一応プロの設計者として,こんなことを書くのは恥をさらすようで迷いましたが,要するに私の不勉強なだけのお話なので,ネタを投下します。私と同じようなオッサンどもは認識の甘さに絶望して涙せよ。
さてさて,それなりに知られた回路図の回路記号,最近ちょっと様子が変わったことにお気づきでしたか?
私の場合,そもそもの始まりは先日の「電子工作マガジン」でした。回路記号が一部変わっているという記事が出ていたのですが,なるほど他の記事中の回路記号もよく見ると随分変わっています。
例えばある技術系の出版社なんかでは,JISの規定には正確には従っていないものを慣例として使い続けていたりするそうですが,これはわかりやすさを優先した結果とのことです。少ない例ですが,設計の現場でも会社によって,同じ部品が微妙に違う記号になることもあり,そのへんは割に緩やかなものなのかも知れないと思っていました。(JISに従わないことはやっぱりダメなんですよ,基本的には。)
それでも,電気回路が生まれると同時に回路記号が誕生したと考えると,もう100年近い歴史があるわけで,その間電気回路に関わる人間の共通言語として,それほど大きな変化もなく今日まで受け継がれているわけです。
こういうことを実感するのは,戦前の技術関係の書籍を見たときですが,70年前の旧字体の本文を読むのには苦労しても,回路図は私でもさっと理解できます。楽譜にせよ,回路図にせよ,記録はただ残っているだけでは意味はなく,相手に読まれねばならないわけですから,変わらないことも大事なことです。
なのに,まさか抵抗の記号が変わるとは・・・まずは下を見て下さい。
随分と変わっていますね。一番の衝撃は抵抗の記号でしょう。安くて地味な部品で影が薄く,その記号のインパクトで少年の記憶に残る抵抗が,あるいはベテランにとってはトランジスタよりもICよりも重要な意味を持つ抵抗が,とうとう四角い箱にまで貶められています。そりゃーないぜ。
LEDの記号も微妙に変わってます。特に矢印の向きがミソなのですが,これは「非電離電磁放射を表す2本の矢印の図記号は,特定の照射体が示されないときは,矢先を右上へ向けること」なる決まりがあるそうなので,図記号の上下が反転しても,常に矢印だけは右上を指し示さねばなりません。
ただし,JIS Z 8222-1の回転の例では,矢印も一緒に回っているので,右上を指し示していなくても間違いとはいえないみたいです。JISのうっかりミスだとは思いますが・・・電子工作マガジンを見てますと,ちゃんと右上を向いています。旧JISの記号では矢印が下に向くようわざわざ全体を回転させてあるので,これはちゃんとこの件を意識しているものと思われます。お見それしました。
スイッチの記号もかわってますね。ここにはありませんがトランジスタの記号も少し変わっています。ここにはトランスを例として挙げましたが,コイルなどの巻物は,記号では巻いていません。これであの導線をグルグル巻いたコイルをイメージしろというのでしょうか。電子ブロックの説明書にあった,回路記号を擬人化したかわいいイラストもこんな無味乾燥な記号をベースにしないといけないというのでしょうか。
ここまで変わってしまうと,もう少し経緯を調べたくなります。
これらの新しい記号は,1999年にJIS C 0617シリーズとして制定されました。旧JIS(JIS C 0301-1990)については廃止されているので,原則的に併用は出来ないことになっていると考えるべきでしょう。
変わった理由ですが,IECという国際規格にあわせた,というのが一番わかりやすい理由でしょう。なんでIECにあわせるの,と聞かれれば,それがルールだからです。
GATT(関税と貿易に関する一般協定)には,工業分野における理不尽な参入障壁を除外する目的も含まれていて,工業規格とこれに基づく評価手続きについて1979年に合意されたものが1994年5月にTBT協定として改訂,合意されました。
TBTとは貿易の技術的障害(Technical Barriers to Trade)という意味で,後の1995年1月にはWTO協定に包含されることになり,ここにTBT協定はWTO一括協定として加盟国すべてに適用することが決まったのでした。日本も言うまでもなく,WTO加盟国です。
よって,新しく制定されるJISについては国際規格であるISOやIECに対し,内容や様式などに矛盾がないように作られます。また,制定済みのJISについても,順次改訂作業が行われています。どうですか,たかが抵抗の書き方1つで,WTOにまで話がいってしまいましたよ。
今回の回路記号についても,IECによって決められた記号が存在し,以前よりJISとの乖離が何かと問題になっていました。旧JISであるJIS C 0301はどちらかというとJISとIECの両方の顔を立てるような思想があったそうですが,新JISであるJIS C 0617はIECそのまんま,ということのようです。
旧JIS時代にもよく言われたのがゲートICの記号です。我々が見慣れているANDゲートやORゲートの記号はMIL記号といわれ,元はアメリカの軍用規格でした。
実際,ANDゲートはICで供給されるわけですが,IECはこの点を合理的に考えて,四角い箱に入力と出力を設け,箱の内側にその機能を記述することが基本になっています。だから,IECの決まりに従うと,四角い箱の左に入力,右に出力を出し,内側に「&」と書くのです。
そんな・・・まるでキン肉マンやないか・・・
IECに準拠した回路図やICの仕様書は度々目にしていましたから,私も戸惑った記憶があります。MIL記号は日本ではJIS X0122として規格化されていましたが,こうした論理回路の図記号もすべてIECに倣うことになって,新JISであるJIS C0617に統合された際に廃止されてしまいました。もしかすると若い人たちは,80年代のパソコンの回路図を肴にちびちびやる楽しみを持てなくなるかも知れません。
いやはや,海外製の設計ツールなどを使っている人の中にはすでに見慣れた人もいるかもしれませんが,それでも長年親しんできた回路記号を手放すのは抵抗があるものです。なかには意地になって使い続ける職人堅気な人もいたりするでしょう。
しかし,そんな旧世代なオッサンを屈服させる仕組みを,お上はきちんと仕込んでいました。学生への洗脳です。
実は,2004年以降の高校の教科書は,新JISに従った記述がなされています。ということは,抵抗はギザギザではなく四角い無愛想な記号に,ANDゲートは額に&マークに,すでになっているのです。
てことはですね,もう2年ほどすると,ギザギザの抵抗を見たことがない学生が社会に出てくることになるのです。すでに大学の授業では,先生が黒板に書いた抵抗の記号に「なんすかそれは」と質問が飛んでいるという話ですし,これは非常に困った事になる可能性があります。
新人:先輩,回路図にあるこのギザギザはなんですか?
先輩:ん?これはよ,抵抗だよ,なんだ,こんなもんも知らずに卒業したのか!
新人:抵抗はこう書くことになってるんですが。
先輩:んなわけあるか。ったくゆとり世代もここまできたか・・・
新人:ほら,JISを見て下さい。
先輩:(うわ,ほんまや)
新人:これだからファーストガンダム世代はよ・・・
という,血で血を洗う世代間闘争に発展する可能性が高く,電子工業界は分裂の危機に瀕します。
抵抗もコイルもひどいですが,極めつけはこれです。
これ,なんの記号かわかりますか?オペアンプです。額には無限大の増幅率を示す「∞」マークが!嗚呼!
オペアンプの回路はただでさえややこしい場合が多く,回路図を使っての世代間交流はかつてのようにスムーズには進まなくなったといってよいでしょう。我々が使い慣れたあの三角形の記号は,いずれ消えゆく運命にあるのです。嗚呼,なんたる悲哀!
ただ,IECの記号には,そこまでやるか,と思うほどの合理性や厳密さがあり,その筋のマニアにはたまらないものがあると思います。図記号は単なる象形文字ではないということでしょうか。
ここでは詳しくは書きませんが,これら図記号を回転させて書く場合にも,制御フローとプロセスフローが直交するよう意識した上で正しく回転させる必要があります。これが徹底されれば,確かに見やすく,書く人の癖に依存しない回路図になるでしょう。回路図は芸術作品とは違いますので,個人的にこの思想には賛成です。(回路図から人となりが見えにくくなるので面白味は失せてしまいますが)
その上で,全世界のエンジニアと回路図で交流できることが保証される世界というのも,良いものであるかも知れません。特に新興国であるインドや中国では,今後ますます若い優秀なエンジニアが育ってくるでしょう。彼らと意思疎通が出来ることは,なにかと便利でありがたいことかも知れませんね。
それはそれとして,IECの抵抗の記号,昔のままではいけなかったんでしょうか。私の知るところ,アメリカでもヨーロッパでも,やっぱり抵抗はあのギザギザなんです。無理に四角い記号にすることはなかったんじゃないのかなと,今でも思うのです。
最後にもう1つ,こういう大事な話をきちんと啓蒙するのが役割であるはずのトランジスタ技術と日経エレクトロニクスに「なにやっとんねん」と声を大にして言いたいです。