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御三家シャープの撤退

 シャープがパソコンから撤退したことが報道されました。いわく,2009年度中に生産を中止していたそうです。

 シャープなんて,まあテレビと家電の会社ですから,パソコンなんてやっててもやめてても,体勢に何ら影響はないと思われるのがおちですが,新聞でも報道されているくらいですので,それなりの大きさのニュースなのだと思います。

 1990年代以降,メビウスやMURAMASAなど,個性的なノートPCで一定のファンを掴んでいたシャープの撤退は確かに1つの事件ですが,私は,実はシャープが日本のパソコンメーカーとしては最古参であるという事実が意外に知られていないことが,残念です。

 日本のパソコンの歴史を紐解くと,1976年にNECから発売された,トレーニングキット「TK-80」が思わぬヒットとなり,個人でコンピュータを所有することが,一般の人たちにも認知されるようになりました。

 これをうけ,主に半導体メーカーが自社のCPUを使ったトレーニングキットを販売するようになりました。CPUにメモリ,テンキーとLEDによるディスプレイが基板の上にハンダ付けされただけのむき出しのものが,普通の人向けに売られていた事が不思議なくらいです。

 この程度の製品では,本当にCPUを自分で操作して終わりで,実用性はありません。ゲームやビジネスアプリなど,結果を求める作業はなにもできないわけで,なんだ,コンピュータってなんにもできないじゃないか,と言うがっかり感も漂うようになります。

 もちろん,実力あるユーザーたちは自分で部品を追加し,ソフトも自分で書いて,フルキーボード,CRTディスプレイ,高級言語の実装を行っていったのですが,彼らにとってはその作業こそが目的であり,楽しみでもありました。

 そうではなく,コンピュータを使って得られる何かが目的の人のために,最初から完成していて,すぐに使えるパソコンが登場するのは,時間の問題でした。

 人によっては,トレーニングキットと中心としたワンボードマイコンのブームを第一次マイコンブームと呼ぶのですが,このブームの中でフルキーボードとCRTディスプレイを持ち,BASICインタプリタが動いて,保守契約を必要とせず,かつ完成品としてセットで30万円までで売られていること,の4つが,次の世代のパソコンの標準という方向が生まれて来ました。

 余談ですが,海の向こうのアメリカでは,かのAppleIIが1976年に登場し,このすべての条件を満たして,新しい時代を切り開いていました。(日本国内では為替の関係で価格という条件は満たしていませんでした)

 日本でこの条件を満たしたマシンが登場するのは1978年になります。あえてこの4つの条件を満たしたものを「パソコン」と定義すると,日本で最初のパソコンはこの年の9月に発売された,日立製作所の「ベーシックマスター」です。

 この「ベーシックマスター」を,日本で最初のパソコンとする考えた方が1つの流派を作っているのですが,3ヶ月遅れた12月に,シャープから「MZ-80K」というパソコンが登場します。

 なお,1979年の9月にはNECからPC-8001が登場し,この三社をして「パソコン御三家」と呼ばれるようになるわけです。

 このうち,MZ-80Kについては,セミキットという形で販売された関係で,厳密に言うと完成品で登場したわけではありません。しかし,実際に作る部分はキーボードの部分だけで,他は既に組み立て済みでしたし,すぐに完成品も登場して数年間の製品寿命を持っていたことを考えると,パソコンに含めてよいと思います。

 インベーダーゲームやYMO,デジタル時計というような「テクノロジー」が文化や世相に影響を与えるような時代背景もあり,個人所有でかつ結果を期待できるPC-8001は大ヒットとなり,ここに第二次マイコンブームが到来します。

 NECはPCシリーズとしてホビーマシンであるPC-6001からビジネスマシンであるPC-9801までフルラインナップ,ポータブルマシンPC-2001やハンドヘルドマシンPC-8201,果てはPC-100のような異端マシンまで繰り出す余裕を見せ,豊富なソフトを武器に王座に君臨,1990年代前半のPC-9801の隆盛へと続いていきます。

 シャープはMZ-80Kから現在のPCと同じような,メモリ空間の大半をRAMとして,BASICに固定せず様々な言語を扱える「クリーン設計」を1980年代後半まで踏襲し,個性的なマシンで熱狂的な支持を得ます。また,別の事業部で作られたとはいえ,MZの遺伝子を持つX1シリーズはテレビとの融合を掲げて誕生し,Z80マシンの完成形と言われるX1turboを経て,X68000という当時最強のホビーマシンを世に問うことになります。

 日立は御三家の中では唯一の68系のパソコンを作るメーカーで,究極の8ビットと評された6809を搭載したマシンを発売したりしましたが,1980年代中頃にはその存在に陰りが出始めていました。その直系であるMB-S1というマシンは,8ビットパソコンとしては最強のパワーと高い完成度を誇っていましたが,すでにホビーマシンとしてしか売れなかった8ビットパソコンの世界において,その勝負は付いていました。もしもMB-S1が68000とACRTCを持ったマシンだったら・・・とは,当時からよく言われた「IF」です。

 残念な事に,日立はMB-S1を最後に,独自アーキテクチャのパソコンから撤退します。代わって登場した68系の盟主が富士通で,1981年に登場したFM-8を皮切りに,FM-7,FM-77といったヒットモデルを連発し,新御三家の一員として,後に明らかにX68000を意識したと思われるホビーマシン,FM-TOWNSで勝負に出ます。

 この,第二次マイコンブームに参入した国内メーカーと代表機種をざっと挙げてみると,東芝がPASOPIA,カシオがFP-1100,松下がJR-100,ソードがM5,トミーがぴゅう太,バンダイがRX-78,セガがSC-3000,エプソンがHC-20,キヤノンがX-07,ソニーがSMC-70,IBMがJX,三菱がMULTI8,と言った具合です。概ね,シリーズ化もできないくらいの短い間の出来事でした。

 そしてBASICインタプリタで圧倒的シェアを握るマイクロソフトと,日本のアスキーが仕掛けたMSXが,主にパソコン参入のきっかけを失った家電メーカーから多数登場し,1980年代の第二次マイコンブームはピークを迎えるのです。

 しかし,この時期に登場したファミコンがこれらパソコンの主用途であるゲームという分野を奪い取り,次第にパソコンは仕事の道具という性格を強めていくことになります。

 ちょっと話が長くなりましたが,最古参のパソコンメーカーであるシャープは,1978年から2009年までの31年にわたって,パソコンメーカーであり続けたのです。決して1990年代のIBM互換マシンからが,彼らの歴史ではないということを,どこか1つの新聞くらいは書いて欲しかったなあと,そんな風に思うのです。

 もうちょっと遡ってみましょう。

 シャープは今日でも電卓メーカーとして知られていて,その熾烈な生存競争の勝者であることは有名な話です。リレーやトランジスタで作られた電卓をIC化して小さく安くしたことは,電卓の進歩のみならずマイクロプロセッサ誕生にも繋がる話ですが,なぜラジオやテレビのメーカーだったシャープが計算機に手を出すことになったかというと,当時の若手社員が「次の飯の種」と考えていたからです。

 NECや日立,富士通が電子計算機を立ち上げようとしていたころから,シャープは大学の先生から教えを請い,コンピュータの分野への参入を画策していました。

 しかしコンピュータは莫大な投資が必要で,製品の価格も大きく,数を売る商売ではありません。シャープはその電子計算機の基礎検討を,電卓や小型コンピュータの開発に応用するという,実に賢い選択をしました。

 ただ,こうした経緯もあって,当時は二流といわれた家電メーカーのシャープは,かなり本格的な電子計算機の基礎技術と,自社でコンピュータに使われるような大規模な半導体の生産が可能な,ちょっと特異な会社だったのです。

 1970年代前半にはミニコンピュータHAYACを事務処理用のコンピュータとして展開していましたし,1980年代にはCPUに68000シリーズを採用し,OSにはUNIXを搭載したワークステーションOAシリーズをラインナップしていました。さらにマイナーなところでは,1986年にRISCプロセッサを用いた32ビットのスーパーミニコンIX-11まで発売しています。

 また,8ビットパソコンを席巻したZ80を始め,16ビットのZ8000など高性能なCPUや,そのファミリLSIを大量に生産する能力を有し,SRAMやマスクROMにおいても常に時代の先頭を走る製品を持っていました。さらに,今では誰も逆らえないARMというプロセッサを国内メーカーでいち早く導入したのもシャープでした。

 日本のコンピュータの黎明においては,電電グループと呼ばれたコンピュータメーカーが主役を演じますが,実はシャープのような傍流にも,それなりの存在感を示すメーカーがあったのです。

 そして,その歴史あるシャープは汎用コンピュータから2009年に撤退しました。HAYACが,OAが,MZやCZが紡いできたその糸が,ここで切れたのです。

 もちろん,シャープはコンピュータから撤退したわけではありません。電卓,電子辞書,携帯電話,ネットブックマシン,そして今回のガラパゴスと,コンピュータそのものといっていい商品群で相変わらずの存在感を示しています。ただ,なんでもできる汎用コンピュータのラインナップがなくなることに,かつてのシャープを知るものとしての,寂しさがあります。

 さて,終わりに,その後の日本のパソコンを書いていきましょう。

 1990年代中頃にPC-9801で我が世の春を謳歌したNECは,その後Windowsと海外勢との競争に巻き込まれ,独自アーキテクチャのマシンから撤退し,基本的にIBM互換機メーカーとして現在に至ります。国内でのシェアは上位だそうですが,それも事業として安泰というレベルではなく,また海外ではさっぱりダメという状態ですので,かつてのIBMがそうだったように,NECにとってのパソコンというものを,再定義する時期はそう遠くないように思います。

 新御三家の富士通は,PC-9801との勝負を幾度となく仕掛けましたが,FM-16β,FM-Rシリーズ共に惨敗。これが独自アーキテクチャのマシンからの撤退を早め,現在に続くIBM互換機のFM-Vへの全面的な切り替えを行います。

 日立は早くからIBM互換機へのスイッチを行っており,コンスーマーマシンへの撤退と再参入を繰り返しながら,2000年代初めにはパソコンからの撤退を行っています。日本で最初のパソコンメーカーは,その名誉を守ることができませんでした。

 東芝,三菱,松下といった電機メーカーはぱっとしない状態でしたが,東芝はラップトップマシンで高い評価を得てノートPCに強いメーカーとなりました。

 MSXは最終的にファミコンに始まる家庭用ゲームマシンに敗れ去り,1990年代中頃までに市場から消え去りました。

 そしてシャープ,1986年に登場したX68000はMZ,そしてX1の流れを汲むホビーマシンの最高峰として,PC-9801やMacintoshとは違う世界を作り出しますが,加速度を増す技術の流れに背を向けて性能向上を怠ったことや,PlaystationやSEGA Saturnといった次世代ゲームマシンの登場により急速に陳腐化,Windowsの時代の到来と共に消え去ります。

 よく知られた話ですが,実は最終機種であるX68030の後継として,CPUにPowerPCを搭載した次世代Xの開発はほぼ終わっており,量産するかしないかという判断まで来ていたそうです。この話,私も後日関係者から聞いた記憶があります。

 シャープとしては,ホビーマシンをこのまま継続することは得策ではなく,またこの時登場したメビウスが大変好調であったことから,パソコン事業をメビウスに一本化することとし,PowerPCを搭載したXは幻に終わりました。

 ただ,もしもこのPowerPC搭載のXが登場していたとしても,まず現在まで生き残っている可能性はないと思いますし,おそらく1年か2年で撤退することになって,何も残さず,大きな損失を出していたことでしょう。X68000シリーズの後継かどうか,PowerPCを搭載するのかどうか,が問題ではなく,時代とユーザーの質が,すでにそのコンセプトと大きく乖離していたであろうから,です。

近代デジタルライブラリーの役割

 著作権が切れてしまった書物をスキャンしてデジタル化によるアーカイブを行うことがあちこちで行われています。

 我が国でも国会図書館が「近代デジタルライブラリー」という名称で2002年から行われており,今年7月の時点で明治,大正期の約17万冊が,インターネットを経由し,WEBブラウザで誰でも自由に閲覧できます。登録なども必要ありません。

 明治や大正の書物というのは,普段の生活には全く必要ありませんし,面白いものでもありませんが,興味を持ち始めるとそれは底なしという感じがあります。私の場合,産業史や技術史が好きだったりしますので,特に無線や電気工学が急速に進歩する1920年代の書物に触れることは,とても刺激的です。

 海外の文献について,これらの時期のものを目にすることはあったりしたのですが,日本語の文献を見るには国会図書館に行くしかないなあと思っていたところ,その国会図書館がプロジェクトを進めていたことをふと思いだし,「無線」をキーワードに検索すると200件近くがヒットすると知り,喜んで閲覧を始めました。

 PDFでのダウンロードも可能なのですが,サーバー負荷を考慮して一度にダウンロード出来る数は見開きで20ページ(ということは10枚ですね)に限定されているため,1冊丸々のダウンロードには手間も時間もかかりますが,貴重な資料に誰でもアクセス出来るという魅力の前には,大した壁にはなりません。

 考えてみると,資料や情報というのは,囲ってしまった人が勝者です。これらは全ての活動の源泉ともいえ,これらに自由にアクセス出来ないから,そこに差が作られます。

 文字を読む,文章を綴るという事を教育の根幹とするのはそのためですし,これらの「道具」を使って,先人達の知恵に触れるチャンスを持つことは,その人自身の可能性を広げるという意味においても,大変民主的なことだと私は思います。

 ある人が,3000円の本を書いたとしましょう。これが1000冊売れると,300万円の価値があったことになります。この人は,世の中に300万円の価値を生み出した訳ですね。

 この本はがすぐに絶版になってしまったとすると,著作権が存在するために,新たにこの本を読む機会がなくなります。全く存在すら知られず,消えてしまうこともあるでしょう。しかし,もしこの本が「誰でもアクセス出来る」ような状態だったなら,新しい読者が新しい価値を生み出してくれる可能性が出てきます。

 例えば,ですが,1960年代に一斉を風靡した,世界で最初のスーパーコンピュータとされるCDC6600というコンピュータの,アーキテクチャを説明した本が出版されたことがあります。

 CDC6600は現在のコンピュータに至る過程で生まれた,多くのアイデアが盛り込まれていて,現在も使われているものもあれば,現在は別の方法で解決された問題もあります。

 しかし,CDC6600はすでに過去のもので,この本も絶版になって久しい技術書です。

 著作権は消えていませんので,当然コピーも出回りませんし,そんなことをしたら犯罪です。

 ところが,この本の価値を知るある人が,スキャンして配布したいと考え,版元に連絡をしました。版元はちゃんと受け付けて,著者の連絡先を紹介しました。

 残念な事に,著者はすでになくなっており,奥さんが権利の保有者になっていました。この本をこのまま眠らせるのは惜しいという熱意に,奥さんはこの本をスキャンして配布することを,快諾しました。

 それからしばらくして,私は偶然そのデータを入手しました。大変に面白く,数々のアイデアに脱帽しました。1960年代は現在に通じる数々の機構が開発された時期で,それが出た当時にどれくらい画期的であったのかを知ることは,とても興味深いことです。

 私はそのことで,直接の価値を生み出していないかも知れません。しかし,こうして絶版となった名著が志あるものの目に触れ,彼が新しい価値を生み出したら,それは社会全体に,もっというと人類全体にとってプラスになることだと思えないでしょうか。

 知恵の継承というのは,こうして行われて来ましたし,そこで新しい技術が生まれて,人はさらに進化していくわけです。著作権という権利はとても重要な概念ですが,諸刃の剣であることを痛感した出来事でした。

 日本語は全世界で1億数千万人しか使わないローカルな言語です。しかしその長い歴史を考慮すると,蓄積された情報量というのは膨大なものになることでしょう。それが特別なものではなく,広く希望する人に行き渡ることで,新しい価値が生み出されるはずです。

 国会図書館が,こうしたプロジェクトを地道に行っていることは,一見無駄に見えるかも知れませんし,マニアックで,一部の人の利益にしか鳴っていないように見えるかも知れませんが,直接閲覧して面白いと思うならそれはそれでよいし,直接ではなくても間接的に,必ず社会全体の利益になると,私は信じています。

 注意しないといけないのは,昔の本ですから,ウソも書いてあるという事です。電波は「エーテル」を媒質に伝わると,これだけ豪快に言い切ってしまう文献を,歴史的なものとして見るだけのゆとりがないと,恥をかきますのでご注意あれ。

ネットワークオーディオが変えるハイエンドオーディオの世界

 ここ最近,ちょっと大きな変化が来ていると感じていることがあります。

 それは,ハイエンドオーディオの世界で起きつつある,ネットワークオーディオへの脱皮です。

 私はハイエンドオーディオの所有者でもないし,それほど興味があるわけではありませんが,ディジタル技術に対しては比較的保守的と言える姿勢の人々に対して,各メーカーがこぞってネットワークオーディオ機器を用意していることに注目をしています。

 CDの売り上げが下がり,配信による売り上げが大きくなっていることはすでにご存じのことと思いますが,これは携帯電話で音楽をダウンロードし,そのままそれを聴く,あるいはiTunesStoreで音楽を買い,それをiPod/iPhoneで聴く,と言うスタイルの定着によって起きていることであり,つまるところオーディオのカジュアル化がさらに進んだ結果であると,考えられる傾向があるようです。

 私もそう考えていました。つまり,CDは大規模店でないと買えなくても,ダウンロード販売ならいつでも1曲単位で買えるという利便性が支持されているのだと信じていたわけです。利便性と引き替えに失ったものは音質であり,圧縮された音楽は,およそHi-Fiとは言えないものであって,面倒な事でも「儀式」として尊び,全ては音質のためにというハイエンドオーディオには,およそ無縁だと思っていたのです。

 しかし,ハイエンドオーディオがネットワークオーディオに舵を切っている事は事実です。これをオーディオのカジュアル化という文脈で捉えようとすると,失敗するように思います。

 これらハイエンドオーディオをターゲットにしたネットワークオーディオ機器の特徴は,USBによるマスストレージに記録されたファイルと,DLNAなどネットワークで運ばれるファイルの再生を行うもので,その点ではカジュアルなオーディオ,あるいはゼネラルオーディオとなんら変わらないように思えます。

 しかし,これらの機器が,24bit/96kHzといったフォーマットにちゃんと対応していることを見逃してはいけません。16bit/44.1kHzでさえも,あれだけの物量を投入するマニアの人たちですから,情報量が2.5倍にも膨れあがる24bit/96kHzに対しては,それを上回る高音質化を行わなければ納得しないでしょう。

 私が先日購入したZoomのH1も,1万円そこそこで24bit/96kHzの録音と再生が可能です。しかし,潜在的に多くの情報を含むデータから,その情報を余すことなく再生するシステムを組み上げるのは尋常ではありません。

 ここでふと気が付きます。つまり,音楽を聴くことに大きな価値を感じてお金と時間を投入するマニアをして,すでにCDやSACDといったパッケージメディア見限ったのではないか,ということです。

 CDは30年近く前のフォーマットで,制作現場で使われている24bit/96kHzに対してあまりに器が小さすぎ,かなりの情報を削り落として押し込んでいます。SACDは音質には定評がありますが,いかんせん新譜が少なく,供給という点で問題があります。

 ハイエンドオーディオのマニアが,これらのメディアに対して長年不満を募らせていたことは事実で,その中で出てきた1つの流れがLPレコードへの回帰だったと言えるのかも知れません。

 このままパッケージメディアに頼っていては,スタジオで鳴っている音には永遠にたどり着かない,そのことに気付き,焦り始めたマニアが,自然に目を向けるようになったのがネットワークオーディオだったとすると,それはとても自然です。

 言うまでもなくハイエンドオーディオのマニアたちの執念は強烈で,1mあたり何十万もするケーブルに一喜一憂し,スピーカーの位置を1cmずつ動かしてはその変化に聞き耳を立てる人たちです。どちらかというとディジタルオーディオに懐疑的な人種でありながら,フォーマットの優劣はケーブルくらいでは越えられないこともまた良く承知している聡明な人々でもあるので,彼らが本気になってネットワークオーディオに取り組み始めた時には,もうその流れを止めることは不可能でしょう。

 数年前から,24bit/96kHzなどのフォーマットをPCとUSBオーディオ機器を使って高音質再生するという試みが一部のマニアの間で検討されていましたが,オーディオ用にチューニングされていない機器を使いこなすのは難しいことであったようですし,そもそも高音質フォーマットによるソースの供給が少なすぎて,主流にはならなかったようです。

 そこへ,ネットワークオーディオに特化したハイエンドオーディオ機器が,きちんとしたチューニングとD共に相次いで登場して来たことを,見逃してはいけません。

 この流れの一番乗りは,イギリスのLINNというハイエンドオーディオメーカーです。

 高級オーディオ機器のメーカーとして知られるLINNは,2009年の年末をもってCDプレイヤーの生産を取りやめました。なんだかんだでオーディオソースの主役であるCDをラインナップから外すという英断に,私は当時大変驚いたのですが,2007年ごろから彼らが注力してきたネットワークオーディオ機器,LINN DSシリーズに対するユーザーの反応が,この大きな決断の背中を押しているわけです。

 LINNがいうには,2009年度はワールドワイドの売り上げのうち,ネットワークオーディオ機器が売り上げ全体の30%を稼いでるというのです。しかもCDプレイヤーの売り上げは前年比4割減です。もうそんな時代になっているのかと驚かれるのではないでしょうか。

 CDも,その長い歴史の中で高音質化が行われてきましたが,やはりフォーマットの壁はいかんともしがたいわけで,アナログ放送の地上波が,どれだけ高画質化しても根本的な情報量に絶対的な差のある地上デジタルのハイビジョン映像には全く歯が立たないのと同じ話です。

 ネットワークオーディオにはフォーマットへの縛りが緩いという特徴もありますし,駆動系がなく音質にも有利,しかも信頼性も高いです。PCとの親和性も高く,利便性にも優れています。中身と器を完全に分けたというのも現代においては必須の概念でしょう。

 利便性によって普及したネットワークオーディオは,ここに至ってオーディオ史上最高音質という能力を身につけ,一躍ハイエンドオーディオ向けの最重要ソースになりつつあります。

 LINNの勇気ある決定に続き,ここ最近数十万円クラスのハイエンドオーディオ機器にもネットワークオーディオが用意されるようになりました。日本のメーカー重い腰をあげてようやく参戦しつつあります。LP,CDに続く,ソースの主役に君臨する日は,もうすぐそこです。

 自宅にネットワークが張り巡らされ,サーバーには24/96を含む可逆圧縮のオーディオデータが収められて,これが数百万円のアンプとスピーカーを鳴らし切る,そんな時代がすぐそこまで来ています。これは,音楽を聴く人にとってはもちろんのこと,音楽を作る人にとっても,極めてエキサイティングなことだと思います。

 しかしながら,CDはおそらく消えません。音楽を詰め込んだパッケージには,最新の音楽を高音質で配布するという役割だけではなく,文化と歴史の担い手という非常に重要な役割があります。

 SP盤は音質としては決して良いとはいえません。しかし今でも愛好家がいますし,むしろ貴重な録音,貴重な記録という文化的側面が強いわけです。LPもしかり,CDもしかり。いずれも,これほど多くの資産を持つメディアですから,そうそう簡単に消えはしないでしょう。メディアが担う役割の比重は,年々変わっていくのです。

 ならば,ネットワークオーディオの時代になると,供給される音楽はどういう形でアーカイブされ,文化として次代に引き継がれることになるのでしょうか。

 そう,趣味性の強いハイエンドオーディオにおいては,その音質で主役になることは間違いないでしょうが,パッケージメディアが持つアーカイブという能力が欠如していることについての議論は,まだまだ浅いのではないかと思います。

 LPレコードの再生に数百万円の出費を厭わないマニアだからこそ,今の音楽を次にどうやって残していくのかを,一緒に考えてもらいたいものだと,私はそう思います。

本と本屋と電子書籍

 昨日,私は一部で話題になっていた「傷だらけの店長」という本を読了しました。

 本が好きで本屋でアルバイトを始め,そのまま就職した主人公が,やがて店長として本屋を運営するなかで,その現実に傷つき,疲れ果てていきます。やがて大規模店の出店による影響で閉店を余儀なくされ,自らの人生にも大きな影を落とします。本屋を知る人には共感を呼び,知らない人にはそうだったのかと胸が痛む,そんな本だと思います。

 本屋さんの業界新聞に連載され,その「耳の痛い内容」に賛否両論あったものが加筆修正の末に,単行本になったものです。

 この本を読んでいると,胸が締め付けられるような悲しさと寂しさにおそわれます。そしてそれを買った日に自炊して,Kindleで読了したという皮肉。なんという矛盾。

 以前にも書きましたが,私の父は教科書の会社で営業をしていました。母は実家のそばのスーパーに入っている本屋さんにパートで入り,25年以上働き続け,今も店長格として現役です。

 私はコテコテの文系の両親から突然変異し誕生した理系ですが,やっぱ文系の血が濃く流れていることを感じることがあります。その1つが,やっぱり本好きと本屋好きだということです。

 いや,本好き,というのは,いわゆる文学作品を多読し,得られる知識を血と肉にして自らの人生を豊かにし,時に人を幸せにする人を言いますので,私のような技術書を中心に散財を繰り返す人を本好きとはいいません。

 ですが,文字を追いかけて読むことがそもそも好きでたまらず,文章を綴ることも(うまいか下手かは置いておいて)苦にならない人で,通勤に開く文庫や新書,寝る前に開く文芸書が心地よく,ついつい夜更かしを続けては,朝なかなか起きられません。

 眠い目を擦りながら本屋で面白そうな本に偶然出会って,一気に眠気も吹っ飛んでしまうと,確かに本好きとはおこがましいが,本が好きな人であることくらいは,胸を張って宣言したって罰は当たらんだろうと思っています。

 本屋さんも大好きです。1時間でも2時間でも過ごせますし,週に一度くらいは足を運ばないと気が済みません。行きつけの本屋さんならどんなジャンルでもまよわず探せるよう棚の特徴と場所を覚えますし,品揃えでその本屋さんの癖を掴み,自分の趣向にあっているかどうかを確かめることも忘れません。本屋さんには失礼かもしれませんが,複数の本屋さんを使い分けます。

 そして,母の話を30年聞いて,傍目には楽そうに見える本屋さんの仕事が,いかに辛く,いかにつまらない仕事であるかを知っていて,しかし本と本屋が大好きという店員さんの情熱によって維持されているという現実に,実に頭が下がる思いがするのです。

 ここ5年くらいの状況はさらに悪く,本屋さんがどんどんつぶれてなくっています。大手が大規模店舗をオープンさせて規模で勝負に出ていること,amazonなどの通販が大変に便利になったことで,本の入手そのものは以前よりも良くなっているように感じますが,一方で中小の本屋さんの減少が起こっています。

 極論すると,店員さんの情熱くらいではすでに維持が不可能な,パワーゲームになっているというわけです。いや,いいか悪いかは別ですよ,それにこうした競争が本屋だけの話でないことも重々承知しているつもりです。

 それでも,本屋さんは,本当に特殊な空間です。

 老若男女,誰でも気兼ねなく出入りできます。せいぜい中学生がエロ本を買うときくらいでしょうか,挙動不審になるのは。

 何も買わなくても全然平気,静かで清潔で,夏は涼しく冬は暖かく,ほぼ全ての商品がお試し可能,店員さんは寄ってこず,しかもちょっとのお金でお買い物ができて,買った商品はそのまま持ち帰り可能,帰りの電車から早速使って楽しむことが出来る,そんなありがたいお店なのです。

 ただし,あくまでお店であって,図書館ではありません。利益が上がらないといけない存在です。一方で店員さんの収入が低いことはよく知られていることですが,それでも成り立っているのは単純な損得勘定を越えた情熱や熱意があるからであり,いわばそうした彼らの心を食いつぶしているといえるかも知れません。

 そうした,経済的観点から見たときの正論と,人の心が加味された現実とが複雑に絡み合って,今のこの一瞬も,本屋さんは維持されているのですね。

 思えば,母の本屋に関する話も,年が経つほど管理職のそれになって来たように思います。ここ10年ほどは,本が好きという言葉より,本屋のマネジメントのしんどさを語ることが多くなりました。変わらねばならない業界への不安と,変わって欲しくない業界の本音が,母の口から出てきます。

 それでも,やっぱり母は本屋が作るのが好きで,本好きのお客さんを迎えるのが好きで,私は私で,そんな本屋に行くのが好きなのです。

 「傷だらけの店長」は,母が私によく言っていた話に重複する部分がたくさんあり,本屋さん特有の自己犠牲について語っています。自己犠牲なんてのは,どんな商売でも大なり小なりあるとは思いますが,本屋さんのそれは,好きでやっている商売ゆえ,弱音や甘えであったり,憚られる不名誉なことだという固定観念が,私自身の根底にあったのではないかと思われました。

 本が好きで本屋が好きで,本に関わる人が好きで,それらを汚す人を許さないという熱意だけが,この疲弊した店長を支えます。理不尽な客もいますが,著者もタイトルもわからない本を探し当て,喜ぶ客の顔を見るのがうれしくて,この仕事を愛していることが愚直に伝わって来ます。そう,母もそうでした。

 やがて大型店が近所に出店,長く地域の文化的拠点だった主人公のお店は閉店するに至ります。定期購読のお客をどうするのか,自分に負けないくらい本と本屋が大好きなスタッフたちをどうするのかに悶々とし,店長になるとき,そして閉店になるとき,それぞれで床に頬をすり寄せ,本屋さんに対する愛情を表現した主人公には,会社員としての単純な責任感を越えたものがあったはずです。

 日々の入荷と返品の繰り返しは過酷な肉体労働を強います。定価販売ゆえ値引きという特効薬が使えず,本屋さんの成績は店長と店員の能力によるところが多かったのが,近年のランキング重視の傾向と,機械的な発注作業による手堅い店舗運営よって,知的労働の割合は減少し,属人的な要素のウェイトが小さくなっています。

 お客さんは,当たり前の事ですが欲しい本がある本屋さんに足を運びます。以前は自分が欲しい本が高確率であるのは自分にマッチした個性の本屋さんでしたから,規模の大小に関係がなかったのですけれども,近年はランキング重視の傾向がお店にもお客にも強くあるので,どこも似たような本屋になってきます。

 そうすると,規模の大小が集客力の差になります。当然売れ筋の本の配本は,たくさん人が集まる大規模書店が優先で,中小の書店は後回しになるので,ますますお客さんは確実に手に入る大規模書店に足が向くわけです。

 私は本好きとは言えないまでも,どこを探してもなかった本が棚に収まって「ここにいるよ」と光り輝いている姿に小躍りし,本屋を出るときには顔が緩んでいることを何度も味合わせてもらっている,とても幸せな人です。

 でも,最近そんな経験も少なくなりました。

 以前はそれでも,amazonで買った本が手元に届くのに数日かかることが嫌で,買った本はすぐに読みたいからと本屋さんで探すことをしていましたが,やがて探しても見つかることがまれになり,結局amazonに頼むことがほとんどという状況になりました。最近は無駄足をするのが嫌なのと,検索がとても楽という理由で,最初からamazonに頼むことが増えています。

 私が支えなくてどうするのか,昔からMegaDrive,SegaSaturn,Dreamcastとマイナーゲーム機と共に心中し,買い支えという特殊な文化に全く抵抗のなかった私をして,この体たらくです。

 私一人の影響力は些細であるとしても,私のような人間が,あるいはもっと本屋さんに思い入れのない人がたくさんいたら,もう本屋さんは成り立たないのではないかと,心配になります。

 閉店準備に追われる主人公は,閉店までの時間の間に,本屋から去ることを決意します。本好きで,本屋好きな主人公は,本を売る立場から離れても,やっぱり自然に本と共に過ごします。このあたり,なんだか泣けてきます。

 彼は,今吹いている電子出版の流れ,そして業界が初めて経験する海外勢との戦いに,身を置いていません。日本語という壁ゆえ海外との直接戦争を回避できていた本の業界が,とうとう好き嫌いにかかわらず海外勢との競争に晒される時代が来たことを,当事者として相対さずに済んだことは,幸運とも不運だったともいえるような気がします。

 母は,務める書店の内規により,その年齢から,半年ごとの契約で働いています。契約云々以上に,肉体労働である本屋の仕事がきつくなってきたと限界が近いことを口にします。

 そして母は,本屋が衰退する現実を案外冷静に受け入れています。後に続く若い書店員に,母はどんな言葉を残すつもりなのでしょうか。今度母に聞いてみなければなりません。

 本が好きでも,本屋が好きでも,私がワクワクして買って帰った本は,その場で分解,裁断され,スキャンされて電子データになり,Kindleに流し込まれます。バラバラになってもはや「紙」になった本は,縛られて資源ゴミに出されます。そう,私はこの手この指で,ページをめくることすらしなかったのです。

 でも,今の私は,このことに全くといっていいほど,抵抗がありません。もっというなら,なんの感情もわきません。

 おかしいな,どうしてだろう,私は本と本屋の,一体なにが好きだと思っているのか,自問する毎日です。本と本屋が好きという点で共通する母とは,これからも話がかみ合うのだろうか,そんなことを,毎年楽しみにしている秋の夜長の訪れを心待ちにしながら,考えています。

マイクロソフトがCPUを作るのか

 マイクロソフトが,ARMのライセンスを受けることになったそうです。

 ここ最近のマイクロソフトの動きにはちょっと不可解なものがあり,かつての輝きを失った迷走っぷりに残念な気持ちになっている方も多かろうと思います。

 創業者が特に優れていた場合の世代交代が難しいという話は,世の東西を問わず,また規模の大小を問わないものだと,つくづく思います。

 今から20年ほど前の,WindowsNTの開発の顛末を語った「闘うプログラマ」という本には,DECから移ってきたデイブ・カトラーが,自由奔放なマイクロソフトのキャンパスの雰囲気に嫌悪感を示すシーンがあります。

 今のマイクロソフトに,そうした大人が煙たがるような「遊び心」があるのか,ないのか。

 部外者の私にはさっぱり分かりませんが,なにやら巨大企業が遭遇する「お疲れ感」をそれとなく感じているのは,私だけではないのでは,と思います。

 そんなおり,ARMのライセンスの話です。

 ARMのライセンスと聞いてもぴんと来ない方も多いと思うので,ごく簡単に説明をします。

 ARMというのは言うまでもなく,CPUメーカーのARMのことです。イギリスのケンブリッジに本社がある半導体メーカーの1つですが,彼らの売り物は自前の半導体製品ではなく,CPUの設計情報です。

 例えばインテルにしてもルネサスにしても,CPUの設計はあくまでCPUを作ってそれを売るために作るものであり,それ自身は売り物にしません。しかし,ARMは半導体の実物はそれぞれの半導体メーカーが作るものとし,自分達はその設計情報だけを販売することにして,もうけています。

 設計情報が売り物になるのか?と疑問に思う方もあると思いますが,CPUをゼロから作るというのはとてもとても大変です。CPUを作るだけでも死ぬ思いをするのに,コンパイラやデバッガ,ICEなどの開発環境に加え,周辺機能も一式用意しないといけません。これがとても大変です。それだけしても,そのCPUが売れるかどうかはわかりません。

 ARMというCPUは処理能力はそれほどでもなかったのですが,当時からビックリするほど低消費電力であり,携帯電話に採用されてから爆発的に普及するようになりました。開発環境もARM純正だけではなく,他の専門の会社がARM向けに作るようになり,周辺機能についてもARMに繋がるものがどんどん揃い始めます。

 ARMのライセンスを購入し,ARMのCPUの設計情報を手に入れることは,これら開発環境や周辺機能をすべて使えるようになることを意味します。(もちろん結構なお金がかかるのですが)

 こうしてARMが普及すれば,ARMのCPUならすぐに製造できますよ,と言う工場が当たり前になってきます。半導体というのは,実は製造会社によってちょっとずつ違いがあって,設計情報に互換性がありません。それも最近は強い製造会社のルールに統一されてきましたが,ARMの設計情報と互換性を持たない工場は仕事を受けられませんから,自ずと対応するようになります。

 結果,上流から下流まで,ARMを選べば全部問題なく揃うという状況が作られます。

 ARMは技術的には低消費電力を売りにしたものですが,技術的なメリットよりむしろ,エコシステムについての魅力が圧倒的で,同業他社の追随を許しません。

 このARMを使うために必要なものがライセンスですが,実はこれも2種類があります。1つはインプリメンテーションライセンス,もう1つはアーキテクチャライセンスです。

 実はこれらのライセンスの中身は機密扱いになっていて,実際に契約を結んだ人でないと詳しい内容はわかりません。私ももちろんわかりませんが,そこはそれ,憶測も入れて書きますので,話半分で読んで下さい。

 インプリメンテーションライセンスというのは,ARMのCPUコアを「買う」ライセンスです。買い方には2つあって,1つは中身をブラックボックスとして買う方法,もう1つはソースコードで買う方法です。前者をハードマクロ,後者をソフトマクロと呼んだりします。

 ハードマクロはブラックボックスで買いますからそのまま工場で作るだけになってしまいますが,ソフトマクロで買った場合は,ちょっとしたカスタマイズ,例えばキャッシュメモリのサイズを変更するとか,その工場の半導体に最適化するとか,そういうことが可能になります。

 ただし,基本的にソースコードはいじれません。もしそんなことを許したら,ARMと微妙に互換性を失った「なんちゃってARM」があちこちにいっぱい出来てしまい,大混乱になってしまいます。

 ということで,あくまで作るのはARMで,それをそのまま利用するのがインプリメンテーションライセンスです。ARMを利用するメリットは,このインプリメンテーションライセンスでほぼ手に入ります。

 もう1つのライセンスであるアーキテクチャライセンスというのは,CPUのソースコードをいじることが許されるライセンスです。もっというと,ARMの互換プロセッサを「作る」ライセンスです。

 ARMのプログラムが走り,ARMが持つ機能が実装されていて,外側から見るとARMそのものでも,中身は完全に別物であるということが許されるライセンスなわけですが,なにぶん機密扱いですので,アーキテクチャライセンスでどこまで出来るのか,あるいはアーキテクチャライセンスが何種類あるのか,私にはわかりませんし,本当に互換プロセッサを作ってよいのかどうか,確かめたわけではありません。

 でも,本家ARMが作ったCPUに互換CPUを作っても,おおむね勝てるわけがありません。互換CPUを作ってもメリットがあるという「実力のある」会社だけが,どうしても既存のARMコアでは実現出来ない「なにか」を仕込むときに,このライセンスを手に入れる事になります。

 例えば,ARMはどんな工場でも作る事が出来るようにゆとりのある設計になっていますが,これを自社の工場に最適化して,カリカリにチューンするということも,このライセンスで可能になります。

 噂ではものすごく高価だとか,お金を出してもなかなか手に入らないとか,A社だけではなく実はB社もこのライセンスを持っているとか,優れた設計は無条件にARMにフィードバックしないといけないとか,まあそんな邪推を私も耳にしたことがありますが,本当に所は何度も言うように,私にはわかりません。

 はっきりしていることが1つあって,このアーキテクチャライセンスを受けた最初の1社が,旧DECです。DECは,ARMの低消費電力に適したアーキテクチャに目を付け,さらに低消費電力でさらに高速クロックで動作する新しいARM互換コア,StrongARMを開発しました。ARM7では3段パイプラインだったものを5段に増やしてクロックを向上させ,DEC自身が持つ製造プロセスに最適化した設計を行っています。

 そしてこの開発成果がDECからARMにフィードバックされて誕生したのが,ARM9です。ARM9も5段パイプラインですが,内部はより余裕のある設計がなされていて,どんな工場で作っても大丈夫なような汎用性のある設計がなされています。

 DECのARM部門はこの貴重なライセンスごとインテルに買収されてしまいます。一説になかなか手に入らないアーキテクチャライセンスを手に入れるのがDECを買った理由だとも言われていたのですが,StrongARMの後継として生まれたXscaleは,インテルの製造プロセスに最適化されてさらに高クロックで動作するARM互換プロセッサとなりました。

 この成果がフィードバックされたのが,ARM11と言われています。

 そのXscaleも,現在はインテルからMarvellに売却されており,Marvellがそのままアーキテクチャライセンスを保有しています。

 とまあ,このように,インプリメンテーションライセンスではどうしても越えられない壁があって,それをどうしても取り払いたい会社が,それ相応の技術力を認められた上で,ようやく手にすることのできる「なんでもできる」ライセンスが,アーキテクチャライセンスです。

 ライセンスにも多額の費用がかかりますし,これを使ってCPUを1から開発するわけですから,その開発費用も膨大です。それでも十分儲ける事が出来るという目算がなければ,およそこんな恐ろしいライセンスを取得しても,得なことはありません。

 さてさて,今回の主役であるマイクロソフトが手に入れたライセンスは,なんとこのアーキテクチャライセンスだというのです。

 ???

 CPUを売って儲ける会社になるつもり?インプリメンテーションライセンスではダメだったの?わざわざアーキテクチャライセンスを手に入れて何をするつもり?

 いろいろ業界で憶測は飛び交っているとは思いますが,ここから先は全くの私の私見に基づく想像です。

 まず,マイクロソフトはCPU市場に参入するのか?答えはノーです。単に参入するだけならインプリメンテーションライセンスだけでもいいはずです。

 それに,マイクロソフトはソフト,特にOSの会社です。今さら設備産業である半導体に乗り込む理由は見当たりません。ファブレスの設計会社という選択肢もあるかも知れませんが,それこそそんな会社は世界中にいくらでもあり,悪いことにどの会社もそんなに儲かっていません。

 ではアーキテクチャライセンスでなにをするのか?これは,おそらくですが,OSを作る過程で感じていた,ARMアーキテクチャに対する不平不満を根本的に改善しようとしているのではないでしょうか。

 ご存じの通り,マイクロソフトはWindowsCEの時代から,ARMをサポートしていました。ARMと言うCPUに取って,WindowsCEというOSが動くことは何より心強いものがあったはずです。

 当時はMIPSやSH3などでも動いたWindowsCEですが,WindowsMobileとなった現在ではARMでしか動作しないOSになっています。マイクロソフトは売り物であるOSを,別にアーキテクチャライセンスを取得しなくても,十分に作ってこれたはずでした。

 しかし,実はARMというCPUは,私の言葉で「トルクのない」CPUです。粘りがないというか,底力がないというか,高クロックでぱぱーっと回るんですが,負荷がかかると途端にパワーが落ちるという印象があるのです。このあたり,x86や良くできたMIPSが,まるでディーゼルエンジンのトラックやバスでも運転しているかのような頼もしい感じがしたことを思い出します。

 ARMコアが原因と言うより,バス設計に問題があったからこういう印象があったのかもなと思い当たるところもあるのですが,では実際,1GHzのARMで動いているiPadと,似たようなクロックでもx86で動いているネットブックを比べてみると,どちらの方がサクサク動くかと少し考えて頂ければ,なんとなく想像出来るのではないでしょうか。

 WindowsCEは昔からもっさり動いているOSです。これがもしARMのアーキテクチャによるものだとマイクロソフトが結論していたら,アーキテクチャライセンスを手に入れて改善しようと考えても不思議ではありません。

 他にもあります。低消費電力を実現するには,主体的にCPUの消費電力を下げる必要がありますが,突き詰めるとそれだけでは限界があり,ソフトウェア,特にOSが頑張らないと下がりません。

 x86はインテルがだけが作っている(AMDも作っていますが,一応オリジナルはインテルです)ので,マイクロソフトとしてはWindowsをチューニングする過程で,インテルにどうしてもらえるとうれしいか,伝える機会を持っているはずです。

 インテルも,x86がWindowsを前提としてCPUであることを知っているので,マイクロソフトからの意見には真摯に耳を傾けていることでしょう。

 しかし,ARMは半導体会社には違いありませんが,実際に半導体を作っているわけではありません。マイクロソフトがARMにいろいろ意見を言っても,それがそのまま聞き入れられるとはちょっと考えにくいものがあります。

 WindowsCEとタブレットや携帯電話に向けて本格的に投入するにあたり,もうOSだけではどうにもならないところまで来てしまった・・・だからいよいよCPUそのものに手を入れて,より自分達に最適化されたCPUを作ろうとしている,というのが,私の考えです。

 この話が本当だとして,マイクロソフトの強力なライバルで,むしろ押され気味なAppleとGoogleには,およそ出来そうにないことをやって頭一つ抜け出ようとしたように思えてなりません。

 AppleのiPadやiPhone4には,彼ら独自開発といわれるA4というプロセッサが使われています。しかし実際にこれを設計しているのはSamsungで,AppleもSamsungもアーキテクチャライセンスを持っていませんから,既製品のARMコアをそのまま使っているはずです。

 1GHzという高クロックのわりには,そんなに高速で動作しているわけではないiPadは,消費電力の低さによる電池寿命の長さで評価は高いですが,でもそれだけです。処理能力で3年前のMacBookにさえ及びません。

 GoogleはAndroidをフリーでばらまいていますが,誰にでも使ってもらえるものであるためには,誰にでも手に入るCPUをターゲットにせねばなりません。Androidが実質ARM専用OSになっているのは,この戦略が故です。

 AppleもGoogleも,プロセッサそのものを作って,それ用のOSを作る事の出来ない事情があります。マイクロソフトもかつてはそうでしたが,彼らは果敢にもアーキテクチャライセンスを手に入れ,自分達のOSが最も効率よく動くCPUを作ろうとしています。

 マイクロソフトの主力製品はあくまでOSです。ですから,アーキテクチャライセンスにかかった多額の費用を,CPUを売ることによって回収しようとは考えていないと思います。マイクロソフトが狙っているのは,その主力製品であるOSが最も効率よく動くCPUを自ら用意して,これをリファレンスデザインとして提供し,他のライバルには到底実現出来ないような完成度の高い製品を,誰にでも簡単に作る事が出来るようにすることです。

 ここから先はいろいろなオプションがあるでしょうが,1つにはOSを売るためのオマケとして,CPUの設計情報とそのCPUを使ったリファレンスデザインの回路図を無償で提供し,これを使ってCPUと回路を作る事を最終製品のメーカーに許可するというシナリオです。

 あるいは,このCPUの設計情報を一部の半導体メーカーにライセンスし,そのCPUで高性能を発揮するOSをマイクロソフトが最終製品メーカーに対して供給する,とぃう話です。いわばスマートフォンのウィンテルを目指そうという作戦です。

 インテルはARMのアーキテクチャライセンスを手放しましたし,いくらATOMが低消費電力だといってもARMには全然かないませんから,実用的な電池寿命のスマートフォンをインテルのCPUで作ることは無理です。さりとて現状のARMでは処理能力に物足りないものがあり,しかもARMコアのCPUはARMからインプリメンテーションライセンスを受ければ製造できるので,多くの半導体メーカーが手がけています。

 マイクロソフトはこのあたりをよく分かった上で,PCにおけるインテルのような,スマートフォンにおけるパートナーを,自ら育てようとしているのかも知れません。

 いずれにせよ,スマートフォンを作るのに,これまでは既存のハードウェアにOSをあわせ込んで作っていたものを,それでは限界があるのでOSとハードウェアの両面から作る事にした,ということは間違いないでしょう。これはAppleにもGoogleにも現時点では真似の出来ないことです。

 言い方を変えると,マイクロソフトはソフトだけではもう改善できないと白旗を揚げたとも言えます。AppleもGoogleもまだまだソフトでがんばれると思っているのかも知れません。

 多額の費用を投じて,OSだけにとどまらずCPUにまで手を突っ込み,最終製品の性能向上を目論むマイクロソフトという会社は,いったいどれだけの巨大企業なのかと,背筋が寒くなる思いがします。

 Appleは,かつてPAsemiというCPUメーカーを買収しました。直接間接にこの会社の持っていた資産がA4というプロセッサの実現に役に立ったことは想像に難くありませんが,このPAsemiという会社は,もともとDECでStrongARMを開発した人々が作った会社だということを,最後に添えておきます。

 Appleは,PAsemiの直接の成果物や人的資産でA4を作ったのではなく,設計と製造を依頼したSamsungのいいなりにならず,自分達の欲しいCPUを作ってもらうためにちゃんと意思疎通ができるよう,その道の専門家(それもこの業界なら知らない人はいないと思われるCPU設計のカリスマです)を手に入れたかったというのが,現在の大方の見解です。

 AppleもGoogleもマイクロソフトも,しっかりしたビジョンと良いOSを持っている業界のリーダーですが,それぞれが専門外の半導体に対して,これだけスタンスが違ってくるというのが,大変に興味深いですね。

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