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実家で処分してきた青春の機器

 さてさて,先日の大阪行きでは,もう一仕事計画していました。実家での荷物整理です。

 次にいつ大阪に行けるかわからんこの状況で,実家で過ごす貴重な機会ですから,多少の無理をしてでも,大量の私の持ち物の扱いを判断してこないといけません。

 実家では,のべ5時間ほどの作業をしました。屋根裏にある段ボール箱をすべてあらため,本はすべて下におろして箱詰めです。ネズミにやられていたり,汚いものは残念ですが処分します。

 古いパソコンは,せっかく残っているものですから全部残そうかと思いましたが,MZ-80Cのようにメカ部品の劣化が深刻で,かつこれが壊れていると動作しなくなるようなものは,もう処分することにしました。PC-6001とM5Jr,そしてApple][は残します。

 楽器についても英断をしました。修理するのにカッターで指先を切り落とす一歩手前までいってしまった,あのD-70ですが,鍵盤部の状態が思わしくなく,音源として活用するのも面倒なので,思い切って処分です。20万円を越えるシンセサイザーで,私のバンド活動を根本から支えた相棒ですが,もう誰もこれを弾くことはないでしょう。

 D-70を捨てるなら,一気に判定基準が変わります。音源としても価値がなく,すでに利用価値がなくなっているD-20は,私の最初のシンセサイザーですが,これも感傷的な理由で保存するほどゆとりがあるわけではなく,処分です。懐かしいなあ。高校生の時に,バイトして作ったお金を持って心斎橋の楽器屋に行き,そこから箱を担いで電車とバスで帰ってきて,翌日は学校を休んで一日中遊んでいました。

 そして,中古で買ったJX-8Pも処分です。音源はしっかりしていますが,もともと鍵盤に難があり,音が出ないときがあります。そんなに綺麗なものではないし,思い切って捨てることにします。いや,音はいいんですよ,さすがに当時25万円近くしたアナログシンセですし,クロスモジュレーションがかかる珍しさも,内蔵されたコーラスのかかり具合も抜群で,これで作ったPADをジャーっと流せば,どんな楽曲もあら不思議,1980年のテイストに生まれ変わります。

 まさに古き良きローランドの音だと思う訳ですが,実のところOberheimのMatrix-1000とかぶる部分も多くて,アフタータッチのついた鍵盤付きであることが最大の魅力なのに,その鍵盤が駄目になっているということだと,もう意味がないと思ったのです。

 まあ,娘が高校生くらいになってですね,アナログシンセを弾き倒すようになって,彼女のコレクションの1つにJX-8Pが加わるようなことがあれば面白いとも思うのですが,まさかムギちゃんでもあるまいし,古い重たいアナログシンセをいくつも担いで「フィルタの切れ味が最高!」とか言いながら学校を歩くような女の子には,父親として育って欲しくなかったりします。

 ただし,SH-09は小さいので残します。音に魅力はないのですが,このくらいなら残しておいてもどうにかなりそうです。ラックマウントの音源は基本的には残します。といってもMatrix-1000とD4,そしてVintageKeysだけです。MIDIパッチベイのA-880は処分,BOSSのエフェクタSE-50は2台とも処分,同じくヤマハのR100も処分です。そうそう,BOSSのミキサーのBX-8はほとんど未使用ですが,箱ごと処分です。

 鉄道模型の空箱も,中古で売るときには必要と残してありましたが,DCC取り付け改造をしているのにまともな値段で売れるはずもなく,もう処分します。

 ジャンクの基板ももう捨てます。FM-8の基板とか,Apple][のクローンの基板とか,もうこんなもの残しておく必要はないでしょう。

 懐かしいガジェット類も捨ててきました。私の中では一瞬大きなブームがあったサイビコ(アメリカに出張にいった友人に頼んで買ってきてもらった)も,電池が液漏れしていたことを理由にして,捨てました。

 最初にかったPHSも,MOVAも残してありましたが捨てました。もう使い道がありませんからね。

 そうこうしていると,エポック社のデジコムブロックが出てきました。これは思い出深いですね。自宅に送りましょう。お,デジコムベーダーも出てきました。でもこれは捨てましょう。大した思い入れもありません。

 おお,バンダイのLSIベースボールが出てきました。いやー,これ,すごい面白いんですよ。娘がもう少し大きくなったら,一緒に遊ぼうと思ったので,これも実家に送り,デジコムブロックと共にレストアしましょう。

 卒業アルバムは自宅に送り,ノートや古い教科書,大学の時のレポートや資料は捨てることにしました。小学校から毎日続けていたまとめノートも出てきましたが,もう未練もないので捨てることにしたのですが,後で実家に電話すると,母が捨てずに残すことにしたそうです。

 そんな中で,結局最終判断を保留したものがありました。ゲーム機です。初代のPlaystatioはすでに捨てましたし,PS2も売りました。PS3は壊れましたし,NEOGEOも捨てましたが,SEGA SaturnとDreamcastは大量のソフトと共に,綺麗に残っていました。

 さすがだなあと思いながら見ていましたが,本だけですでに10箱くらいになっていたことを考えると,今すぐ必要ではないゲーム機をもう3箱増やして自宅に送るのは難しいという判断で,捨てるかどうかは次の機会に判断することにしました。

 もう捨てても良かったのですが,SEGA Saturnのゲームには値打ちのあるものもありますし,なにより随分やりこんだゲームもありますから,惜しい気持ちが強いです。Dreamcastも同様ですが,私にとっては最近まで稼働していたゲーム機という気分もあり,まだ捨てるようなものではないという意識も強くあります。

 こうして考えてみると,本やLP,CDなどは30年経っても40年経っても,楽しめますね。しかし,それらよりずっと高額だったゲームソフトは,もう楽しむ環境がないのです。本当に生きないお金を使ったんだなあと,寂しくなります。

 長く生きれば,その時楽しんだことに加えて,ずっと後になって楽しむ事を知るようになるものです。文化というのは,そうして長時間楽しむ事ができることで,自分の世代は2度楽しみ,同時に次の世代も楽しんで,受け継がれていくものだと思うのですが,ゲームにそうした土壌はないのです。まだまだ未発達な世界であると,言わざるを得ません。

 さて,そうして結局たくさんの段ボール箱を自宅に送り,さっさと昼ご飯を食べてあわてて実家を後にし,その日の夕方に東京に戻ったわけですが,疲れともともとの風邪のせいでぐったりで,もう何もする気もおきません。

 翌日にはそのたくさんの荷物が無事に届き,これをまた嫁さんにばれないように自宅の屋根裏にひーこらひーこら運び込み,まさに苦行のような週末でした。

 まだほとんど手を付けていない荷物ですが,結局実家に残った荷物はゲーム機関連とラックマウントのシンセサイザー数台,新品のカセットテープとSH-09,そしてフォークギターが1つ,そして若干のLPレコードくらいです。その気になれば簡単に片付くものばかりですし,機械的に自宅に送ってもらい保管することも出来るくらいのものです。

 それまで,私のものでいっぱいだった屋根裏が,がらんとしてしまったのを母親は,寂しくなったとつぶやきました。持ち物が多い,それもがらくたがほとんど言うのが,私のありようだっただけに,邪魔で仕方がなかったこれらのものも,いざなくなってみると,本当に息子が大阪を離れたと,母は感じたのかも知れません。

 そんなこんなで,実家には1980年代の初歩のラジオ,子供の科学,そして最盛期のI/Oと,私には宝物の雑誌類が大量に持ち込まれました。時々読み返すととても楽しいのですが,これを電子化するべきなのか,それともこのまま置いておくべきか,随分悩みます。

 プログラムリストが多いI/Oはスキャンして捨てても良いように思いますが,初歩のラジオと子供の科学は,残しておきたい気持ちも強く,どうしたものかと思っています。

最後になるのかな,日本橋

  • 2014/03/27 13:55
  • カテゴリー:make:

 さて,先日,交通科学博物館の最後の見学のために大阪に出向いたわけですが,この時久々に日本橋で買い物をしてきました。今回,ちょっと気分的に違っていたのは,これが最後になるかもしれないなあということです。

 これまでは,また次があるという気持ちで日本橋にきていたわけですが,日本橋(というより大阪全体)が大きく変化していて,すでに私にとって馴染みのある土地にならなくなっているということ,さらにいうと実績として長い間大阪に戻ってくることがなかったということが,私の意識にちょっとした変化を与えているような感じがあります。

 日本橋は私にとって,電子部品を初めて買った場所であり,今でも電子部品を手に入れるための場所ですが,その最重要拠点であったシリコンハウス共立は,何度も足を運んだ場所にはすでになく,私にとっては名前が同じなだけの,全く新しいお店に過ぎません。

 ですが,そうした電子部品のお店は,私が通っていた頃に比べて全国的に知られる存在となりました。秋葉原の部品屋さんが弱体化したから相対的に有名になったのか,あるいはインターネットと通販が当たり前になったことで,地域差がなくなってきたのか,それははっきりしませんが,日本橋の部品屋さんには,それでもなお当時と変わらない,大阪らしい個性が残っています。

 というわけで,日本橋でのはなしです。

 まず,行ったお店はシリコンハウス共立と,デジット,ネジのナニワです。あとはトーカイ。トーカイは今の場所に移ってから初めて行きます。

 シリコンハウスでは,WEBで見つけた面白そうなものを中心に買いましたが,中でも電子部品をプリントした折りたたみ傘が欲しくて,私と嫁さんの分2本を買って帰りました。もし,娘が欲しいと言い出したら,私の分をあげようと思います。

 あとは普通のもので,ethernetのプラグ,これはethernetのケーブルの修理用ですね。ロックの爪が折れてしまっただけで捨てるのが惜しいからです。

 電気工事用の差し込みコネクタも探して買いました。差し込みコネクタといってもさっぱりなわけですが,配線を接続するときに,昔だったらスリーブで圧着していたものが,最近は差し込むだけのもので行うんですね。こうすると,いちいちブレーカーを落とさずに作業が出来る(あぶないからそんなことはしませんけど)とか,接続後に金属が表面に出てきませんので,絶縁をする必要がなくなります。とても便利で綺麗に仕上がるので,最近はこれを使って工事をするのがほとんどでしょう。

 そうそう,別にシリコンハウス共立で買う必要もなかったのでしょうが,adafruitのリチウム電池チャージャーも買いました。200mAhくらいの小型のリチウムポリマーは,手持ちがいくつかありますが,充電の手段がないので結局工作には使えず死蔵していたのです。充電器さえ手に入れば,使い道が広がります。

 シリコンではまあこんなところですが,楽しみにしていたのはデジットです。ここではWEBで見て欲しいと思った4桁LEDのクロックモジュールと,ぶらっとみていて面白そうなもの買って帰る事にしていました。

 クロックモジュールに加えて,16x2のLCDモジュールで,非常に小さいものが480円でしたから,これを2つ買いました。私は小さいLCDが好きなのです。

 純緑のLEDも5つほど,あとCR2032の期限切れが1つ30円でしたので,これを10個ほど買ってきました。日本メーカーの期限切れですが,どうせCR2032なんかは自己放電も小さいですし,期限内のものを買ってきても,バッテリーバックアップとかで5年も放置される存在ですから,1年くらい切れていても使い道次第では何も問題はありません。

 小型のスピーカーを少し調達,これは,どういうわけだか,子供の頃はゴロゴロしていた小型スピーカーが,今は全く手もとにないために,ちょっとした動作確認に支障を来すようになったことが原因です。

 すべてがプラスチックでできた高周波ドライバーも買ってきました。デジットで買う必要はないのでしょうが,こういうのってちゃんと在庫している店は少なくなりました。gootの定番品で320円。

 今住んでいる所では案外模型関係を買うのが面倒なので,スーパーキッズランドにも足を伸ばします。ここで熱を加えると柔らかくなる型どり用の部材と,エポキシパテ,塗料を数点買っておきました。

 ネジのナニワでは,20年前に大量に買ったM3のビスとナットがそろそろ亡くなりつつあるので補充です。M3x8のビスなんて,当時は今の1/3程の値段で買えたんですよね。一袋に大量に入ったビスとナットが,そこらのスーパーやホームセンターではなく,ネジ専門店で買ったという満足感に繋がったものですが,今回は常識的な分量に小分けされていて,ちょっと寂しい気がします。

 そうそう,ついでですので,自在のこぎりを買っておきました。石膏ボードに穴を開けてコンセントの増設を行う為のものですが,1000円くらいで見つけたので買っておきます。

 主立ったものはこれで揃ったのですが,逆に全く手に入らなかったものに,電気工事で使うコンセントやプコンセントレートなどの電材関係がありました。

 私の記憶では,日本橋にはこうした電材屋さんがいくつもあり,詳しいお店のおっちゃんと相談しながら買うことが出来ると思っていたのですが,まずほとんどこうした店が見当たりません。それらしい店に入ってみても,取り扱いがないとかで空振りに終わるんですね。

 私の探し方が悪いのかも知れませんが,数件回ってこれですから,日本橋はすでに町の機能が変わって来ていることを,実感しました。ついでにいうと,シリコンハウス共立にちょっとした電材が揃っていたことを,書いておきます。

 トーカイでは,古い廃品種のトランジスタの在庫を聞いてみました。VP-7722Aに使われている高周波用のトランジスタと,デュアルFETですが,どちらも在庫無し。寂しいことに自動ドアが壊れていて,重たいガラス戸を手で開けて,精神的にも物理的にも壁を乗り越えて入ったのですが,収穫はさっぱりです。

 そうそう,無線とパソコンのモリという店がオープンしているということで,冷やかしがてらに行ってきましたが,無線(というかアマチュア無線)に軸足が置かれているだけに,対象年齢が極端に高く,決して若くはない私が子供に思えてしまうほどの厳しい雰囲気があります。値段も高めですし,特に面白いものもなく,挨拶程度に古い雑誌を3冊ほど買って帰ってきました。

 そして最後に書いておかねばならないのが,お昼ご飯です。お昼ご飯は,お隣の小さい場所に移ったという,こけしで食べると決めていました。

 そして可能なら,今まで頼んだことのない「フルコース」を食べてみようと。

 お昼時よりも少し前だったのに,結構お客さんが入っています。以前のこけしは大きいお店でしたが,今回の場所は実質半分以下の面積しかないようで,カウンターが中心のお店になっている感じです。さみしいですね。

 そして,あまり深く考えずにフルコースを注文。出てきたご飯の量にちょっと驚き,これは血糖値が上がる前に食べきるしかないと,若者のようにがっついて食べました。食べきってみると,そんなにきついものではなく,まだまだしっかり食べられる自分に安心しました。

 実は,日本橋へは,弁天町から地下鉄でなんばに入り,そこから歩いていったのです。なんばCITYの南館の,カメラのキタムラからポンポンと階段を上がってなんさん通りに出るのが普通で,目を瞑っても出られたものですが,今回はなんと,改札からカメラのキタムラまでで1度迷い,そこから地上に上がるのにもう一度迷ってしまいました。いやはや,情けない。あれほど歩いたミナミの町は,もう私をよそ者扱いしているのでしょう。

 なんだかんだで2時間半ほど日本橋にいて,もうクタクタです。ここからさらに通天閣の下を通って阿倍野に出るという作戦もあったのですが,そんな元気もなく,潔く地下鉄であべのまで戻ってきました。なにやら,ハルカスなるものがオープンした日だったそうですが,まったくそんな気配もみせず,いつものアベノでした。

 と,ここまでが部品屋さんで買い物をした話ですが,その後の話として,2つ100円で買ってきたスピーカーは余っていた1つを友人にあげたところ,お返しにaitendoの特価ケースをくれました。3倍の値段のものにゲインアップしたわけで,わらしべ長者はこうやって生まれるんだなと思った次第です。

 クロックモジュールは動作確認をしましたが,温度計付きというのはなかなか面白そうです。何に使えるでしょうね。考えてみましょう。

 CR2032は,割とよく使う電卓やポケコンの電池として使う事に決めて,さっさと交換しました。どれもばっちりでしたよ。

 冷静に考えると,別に日本橋で買わないといけなかったものはないし,見て買ったもの,衝動買いしたものはおおくありません。加えて買い物そのものを楽しんだわけではないので,はっきりいって疲れただけだったなと思います。もう日本橋も,面白い町ではなくなっているんだなあと,残念な気分になりました。

 まあその,なら秋葉原が面白いのかといえばそんなこともありませんので,これはもう私の好みの問題なのかも知れないですね。

さようなら交通科学(博物)館

 大阪の弁天町という駅のそばに,交通科学博物館なる施設があります。東京の神田に交通博物館があった頃,ぜひ大阪にもという声が起こり,当時の国鉄が52年前に作ったのが,前身である交通科学館でした。

 秋葉原と日本橋の関係もそうなのですが,子供の頃の私は,自分の見たいもの,欲しいものが東京に集中していた関係で,規模も小さく,二流のものしか手に入らない大阪には残念な気持ちが強く,大好きな大阪,でも東京にはかなわない,東京に行ってみたいなという憧れがありました。

 当時の情報の入手は雑誌,それも月刊誌くらいのもので,全国誌で大阪の情報が語られることは少なく,それがなおさら東京に対する嫉妬の念を強くしたように思います。これは同時に,大阪に住み,大阪が好きな人間の反骨精神の源泉になっていたんじゃないかと思います。

 神田の交通博物館は,日本で最初の機関車を始めとし,その展示内容や収蔵品の充実ぶりから,鉄道の博物館と言えば必ずここが紹介されたわけですが,対抗馬として生まれた大阪の交通科学館は,また違ったコンセプトを持って誕生しました。

 交通博物館が歴史的な資料を集めていたのに対し,交通科学館は比較的新しい実物を揃えて,鉄道全般を紹介する事を目指したそうです。ちょっと前まで現役とか,現在の車輌の仕組みとか,そういうものを展示の骨子にするわけですね。

 私がここを初めて訪れたのは,今から35年ほど前でしょうか。1980年頃ですが,この時展示されていた実物の車輌はキハ81だったりD51だったりします。

 キハ81が引退したのは1978年ですので,わずか数年前の現役車輌です。D51は1000両を超える大量生産機であり,静態保存機なら全国至る所にあった,珍しくも何ともないものです。

 0系の新幹線も普通に走っていましたし,101系の大阪環状線だって,別に珍しいものではありませんでした。

 これはつまり,博物館ではないんだなと,子供心に思ったものです。

 それでも,近鉄沿線で暮らした私にとって,国鉄車輌を見るのはとても楽しいことであり,何度も父にせがんで,連れて行ってもらいました。

 やがて収蔵品が増え,規模も大きくなり,ついには交通科学博物館と改称したことは知っていましたが,それでも大人が見学すると言うより,子供の遊び場というイメージが強くて,中学生になると全く行こうと思わなくなっていました。

 時は経ち,大阪を離れてから,この交通科学博物館が閉館することを耳にしました。なんでも梅小路蒸気機関車館に統合されるんだそうですが,大阪環状線のそばにあることに値打ちを感じていた私は,これはぜひ最後に見に行かねばならんなと,計画を練ったのです。

 キハ81は引退からすでに35年が経過し,日本で最初のディーゼル特急という貴重な資料となっています。D51も綺麗に保存されたものが減っている中で,2号機が残っているのは誇らしいです。

 EF52は国産初の大型電気機関車で,その後の電気機関車の雛形になったものですし,0系新幹線は実はトップナンバーです。DF50もDD54も西日本では思い出深い機関車ですが,実物の重厚さは近寄らないとわかりません。

 101系も,天王寺発着の列車のサボも,当時ならたんなるコレクションだったものが,今は貴重な第一級の史料です。これがどれくらい,梅小路に移管されるのかわかりません。

 自動車もバイクも飛行機も,鉄道ではない資料は,梅小路も手に余るでしょう。廃棄される可能性もあるんじゃないでしょうか。

 そんなわけで,大阪にあるうちに行っておこう,子供の頃を懐かしむこともしたいし,それ以上に貴重な資料を直に見てみたいと思ったわけですが,閉館はなんと4月6日です。5月の連休に間に合いません。

 そこで,東京に住む弟に声をかけ,どっかで一緒に行かないかと誘ってみました。3月後半の連休にいこうと計画していたのですが,調べてみると閉館直前は混雑し,最悪入場できないというではありませんか。

 せっかく東京からいくのに,それはむなしいと,会社を休んで出来るだけ早めに行く計画に切り替えます。

 そして2月8日に予定していましたが,前日になって弟がインフルエンザでダウン。中止になりました。翌週の15日に延期しましたが,今度は私が風邪を引きダウン。結果論ですが,どちらも大雪で,もし決行していたら大変なことになっていたでしょう。

 3月に入り,弟は仕事が急激に忙しくなってしまい脱落。結局私だけで先週末に見学することになりました。

 ここしばらく大阪に戻っていなかった上に,地下鉄ばかりを使っていた私は,大阪環状線に10年ぶりくらいにのりました。まして弁天町など,降りたのは30年ぶりでしょう。

 周囲の景色は随分変わっていましたが,交通科学博物館そのものは昔の面影を残しています。綺麗になったし,大きくもなりましたが,キハ81を見た瞬間にぐっとこみ上げるものがありました。

 ワクワクしながら入場します。平日の朝だったのですが,それなりに見学者がいます。しかし,小さな子供がワイワイ走り回っているのは,当時と同じです。

 まず目に飛び込んでくるのは,リニアモーターカーML500です。前代未聞の時速500kmという数字と,あの未来的なフォルム,超伝導やらリニアモーターやらわけのわからん言葉の羅列に,少年の心は鷲づかみだったわけですが,中学生くらいになると,これは実用にならんなという,現実的な見方が支配的になっていきます。

 時速500kmといえば,だいたいジェット機と同じ速度です。だったら飛行機でええやんか,ということに気が付くと,わざわざ地上にこだわる理由がわからなくなるものです。

 大人になると,飛行機にはないメリットが見えてくるようになるのですが,様々な議論を経てそのリニアモーターカーによる新幹線が現実のものになろうとしていることは,私には奇跡的だと思えます。

 ML500は単なる黒歴史に終わるのか,それとも困難を切り開いた先駆者なのか,この違いは案外大きいです。

 さて,ML500のインパクトに気圧されながら,鉄道の歴史,鉄道の仕組みなど,子供の頃に見たものを含めて,面白い展示が並んでいます。101系の展示はちょっと縮小されていて,モーターの回転制御は見る事ができますが,当時はパンタグラフの上げ下げや,ドアの開閉が体験出来たのに,それはなくなっていました。

 かわりに私には馴染みのない221系のシミュレータが盛況です。0系も,古い自動改札機も懐かしく,もう楽しくて仕方がありません。

 そしてお目当てだったEF52です。デッキに上り,中を覗くと,外観ほどに古くさい感じがしません。その外観は実に重厚で,丁寧に作られているなと感心します。綺麗にメンテナンスされてもいて,こんな近くに,それもデッキに上がることが出来るなんて,なんとありがたいことでしょうか。

 外に出るとキハ81がいます。屋根付きになっていることもあり,綺麗な補修がなされていて感心しました。室内灯も点灯していて,中の様子が見えるのですが,いかにも国鉄時代の特急という感じがして,こればかりは懐かしさを感じずにはいられません。あいにく中へは入れませんが,デッキまでは入ることができます。それでも雰囲気は十分に味わえます。いろいろ思い出します。

 80系の電車は私には全然接点がなかったのですが,初期の80系がこれだけきれいに保存されているのは大変なことです。

 第二展示場には,DF50とDD54があります。DD54の運転室に入ってみましたが,これがまた普通の運転台なんです。特に難しいスイッチもメーターもなく,他に類似した機関車を見ない,独特の機構を持つDD54が,こんな普通の運転台で動いてしまうことを,ちょっと私は感激してみておりました。この機関車を初めて運転した機関士は,どんな印象を持ったのでしょうか。

 もちろん,見る事が出来なくなった車輌もあります。当時展示されていたマイテ49ですが,これは復元されて車籍が復活しましたので,展示されてはいません。

 そして交通科学博物館といえば,HOゲージを使った大レイアウトです。山あり海ありのレイアウトに,たくさんの車輌が走り回ります。照明も変化し,鉄道のある一日が目の前に広がりますが,ここも昔と同じで大人気で,人垣で全く見ることができません。

 鉄道だけではありません。自動車,飛行機,オートバイ,船など,交通に関係するものが展示されていますが,これは梅小路に移管されない可能性があると言われていて,もしかすると見納めになるかも知れません。

 展示物が貴重で,鉄道や交通を学ぶ場所でありながら,相変わらず子供にとって「楽しい場所」であり続けるのをみて,私は本当にうれしくなりました。保育園や幼稚園の子供たちが,ただただ大好きな電車を身近に体験する場所として,ぞろぞろと引率されてここに遊びに来るのを見ていると,こういう目線で博物館が運営されることの大事さを強く感じます。

 約2時間,たっぷり見学した私は,懐かしさと新しい発見に満腹になりました。ミュージアムショップは,もう商品が残っていませんでしたが,ここで下敷きや模型などをよく買ってもらったものです。

 帰りに,弁天町の駅まで橋梁を渡っていると,そこに機銘板がありました。

 交通科学館橋梁という銘と,昭和37年という年号。そう,これはこの交通科学博物館が誕生したときにかけられたものです。交通科学館は何度かリニューアルし,今は交通科学博物館と名前も変わっていますが,この橋梁はもしかすると,生まれてからずっと,ひたすらに見学者の行き来に使われていたのかもしれません。

 閉館すると,これも撤去される可能性が高いでしょう。私は,この橋梁にもなにか感慨深いものを感じて,帰宅の途につきました。


 52年と言えば,会館の時に10歳だった人は,すでに60歳を超えています。人の一生に相当するほど長きにわたって,本物に触れることの出来る,しかしながら気軽に訪れることの出来る遊び場所として,大阪の子供に貴重な場所を長きにわたって提供し続けた交通科学博物館に,改めて感謝したいと思います。

 そう,こういう場所が,大阪のど真ん中にあることが,とても重要なのです。

 さて,最後に私個人の話を少々。

 交通科学館には,資料室と呼ばれる部屋があります。当時は図書室といってたんじゃなかったかなとも思うのですが,いずれにしても博物館そのものとは別の部屋で,鉄道関係の雑誌はもちろん,国鉄の内部資料なども収蔵されて,閲覧可能になっていました。博物館には,こういう資料を管理し,閲覧可能にするという機能も備わっているものであり,当時の交通科学館は「博物館」とは名乗らなかったものの,きちんと博物館の機能を持っていました。

 交通科学館に何度か訪れた私は,展示品もそろそろ見飽きたところで,それまで踏み入れたことがない場所を見てみたいと思いました。見れば人気のない静かなところに,鉄製の扉がありましたが,特に立ち入り禁止と書かれているわけではありません。

 自分一人では入るのがためらわれたため,母親と一緒に入っていったのですが,そこは私が通い慣れた地元の市立図書館によく似た雰囲気でした。違っていたのは,そこにあるものは,すべてが鉄道と交通に関係するものだったことです。

 しかし,小学校4年生の私には少々難しい資料も多く,上がったテンションは急激にしぼんでいきました。

 そんな中,雑誌の書棚にあったのが,子供の科学です。

 垢抜けない,専門誌っぽい拍子は,タイトルにあるような子供のための科学雑誌という雰囲気があまりせず,非常に真面目で高度なイメージです。

 当時の私にとって,科学に触れる雑誌というのは,せいぜい学研の「x年の科学」くらいのもので,教科書の延長にあり,かつ娯楽性が強い,一言で言うとチャラチャラしたものでした。あれは科学雑誌というよりも,学年別学習雑誌なわけですから,至極当然なことではあるのですが,当時の私はすでにこれでは物足りなくなっていたわけです。

 鉄道とは関係ないけど,時間つぶしにいいかと手に取ってみてみると,その内容の深さや広さに、私は驚きました。科学雑誌というものがこういうものと思い知った感じがして,それこそ衝撃を受けたのです。

 特に印象に残っているのは,泉弘志先生の折り込みで,電子工作の記事でした。電子ブロックくらいしか知らなかった私は,そこで生まれて初めて電子部品がばら売りされて,自分でハンダ付けして動くようにすることがホビーとして成り立っていることを知ったのです。これぞ,自分がやりたいことだと確信しました。

 特に,そんな感激を母親に行った記憶はないのですが,しばらくたったある日,学校から帰ると,なぜか子供の科学がテーブルの上に置かれていました。忘れもしません。まさに生まれた瞬間のひよこの写真が表紙になっていました。

 当時母親は本屋に勤めており,子供の科学のような雑誌でもどんなものかを,ちゃんと知っていました。だから,私が子供の科学に興味を持ったことを察知したのでしょうね。その上で,入荷した子供の科学を見て,買い与えることにしたのでしょう。

 私はそれをとても面白く読みました。

 子供の科学は,小学生に科学に対する興味と関心を持たせる絶好の機会であり,教科書よりも高度で,しかも最新の記述にあふれ,生物,地学,物理学,数学,電気工学,化学,気象学と,あらゆる科学分野が網羅されていました。

 子供は,初めて目にする教科書以外の科学に触れ,多種多様なジャンルから「これは!」と思うものを選び,その道に進むのです。子供の科学は,いわば科学のカタログというわけです。

 私は,子供の科学によって幅広い科学に触れるチャンスを得ましたが,そこから結局電子工学を選び,その道に進むことになりました。現在に至っても,その選択にブレはありません。

 子供の科学を卒業した私は初歩のラジオ,トランジスタ技術とステップアップして,電子工作好きの子供から電子工学を専門にする設計者になりました。そのスタートは,交通科学館で見た,子供の科学でした。

 なにがその人の人生を決めるのか,なにがきっかけになるか,本当にわからないものです。ですが,私にとっての交通科学館は,その後の人生をいかに豊かにしたか,はかりしれないものがあります。その点で,私は他の誰よりも,交通科学館に感謝しなければなりません。

 そして願わくは,京都に移転しても,子供たちに,こうした機会を与え続けて欲しいと思います。

第2種電気工事士の資格

 第2種電気工事士の免状が昨日手もとに届きました。これで名実共に,家の中の電気配線をいじることができます。

 なぜこんな資格を取ったのかと言えば,いろいろ動機はあるのですが,根底にあるのは今私が持っている知識や技術で,十分取得可能な公的な資格があるんじゃないかと思った,ことにあります。

 この歳ですから,今からわざわざ受験勉強に全力投球するなどは,もう無理です。若いときと違って頭も硬くなっていることですし,今から新しい事を学ぶのはなかなか大変です。

 資格の取得というのは,そもそもそうした努力を必須とするものであるが故に値打ちがあるわけですが,幸いにして私が今あるものを使って資格が取れたら,あるいはちょっと勉強したり,知識の整理をしたりするだけで合格出来るなら,それはお得だなと思う訳です。

 とはいうものの,自分の力がどの資格に相当するのかは,試してみるまでわかりません。試験に落ちれば私の力はそれ以下ということになるのですから,言い換えると自分の力を推し量る客観的な指標として,資格試験が利用出来そうです。

 そんな気持ちで,何度か資格試験を受けていますが,今回は電気工事士をターゲットにしました。電気工事士は2つのクラスに別れていますが,上級資格である1種は実務経験がいるので私には無理,自動的に2種になります。

 2種でできることは,概ね一戸建ての家屋の電気配線です。よく,電気工事は資格がないと出来ませんよ,と言われますが,その資格が電気工事士です。

 工業高校卒業程度を想定した比較的簡単な資格試験で,その割には役に立ちそうな資格という事で,以前から狙っていたものでありましたが,最大の難関は実技試験があることです。

 工事士なんですから,知識だけじゃなく実務も出来ないとそりゃまずいわけです。しかもその実技試験は形式的なものではありません。課題そのものは簡単ですが,なにせ試験時間が短く,手際よく作業しないとまず間に合いません。失敗してやり直す時間もないので,慎重さも求められ,少なくとも工具類は手足のように使えないとまずいでしょう。

 ですが,これをむしろ楽しむというくらいの気持ちで,今回チャレンジすることにしました。

 申し込みは昨年の春先でした。試験は春と秋の2回行われ,それぞれ1次試験である筆記試験に合格すると,実技試験を受けることができます。私の場合,春には引っ越しをひかえていて,準備どころではないという状態でしたから,自動的に秋の試験を選びます。

 引っ越しと新しい生活に慣れること,娘の病気と怒濤の日々が過ぎ去る中で,夏休みを過ぎたあたりには,さすがの私も焦りが出てきました。一応見ておこうと買った問題集をパラパラとめくってみると,見たことのない図記号,聞いたこともない専門用語,理屈じゃなく暗記しないといけないことがたくさん目に付きます。

 やばいですね・・・なめてました。

 せっかく受験するんですから,受かりたいですよね。ちょっと頑張って見ようと思ったのがお盆もあけた9月の頭でした。

 まずは過去問題を,なにも勉強しないでいきなりやってみます。わからないところは勘でやらないで空欄にして0点にします。そうして採点をすると,大体半分くらいの正答率です。これでは全然合格しません。

 そこで,分からないところを重点的に勉強します。独特の言葉,記号や道具を覚えること,計算問題はちゃんと原理から導き出せるようにします。

 その結果,正答率が8割を超えるようになったのが9月末くらい。一番大変だったのは図面の問題で,図面からどんな工事が必要なのか,どんな部品を使うのかを聞かれるのですが,これは全く初めての分野ですので,ゼロからの勉強になりました。

 試験の直前には9割くらいの正答率になり,これならまあ大丈夫だろうというレベルにきました。試験会場は行ったこともないへんぴなところにあったので,ここにたどり着けるかどうかが,方向音痴な私にとって実は最大の難問であったと言えました。

 結果は無事に合格。自己採点で結果が出る前に合格していることがわかっていたので,とっとと実技用の工具セットと,練習用の材料セットを手配します。

 こういうのは,早めに用意しておかないと売り切れたり,高いものしか残っていなかったりするので,早めに動く事が肝心です。工具類については,早めに買って使っておくと,それだけ慣れる時間が確保出来ますし。

 しかし,これも私はなめていました。

 まず,単線図と呼ばれる試験問題の図面から,実際の配線図である複線図に書き換える作業がとにかくつかめず,あえいでいました。なんか独特の世界なんですが,それも別に文化と言うほどのものではなく,ちゃんと法律で決まっていることだから,仕方がないのですが・・・

 それもなんとかねじ伏せて,実際に作業をやってみますが,今度は全然時間が足りません。何か忘れたことに気が付いたら,そこでもうアウトです。

 とにかく複線図への書き換えを2分ほどで「確実」に行い,あとはゆとりを持って手が覚えるまで工具を使い,ひたすら作業です。

 幸い,実技試験はあらかじめ公表されている13問からしか出題されません。私は丸暗記は苦手なのですが,13問ですから出題範囲は自ずと限られます。13問の問題を3回ほどまわして,やがて30分程度ですべての作業をきちんと終えられるようになりました。

 とはいうものの,筆記試験と違って,ミスは1つでもあると不合格,軽微なミスでも3つまでしか許されていません。言い換えると完璧を求められる世界です。これはなかなか緊張しますね。

 その上実技試験が怖いのは,当日のちょっとしたアクシデントです。慣れているはずの作業をうっかりミスしてやり直しが発生し時間がなくなり焦って全滅とか,工具を忘れた,工具を壊した,指をけがした,などなど,リカバリが難しいことも考えられます。

 そういう場合はもうジタバタしないで,さくっとあきらめることも肝要でしょう。それくらいの緩い気持ちで臨まないと,しんどいですし。

 実技試験はお台場でしたが,私はこのお台場というところがどうも苦手で,人は多いし広くてわかりにくくて,距離感も方向もつかめません。方向音痴の私にとっては,もう目が見えないのと同じくらいの厳しさです。

 ここは大人の対応をしようと,駄目と思った瞬間にタクシーを使いました。これで余裕です。

 果たして実技試験は,周辺の人達に比べても早く完成し,そのクオリティも万全と言えるものでした。複線図の書き間違いや勘違いなどがなければ,まず合格するでしょう。

 こればかりは自己採点できませんので,合格発表を待ちますが,結果は合格。手応えがそれなりにありましたので,ほっとしたというのが感想でした。

 そして,免状の申請を2月の中旬に行いました。新宿の都庁に出向いて手続きです。綺麗で小柄な若い女性が同じように免状の申請に来ていて,電気工事士をこんな女の人が取るんだなあと,生暖かい目で見ていると,彼女が申請していたのは第1種でした。うむむ,実務経験もあるのか・・・すごいな。

 ようやくにして免状が届いたのが,昨日です。これで私の長い闘いは終わりました。

 受けようと思ってから1年,家族の理解を得て準備を始めて半年,時間も手間もお金もかかった資格でした。難易度云々より,これは長期戦に耐えられるかどうかが試されているなと思いました。

 免状を手にしたら,もう私は電気工事士です。大きな顔をして自宅の電気工事が出来ます。

 例えば,スイッチが壊れたから交換しよう,トイレの照明が気に入らないから買い換えよう,キッチンの照明をLEDに変えよう,LEDダウンライトの寿命が来たから交換しよう,などが全部自分で出来るようになります。最近は部材も通販で安く早く簡単に調達できますし。

 ただし,資格があることと,上手に工事が出来ることとは別の話です。資格があっても壁に穴を開けるのに失敗すれば,素人工事なってしまいます。

 なにせ,うちは電気で動くモノがたくさんある家です。コンセントが慢性的に不足していますし,その場所も必ずしも最適化されていません。不細工で危険なタコ足配線が,すでにあちこちに散見されます。

 これをスッキリさせる作戦を今考えていますが,まず簡単にできることは,2口のコンセントを3口のものに交換することです。これで1つ増えます。作業は数分です。

 それでも駄目な場合は増設ですが,これも例えば1連のものを2連にすれば,壁の穴を広げるだけで大丈夫です。一番大変なのは新しい場所に新設することです。

 なにせ新しい場所に穴を開けますので,あけたところで柱があったとか,電線を引っ張りこめないとか,そういうことがあるとどうにもならなくなります。

 穴を開けることそのものに失敗するかもしれません。大きすぎた,斜めになったなど,鈍くさい私にはあり得る事故です。

 こういう大がかりなものは,ちょっとやめておこうとおもいます。まずは3口コンセントに交換することから始めてみようと思います。

 そうそう,いわゆる就職に役立つかどうか,です。一応公的な資格ですし,資格がないと出来ない作業があるもので,かつ電気は我々の生活になくてはならないものですから,資格がないよりはあった方が,仕事をするのに有利だとは思います。

 とはいうものの,試験に実技試験があることが示すように,資格の有無以上に工事のうまさが最重要なわけで,そのスキルは経験で得られるものですから,有資格者でも経験豊富な人でないと意味がないのが現状でしょう。

 まして,高卒で取得するのが一般的な資格なだけに,歳を取ればその分経験も豊富につめるわけですから,40歳を過ぎて未経験では,余程の事がない限り有利になんかならないでしょう。

 ということで,例えば爆発的な人口増加で急激な住宅建設ラッシュがやってきて,とにかく有資格者をかき集めないといけないとか,それこそ徴兵制でも始まって(そもそも40歳過ぎの人間を徴兵する時点でもう負け確定なわけですが),資格があると工兵部隊を希望出来るとか,そういう事でもない限り,ありがたみ(?)はないんじゃないかと割り切っています。要するに,自分の出来る事を広げるだけのもの,ということですね。

 さて,次は何を取ろうかなあ。
 

Blu-ray導入はポータブル型で

  • 2014/02/25 15:47
  • カテゴリー:散財

 さて,昨日USB3.0増設の話で書いた,BDドライブ導入の話です。

 民生用光ディスクはBDが最終になるだろうという話,そのドライブもかなりこなれてきて値段も安く,いろいろな種類のものが買えるようになってきたこと,そしてこの時期を逃すと選択肢が少なくなっていくんじゃないかという気持ちもあり,導入を検討しました。

 どうせ光ディスクは消えゆく運命にあるわけですから,以前はこのままBDなど導入しないで,HDDベースでいこうと腹をくくったこともありましたが,光ディスクというのは案外耐久性があるということ,機械ものではないので信頼性があるということ,25GBというサイズは案外使いやすいんじゃないかということで,使ってみる気になったのです。

 ついでにいうと,今のMacは光学ドライブが搭載されていません。MacBookは言うに及ばず,iMacでも未搭載です。OSが正式にDVDまでしかサポートしませんし,アップル自身が光ディスクでソフトを供給しなくなったので,その必要性はなくなったというのが言い分でしょうが,世の中にはまだまだ光ディスクで供給される情報があります。

 それに,CD-DAやDVD-Videoという音楽や映像のパッケージメディアは,当分なくなりません。今家にあるものが駄目になるのは,随分先でしょう。

 いつも必要なものではないから,外付けというMacのポリシーは合理的な考え方だと思います。そういう点でも,1つくらいポータブルの光学ドライブがあってもいいかなと思ったのです。

 さっそく機種選定を始めますが,BDではパイオニア一択です。最初は5インチのバルクを買うつもりでしたが,それは使い道が限られますので,ポータブルがやっぱり欲しいと思い,BDR-XD05という昨年秋に出たものを買うことにしました。8500円ほどです。

 ざっとスペックを並べると,USB3.0,BD-Rを6倍速で書き込み,4層のBDXLに対応します。バスパワーで動き,ポータブルBDドライブとしては世界最軽量の230g,本体サイズ133x14.8x133mmという小ささで,手に取ってみるとCDのケースみたいです。

 ケースはアルミに綺麗な塗装がなされていて,とてもきれいです。質感も高く,いい意味で想像を裏切られました。ただ,アクセスランプの光がケースの隙間から漏れるのはいけません。これ,誰か気が付かなかったんでしょうかね。不細工です。

 早速使っていますが,まだBD-Rを焼いたことはありません。読み出す事はばかりですが,多少汚れていても問題なく読み取る性能はさすがです。

 しかし,先日のUSB3.0カードは電源供給能力が低く,バスパワーでは怖くて動作させられません。そこで,外付けの電源を用意します。見れば,5Vで2AくらいのACアダプタならよいそうで,探してみるとちょうど良いものがありました。

 最初,極性が逆になっていることに気が付かず,動かないなあと思っていたんですが,途中で気が付いて配線を入れ替えて対応しました。問題なくセルフパワーで動いており,システムプロファイラでも200mA必要なデバイスとして認識されています。

 読み出すだけならこれでいいんですが,書き込みを考えるとMacでどうやってかき込むかです。一応古いTOASTがありますが,これはBD-Rにギリギリ対応したくらいの時期で,最新のドライブに対応しているかどうかわかりませんし,BDXLは絶望的でしょう。フリーのライタを使うか,書き込む時はPCを使うかくらいしか考えつきません。

 買い物のついでに,BD-Rを30枚ほど,BD-REを20枚ほど買っておきました。今必要なことではないのですが,とりあえずBD-REの試し書きをMacBookAirで行ったところ,電源供給能力の問題から,エラーで止まりました。リードは別にして,ライトについては安定した電源が必須で,ACアダプタは必ず必要になるような感じです。

 BDについていろいろ考える機会になっているのですが,例えばCDは配布メディアとして誕生し,その後ライトワンスやリライタブルを可能にする技術が生まれて実用化されました。それゆえにCD-RやCD-RWでの混乱は少なかったように思います。

 DVDでも配布メディアが前提でしたが,この時はライトワンスやリライタブルの技術がまだまだ発展途上であり,様々な方式が提案され,多くの規格が実用化されて混乱状態にありました。これはひどかったですね。

 BDではその反省から,先にリライタブルメディアを決め,その後配布メディアを作るというアプローチにしたことで,DVDのような混乱は起きませんでした。

 けど,冷静に考えて,もともと光ディスクの利点って,まるで印刷のような流れ作業で短時間に大量のディスクを量産できることにあるわけですよね。かつてテープメディアが全盛を誇っていたころ,これが配布メディアになり得なかった理由は,ダビングに時間がかかってしまったことにあります。

 だから,BDって,本来の姿を見失っているなと感じます。50GBの容量の器を大量に生産できる仕組みは,今のところBDしかありません。HDDが安くなっても,フラッシュメモリが安くなっても,この優位性は変わらないでしょう。

 配信になるといらないという意見もありますが,50GBのデータを仮に100MByte/secの速度の出ているネットワークでダウンロードすると考えても,ざっと10分ほどかかるわけですよ。

 これほど高速なネットワークを維持するにはお金もかかります。もっと遅い速度のネットワークしか使えない人はまだまだ多いと思います。ですから,webサイトから欲しいBDをポチって,その日のうちに玄関先に届くことがそんなに不便なこととは思えません。

 もし,BDのメリットが失われる事態が来るとしたら,大量生産大量配布に意味がなくなるときです。つまり,同じ内容のものが大量に必要とされない時がやってきたら,その時こそ配信の時代が来たといってよいでしょう。

 BDは混乱がなかったと書きましたが,厳密にはウソですね。カートリッジに入っていた第1世代のBDと,その後出たBDとの間には,同じBlu-rayといいつつ,互換性がありません。ファイルシステムも違うなんて,もう詐欺でしょ,これは。

 HD-DVDとBDとの戦争は,BDの勝ちという事になっていますが,正しくはどっちも負けです。どちらもこけて,次に出てきた実質的な次世代規格が市場を制したというのが,ちょっと斜に構えた私流の解釈です。

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