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Steve Jobsが去るとき

 テレビのニュースでも相当の時間を割いて報道された,米AppleのCEOであるSteve Jobs氏の突然の辞任。私が今さら書くことなどなにもないので,この話には触れないでおこうと思いましたが,Apple][と「二人のスティーブ」を知って30年,Macintoshを愛機として使うようになって20年,そのころから常にAppleとJobsを意識していたことを思い起こすと,やはり1つの時代が終わったと感じざるを得ず,簡単でも書いておかねばならないと思うようになりました。


 昨夜のニュースをいくつか見ていて思ったのですが,どうもJobsを「カリスマ経営者」としてまとめてしまい,変革者としての偉大な功績をたたえることに終始したが故に,その多面性を伝え切れていないように思うのです。

 彼だって人間です。特に若いときの傍若無人ぶりから,多くの敵がいたし,多くの失敗を重ねてきました。今の彼のありようは,当たり前のことですが,それら全てを包含しているのです。

 私とて,彼と友人でもなんでもなく,会ったことすらありませんから,普通の人が触れることの出来る本や映像などの情報から得られる物からの想像によるわけですが,これらに加えて30年近く前からASCIIやI/O,Oh!PCやOh!MZなどの雑誌に目を通し,そこに掲載されていた海外ニュースを通じて,経営者としてよりはむしろ,コンピュータ業界の「お騒がせ屋さん」として彼を「リアルタイム」に知っていた事実は,当時の彼がどんな評判だったかという記憶も加味して,「iPhoneの人」「プレゼンの達人」という程度の知識の今時の人々を凌駕していると自負します。

 まず,Macintoshが生まれるまでのエピソードは,バトルオブシリコンバレーというTVドラマが大変良くできていると思います。元ネタはあれだな,と思う映像がたくさん出てきますが,複数の本を読みこなすより,このドラマを2時間見た方がよほど正確で,楽しく当時の状況を知ることが出来るでしょう。ドラマの放送時点で話題になった登場人物が大変似ている,という話は本当で,「ふつう知らんぞ」と思うような一瞬しか出番のない登場人物でさえも,そっくりです。これだけでも見る価値があると思います。(アデル・ゴールドバーグはちょっと美化されてますが)

 そして,自らが口説いたScullyに追われる身になってからのJobsです。ScullyはJobsを追い出し,その割に彼が大した功績を残せなかったこともあって,評価されてはいませんが,当時のJobsは確かにAppleにとって有害であり,誰かが決断しなければならなかったことを考えると,Scullyは少なくとも自らの野心だけでJobsを追い出したのではないと思います。

 ということで,彼の「失敗」を列挙してみましょう。

(1)Apple///
 Jobsがイニシアチブを取ったApple///は,IBM-PCをに怯えてか,ビジネスよりのマシンとして企画されたが,Apple][との互換性が軽視されたこと,放熱ファンの搭載をJobsが「絶対」に許さなかったことで故障が頻発したこと,そして独自仕様のフロッピードライブの自社生産にこだわりここでも故障を連発したことで大失敗し,Appleに相当の損害を与えた。
 当時Appleを支えたApple][がなぜ売れていたのかを冷静に考えず,また裏付けのないまま直感に頼った方針決定が失敗の原因。

(2)Lisa
 XeroxのPARCで見たGUIに衝撃を受けてLisaを作ったところはさすが,であるが,そのLisaが向いていた方向が,またもやビジネスだった。ビジネスマンが当時マウスとビットマップディスプレイを必要としていたのかどうか,まずそこが疑わしい。
 日本円で100万円を越えるマシンを重役以上がデスクにおくことを狙ったそうだが,それで何台売れると考えたのか。
 またソフトは全てAppleが開発してバンドルするという方針も,ソフト会社を締め出すことに繋がっている。ハードウェアの信頼性も低く,しかも高価な別売りのハードディスクがなければ実質動作しなかった。
 ちなみにMacintoshXLに改修されなかったLisaは,砂漠に埋められたらしい。

(3)初代Macintosh
 Lisaを安くしようという流れは正しく,そのために開発された技術(QuickDrawやToolBox)も確かに素晴らしかった。しかし,相変わらず放熱ファンを許さなかった事による信頼性の低下や,拡張性を認めず,ユーザーが筐体を開くことすら許さなかったことは,Macintoshというマシンを「過信」していた事の現れである。
 この勘違いは,結果として膨大な在庫としてAppleを圧迫し,レイオフまで余儀なくされるほど深刻な事態を引き起こした。
 Jobsが許さなかった放熱ファンの採用と拡張性は,Jobsが追放されてからのマシンには搭載されるようになり,コンピュータとして評価されるようになった。

(4)NeXT Computer
 JobsがAppleを追われて作ったNeXTというマシンは,その先進性が今日伝説になるほどの素晴らしさを誇っていたが,ストレージがハードディスクの何倍も遅い光磁気ディスクであったり,処理能力が不足していたりと,ハードウェアの能力が不足していたのが現実であった。
 また非常に高価なマシンで,納入されたのは大幅なディスカウントがある大学など教育機関がほとんどであったため,利益を生み出すことはなかった。
 後にNeXTはハードウェア部門をキヤノンに売却,AT互換機で動作するNEXT STEPを商売にしようと試みるが失敗。

(5)PowerMacG4 Cube
 Apple復帰後のマシンだが,放熱ファンを搭載しないことでまたもや信頼性を落とした。タッチセンサ式の電源スイッチは誤動作を連発し,ウェルドラインが目立つようなデザインにこだわりすぎたためクレームも連発。短命に終わる。


 (4)と(5)はちょっと置いておいても,(1)から(3)はどれか1つだけでも,創業社長の大失敗としては破格の物があり,普通なら速攻会社を潰したか,緊急動議で社長解任てなことになったと思います。そうならなかったのは,Apple][が利益の源泉として機能し続けたことと,やはり「怖い人」であったJobsに対する遠慮があったのだと思うのです。なんといっても創業者です。やりたい放題で,気に入らない奴には容赦ない罵声を浴びせ,クビにする。

 そんな厳しさの中で,良識ある人は彼の元を去ったし,残った人は彼の機嫌を損ねないようにしていました。彼と対等に話が出来るメンバー,例えばMike MarkkulaやWozniakは,彼を何度もたしなめ,ブレーキを踏み,時に尻ぬぐいまでやるわけです。そして,彼らでさえ「手に負えない」とさじを投げたとき,貧乏くじを引いて彼に最後通告したのが,John Scullyだったというわけです。

 JobsはNext Computerを設立して,自分の作りたかったコンピュータを作ることにしますが,それが必ずしも他の人が欲しいと思うとは限らない事実を思い知ったはずです。しかし,当時の彼には,Appleに一泡吹かせてやりたいという,ある意味で不順な動機が強かったように思います。

 決してうまくいっていない会社の社長が,傍若無人とも言える横柄な態度であったことも問題で,私に言わせればNeXTが失敗したのは必然です。


 そして彼は,ふとした縁からPixarを買うことになります。Pixarは技術的には素晴らしく,これに私財をなげうったJobsの先見性には脱帽で,本当に一文無しになる寸前まで相手を信じてPixarを支え続けて,ギリギリの所で大成功を収めるというドラマチックな話は,Jobsという人の転換点を示しているように思います。

 PixarではAppleやNeXTの時とは違って,お金は出すけども口は出さず,彼らにやりたいようにやらせていました。これは映画,とりわけCGという,Jobsにとっても口出しできない分野だったこともあるでしょうし,そうした素人の口出しが失敗に繋がることを確信していたからだとも言われています。

 なかなか成果が出ないPixarでしたが,それでも,Jobsは信じてお金をつぎ込みます。彼らを信じて成功に導き,Jobsは現在ディズニーの取締役です。

 Jobsはここで,自分以外はバカだ,と言う考えを捨て,相手を信じ,お金を持っている人間が何を成すべきかを考えて,その役割を忠実に遂行することを体得したように思うのです。Jobsが人の上に立ち,成功に導く経営者として飛躍するのは,この時からだというのが,私の考えです。

 Appleに戻ってからのJobsは,専門家として口を出す経営者として数々の成功を収めてきました。iPodは音楽の持ち歩き方を変え,iTunesStoreは音楽の売り方と買い方,そして作られ方をも変えてしまいました。iPhoneは一部のマニアのオモチャだったPDAとスマートフォンを一般に広めて人々の知的能力を平均的に底上げしましたし,MacOSXは常にパソコンOSの先頭を走っています。

 全てがJobsの成果物ではないと思いますが,Jobsは自分が口を出すべきところと,出さざるべき所をちゃんと区別するようになったのではないかと思います。そして,成功によってのみ,自分のいう事を人が聞いてくれるようになるのだという真理も,実感しているのではと思います。

 Jobsという人が人間的に豊かになり,彼の話に涙を流す人が現れて,人間としても尊敬を集める存在になったとき,彼は病魔に襲われます。ニュースで見た,やせこけたJobsの姿は実に痛々しい物ではありましたが,その表情からはつかみかかるような厳しさや傲慢さ,その裏に潜む劣等感が消え,まるで聖人のような気高さのようなものを,持っているように感じました。

 Jobsという人の魅力に,改めて気付かされた,昨日のニュースでした。

Break away from the past

 Googleが老舗のモトローラを買収したニュースは,お盆でぼやけていた日本人の頭をたたき起こすようなニュースでした。Androidが1兆円近いお金をかけてもらえる子供に育ったことを,関係者はどんな風に見ているのでしょうか。

 私個人は,携帯電話メーカーとしてのモトローラにはそれほどの思い入れはありませんが,三角波と正弦波をうまく組み合わせて「M」という頭文字をデザインしたあのロゴは,小学生の時に眼にして以来「いいなあ」と思っていました。

 モトローラは1928年(昭和3年)にシカゴで創業,当時は創業者の名前を冠してガルビン製造会社と名乗っていました。ラジオの部品(という補助パーツ)を作っていた経緯から,1930年代の自動車ブームに乗って,カーラジオの製造に乗り出します。

 当時のラジオは大きく重く,さらに自動車という劣悪な環境で動かすにはとても難しいものでした。電源だって,初期は大きな蓄電池やAC電源を使うもので,およそ「モビリティ」とは相容れないものでした。

 ガルビンのカーラジオは,自動車を表すMOTORとラジオを表すOLA(これはピンとこないでしょうね,でも戦前のなんとかオラというラジオの名前はよく見られたのです)を組み合わせたMOTOROLAをブランド名にします。公式には動きを表すMOTOと,ラジオを表すROLAを組み合わせたものとなっていますが,まあ意味するところは同じようなものでしょう。

 なんと1928年の創業です。ラジオを手がけ,軍用を含み通信機を手がけ,戦後は半導体を手がけ,コンピュータを手がけて,モトローラは通信とコンピュータという20世紀の特徴的な技術で巨大な会社となりました。

 私くらいの世代にとってのモトローラは, C-MOSロジックの14000シリーズと,MPUであるMC6809やMC68000,そしてPowerPCでしょうか。モトローラは戦前から続く大企業ですし,意志決定や品質維持のためのプロセスはすでに確立しており,話を聞くととても官僚的だし,出世のための派閥抗争も並の民間企業程度にはあったそうです。

 半導体はいわばベンチャービジネスで,ライバル達はインテルやナショナルセミコンダクタなどの若い会社ばかりです。TIやレイセオンがようやく相手になる会社かなと思っていたのではないでしょうか。

 ですが,モトローラの半導体は,日本市場を重視してくれていたこともあり,とても入手しやすかったのです。私が子供の頃,部品屋さんで4000シリーズを買うと,日本製よりもモトローラ製の方が多かったこともしばしばです。価格も安く,性能も良く,品種も揃っているので,子供だった私はあのMマークを見て,アメリカというエレクトロニクスの本家本元に胸を焦がしていたものでした。

 そして1980年代,マイクロプロセッサは若くて元気のあるインテルの80系と,大量の資金と優秀な技術者を抱えた巨大な老舗モトローラの68系という,何もかも対照的な2つで覇権争いが本格化します。

 これだけ違うものですから,棲み分けだって出来たと思うのに,彼らは闘うことを選びました。後に巨大企業のIBMと組みPowerPCを手がけることを,この頃誰が想像したでしょうか。

 モトローラが顧客としていた企業に,アップルがあります。初期のMacintoshはMC68000を用いていました。アップルはインテル以上にくだけた会社でしたが,ヒッピーの集合体のような会社を,1970年代にモトローラがまともに相手をしていたとは思えません。

 Macintoshが登場したときには,すでにアップルは大きな会社になっており,アメリカンドリームを具現化した夢の会社として有名でしたから,さすがにその頃にバカにされることはなかったでしょうけども,それでもモトローラが彼らの文化や思想を理解出来ずにいたことは,想像に難くありません。

 そのモトローラは,次第に儲からないビジネスを切り売りしていきました。

 半導体は大規模なLSIをフリースケール,トランジスタや小型の半導体をオンセミコンダクターとして分社化,すでにMマークの半導体を手に入れることは出来なくなっています。ICの型番にMCがついているところに,その名残を見ることが出来ます。

 モトローラはテレビ工場を1980年代にパナソニックに売却してテレビ事業から撤退していますし,軍事関係はジェネラルダイナミクスに売却,衛星電話もイリジウムの破綻で撤退しています。世界で最初の携帯電話を開発した会社らしく,携帯電話メーカーとしての生き残りをかけていましたが,それも携帯電話部門とソリューション部門で会社を分割し,これをGoogleが買ったことにより,モトローラは我々から非常に遠い会社になってしまいました。寂しいものです。

 かつて,MC68000が登場した時,そのユーザーズマニュアルの表紙には,「Break away from the past」と書かれていました。

 インテルが8ビットを引きずった8086を出していたことに対し,MC68000は未来を見据えた気高い思想と引き替えに,究極の8ビットと呼ばれたMC6809との互換性を捨てました。

 MC68000は高い評価を受け,絶賛されたわけですが,勝負は結果としてインテルに軍配が上がり,モトローラは切り売りされてしまったのです。

 なにがモトローラをそうさせたのか,その理由を知りたいものです。

春が来る

 春になりました。

 4月だというのに,東北の被災地では雪もちらつき,首都圏でも朝と夜には冷たい風が吹きますが,それでも注ぐ太陽の光は,明らかに春先のそれです。

 桜の花もまるで暦を数えていたかのように咲き始めました。我々の周囲で起こっていることなど,気にもかけないたくましさを感じ,やや複雑な気分になります。

 私は春という季節が嫌いです。花粉症はありませんから身体的な都合は皆無ですが,冬の寒さが好きな私は暖かくなる気配を感じることがそもそも鬱陶しいのです。

 6月の梅雨,7月と8月の猛暑,9月の残暑と,湿気と暑さに弱い私にとってはこれから始まる数ヶ月の厳しさに,まさにめまいがしそうです。

 私にとって,新年度のスタートはもはや夢も希望もなく,3月の次の月が4月というだけの話に過ぎません。

 春だから,と言う単純な理由で浮かれる人たちが多くいることをも,気に入りません。もっと積極的にいうと,春が嫌いな事以上に,浮かれた人を見るのが大嫌いです。

 寒いのにおしゃれをしたいという理由で震えながら丈の短いスカートをはく女の人。寒いのに桜の木の下で震えながら冷たい弁当を騒ぎながら食べる人。それは本当に自分の意志でやってますか。誰かに何かに踊らされていませんか。

 まるで虫が這い出してくるようにそこらかしこに人が増え,わざわざ通勤の電車を混雑させ,しかも彼らは一様に土埃を引き入れてきます。一体どこに行くのですか。

 どうして春でないといけないのか。

 変わらぬ日常を楽しみ,繰り返される連続の中で平穏を生きることの落ち着きを,春という季節の訪れと環境の激変が,完全に吹き飛ばして壊してしまいます。

 ・・・壊す,そう,1年に一度,この季節は,凝り固まった体を伸ばし,活動のためのトリガをひく,そんな時期です。もし,この季節がなかったら,日々の平穏と引き替えに,新しい発想も,新鮮な気分も,1年に一度必ず手に入れていたはずのものを,失っていたかも知れません。

原子力発電~11の疑問

 原子力発電には,かねてからいろいろな意見があり,必要だとする人とやめるべきだという人とに分かれているように思います。どちらの意見にも正当性があり,かつ単純な良し悪しではない要素を含んでいるため,なかなか綺麗に判断出来ません。

 そんな曖昧な中で国の原子力政策は進んできたところがあるのですが,今回の大きな事故で原子力政策はおろか,原子力そのものに対する信頼は地に落ち,私のようなかつて推進派だった人間の目から見ても,もう日本で原子力が受け入れられることはないだろうなと思わざるを得ません。

 反対派の人も推進派の人も,それなりの論拠を持って自らの主義主張を組み立てているわけですが,中にはそれが正確ではなかったり,それまでの経緯を知らなかったりで,当てはまらないものもあるように思います。

 私も同じ疑問を持っていたことがありますが,今知る限りのことを書いてみます。


(1)そんなに原子力発電が安全なら,東京になぜ作らない?

 これは,作らないのではなく,作る事が出来ないが正しいようです。

 原子力発電所の建設には,地震が起きにくい地域であること,万が一の地震にも十分耐えうる固い地盤,消費地に近く,冷却用の水資源に恵まれ,かつ広大な土地である必要があります。

 実は,東京の周辺には,こうした土地が少ないのです。そこで,福島や新潟といった所に建設せざるを得ないのです。決して原子力発電が危ないから東京を避けているというのが理由ではなく,無理に東京に作ったら本当に危ない施設になってしまうから,と考えるべきと思います。

 東京に作ると土地の獲得に膨大なお金が必要になり,建設費が高騰するでしょうから,土地の価格が安いところに作ろうという理屈は,地方に半導体の工場が多くあるのと同じ理屈でしょう。原子力発電所も大規模プラントですから。

 ただし,誰も口には出しませんが,万が一の時に首都が消滅するか地方都市が1つ地図から消えるか,どちらを選択しますか?という話が,内緒で議論されなかったはずはないと,私は思っています。


(2)原子力発電所を受け入れたところにお金をばらまくのは買収じゃないか?

 そういう側面があることは否定できないと思いますが,これも1970年代のエネルギー政策にその経緯を見ることが出来ます。

 経済成長が進み電力需要が高まるなか,日本は主に水力発電所を建設してその需要に応えてきました。しかし,日本国内にはもう大規模な水力発電所を建設する場所はなく,また天候に左右されることもあって,次の一手を考える必要が出てきました。

 その頃,ちょうど石油が安く安定して供給されるようになったので,水力発電を主にするのではなく,火力発電所を主にする方針に切り替わりました。そこにやってきたのがオイルショックです。

 ここに至って国はさらに新しいエネルギーを考える必要が出てきたのですが,その結論が原子力だったのです。原子力発電は戦後多くの国で稼働し,その安全性も信頼性も一定の評価を得ていました。また,規模の大きな発電所を作る事も可能で,しかも発電コストが安く,燃料の枯渇を心配することもないという,まさに理想のエネルギー源だったのです。

 火力発電所は東京の周辺,例えば川崎などにもあったのですが,同じような場所に原子力発電所を作る事は立地条件から難しいため,どうしても地方に建設せざるを得ません。

 そこで,当時の政府が考えたのが,

東京に建設できない発電所を地方に作る->
 発電所で作った電気を東京に送ってもらう->
  その電気で東京がお金を稼ぐ->
   感謝の気持ちを込めて地方に儲けたお金を戻す

 という仕組みです。この「感謝の気持ち」は私の脚色ですが,当時の政府の考え方は,新幹線と高速道路で国中を結んぶ列島改造がプランとしてありましたし,再配分による富の平均化という観点から考えても,あながちウソではないのではと思うのですがどうでしょうか。

 ところが,こういう流れを勝手にやるわけにはいきません。そこで作られた法律がいわゆる電源三法です。この法律によって,上記の仕組みが整備されたわけです。

 これを「買収」というのは確かに事実かも知れません。しかし,原子力が安全という前提で話をすると,米の産地,魚の産地,工業地帯,首都機能,と言ったように,それぞれの地域がそれぞれの役割を担っていくことはごく普通のことです。

 原子力発電所にはそれ相応のリスクもあるし,そこに済んでいる方々の心情も考えねばなりません。お金で解決といえばダークな話ですが,現実問題としてお金以外に再配分する方法もまた,見当たらないのです。

 ところで,この考え方は,経済成長が続き,法人税を含む税収が毎年伸びて,そのお金をどこに使うか,と贅沢な悩みをしていた高度成長期のころのお話であることも頭に入れておいた方がいいかも知れません。現在のように収入の多くを借金に頼り,人口は減り続け,毎年税収が落ち込むかも知れないという状況では,必ずしも正しい方法とは言えないと思います。


(3)なんで原子力発電でなくてはならないの?

 原子力発電所を1つ作ると,ざっと100万キロワット以上の発電能力のある発電所が,安定して数十年間稼働し続けます。こんな発電所は,今は他にはありません。

 火力発電は石油にしても天然ガスにしても,日本にないエネルギーを燃やしますので,ハードウェアとしての発電所を作っても,それが安定して稼働するかどうかはわかりません。それに,昨今の環境問題を考慮すると,これが本命の発電方法とはどうしても思えません。

 水力発電は理想的かも知れませんが,発電量が圧倒的に小さく,原子力発電所の1/4とか1/5程度しかありません。それこそ,大きな川をせき止め,山間の村を1つ2つ水没させ,それでこの程度の発電量というのは,私には割が合わないように思えます。

 太陽熱発電,風力発電など,確かにいろいろ考えられていますが,1機で100万キロワットを安定して発電できるような設備にはほど遠いのが現状で,現実問題として原子力発電以外に,今の電力需要に応える方法がない,というのが私の結論です。

 ただし,これも原子力発電が安全であることが,大前提です。


(4)電気は貯めておけないの?

 電気を貯めておければ,夜のうちに作って貯めておくとか,外国から買うとか,いろいろ手は考えられそうな気がします。

 しかし,電気は貯めておけません。もちろん,充電池を使えば貯めることは出来ますが,これは電気エネルギーを化学エネルギーに変換して蓄えるものであり,電気そのものを貯めているわけではないことに注目してもよいでしょう。

 エネルギー変換を行うわけですので損失も結構出ますし,充電にも放電にも一度に出し入れできるエネルギー量に制限があるので,実はとても面倒なのです。それに,発電所の代わりになるような大きな電力を蓄えるだけの電池は世の中には存在せず,それは最近ようやく実用になった電気自動車が,それでも走行距離で200km程度だったりすることからも,明らかでしょう。

 ということで,電気を貯めておくことが出来ない以上は,必要な需要分だけ発電しておくしかありません。しかし,最近の計画停電で広く知られるようになったとおり,電力需要には一日,あるいは一年で変動があり,その最大値に合わせて発電を行っていると,無駄が大きすぎて話になりません。

 かといって,原子力発電や火力発電は発電量のコントロールが難しく,最大効率で動かすには一定の発電量を維持するのが望ましいのです。

 そこで,発電量の調整に,先程の水力発電をつかうのです。水力発電は発電量こそ小さいですが,水を落とせば発電し,止めれば発電も止まりますから,発電量の調整が比較的簡単にできるのです。そこで,原子力発電や火力発電で一定の電力を発電しておき,変動分を水力発電でカバーする方式が,最近は一般的です。

 もう1つ,揚水発電という方式もあります。夜,電力需要の小さい時にダムに水を電気でくみ上げておき,電力需要の大きくなった昼間にその水をダムから落として,発電します。これは,電気エネルギーを位置エネルギーに変換して蓄える仕組みです。

 大変合理的な方法だと思ったのですが,これもどんな発電所でもできる訳ではなく,一説ではすでに日本で揚水発電が可能なダムは新規に建設出来ないのだそうです。


(5)原子力発電を使えば石油と違って無限のエネルギーを得られるんだけど?

 これは間違いです。よく,原子力は夢のエネルギーと言われますが,現在の原子力発電所は天然ウランのうちわずか0.7%しか含まれていない,「燃えるウラン」しか使えません。現在の燃えるウランの需要と採掘コストを勘案すると,ざっと60年で枯渇します。

 例えば30年後に巨費をかけて建設した原子力発電所は,ウランが枯渇する30年以上の長期稼働が出来ないことになり,それ以後はゴミになります。恐ろしい話です。

 なにも,埋蔵量の少ないウランを燃やすことはないのでは,という発想から,プルトニウムや天然ウランの主成分である「燃えないウラン」を無理矢理燃やす原子炉も研究されています。これが高速増殖炉ですが,とても難しい技術ですので,まだ誰もこれを商用に実用化したことはありません。


(6)原子力発電は低コストの発電だよね?

 その発電量と稼働率,稼働期間から考えると,確かにエネルギーあたりのコストは他に比べてずっと低いと言われています。

 経済産業省が出した2008年エネルギー白書のデータですが,1kWあたりの発電コストは,

水力:8.2~13.3円
石油:10.0~17.3円
天然ガス:5.8~7.1円
原子力:4.8~6.2円

 と言うことです。

 この数字を信じると「ほらみてみ原子力は安いんやで~」と推進派は小躍りしそうなものですが,ここには3つの要素がかけています。

 1つは,燃料価格の高騰です。日経によると,昨年秋のスポット価格は,昨年春に比べて4割以上も上昇したとのことです。世界的な原子力発電ブームを受けてウランの需要が高まっていること,旧ソ連の核兵器を解体したときに出てくるウランをアメリカが購入する契約が2013年に切れること,そしてこれらを見越した投機マネーが流れ込んで来ることから,ウランの価格が上がっています。ウランは一度装填すれば数年燃え続けますので,短期的な変動の影響は受けにくいかも知れませんが,それでも価格高騰の影響があることは避けられないと思います。

 2つ目は,稼働率です。この白書では,稼働率を最大85%としていますが,小さいトラブルがあったりして,実際には50%程度と言われています。稼働率の低下はコストにきいてきますので,今の稼働率で考えるとこの価格ほど安くはないでしょう。ある試算では,稼働率が50%で約8円になるそうです。ん?天然ガスよりも高くなってる?

 そして最後に,廃炉の費用です。これは私も正しい情報の入手をしていないのですが,1989年以降,毎月の電気料金に広く薄くのせられ,積み立てられているようです。ただし問題なのはその金額で,1基あたり約550億円を前提にしてあります。

 しかしながら,100万キロワット級の原子力発電を廃炉にした例がほとんどなく,その費用がどのくらいかかるか正確に分かるはずもありませんし,そもそも放射性廃棄物は処分ではなく保管しか手がない中で,最終的な処分費用など見積もれるはずがありません。

 費用だけではなく放射性廃棄物という負の遺産まで,未来にかかる負担を先送りにし,今のコストで電気代を我々は支払っているわけで,いわばツケを次世代に先送りしているだけなのかも知れません。これって許されることなのかなあと,私などは心配になります。

 参考までに,中部電力は浜岡原発1号機と2号機の廃炉に,それぞれ約900億円を見積もっているのだそうです。本当にこの費用で収まるのか,解体中に事故でも起きたら一気に費用は膨れあがりますし,お金だけではなく解体作業にかかる時間が何十年(一説では30年もかかるらしい)もかかること,その間危険を伴うこと,そして廃材の一部は結局保管するしかないということから考えて,これほど後始末が大変なプラントを作る事が果たして正しかったのか,やっぱり首をかしげたくなります。

 そうそう,1つ言い忘れていました。この積み立てのお金は,先の発電コストには入っていません。さらに,かなり大きな金額になる核燃料の再処理費用も含まれていません。


(7)核燃料サイクルと原子力発電の関係は?

 とてもややこしい話なのですが,前述の通り原子炉で燃えるウランは天然ウランのうち0.7%ほどしか含まれていませんし,全量輸入に頼る日本としては,安定した燃料の供給を考えていかないと,原子力発電が継続できません。

 ところで,この燃えるウランを燃やすと,プルトニウムができます。本来このプルトニウムは普通の原子炉では燃えないのですが,実は一部は核分裂を起こして燃えています。

 こうして,使用済みの核燃料にはプルトニウムが生成されています。もともとウランを燃やす原子炉は,核兵器製造用のプルトニウムを作る原材料プラントとして稼働を始めたという経緯もあるくらいです。

 このプルトニウムを取り出し,燃えないウランと混ぜて新しい燃料を作ります。そしてこれを「高速増殖炉」と呼ばれる原理的に異なる原子炉で燃やします。高速増殖炉は燃えないウランやプルトニウムを燃やすことが出来るばかりか,投入した燃料以上のプルトニウムを作り出す,夢の原子炉です。

 最初は,高速増殖炉が実用になり,燃えないウランとどんどん作られるプルトニウムによって,ほぼ無限のエネルギーを得る予定でした。しかし前述の通り高速増殖炉はあまりに難しく,結局予定通り実用にはなりませんでした。

 しかし,燃えるウランは数十年で枯渇し,しかも燃えた結果プルトニウムはどんどん溜まっていきます。これでは原子力発電は近い将来立ちゆかなくなります。

 そこで,普通の原子炉でも一部のプルトニウムは燃えていることに目を付け,使用済み核燃料から燃え残った燃えるウランとプルトニウムを取り出し,新しい燃えるウランと適当な割合で混ぜて,普通の原子炉でも燃える燃料に再加工します。これが再処理です。

 こうすると,今までどうすることも出来なかったプルトニウムを燃料として使うことができ,同時に燃えるウランの使用量も減らせます。これをプルサーマルといいます。(プルサーマルは和製英語で,日本でしか通じませんのであしからず。)

 しかし,問題はここからです。プルトニウムの割合を増やしたプルサーマルでは,ほとんど燃えないアメリシウムやキュリウムという馴染みのない元素が生成されてしまいます。これはもう本当に使い道がないそうで,プルサーマルばかりをやっていても結局高い放射能を持つ生成物が溜まってしまうのです。

 ところで核燃料サイクルにはもう1つ大事な意味があります。それは,核兵器を作る原料となるプルトニウムの使い道を作り,「ためてないよ」という国際的な宣言をすることにつながることです。

 プルトニウムは大変やっかいな元素ですが,なんと言っても核兵器を作る事の出来る材料だけに,作るだけ作って使い道がない,などということはとにかく物騒です。核兵器を作ってません,といっても信じてもらえるかどうかわかりませんし,本当に作っていなくても盗まれたら終わりです。作った分だけ厳重に管理しておかねばなりません。

 だから,使ってしまわないといけないわけですね。繰り返しになりますが,本来ならプルトニウムや燃えないウランを直接燃やす高速増殖炉が実用化していれば,こんなことは心配なかったのでしょうが,人類が無限のエネルギーを手に入れるなどというのは,神様もお許しにならなかったということでしょうか。
 

(8)他のエネルギーはないの?

 現実問題として,かなり難しいのではないかと思います。先程のエネルギー白書によると,1kWの発電コストとして,太陽光が46円,風力が10~14円と試算されています。

 太陽電池があるじゃないか!じゃんじゃん作っていけば問題ないよという皆さん,太陽電池を作るために必要なエネルギーを忘れていませんか?ここ数年で,製造時に必要なエネルギーを,その太陽電池が寿命までに生み出すエネルギーがようやく上回ったと言われています。これまでは,太陽電池を作れば作るほど,エネルギーは減っていました。

 ただし,太陽電池も途中で壊れますし,光りが当たらないときもあります。そういう状態まで考えるとまだまだ製造時に必要となったエネルギー以上を生み出せるようにはなっていません。

 燃料電池という話もありますね。でも,これも同じ理屈です。燃料電池の燃料は水素,もしくはエタノールや天然ガスなどの炭化水素です。これを作るのに電気がいるのです。

 究極的には,人工太陽である核融合炉を作る事でしょうが,これはもう全く,可能性さえ見えないくらいに遠いところにある未来技術です。それに,核融合炉を研究し,作るのに,エネルギーがふんだんに使えることが前提です。

 そういう尺度で見た場合,やっぱり現実的な話として,今のエネルギー政策を延長させていくしか,もう方法がないんじゃないかと,そんな風に思うのです。


(9)電気じゃなきゃだめなの?

 そんなことはありません。しかし,電気は貯められない代わりに,熱にも動力にも計算能力にも,様々なものに高効率で化けることの出来る万能エネルギーであることを忘れてはいけません。

 石油も天然ガスも高いエネルギーを持つ燃料ですが,基本的にこれらからエネルギーを取り出すには燃やすしかありません。燃やしてしまうと熱にはなりますが,これを別の形にするには手間もお金もかかって,しかも多くを熱のまま失ってしまいます。もったいない話です。

 火力発電も原子力発電も熱を電気に変えるところまでは同じなのですが,なにせ規模が大きいので,その変換効率をあまり悪くしないで済みます。プラントというのは,規模が大きい方が効率がよいのが普通です。火力発電では実に40%もの効率を達成していますし,一部には60%もの効率を誇るものもあるそうです。これはすごいですね。


(10)この際,昔のエネルギー消費量の水準に戻して慎ましく暮らさないか?

 うーん,私もそれが出来るなら,そうした方がよいのではないかと思うのですが・・・少し考えてみましょうか。

 空調は,この際我慢しましょう。熱い寒いは昔の人は辛抱しました。テレビなんかどうせ見てませんし,なくても困りません。いらないです。

 冷蔵や冷凍はどうしましょうか。産地と消費地を距離に関係なく結ぶこの技術がなくなったら,昔のように消費地の周辺に産地を作らねばなりません。これは結構大変かも知れないですね。

 鉄道や物流などのインフラもずっと慎ましいものになります。工場などの企業活動も大幅に小さなものになり,日本のGDPはぐぐっと押し下げられます。

 さーて,携帯電話はどうでしょう?当然廃止です。基地局がどれだけ電気を食っているか,考えたことがありますか。

 パソコン?当然停止です。電気が計算能力に化けるとはいえ,その計算能力が本当に必要かどうかは精査しないといけません。

 インターネットも動きません。世界中のサーバ,ルータ,ストレージがどれほどの電気を消費しているか,その量は膨大です。そうして維持されているインターネットで我々はなにをしているでしょうか?

 てな具合に,今は昭和の時代と違って,電気が本当に多くの用途に使われています。トイレを流すにも電気が必要,高層マンションなんてのは電気で動くエレベータが前提の建築物です。

 電気が湯水のようにあることを前提にして作ってきた社会を,今になって電気なしで動かそうとしても,それはもう急には無理な話,なのです。


(11)そもそも,大前提であるはずの安全は大丈夫なの?

 原子力発電所は,万が一の事があると大事故になり,その影響は何十年,あるいは何百年と続くもので,人類を破滅させかねません。膨大なエネルギーを少しずつ取り出すことの難しさ,生命にとって毒となる放射線を扱う事の難しさを,ここ数十年で嫌と言うほど経験しても,それでもなおこのエネルギーを手なずけるに至っていないことを,我々は真摯に受け止めるべきだと思います。

 人の作ったものに絶対はありません。ミスをしますし,不測の事態も起こります。それを天災ということも人災という事も簡単でしょうが,原子力発電はどちらを理由に起こったことでも,やり直せない,取り返しの付かないことになってしまうものです。

 絶対のない我々が使うものが,やり直しの利かないものでよいのでしょうか?

 絶対がないならやり直しが出来ないといけないし,やり直しが利かないのであれば,我々人類には荷の重い,扱いきれないものと考えなければいけないでしょう。

 この点で,今の原子力発電と人間という生き物との組み合わせにおいて,安全でないという結論を出さざるを得ません。

 今回の事故は,想定外の地震と津波だったといいますが,想定外である時点でもうすでにアウトです。やり直しが利かないものを作ってしまったのだから,全部想定できていないといけないはずでした。

 実際には,全部想定するなど不可能です。人間には未来を知る力はありません。ならば,ミスをしない人間になるしかありません。でもそれも無理です。ということは,これはもう人間には扱いきれない代物であったとあきらめるほかないのではないでしょうか。

 そう考えると,人類は身の丈に応じたエネルギー生産と,それに応じたエネルギー消費で生きていく必要がありますね。(10)とは矛盾した結論を出していますが,新しい原子力発電所はもう作らない,そしてその発電所が生きているうちに,少しずつ計画的にエネルギー消費を押さえていく,結果日々の生活が今以上に不便になり,貧しく,慎ましくなっても,それはそれでもう受け入れる,なぜなら,それが我々の身の丈だから,そういう民意を醸造するしかないのではないでしょうか。

 省エネの技術は重要です。しかし,削減された電気が,別の用途に使われ,より便利で豊かな生活に費やされる仕組みが改まらないと,根本解決にならないことも,我々はまた知るべきでしょう。

 新幹線は,昔に比べて随分少ない電力で走るようになりました。しかし,以前よりもずっとずっと本数も増えました。人の移動が増えたからです。人の移動を制限しますか?経済活動を抑えないといけませんね。それもやっぱり我々の身の丈を越えたところの話だった,ということなのでしょうか。

 難しい話です。
 

想定を越えたら仕方がないことなのか

 私は原子力や核物理学については門外漢ですし,その知識は大変に乏しいものです。

 どんなことでもそうですが,ある事柄が危険なことや問題のあることは説明が出来ても,それが安全であることや問題のないことであることを説明するのは,とても高度な知識と経験,そして勇気が必要になるものです。

 つまり私程度の一市民が持つ知識や経験で安全であると納得することは不可能であり,ゆえに専門家の助言や判断をあてにすることになるのですが,そうなるとその専門家のいう事をどこまで信用するのかという,高度な判断を行わねばならなくなります。

 これも難しい話で,結局の所,国や行政と言った,最終責任を取ってくれそうな所の判断を仰ぐことになってしまいますが,当然これらだって原子力については素人の集団であるわけで,もう私にはお手上げです。

 一連の原子力発電所の問題について言えば,その分野の専門家,つまり学者と技術者の役割として,なにが危険でなにが安全かを区別し,それを我々のような知識も経験もない市民にわかりやすく提供することが,工学倫理や技術者倫理という観点からも大いに期待されるのですが,新聞・テレビと言ったマスメディアからtwitterによるつぶやきまで,いろいろなメディアを通して発言をされていることについては,社会の期待に応えるべく活動してらっしゃるという点において,その役割を果たされているなあと感じています。

 実を言うと私は原子力発電推進派の人間でした。電力は動力から熱,果ては演算能力にまで高効率で変換でき,作る方法も複数ありますし,安価で,とても安全で使いやすいエネルギーです。

 そしてその理想的な,何にでも使えるエネルギーを得る方法として,大気を汚さず,二酸化炭素も出さない原子力を利用出来るのも,大きなメリットです。

 原子力が最終手段で理想的なエネルギー源とは思っていませんでしたが,本命たる別の究極のエネルギーが登場するまでのつなぎとして長く付き合っていくしか,人類には残されていないのだから,現実問題としてただただ反対を叫ぶのではなく,うまく共存する方法を模索すべきであり,かつそれは十分可能なだけの技術レベルにある,というのが,私の持論でした。

 でした,というのは文字通り過去形で,今は残念な事に慎重派です。これは,今回の事故があったからという直接の理由もさることながら,工学倫理や技術者倫理という視点において,もう原子力は終わったものと考えざるを得ないからです。

 工学倫理や技術者倫理の世界では,その分野における専門家,例えば技術者を,

・誰にでも出来る仕事ではない
・新しいものを創造する力を有する
・自分の生み出すもので社会に貢献し,文化を創造する
・一定の自由裁量が認められている
・一方で大きな社会的責任を負う

 といった存在として位置づけます。

 技術者も一人の人間で,社会の一員ですが,それぞれが属するコミュニティに応じた倫理観を持って生活しないと生活が成り立ちません。日本に生きる,家族と生きる,ということに,それぞれの倫理観が必要なのと同じように,技術者にも特有の倫理観が必要で,自分のしたこと,自分の持つものが,他にどういう影響を与えてしまうのかをきちんと考慮する力が求められます。

 これを倫理的想像力と呼ぶのですが,倫理的想像力を養うことは,一定の自由裁量を社会から許されるためにも必ず必要なことです。そりゃそうですね,自分のしたことがどれだけ社会を変えてしまうのか,どれだけの人に喜んでもらって,逆に迷惑をかけてしまう事になるかを考えない人に,諸刃の剣である科学技術を任せるわけにはいきません。

 誰にでも出来る仕事ではないけども,誰かがやることによって世の中が良くなり,生活が豊かになるから,そのために必要な知識と経験を持つ「技術者」が,社会から信用をもらって,その裁量を認めてもらっているわけです。

 例えば自動車です。ピーク時よりも少なくなったとは言え,今でも多くの方が交通事故で亡くなっています。でも,その多くの犠牲があっても,自動車は危険だから廃止せよ,ということにならないで,自動車がもたらすメリットと天秤にかけ,共存しようということになっているわけです。

 ただし,共存するには余りにも危険だった自動車は,自動車技術者の手によって少しずつ安全な乗り物へと進化してきました。この進化は専門家だから可能だったことですが,もしもこの専門家が良心を失い,暴走していたら,社会は自動車を安全なものとは位置づけられず,犠牲がさらに増えていたかもしれないのです。

 自動車技術者が目先の利益に走って,安全性よりも見た目のスペックを重視し,ぶつかれば紙のようにくしゃくしゃにつぶれてしまう軽いボディに,不釣り合いな強力なエンジンを付けて,しかもコストを下げるために性能の低いブレーキを搭載するようなことがあったら,どうでしょう。

 そんな自動車しか作ってくれないなら,社会はもう自動車との共存はできません。自動車メーカーと自動車の技術者は,安全という社会が求めるテーマに真摯に努力し結果を出してきたから,社会の共存をするという方針は揺らぎません。

 技術者にしたって「安全を軽視しません」というスタンスを社会に理解してもらい,信用してもらっているから,その技術を使って新しい製品をある程度自由に作る事を許されているわけですね。

 経済活動とはちょっと違った視点なので,これと混同するとちょっと危険なのですが,技術者の教育のうち,比較的新しい分野である工学倫理や技術者倫理というのは,基本的にはこういう考え方に基づいています。

 社会は,技術者を信用し,彼らに危険だけども有望な専門的な技術を駆使して新しいものを創造することを許す。そして全体が豊かになる。

 技術者は,その信用を得るために,倫理的想像力を駆使して社会に迷惑をかけないことを約束し,そしてそれを社会に説明し理解してもらって,社会から新しい技術をつかって仕事をすることを許してもらう。そして全体が豊かになる。

 もっと積極的に,技術者は,その技術がどれほど社会に有用なものであるかと,同時に危険かどうか,安全かどうかをちゃんと説明して,社会からの信任を得る義務を負っていると,強い言い方をしてもよいでしょう。社会はその説明で技術者を信用したなら,危険だけども彼らなら大丈夫,彼らの力を信じて社会がより豊かになることを託してみようと,そういう依存関係が社会と技術者にはあるわけですね。

 もう1つ重要な事があります。ある分野で専門性を持つ技術者は,別の分野においては技術者に信任を与える側に付くのだということです。

 自動車の技術者は,自動車のメリットとデメリットを説明し,デメリットの克服を社会に約束して,新しい技術を使う事を許されますが,そんな彼らも原子炉については素人であり,専門家である原子炉の技術者に信用を与える側になるということです。

 およそ仕事をしている人は,その分野の専門家です。互いを信用し合って,世の中が進歩して,豊かになる,これが現代社会です。

 専門家は,時にその専門分野が非常に危険なときは,警鐘を鳴らし,社会に是非を問う勇気も必要です。内部告発というのはこの一例と考えて良いでしょう。技術者も,技術者を雇う会社も,その技術で報酬や利益を得ているので,自らを守るためにずるいことをしたり,ウソをついたり,隠し事をしたりするかも知れません。

 彼らならそんなことはしないはずという信用を得ることがいかに大事か,また必要に応じて第三者機関が監視を行う仕組みがいかに必要なものか,お分かり頂けると思います。

 こうした,工学倫理や技術者倫理という観点で,今回の原子力発電という技術と社会の関わりを見ていくと,どうにも破綻していると考えざるを得ないです。

 まず,技術者はこの大変危険で有用な技術を,本当に手なずけられたのか?

 技術者は,彼らの考える「手なずけた」を,社会が信用するに足りる形できちんと説明を行ってきたのかどうか?

 そして技術者は,この技術を使う事に対して,社会からの信任と,一定の自由裁量を本当に得ていたのか?

 社会は,彼らの言葉を本当に信じていたのか?その大きすぎるメリットに目が眩んで,危険を軽視し技術者の言葉を盲目的に信用してしまってはいなかったか?

 一部の技術者が警鐘を鳴らしていたその危険性について,社会は耳を傾け,議論の場を作ってきたか?

 原子力は,非常に大きなお金がかかり,リスクもメリットも桁違いです。エネルギー政策,原子力政策という国の方針として進められるのはその大きさゆえですが,社会も「国」という錦の御旗を掲げたこの技術を,実力以上に過信する傾向があったことは否めません。

 そして,原子力は安全,安全で安い,ゆえにエネルギー問題解決の切り札なのだと,強く推進されてきました。しかし今回の天災によって実は手に負えないものであったことが浮き彫りになってしまいます。

 今回の事故は,とても大きな教訓を残してくれます。15メートルの津波は想定出来なかったと,専門家,技術者は言っています。これは「それじゃ仕方がないなあ」と我々に諦めの気持ちをもたらすのと同時に,「つまり想定を越えたら取り返しが付かないのね」と,反対論を確実に喚起するものです。

 原子力反対の意見として,何かあったら取り返しが付かないというのがありますが,かつての私を含んだ賛成論者はそんなことは起きない,と言うだけでした。

 人的なエラーを含め,様々な問題を想定し,それを回避するように巧妙に設計が行われている,だから万が一は起きません,が彼らの社会に対する説明でした。しかし,これは想定されていたものについての話であり,想定を越えたものについては回避できないといっているのと同じだったことに,市民は気付くべきでした。

 どんなものにも,想定を越えたものが起こる可能性があります。ただ,その場合に起きることが「取り返しのつくもの」なら,リスクとメリットを天秤にかけて議論出来ます。自動車しかり,薬の副作用しかりです。

 原子力はどうかというと,これは「取り返しの付かないもの」です。ですから,リスクとメリットを天秤にかけることは出来ません。つまりリスクは無限大であり,どんなメリットをもってしても,メリットが勝る可能性はゼロだからです。

 そこで結論ありきで動く人々は,論法のすり替えを試みます。万が一は起きません,起きないのだからリスクはゼロ,です。つまり天秤に乗せれば,必ずメリットが勝利するようになっています。この話のすり替えに気が付くのが遅かったと,私自身は反省しています。

 万が一起きたらどうします?という詰問は,時に「仮定の話はやめよう」という声に潰され,議論の機会さえない場合があるものです。しかし,これがいかに危険なものかを,今回の事故は教えてくれました。

 このことを,全ての技術者が気が付いて,万が一を軽視しない,正しい評価が定着することを,私も含めて肝に銘じるべき時がやってきたのだと思います。

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