に立つ

 2月に免状を手に入れた第二種電気工事士ですが,以前より問題として上がっていたコンセントの増設を行う事にしました。

 作戦は3つで,まず2口のコンセントを3口のものに交換することで,1列なら1つ,2列なら2つコンセントが増やせます。

 次に,LANやテレビアンテナと一緒になっているコンセントの場合,2列でも1マスだけあいている場合があって,ここに1口のコンセントをあてがうことで,きっちり2列が埋まり,コンセントがさらに1つもしくは2つ増やせたりします。ここまではとても簡単な作業です。

 最後に完全な新設で,壁に穴を開けてコンセントを作り込みます。これはリスクが大きいですよ。なんといっても,壁の向こうは見えませんから,穴を開けようとのこぎりを入れて切ってみたはいいけど,実は柱があったとか,電線を切ってしまったとか,後戻りの出来ないトラブルが懸念されます。

 仮に穴が開いても,そこに電線を引っ張ってこないと行けないわけで,どこから引っ張ってくるのか,よく考えないといけません。間に柱があれば,柱に穴を開けないといけませんし,もし間にある柱が3本あったら,真ん中の柱にはどうやっても穴を開けられませんので,ここで手詰まりです。

 余程の自信がない限り,手を出せない世界なのですが,その代わり圧倒的な利便性を誇ります。

 うちは,電気に依存する家ですので,とにかくコンセントが足りません。おかげでテーブルタップがそこら中に転がっているのですが,それがおよそ新築の家に見えない,見苦しさを醸し出すわけです。

 意を決して,新設に挑みました。

 まず,リビングにある,作り付けのテレビラックです。ここはラックの下の棚の部分にコンセントがあるのですが,ラックが横方向に三分割されていて,しかも奥で繋がっていません。コンセントがない区画は,電源を確保出来ない仕組みになっています。

 これはさすがに不便という事で,コンセントをその区画に新設しました。交換によって多数出てきた部材の再利用をしたいということで,2口を2列作りました。

 細かい作業過程は省きますが,穴を開けると,ギリギリの所に柱が通っていて,とても危ないところだったということをここで白状しておきます。ちなみに電線は上方のコンセントから取ってきましたので,柱に穴を開けることもなく,実にスムーズに解決しました。

 次に階段の向かいにある,カウンターです。このカウンターは書き物をしたり,ノートPCを広げてちょっとした作業をしたりする場として作りましたが,なにせ電源が必要なものが多く置かれる(携帯電話のACアダプタとか)ので,とにかく見た目に不格好でした。

 そこで一気に増設です。3口を2列作り,元々の2口2列を3口に変更します。また,1口も余った場所に用意して,9口も増やしました。それでも,大きなテーブルタップは1つで6口ですから,5口も増えるんですね。

 穴は綺麗にあいたのですが,柱に穴を開けないと電線を引っ張ってこれないようになっています。ところがこの柱が結構離れたところにあって,ドリルが斜めにしか入りません。もし角度が深くて,向こうの壁に穴を開けたらどうしようとか,いろいろ不安はありましたが,まあどうにかなるだろうと根拠のない自信で作業開始。

 しかし問題は,その穴に電線を通す作業でした。

 電源を取るもう1つのコンセントと,今回開けた柱の穴は,直線で結ばれているわけではありません。1m近く離れている場所に,柔らかい電線を渡す作業ですが,断熱材がぱんぱんに入っているし,柱の穴はわずか10mmです。これはやっちまったかなと冷や汗が出ます。

 しかし,大穴を開けた以上は,やり遂げねばなりません。腕を突っ込み,ヒーヒー言いながらなんとか電線を通すことに成功しました。後の作業はとても簡単。当初の目論見通り,大幅にコンセントを増やすことが出来ました。

 作業には細心の注意をしましたが,それでもやっぱり不安があるものです。断熱材が直接触れないようにするカバーも注文していますが,納期が1ヶ月かかるという事で問題がすっきり解決するのは,ちょっと先になりそうです。

 ところで,この作業においてもですが,プラスチック製のコンセント取り付け枠を割ってしまったので,将来子供部屋にする予定の別の部屋のコンセントから部品を取ってきて急場をしのいだことを,白状しておきたいと思います。

 こうなってくると,不便なところは直したいとおもうわけで,次は検討部屋と呼ばれている,主に私が使わせてもらっている部屋です。今部品を注文していますが,ここはここでなかなか難易度が高く,計画をよく練ることと同時に,壁の向こうの柱や電線を探知する機械を買いました。これ,3000円ほどで買えるんですね。

 3000円をけちって,開けてはいけない場所に穴を開けて閉まったら,もう私は自分の腹に穴を開けてお詫びせねばなりません。まだ一度も役に立ってませんが,いずれ活躍してくれるでしょう。

・古いDVD-Rから映像を抜き出す

 ちょこっと書いていますが,アナログTV時代に導入したHDD/DVDレコーダ「DMR-HS2」で残してあったDVD-Rが,古いものだと10年を越えています。

 大して重要なものも残してありませんが,10年前のテレビがせっかく残っているのだから,DVD-Rが読めなくなる前に残しておこうと,H.264に圧縮した後,HDDに取っておくことにしました。

 暗号化されているわけではないし,あくまで個人的な使用ですので,いつ読めなくなってもおかしくないDVD-RからデータをPCにコピーし,エンコーダーでひたすら圧縮するという,気の遠くなるような作業をずっと続けていました。

 約2ヶ月経過し,かなりの数のDVD-Rを取り込んで廃棄したわけですが,96枚入りのケースに15箱ほどあったDVD-Rが,最終的には1.5TB程にまとまりそうな感じです。

 これだけの数のDVD-Rを読み出してみると,いろいろ傾向が見えてきます。

 まず,ほとんどのDVD-Rが劣化しておらず,まだまだ十分読み出せそうなこと。エラーが増えたり,RFレベルが下がってしまって回転速度が落ちることなく,ほとんどのDVD-Rが最高速で読み出せました。

 とはいえ,全く読み出せないひどいものもあります。特にマクセルのDVD-Rは,時期やロットを問わず,ほとんどのディスクでエラーが出るか,マウントが出来ない状態になっていました。

 不思議なことに,このディスクをプレイヤー専用機にかけるとちゃんと再生出来るんですね。PCでコピー出来ないということですので,劣化ではなくなにかフォーマットに関係する問題じゃないかと思いますが,寒い日の朝の一発目だけはエラーが出ないとか,ドライブを変えると読み出せたりとかしましたから,やっぱディスクに問題があるということでしょう。信じてたのに,二度とマクセルのメディアは買いません。

 手に取ると薄くて,こりゃだめだろうと思うようなノーブランド品や激安品は,予想に反してほとんど大丈夫でした。姿を見なくなって久しいradiusというブランドの特価品は,真っ先に駄目になるだろうと思っていたのですが,どれもエラーを起こしませんでした。

 エラーが起きるとそのファイルが読み出せませんが,わずか数キロバイトが読み出せないだけなら,実際の映像や音声の途切れは一瞬ですから,そこはスキップして続きを読み出して欲しいところです。でも,PCにとってはその数バイトが命取りになるかもしれず,これはもう両者のデータに対するスタンスの違いですから,仕方がありません。

 PCで,エラーを無視して読み出すソフトがないものかと思ったところ,いくつか見つけました。OSがリードエラーを返すには長い時間がかかりますから,丸一日かかったこともありましたが,それでも読み出せるだけましで,マウントしないことにはどうにもなりません。

 マウントしないディスクが出てきた時に少し調べてみると,ファイナライズを指定ないものが出てきました。もうDMR-HS2は捨ててしまいましたから,今さらファイナライズなんて出来ません。

 と困って調べてみたら,PCでファイナライズをするソフトがありました。不安がありましたが,ちゃんとファイナライズ出来て,マウントできました。世の中にはすごい人がいるものですね。

 このソフトがすごいのは,マウントしないエラーのディスクでも,ファイルをサルベージ出来ることです。これで何枚か救い出しました。

 いやはや,懐かしいテレビがわんさかでてきたのですよ。

 例えば,DVD化されることが絶望的なパペポTV。総集編が残っていたので,久々に見たのですが,まあ面白い事。

 スケバン刑事も出てきました。権利関係でDVD化されないダーマ&グレッグの第5シーズンも発掘されました。やっぱり猫が好きも出てきましたし,かつてNHKで放送されたサンダーバードもすべて出てきました。なんだかんだで伝説化した番組を,こまめに残してあったようです。

 つくづく思うのは,ここ数年テレビ番組を見なくなりましたし,録画することも,残す事もしなくなりました。ある時期以降のテレビ番組が,全く残っていないという状況になると予想できますが,例えば10年後,20年後に伝説となる番組がそもそもあるんだろうかと,そんな風にも思います。

 ん?ここ数年?

 まさに,地デジ移行後ですね。ダビング10でしたっけ?著作権関係がうるさくて,このままだと日本の「メディアに残して保存する」というテレビ文化が崩壊すると言われたのが,本当になったなあと思う訳です。まあ,壊れてしまったものは,もう元には戻りませんし,私も別に困っていません。残す価値のある番組もなくなったように思いますしね。

実家で処分してきた青春の機器

 さてさて,先日の大阪行きでは,もう一仕事計画していました。実家での荷物整理です。

 次にいつ大阪に行けるかわからんこの状況で,実家で過ごす貴重な機会ですから,多少の無理をしてでも,大量の私の持ち物の扱いを判断してこないといけません。

 実家では,のべ5時間ほどの作業をしました。屋根裏にある段ボール箱をすべてあらため,本はすべて下におろして箱詰めです。ネズミにやられていたり,汚いものは残念ですが処分します。

 古いパソコンは,せっかく残っているものですから全部残そうかと思いましたが,MZ-80Cのようにメカ部品の劣化が深刻で,かつこれが壊れていると動作しなくなるようなものは,もう処分することにしました。PC-6001とM5Jr,そしてApple][は残します。

 楽器についても英断をしました。修理するのにカッターで指先を切り落とす一歩手前までいってしまった,あのD-70ですが,鍵盤部の状態が思わしくなく,音源として活用するのも面倒なので,思い切って処分です。20万円を越えるシンセサイザーで,私のバンド活動を根本から支えた相棒ですが,もう誰もこれを弾くことはないでしょう。

 D-70を捨てるなら,一気に判定基準が変わります。音源としても価値がなく,すでに利用価値がなくなっているD-20は,私の最初のシンセサイザーですが,これも感傷的な理由で保存するほどゆとりがあるわけではなく,処分です。懐かしいなあ。高校生の時に,バイトして作ったお金を持って心斎橋の楽器屋に行き,そこから箱を担いで電車とバスで帰ってきて,翌日は学校を休んで一日中遊んでいました。

 そして,中古で買ったJX-8Pも処分です。音源はしっかりしていますが,もともと鍵盤に難があり,音が出ないときがあります。そんなに綺麗なものではないし,思い切って捨てることにします。いや,音はいいんですよ,さすがに当時25万円近くしたアナログシンセですし,クロスモジュレーションがかかる珍しさも,内蔵されたコーラスのかかり具合も抜群で,これで作ったPADをジャーっと流せば,どんな楽曲もあら不思議,1980年のテイストに生まれ変わります。

 まさに古き良きローランドの音だと思う訳ですが,実のところOberheimのMatrix-1000とかぶる部分も多くて,アフタータッチのついた鍵盤付きであることが最大の魅力なのに,その鍵盤が駄目になっているということだと,もう意味がないと思ったのです。

 まあ,娘が高校生くらいになってですね,アナログシンセを弾き倒すようになって,彼女のコレクションの1つにJX-8Pが加わるようなことがあれば面白いとも思うのですが,まさかムギちゃんでもあるまいし,古い重たいアナログシンセをいくつも担いで「フィルタの切れ味が最高!」とか言いながら学校を歩くような女の子には,父親として育って欲しくなかったりします。

 ただし,SH-09は小さいので残します。音に魅力はないのですが,このくらいなら残しておいてもどうにかなりそうです。ラックマウントの音源は基本的には残します。といってもMatrix-1000とD4,そしてVintageKeysだけです。MIDIパッチベイのA-880は処分,BOSSのエフェクタSE-50は2台とも処分,同じくヤマハのR100も処分です。そうそう,BOSSのミキサーのBX-8はほとんど未使用ですが,箱ごと処分です。

 鉄道模型の空箱も,中古で売るときには必要と残してありましたが,DCC取り付け改造をしているのにまともな値段で売れるはずもなく,もう処分します。

 ジャンクの基板ももう捨てます。FM-8の基板とか,Apple][のクローンの基板とか,もうこんなもの残しておく必要はないでしょう。

 懐かしいガジェット類も捨ててきました。私の中では一瞬大きなブームがあったサイビコ(アメリカに出張にいった友人に頼んで買ってきてもらった)も,電池が液漏れしていたことを理由にして,捨てました。

 最初にかったPHSも,MOVAも残してありましたが捨てました。もう使い道がありませんからね。

 そうこうしていると,エポック社のデジコムブロックが出てきました。これは思い出深いですね。自宅に送りましょう。お,デジコムベーダーも出てきました。でもこれは捨てましょう。大した思い入れもありません。

 おお,バンダイのLSIベースボールが出てきました。いやー,これ,すごい面白いんですよ。娘がもう少し大きくなったら,一緒に遊ぼうと思ったので,これも実家に送り,デジコムブロックと共にレストアしましょう。

 卒業アルバムは自宅に送り,ノートや古い教科書,大学の時のレポートや資料は捨てることにしました。小学校から毎日続けていたまとめノートも出てきましたが,もう未練もないので捨てることにしたのですが,後で実家に電話すると,母が捨てずに残すことにしたそうです。

 そんな中で,結局最終判断を保留したものがありました。ゲーム機です。初代のPlaystatioはすでに捨てましたし,PS2も売りました。PS3は壊れましたし,NEOGEOも捨てましたが,SEGA SaturnとDreamcastは大量のソフトと共に,綺麗に残っていました。

 さすがだなあと思いながら見ていましたが,本だけですでに10箱くらいになっていたことを考えると,今すぐ必要ではないゲーム機をもう3箱増やして自宅に送るのは難しいという判断で,捨てるかどうかは次の機会に判断することにしました。

 もう捨てても良かったのですが,SEGA Saturnのゲームには値打ちのあるものもありますし,なにより随分やりこんだゲームもありますから,惜しい気持ちが強いです。Dreamcastも同様ですが,私にとっては最近まで稼働していたゲーム機という気分もあり,まだ捨てるようなものではないという意識も強くあります。

 こうして考えてみると,本やLP,CDなどは30年経っても40年経っても,楽しめますね。しかし,それらよりずっと高額だったゲームソフトは,もう楽しむ環境がないのです。本当に生きないお金を使ったんだなあと,寂しくなります。

 長く生きれば,その時楽しんだことに加えて,ずっと後になって楽しむ事を知るようになるものです。文化というのは,そうして長時間楽しむ事ができることで,自分の世代は2度楽しみ,同時に次の世代も楽しんで,受け継がれていくものだと思うのですが,ゲームにそうした土壌はないのです。まだまだ未発達な世界であると,言わざるを得ません。

 さて,そうして結局たくさんの段ボール箱を自宅に送り,さっさと昼ご飯を食べてあわてて実家を後にし,その日の夕方に東京に戻ったわけですが,疲れともともとの風邪のせいでぐったりで,もう何もする気もおきません。

 翌日にはそのたくさんの荷物が無事に届き,これをまた嫁さんにばれないように自宅の屋根裏にひーこらひーこら運び込み,まさに苦行のような週末でした。

 まだほとんど手を付けていない荷物ですが,結局実家に残った荷物はゲーム機関連とラックマウントのシンセサイザー数台,新品のカセットテープとSH-09,そしてフォークギターが1つ,そして若干のLPレコードくらいです。その気になれば簡単に片付くものばかりですし,機械的に自宅に送ってもらい保管することも出来るくらいのものです。

 それまで,私のものでいっぱいだった屋根裏が,がらんとしてしまったのを母親は,寂しくなったとつぶやきました。持ち物が多い,それもがらくたがほとんど言うのが,私のありようだっただけに,邪魔で仕方がなかったこれらのものも,いざなくなってみると,本当に息子が大阪を離れたと,母は感じたのかも知れません。

 そんなこんなで,実家には1980年代の初歩のラジオ,子供の科学,そして最盛期のI/Oと,私には宝物の雑誌類が大量に持ち込まれました。時々読み返すととても楽しいのですが,これを電子化するべきなのか,それともこのまま置いておくべきか,随分悩みます。

 プログラムリストが多いI/Oはスキャンして捨てても良いように思いますが,初歩のラジオと子供の科学は,残しておきたい気持ちも強く,どうしたものかと思っています。

最後になるのかな,日本橋

  • 2014/03/27 13:55
  • カテゴリー:make:

 さて,先日,交通科学博物館の最後の見学のために大阪に出向いたわけですが,この時久々に日本橋で買い物をしてきました。今回,ちょっと気分的に違っていたのは,これが最後になるかもしれないなあということです。

 これまでは,また次があるという気持ちで日本橋にきていたわけですが,日本橋(というより大阪全体)が大きく変化していて,すでに私にとって馴染みのある土地にならなくなっているということ,さらにいうと実績として長い間大阪に戻ってくることがなかったということが,私の意識にちょっとした変化を与えているような感じがあります。

 日本橋は私にとって,電子部品を初めて買った場所であり,今でも電子部品を手に入れるための場所ですが,その最重要拠点であったシリコンハウス共立は,何度も足を運んだ場所にはすでになく,私にとっては名前が同じなだけの,全く新しいお店に過ぎません。

 ですが,そうした電子部品のお店は,私が通っていた頃に比べて全国的に知られる存在となりました。秋葉原の部品屋さんが弱体化したから相対的に有名になったのか,あるいはインターネットと通販が当たり前になったことで,地域差がなくなってきたのか,それははっきりしませんが,日本橋の部品屋さんには,それでもなお当時と変わらない,大阪らしい個性が残っています。

 というわけで,日本橋でのはなしです。

 まず,行ったお店はシリコンハウス共立と,デジット,ネジのナニワです。あとはトーカイ。トーカイは今の場所に移ってから初めて行きます。

 シリコンハウスでは,WEBで見つけた面白そうなものを中心に買いましたが,中でも電子部品をプリントした折りたたみ傘が欲しくて,私と嫁さんの分2本を買って帰りました。もし,娘が欲しいと言い出したら,私の分をあげようと思います。

 あとは普通のもので,ethernetのプラグ,これはethernetのケーブルの修理用ですね。ロックの爪が折れてしまっただけで捨てるのが惜しいからです。

 電気工事用の差し込みコネクタも探して買いました。差し込みコネクタといってもさっぱりなわけですが,配線を接続するときに,昔だったらスリーブで圧着していたものが,最近は差し込むだけのもので行うんですね。こうすると,いちいちブレーカーを落とさずに作業が出来る(あぶないからそんなことはしませんけど)とか,接続後に金属が表面に出てきませんので,絶縁をする必要がなくなります。とても便利で綺麗に仕上がるので,最近はこれを使って工事をするのがほとんどでしょう。

 そうそう,別にシリコンハウス共立で買う必要もなかったのでしょうが,adafruitのリチウム電池チャージャーも買いました。200mAhくらいの小型のリチウムポリマーは,手持ちがいくつかありますが,充電の手段がないので結局工作には使えず死蔵していたのです。充電器さえ手に入れば,使い道が広がります。

 シリコンではまあこんなところですが,楽しみにしていたのはデジットです。ここではWEBで見て欲しいと思った4桁LEDのクロックモジュールと,ぶらっとみていて面白そうなもの買って帰る事にしていました。

 クロックモジュールに加えて,16x2のLCDモジュールで,非常に小さいものが480円でしたから,これを2つ買いました。私は小さいLCDが好きなのです。

 純緑のLEDも5つほど,あとCR2032の期限切れが1つ30円でしたので,これを10個ほど買ってきました。日本メーカーの期限切れですが,どうせCR2032なんかは自己放電も小さいですし,期限内のものを買ってきても,バッテリーバックアップとかで5年も放置される存在ですから,1年くらい切れていても使い道次第では何も問題はありません。

 小型のスピーカーを少し調達,これは,どういうわけだか,子供の頃はゴロゴロしていた小型スピーカーが,今は全く手もとにないために,ちょっとした動作確認に支障を来すようになったことが原因です。

 すべてがプラスチックでできた高周波ドライバーも買ってきました。デジットで買う必要はないのでしょうが,こういうのってちゃんと在庫している店は少なくなりました。gootの定番品で320円。

 今住んでいる所では案外模型関係を買うのが面倒なので,スーパーキッズランドにも足を伸ばします。ここで熱を加えると柔らかくなる型どり用の部材と,エポキシパテ,塗料を数点買っておきました。

 ネジのナニワでは,20年前に大量に買ったM3のビスとナットがそろそろ亡くなりつつあるので補充です。M3x8のビスなんて,当時は今の1/3程の値段で買えたんですよね。一袋に大量に入ったビスとナットが,そこらのスーパーやホームセンターではなく,ネジ専門店で買ったという満足感に繋がったものですが,今回は常識的な分量に小分けされていて,ちょっと寂しい気がします。

 そうそう,ついでですので,自在のこぎりを買っておきました。石膏ボードに穴を開けてコンセントの増設を行う為のものですが,1000円くらいで見つけたので買っておきます。

 主立ったものはこれで揃ったのですが,逆に全く手に入らなかったものに,電気工事で使うコンセントやプコンセントレートなどの電材関係がありました。

 私の記憶では,日本橋にはこうした電材屋さんがいくつもあり,詳しいお店のおっちゃんと相談しながら買うことが出来ると思っていたのですが,まずほとんどこうした店が見当たりません。それらしい店に入ってみても,取り扱いがないとかで空振りに終わるんですね。

 私の探し方が悪いのかも知れませんが,数件回ってこれですから,日本橋はすでに町の機能が変わって来ていることを,実感しました。ついでにいうと,シリコンハウス共立にちょっとした電材が揃っていたことを,書いておきます。

 トーカイでは,古い廃品種のトランジスタの在庫を聞いてみました。VP-7722Aに使われている高周波用のトランジスタと,デュアルFETですが,どちらも在庫無し。寂しいことに自動ドアが壊れていて,重たいガラス戸を手で開けて,精神的にも物理的にも壁を乗り越えて入ったのですが,収穫はさっぱりです。

 そうそう,無線とパソコンのモリという店がオープンしているということで,冷やかしがてらに行ってきましたが,無線(というかアマチュア無線)に軸足が置かれているだけに,対象年齢が極端に高く,決して若くはない私が子供に思えてしまうほどの厳しい雰囲気があります。値段も高めですし,特に面白いものもなく,挨拶程度に古い雑誌を3冊ほど買って帰ってきました。

 そして最後に書いておかねばならないのが,お昼ご飯です。お昼ご飯は,お隣の小さい場所に移ったという,こけしで食べると決めていました。

 そして可能なら,今まで頼んだことのない「フルコース」を食べてみようと。

 お昼時よりも少し前だったのに,結構お客さんが入っています。以前のこけしは大きいお店でしたが,今回の場所は実質半分以下の面積しかないようで,カウンターが中心のお店になっている感じです。さみしいですね。

 そして,あまり深く考えずにフルコースを注文。出てきたご飯の量にちょっと驚き,これは血糖値が上がる前に食べきるしかないと,若者のようにがっついて食べました。食べきってみると,そんなにきついものではなく,まだまだしっかり食べられる自分に安心しました。

 実は,日本橋へは,弁天町から地下鉄でなんばに入り,そこから歩いていったのです。なんばCITYの南館の,カメラのキタムラからポンポンと階段を上がってなんさん通りに出るのが普通で,目を瞑っても出られたものですが,今回はなんと,改札からカメラのキタムラまでで1度迷い,そこから地上に上がるのにもう一度迷ってしまいました。いやはや,情けない。あれほど歩いたミナミの町は,もう私をよそ者扱いしているのでしょう。

 なんだかんだで2時間半ほど日本橋にいて,もうクタクタです。ここからさらに通天閣の下を通って阿倍野に出るという作戦もあったのですが,そんな元気もなく,潔く地下鉄であべのまで戻ってきました。なにやら,ハルカスなるものがオープンした日だったそうですが,まったくそんな気配もみせず,いつものアベノでした。

 と,ここまでが部品屋さんで買い物をした話ですが,その後の話として,2つ100円で買ってきたスピーカーは余っていた1つを友人にあげたところ,お返しにaitendoの特価ケースをくれました。3倍の値段のものにゲインアップしたわけで,わらしべ長者はこうやって生まれるんだなと思った次第です。

 クロックモジュールは動作確認をしましたが,温度計付きというのはなかなか面白そうです。何に使えるでしょうね。考えてみましょう。

 CR2032は,割とよく使う電卓やポケコンの電池として使う事に決めて,さっさと交換しました。どれもばっちりでしたよ。

 冷静に考えると,別に日本橋で買わないといけなかったものはないし,見て買ったもの,衝動買いしたものはおおくありません。加えて買い物そのものを楽しんだわけではないので,はっきりいって疲れただけだったなと思います。もう日本橋も,面白い町ではなくなっているんだなあと,残念な気分になりました。

 まあその,なら秋葉原が面白いのかといえばそんなこともありませんので,これはもう私の好みの問題なのかも知れないですね。

さようなら交通科学(博物)館

 大阪の弁天町という駅のそばに,交通科学博物館なる施設があります。東京の神田に交通博物館があった頃,ぜひ大阪にもという声が起こり,当時の国鉄が52年前に作ったのが,前身である交通科学館でした。

 秋葉原と日本橋の関係もそうなのですが,子供の頃の私は,自分の見たいもの,欲しいものが東京に集中していた関係で,規模も小さく,二流のものしか手に入らない大阪には残念な気持ちが強く,大好きな大阪,でも東京にはかなわない,東京に行ってみたいなという憧れがありました。

 当時の情報の入手は雑誌,それも月刊誌くらいのもので,全国誌で大阪の情報が語られることは少なく,それがなおさら東京に対する嫉妬の念を強くしたように思います。これは同時に,大阪に住み,大阪が好きな人間の反骨精神の源泉になっていたんじゃないかと思います。

 神田の交通博物館は,日本で最初の機関車を始めとし,その展示内容や収蔵品の充実ぶりから,鉄道の博物館と言えば必ずここが紹介されたわけですが,対抗馬として生まれた大阪の交通科学館は,また違ったコンセプトを持って誕生しました。

 交通博物館が歴史的な資料を集めていたのに対し,交通科学館は比較的新しい実物を揃えて,鉄道全般を紹介する事を目指したそうです。ちょっと前まで現役とか,現在の車輌の仕組みとか,そういうものを展示の骨子にするわけですね。

 私がここを初めて訪れたのは,今から35年ほど前でしょうか。1980年頃ですが,この時展示されていた実物の車輌はキハ81だったりD51だったりします。

 キハ81が引退したのは1978年ですので,わずか数年前の現役車輌です。D51は1000両を超える大量生産機であり,静態保存機なら全国至る所にあった,珍しくも何ともないものです。

 0系の新幹線も普通に走っていましたし,101系の大阪環状線だって,別に珍しいものではありませんでした。

 これはつまり,博物館ではないんだなと,子供心に思ったものです。

 それでも,近鉄沿線で暮らした私にとって,国鉄車輌を見るのはとても楽しいことであり,何度も父にせがんで,連れて行ってもらいました。

 やがて収蔵品が増え,規模も大きくなり,ついには交通科学博物館と改称したことは知っていましたが,それでも大人が見学すると言うより,子供の遊び場というイメージが強くて,中学生になると全く行こうと思わなくなっていました。

 時は経ち,大阪を離れてから,この交通科学博物館が閉館することを耳にしました。なんでも梅小路蒸気機関車館に統合されるんだそうですが,大阪環状線のそばにあることに値打ちを感じていた私は,これはぜひ最後に見に行かねばならんなと,計画を練ったのです。

 キハ81は引退からすでに35年が経過し,日本で最初のディーゼル特急という貴重な資料となっています。D51も綺麗に保存されたものが減っている中で,2号機が残っているのは誇らしいです。

 EF52は国産初の大型電気機関車で,その後の電気機関車の雛形になったものですし,0系新幹線は実はトップナンバーです。DF50もDD54も西日本では思い出深い機関車ですが,実物の重厚さは近寄らないとわかりません。

 101系も,天王寺発着の列車のサボも,当時ならたんなるコレクションだったものが,今は貴重な第一級の史料です。これがどれくらい,梅小路に移管されるのかわかりません。

 自動車もバイクも飛行機も,鉄道ではない資料は,梅小路も手に余るでしょう。廃棄される可能性もあるんじゃないでしょうか。

 そんなわけで,大阪にあるうちに行っておこう,子供の頃を懐かしむこともしたいし,それ以上に貴重な資料を直に見てみたいと思ったわけですが,閉館はなんと4月6日です。5月の連休に間に合いません。

 そこで,東京に住む弟に声をかけ,どっかで一緒に行かないかと誘ってみました。3月後半の連休にいこうと計画していたのですが,調べてみると閉館直前は混雑し,最悪入場できないというではありませんか。

 せっかく東京からいくのに,それはむなしいと,会社を休んで出来るだけ早めに行く計画に切り替えます。

 そして2月8日に予定していましたが,前日になって弟がインフルエンザでダウン。中止になりました。翌週の15日に延期しましたが,今度は私が風邪を引きダウン。結果論ですが,どちらも大雪で,もし決行していたら大変なことになっていたでしょう。

 3月に入り,弟は仕事が急激に忙しくなってしまい脱落。結局私だけで先週末に見学することになりました。

 ここしばらく大阪に戻っていなかった上に,地下鉄ばかりを使っていた私は,大阪環状線に10年ぶりくらいにのりました。まして弁天町など,降りたのは30年ぶりでしょう。

 周囲の景色は随分変わっていましたが,交通科学博物館そのものは昔の面影を残しています。綺麗になったし,大きくもなりましたが,キハ81を見た瞬間にぐっとこみ上げるものがありました。

 ワクワクしながら入場します。平日の朝だったのですが,それなりに見学者がいます。しかし,小さな子供がワイワイ走り回っているのは,当時と同じです。

 まず目に飛び込んでくるのは,リニアモーターカーML500です。前代未聞の時速500kmという数字と,あの未来的なフォルム,超伝導やらリニアモーターやらわけのわからん言葉の羅列に,少年の心は鷲づかみだったわけですが,中学生くらいになると,これは実用にならんなという,現実的な見方が支配的になっていきます。

 時速500kmといえば,だいたいジェット機と同じ速度です。だったら飛行機でええやんか,ということに気が付くと,わざわざ地上にこだわる理由がわからなくなるものです。

 大人になると,飛行機にはないメリットが見えてくるようになるのですが,様々な議論を経てそのリニアモーターカーによる新幹線が現実のものになろうとしていることは,私には奇跡的だと思えます。

 ML500は単なる黒歴史に終わるのか,それとも困難を切り開いた先駆者なのか,この違いは案外大きいです。

 さて,ML500のインパクトに気圧されながら,鉄道の歴史,鉄道の仕組みなど,子供の頃に見たものを含めて,面白い展示が並んでいます。101系の展示はちょっと縮小されていて,モーターの回転制御は見る事ができますが,当時はパンタグラフの上げ下げや,ドアの開閉が体験出来たのに,それはなくなっていました。

 かわりに私には馴染みのない221系のシミュレータが盛況です。0系も,古い自動改札機も懐かしく,もう楽しくて仕方がありません。

 そしてお目当てだったEF52です。デッキに上り,中を覗くと,外観ほどに古くさい感じがしません。その外観は実に重厚で,丁寧に作られているなと感心します。綺麗にメンテナンスされてもいて,こんな近くに,それもデッキに上がることが出来るなんて,なんとありがたいことでしょうか。

 外に出るとキハ81がいます。屋根付きになっていることもあり,綺麗な補修がなされていて感心しました。室内灯も点灯していて,中の様子が見えるのですが,いかにも国鉄時代の特急という感じがして,こればかりは懐かしさを感じずにはいられません。あいにく中へは入れませんが,デッキまでは入ることができます。それでも雰囲気は十分に味わえます。いろいろ思い出します。

 80系の電車は私には全然接点がなかったのですが,初期の80系がこれだけきれいに保存されているのは大変なことです。

 第二展示場には,DF50とDD54があります。DD54の運転室に入ってみましたが,これがまた普通の運転台なんです。特に難しいスイッチもメーターもなく,他に類似した機関車を見ない,独特の機構を持つDD54が,こんな普通の運転台で動いてしまうことを,ちょっと私は感激してみておりました。この機関車を初めて運転した機関士は,どんな印象を持ったのでしょうか。

 もちろん,見る事が出来なくなった車輌もあります。当時展示されていたマイテ49ですが,これは復元されて車籍が復活しましたので,展示されてはいません。

 そして交通科学博物館といえば,HOゲージを使った大レイアウトです。山あり海ありのレイアウトに,たくさんの車輌が走り回ります。照明も変化し,鉄道のある一日が目の前に広がりますが,ここも昔と同じで大人気で,人垣で全く見ることができません。

 鉄道だけではありません。自動車,飛行機,オートバイ,船など,交通に関係するものが展示されていますが,これは梅小路に移管されない可能性があると言われていて,もしかすると見納めになるかも知れません。

 展示物が貴重で,鉄道や交通を学ぶ場所でありながら,相変わらず子供にとって「楽しい場所」であり続けるのをみて,私は本当にうれしくなりました。保育園や幼稚園の子供たちが,ただただ大好きな電車を身近に体験する場所として,ぞろぞろと引率されてここに遊びに来るのを見ていると,こういう目線で博物館が運営されることの大事さを強く感じます。

 約2時間,たっぷり見学した私は,懐かしさと新しい発見に満腹になりました。ミュージアムショップは,もう商品が残っていませんでしたが,ここで下敷きや模型などをよく買ってもらったものです。

 帰りに,弁天町の駅まで橋梁を渡っていると,そこに機銘板がありました。

 交通科学館橋梁という銘と,昭和37年という年号。そう,これはこの交通科学博物館が誕生したときにかけられたものです。交通科学館は何度かリニューアルし,今は交通科学博物館と名前も変わっていますが,この橋梁はもしかすると,生まれてからずっと,ひたすらに見学者の行き来に使われていたのかもしれません。

 閉館すると,これも撤去される可能性が高いでしょう。私は,この橋梁にもなにか感慨深いものを感じて,帰宅の途につきました。


 52年と言えば,会館の時に10歳だった人は,すでに60歳を超えています。人の一生に相当するほど長きにわたって,本物に触れることの出来る,しかしながら気軽に訪れることの出来る遊び場所として,大阪の子供に貴重な場所を長きにわたって提供し続けた交通科学博物館に,改めて感謝したいと思います。

 そう,こういう場所が,大阪のど真ん中にあることが,とても重要なのです。

 さて,最後に私個人の話を少々。

 交通科学館には,資料室と呼ばれる部屋があります。当時は図書室といってたんじゃなかったかなとも思うのですが,いずれにしても博物館そのものとは別の部屋で,鉄道関係の雑誌はもちろん,国鉄の内部資料なども収蔵されて,閲覧可能になっていました。博物館には,こういう資料を管理し,閲覧可能にするという機能も備わっているものであり,当時の交通科学館は「博物館」とは名乗らなかったものの,きちんと博物館の機能を持っていました。

 交通科学館に何度か訪れた私は,展示品もそろそろ見飽きたところで,それまで踏み入れたことがない場所を見てみたいと思いました。見れば人気のない静かなところに,鉄製の扉がありましたが,特に立ち入り禁止と書かれているわけではありません。

 自分一人では入るのがためらわれたため,母親と一緒に入っていったのですが,そこは私が通い慣れた地元の市立図書館によく似た雰囲気でした。違っていたのは,そこにあるものは,すべてが鉄道と交通に関係するものだったことです。

 しかし,小学校4年生の私には少々難しい資料も多く,上がったテンションは急激にしぼんでいきました。

 そんな中,雑誌の書棚にあったのが,子供の科学です。

 垢抜けない,専門誌っぽい拍子は,タイトルにあるような子供のための科学雑誌という雰囲気があまりせず,非常に真面目で高度なイメージです。

 当時の私にとって,科学に触れる雑誌というのは,せいぜい学研の「x年の科学」くらいのもので,教科書の延長にあり,かつ娯楽性が強い,一言で言うとチャラチャラしたものでした。あれは科学雑誌というよりも,学年別学習雑誌なわけですから,至極当然なことではあるのですが,当時の私はすでにこれでは物足りなくなっていたわけです。

 鉄道とは関係ないけど,時間つぶしにいいかと手に取ってみてみると,その内容の深さや広さに、私は驚きました。科学雑誌というものがこういうものと思い知った感じがして,それこそ衝撃を受けたのです。

 特に印象に残っているのは,泉弘志先生の折り込みで,電子工作の記事でした。電子ブロックくらいしか知らなかった私は,そこで生まれて初めて電子部品がばら売りされて,自分でハンダ付けして動くようにすることがホビーとして成り立っていることを知ったのです。これぞ,自分がやりたいことだと確信しました。

 特に,そんな感激を母親に行った記憶はないのですが,しばらくたったある日,学校から帰ると,なぜか子供の科学がテーブルの上に置かれていました。忘れもしません。まさに生まれた瞬間のひよこの写真が表紙になっていました。

 当時母親は本屋に勤めており,子供の科学のような雑誌でもどんなものかを,ちゃんと知っていました。だから,私が子供の科学に興味を持ったことを察知したのでしょうね。その上で,入荷した子供の科学を見て,買い与えることにしたのでしょう。

 私はそれをとても面白く読みました。

 子供の科学は,小学生に科学に対する興味と関心を持たせる絶好の機会であり,教科書よりも高度で,しかも最新の記述にあふれ,生物,地学,物理学,数学,電気工学,化学,気象学と,あらゆる科学分野が網羅されていました。

 子供は,初めて目にする教科書以外の科学に触れ,多種多様なジャンルから「これは!」と思うものを選び,その道に進むのです。子供の科学は,いわば科学のカタログというわけです。

 私は,子供の科学によって幅広い科学に触れるチャンスを得ましたが,そこから結局電子工学を選び,その道に進むことになりました。現在に至っても,その選択にブレはありません。

 子供の科学を卒業した私は初歩のラジオ,トランジスタ技術とステップアップして,電子工作好きの子供から電子工学を専門にする設計者になりました。そのスタートは,交通科学館で見た,子供の科学でした。

 なにがその人の人生を決めるのか,なにがきっかけになるか,本当にわからないものです。ですが,私にとっての交通科学館は,その後の人生をいかに豊かにしたか,はかりしれないものがあります。その点で,私は他の誰よりも,交通科学館に感謝しなければなりません。

 そして願わくは,京都に移転しても,子供たちに,こうした機会を与え続けて欲しいと思います。

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