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中学受験というものを経験する前に考えたこと

 東日本大震災の年に生まれた娘もこの春に小学校を卒業し,中学校に進みます。

 生まれたその日から毎日違った姿を見せる娘を観察し続けることは,私の何よりの幸せでしたが,おそらくそれはそれまでの経験から類推できる未来とは異なり,知らないこと,分からない事の連続だったから,そう思えるのかも知れません。

 無論いいことばかりではありません,頭にくることも,どうしていいやらわからなくなることもたくさんありましたが,それでも我々の娘はとても「いい子」でしたので,振り返ってみても大変だったと思い返すようなことは少なく,むしろ後悔や反省が私を責めることの方が多いと思います。

 つくづく思うのは,子どもと一緒に過ごすことは,親の特権であるという事です。もちろん親なんだから当たり前の事なのですが,親という理由だけで子どもと過ごすことが許されるというのはなんと楽しい事か,なんとうれしいことかと思います。

 特に我々夫婦は遅くに結婚し,人様よりも10年は遅れて子育てに臨みました。私たちのような年齢の人間でもこれだけ自分と自分の周辺を抑えるのに苦労したことを思い返すと,もし私が人並みに10年若く子育てに挑んだなら,およそ務まらなかったんじゃないかと思います。

 そう考えると,世の中のお父さんお母さんというのは,本当によく頑張っているなあと感心するわけです。


 閑話休題。そんな子育てのイベントの1つに,進学というのがあります。義務教育であればほっといても小学生や中学生にはなるわけですが,高校からはそうはいきませんし,与えられた進路ではなく積極的に選び取る進路であるなら,そこに受験という自己研鑽と残酷な競争の世界があることから目をそらすわけにはいきません。

 我々夫婦は競争心も向上心も少なく,子どものお尻を叩くことをしませんでしたし,まして自分たちの名誉や都合で子どもの時間の使い方を決めたりするようなことはしませんでしたが,当然のこととして自分たちの成功体験(あるいは失敗体験)から,こういう選択肢を選んで欲しいと考えていたことはありました。

 ピアノを習ってもらったのもその1つで,嫁さんはピアノをきちんと習った事から,私は習わなかったことから,ピアノを習って欲しいと考えました。その目的はシンプルで,練習は裏切らないことを実体験してもらう事と,上手いとか下手ではなく,自分の頭の中で鳴っている音を表現する手段を持って,たとえひとりぼっちになっても楽器を絶対に裏切らない友人として一生付き合って欲しいと思ったことにありました。

 同じ文脈で,ぜひ進んで欲しい進路が,女子校でした。嫁さんは女子校の出身者で,周りに男がいないから,男に頼ることができない,故に自分たちでなにかをやるのが当たり前になったと言っています。その通りでしょう。私にも経験がありますが,自己顕示欲の強い年代の男というのは,なにかと女の子の前でいい格好をしがちなもんです。

 いや,やってくれると言うんだから任せりゃいいんだと思うのですが,それはやる側の視点です。見方を変えれば,経験するチャンスを奪う行為であり,それはつまり同じ経験による体験の共有を損なわせる行いです。

 過去に同じ事をやった人間同士の会話を想像するとわかりやすいですが,「あるある」で盛り上がるためには,同じ経験をしないといけません。それは楽しいだけではなく,同じ経験をしたものとしての連帯感も生まれますし,価値観の共有も起こります。

 しかし,その経験を肩代わりした人と,肩代わりさせた人が顔を合わせた時,両者の間には,同じ経験による体験の共有がないばかりか,やった人とやらなかった人という経験の差に加え,やってもらった人とやらされた人という精神的な違いも生まれ,そこに上下関係が生まれかねません。

 私の嫁さんはこのあたりに実に敏感で,こうした事柄から自分を振り返り,かつ自分の娘に良い人生を歩んで欲しいと願っています。

 私は私で,13歳から18歳までの,なにをやっても楽しく,なにをやっても上達するこの時期に,高校受験に邪魔されることなく青春を謳歌して欲しいと思った事と,同じ理由でそのエネルギーを不用意に異性からの視線に邪魔されることなく使い切って欲しいと,女子校に進むことを願っていました。

 いやね,10代というのは良くも悪くも異性の目が気になるじゃないですか。例えばですよ,乗り鉄の中学生と,ギターが弾ける中学生と,どっちがもてますか?

 自分の楽しい事を,異性からの目が気になって我慢したり隠したりすることって,しんどいことだと思います。

 大人になれば,互いの趣味や自分との違いを楽しめるようになるものでも,10代はなかなかそこまで出来ません。自分との違い,多数派との違いを「気持ち悪い」とか「怖い」と考えるのは人として自然な事ですし,多数派に属するための行動や努力はそれはそれで経験で,その先にある安心感や楽しさには大きな価値があります。

 でも,出来れば自分のあり方は,否定されるのではなく,歓迎されたいじゃないですか。あわよくば互いに尊敬し,互いに一目置き合う関係が続けば,きっとそれは生涯の友となるでしょう。

 私は共学でしたから,同じ趣味の人と誰憚ることなく行動するチャンスを,クラブ活動で得ることが出来ました。彼らとは今でも友人であり,尊敬しています。

 端的に言えば,女の子にもてるかどうかが絶対的価値になるのではなく,それぞれの趣味や人間性を互いに認めて高めていくことに価値があるという,大人の世界ではごく当たり前のことを,最もエネルギッシュな時期にやって欲しいということです。

 もてるために費やすエネルギーは膨大ですし,もしそのエネルギーを別の事に使えても,共学だと異性の目が気になるでしょう。もてない状況に納得するために,ある種の割り切りを必要としたり,自らを卑下するような考えに陥るかも知れません。

 それも青春ですが,邪魔されずに何かに没頭するのもまた青春です。

 中高の6年間を,雑音なしに集中出来る期間に出来るなら,これほど素晴らしいことはないでしょう。そのために私が考えたのが,中高一貫の女子校だったというわけです。

 私は男ですから,女子校は経験がありません。裕福でもなかったですから中高一貫の私学も全く知りません。そこは,経験者の嫁さんの目利きを信じて,自分の娘が雑音のない空間で,自分を磨いていく姿を早いうちから想像し,娘の進学と受験を能動的に考えてきました。

 その結果が,この2月の受験で結論されたわけです。

 こうした受験に至ったバックボーンのようなマクロな視点も,算数の難問を一緒に解くことや日々の宿題の多さに絶望すること,体調やメンタルの維持といったミクロな視点も,とにかくすべての結果が出たのが2月です。

 悪い言い方かも知れませんが,小学6年生の2月というのは,我々親にとっても,これまでの子どもとの接し方が評価されるタイミングの1つであったと,思います。

 ならば,これを振り返る意味は大きいでしょう。

 人の親になることのしんどさの1つである,進路と受験について,次回振り返っていこうと思います。

 

北陸新幹線敦賀延伸

 北陸新幹線が来年3月に,いよいよ敦賀まで延伸されます。

 私は大阪の生まれで,社会人になってからは東京で暮らしていますので,北陸地方に住んだことはありません。

 しかし,母の実家が福井県の今庄というところだった関係で,子どもの時には夏休みに毎年のように,長いときには2週間も滞在していました。

 これは私にとってはとても大きなイベントで,何から何まで特別な,非日常な毎日を長期間(かつ毎年)過ごす体験でした。

 まず長距離の鉄道による,太平洋側から日本海側への移動があります。機構も違えば言葉も違うし,食べ物も違います。人口密度も街の賑やかさも違いますし,思い出せば光の色も違っていました。

 川の水は綺麗で冷たく,農業用水にはサワガニもいたりして,自然がそのまま残っていました。日本有数の豪雪地帯で,冬は雪に閉ざされる集落ですが,そのおかげで水は豊かだったようです。

 雪国ですので夏は涼しく,といいたいところですが,残念ながら山に囲まれた盆地だったので,夏は蒸し暑く,冬は強烈に寒いという,気候の厳しいところでした。とはいえ都会の暑さとはまたちょっと違っていて,特に夕方の爽やかさはもう一度味わいたいと思う心地よさがありました。

 母の実家は築100年にもなろうかという大きなしっかりした家ですが,なにせ豪雪地帯の農家ですから,2階はとても高い位置に作られます。ゆえに階段はとても急で,上りよりも降りるときの怖さは,今思い出しても恐ろしいです。

 今庄駅から5kmほど離れた山間の集落にあった母の実家は,かつて小学校があった場所に隣接しています。それなりに立派な学校だったようで,大きな運動場にプールまで備えたもので,1980年代前半に建て直されたりしたのですが,1990年代半ばに統合され廃校になっています。ただ,この小学校については驚くほど情報がなく,本当に存在していたのか,私の記憶違いかと思うほどでした。

 今庄と言えば,かの司馬遼太郎さんの「街道をゆく」でも採り上げられた,北国街道の宿場町として栄えたところでしたし,鉄道が交通の主役になった時代には日本有数の難所とされた柳ヶ瀬越えのため大きな機関区があった,まさに交通の要衝でした。

 当時日本最長と言われた北陸トンネルが出来てから今庄はただの通過点に成り下がり,かつての賑わいを失ったそうですが,それでも地元に人に言わせると北陸トンネルが出来た事で交通の便が良くなったことを歓迎する声が強いようです。

 大阪にいたときには,敦賀や今庄と言った嶺南地方は湖西線をかっ飛ばす特急・雷鳥に乗って直通でしたので身近に感じたものですが,東京から今庄というのはとても遠い場所でした。

 一度東京から今庄に向かったことがあるのですが,この時は新幹線で名古屋まで行き,ここから在来線の特急・しらさぎに乗り換えました。よほど大阪や京都に向かった方が早く着くので,敦賀や今庄という所はやはり大阪に近いところなんだなあと思いました。

 敦賀と言えば原子力発電所です。これも地元を二分した事件だったそうですが,今のところ大きな事故もなく,海水浴場からドーム型の原子炉が見えていて,すっかり共存しているような感じです。

 とても良くしてくれた叔父がいて,父親とは反対のとても優しい,気遣いの出来る人でしたので,私はとにかく大好きでした。あちこちに連れて行ってもらったことを覚えていますが,そういうことも,懐かしい思い出です。

 手放しに歓迎してくれた祖父が突然なくなり,その数年後に祖母も亡くなってしまうと,母ももう実家に帰省することはなくなり,大きくなった我々兄弟もかえって迷惑になるという理由で今庄に向かう機会は失われました。

 しかし,今庄駅に降り立った瞬間の,空気の違いや光の色の違いというのは今も記憶に残っていて,出来ればもう一度訪れてみたい場所です。彼の地でも様々な事があり,記憶に残っていますが,どれ1つとして悪い思い出のものはありません。

 とはいえ,自動車がなければ移動もままならないし,結局見るところも会うべき人もおらず,何をしに行くのかと改めて問われれば,難しいなあと言うため息しか出てきません。

 そんな,記憶の中だけに繋がりがかろうじて残っている敦賀と今庄ですが,当時から新幹線が通るという話だけは聞いていました。でも,当分先のことで,ほぼ無関係と考えていた「北陸新幹線」が,とうとう敦賀まで来ることになったというので,なんだか感慨深いものがあります。

 大阪と敦賀の間はまだ工事の着工も行われていない状態ですので,当面は敦賀が北陸新幹線の終点という事になるでしょう。期せずして敦賀が交通の要衝に躍り出た感じですが,それまで大阪と福井や金沢まで直通していたものが,敦賀でなからず乗り換えないといけなくなるわけで,これは大阪と福井以北との距離を遠ざけてしまうものになると思います。

 一方で,敦賀と大阪との縁は切れることはなく,なんと新快速が一部乗り入れるくらい関西の経済圏に巻き取られている現状を考えると,敦賀から大阪が新幹線で繋がらなくても,その位置付けは変わらないように思います。

 それより,東京から敦賀まで新幹線で乗り換えなしというのが驚きで,この心理的な距離の近さというのは,ちょっといってみるかと思わせるものがあります。(ただし所要時間は30分ほど短くなるだけです)

 北陸新幹線が金沢まで開業したとき,金沢と東京がぐっと近くなりました。観光客も増えたそうですが,それは関東の人にも知られた金沢だったから言えることで,福井,まして敦賀と言えばもう関東の人からすれば遠い別の世界に思えるものです。

 有名な観光地があれば別ですが,私でさえ特に目的を見つけることの出来ない敦賀に,わざわざ新幹線で出かける理由を作れません。そもそも,私の生まれ育った大阪でさえも,今はもう縁もゆかりもない土地になってしまっています。

 もともと出不精で観光が好きではない私が,長距離の移動をしたのは,そこに縁やゆかりがあり,会いたい人がいたからです。そう考えると,敦賀や大阪は,もう記憶の中だけに残るものになっていくように思います。

2022年とAppleII

 さて,2022年もそろそろおしまい,今年は仕事面で10年に一度の挫折があり,5月頃から半年ほど毎日がとても苦しい年でした。今もってその状況は根本的には変わっておらず,気の持ちようとある種のあきらめで,なんとか平静を装っていられる感じですが,挫折の時こそ趣味のみに生きるのが私。

 これまでも,カメラの修理などがどん底から引き上げてくれた(もしくはそれ以上沈むことを防いでくれた)のですが,今回はそれがレトロPCでした。

 レトロPCというのは1970年代から1990年代にかけて発売されたパソコンのことです。各社まちまちのハードウェアで互換性など全くなく,むしろその非互換こそが他社との差別化に繋がっていたという,よく言えばエキサイティングな,悪く言えば消費者そっちのけだった,黎明期のパソコンたちです。

 私も当時を知る人ですので,実家から持ち帰った古いパソコンのうち,当時のものをレストアして当時のまま使うことは,とても簡単なことでした。しかしそれはすでに分かっている結論までのプロセスを,ただなぞるだけの行為に過ぎません。

 新しい発見は少なく,動いたという安心感だけが残るもので,おそらくすぐに触らなくなるだろうなあと,目に前に並ぶ実家からの荷物を見て思ったものです。

 しかし,新しい体験が伴うなら話は別です。1980年代当時,私は学生であり,百花繚乱だったわずか数年間を楽しむには幼すぎました。お金も知識も交友関係もです。

 分厚い雑誌の広告を見ては「いいなあ」「欲しいなあ」と思ったり,「すごいすごいとは聞いているけどなにがそんなにすごいんだろう」とか「いつかは貯めそう」と思って結局試せずにいたりしたものが,とにかくたくさんあります。

 おそらく,現在のレトロPCのブームは,当時を懐かしむことだけではなく,当時のものを現代の技術で拡張したり,現在の自分の能力で動かして,新しい体験をすることにも支えられているんじゃないかと思います。

 そう,大人となった今では,お金もあります。知識も技術もあります。新しい部品も手に入ります。そして多くの資料が手に入るようになっています。

 あたかも転生もののように,かつて出来なかったことを今楽しむこともそうですし,当時は手に入らなかった素晴らしい性能の部品を使って,当時は構想だけで終わっていたものや実現が難しかったものを現実にしたりと,シンプルなマシンだからこそ自由にいじることが出来るレトロPCで楽しんでいるんだろうと思います。


 私の場合,年齢が高くなってから触り始めたX1turboIIIは,やり残したturboZ-BASICの起動で興味が失せてしまったわけですが,小学生の時に触り始めて,いつかはフロッピーディスクで動かすんだと夢見ていた当時を,現実に堪能しました。

 しかし,もっとも楽しんだのはAppleIIです。私がパソコンに興味を持っていた頃はすでにAppleIIは日本国内でもマイナー機種になっていました。もちろん熱心なファンはたくさんいましたし,最初からマイナーだったマシンとは違い,AppleIIはこの世界のパイオニアでしたし,性能は当時も全く色褪せず,高嶺の花であり続けたマシンでしたが,それゆえに持っている人がほとんどおらず,お店で見かけることも少なかったのです。

 1970年代生まれのAppleIIは,その後隆盛を誇るMicrosoft BASICをROMに内蔵した多くのマシンとは異なる流儀で動かすマシンで,仮に当時AppleIIを与えられてもきっとなにも出来なかっただろうと思います。

 実際,1990年代前半にAppleIIを初めて手に入れた時には,電源を入れるところまでは出来ても,そこから先はなにも出来なかったことを覚えています。

 東レ時代の本物のJ-plusだということで捨てずに持っていましたが,それが実家にやってきてから,なんとか動かして見ようと思ったのが今年の2月頃のお話です。

 少しgoogleで調べてみると,AppleIIの情報は,それはもうザクザク出てきます。日本国内では海外製の高価なマシンだったAppleIIは,当然のことながら海外ではベストセラーモデルで,多くの人にとって最初の1台だったモデルなのですから,海外の情報に簡単にアクセスできなかった当時とは,見える色が異なるはずです。

 加えて円高。昨今円安と言われていますが,AppleIIのころは1ドル300円ですから,円は今の半分以下の価値しかなかったわけです。当時日本国内で36万円だったAppleIIは,今でも15万円くらい,最も安いときなら10万円くらいだったりするのです。
 
 そういう気持ちでAppleIIを眺めてみると,当時全く縁がなかったAppleIIを今当時のつもりでトレースすると,全く新しい経験を得ることになるんじゃないのか,もっと言えばあの時代にタイムスリップすることに等しいんじゃないのか,と思うようになりました。

 当時と違ってお金はほとんどかかりません。情報もあふれています。難しいのは当時のハードウェアを手に入れる事ですが,AppleIIは幸い数が出ているので,探すのは難しくありません。最悪自作も可能です。

 ということで,この10ヶ月ほど私はAppleIIにどっぷりでした。

 最初はとにかく電源を入れたところから先に進もうということでしたが,そのために必要になったのはディスクイメージをディスクに書き戻す手段です。これにはこの界隈でよく使われているツールを動かす必要がありますが,そのために16kBの拡張メモリが必要でした。

 メモリは,基本的な入出力仕様が当時のままなのに,中身は強烈に増えているという珍しい部品で,AppleIIの時代には4kBitだったSRAMは,今ではその1000倍以上のものが簡単に入手できます。

 手持ちの256kBitのSRAMを使って自作したあとは,AppleIIの扉が一気に開いたような面白さで,憧れた有名なゲーム,ツールを楽しみ,新しい技術や知識を得てまるで当時のようなワクワクした毎日を過ごしていました。

 DIskIIの修理もそうですし,Z80カードでCP/Mもそうです。CP/Mは,当時X1turboで少し囓りましたが,面白いと思えず,とても不便で面倒くさいという印象しかありませんでした。

 しかし今触って見ると,非力なZ80でよくここまでやるもんだなあと思うほど,良く動いてくれます。これが当時の世界標準だったのかと,その頃いかに無知だったのか,あるいは自分の少し外側には全く見た事のない輝くような世界があったことを知らずに過ごしていたのか,思い知ることになりました。

 AppleIIは何度も壊れてしまいましたが,その都度修理をあきらめなかったのも,まだやり尽くしていないという知識欲からだったと思います。それに修理が現実的だと思えるくらいの情報が入手出来ることも,カスタムチップが少なく部品の入手も難しくないことも,あきらめなかった理由だと思います。

 ということで,AppleIIでやりたいことはほぼやり終えました。ここから先は例えばAppleIIで音楽を作るとか,AppleIIGSを手に入れるとか,自分で6502のコードを書いてみるとか,そういうことをやるしないでしょう。しかし,当時私がそこまでやっていたかと言えば疑問で,詰まるところ歳を取っても私は私ということです。

 当時,こんなに面白い世界を楽しんでいた人たちがいたんだなあと,羨ましく思いましたし,とはいえ当時ここまでの環境を持っていてもきっと使いこなせずに終わっただろうなあと,美しいデザインのAppleIIを見ながら思います。

 同じ事をあの当時にやろうとすると,おそらく数百万円かかったでしょう。ほとんどがオープンになっていて,今なら無償で使えるソフトウェアを全部購入すると考えると,高級車が買えるほどの経済力がないと経験出来なかったでしょう。

 当時の価値観ではありますが,その楽しみは費用に見合うものだったはずで,楽しくないはずがありません。だから私にとって,それは懐かしいのではなく,新しい体験でした。

 残念な事に,新しい経験も済んでしまえば懐かしさにいずれ変わります。次から次へと試したいことが出てきたAppleIIの探検も,CP/Mが起動した時にもう掘り尽くした感じがしました。さみしいことですが,AppleIIの追体験という旅は,ここら辺で終わりのようです。

 

AppleM1 Proについて考える


 新しいMacBookProが,噂通り発売されました。AppleM1を搭載したMacBookAirを,私もほぼ発売と同時に買ってもうすぐ1年になるのですが,「生活マシン」には十分過ぎるM1も,コンテンツ作成に十分な性能かと言われれば心許ないこともあり,そこはきっとAppleM2なるものがでてくるんだろうと,みんな思っていた訳です。

 しかし,出てきものはM1 PROとM1 MAXで,あくまでM1の派生でした。

 MacBookAirは,その性能を一気にハイエンドノートの領域に引き上げつつ価格は10万円そこそこと,かなりのお買い得感があったのですが,今回のMacBookProは14インチが24万円から,16インチが30万円からと,随分高くなったなあと言う印象です。

 もっとも,M1を搭載した13インチのMacBookProは併売となっていますし,お値段も16万円ということですので,棲み分けという点では問題ないのですが,14インチモデルが13インチの後継ならば値上がり,15インチモデルの後継なら妥当な価格,と言うことになるので,ここはもう考え方次第なのかも知れません。

 さて,私の興味はやっぱりプロセッサです。

 M1が高速であったことに偽りなく,また消費電力が極端に低いことを昨年12月に私も喜んで書いているのですが,実は1つだけ納得いかないものがありました。

 x265のエンコードの速度です。ffmpegからx265を使っているのですが,MacBookProLate2016(Core i7-6700HQ)を1とすると,M1はRosetta2上で0.5,ネイティブだとなんと0.3くらいまで低下します。

 M1の高性能コアでありFireStormの1コアの性能は,TigerLakeのコア1つとほぼ同じ程度ですので,この結果はどう考えてもおかしく,x265がM1に最適化されていないせいだろうと思っていました。

 あれから1年,しかし未だに速度に変化はありません。そろそろ誰かが指摘してもいいだろうと思うのですが,少なくとも日本語でここを突っ込んだ記事を見かけることはなくて,もしかしたら私だけの話かも知れないと焦っていました。

 実はmacOSには,VideoToolBoxというサービスがあり,これを使うとハードウェアアクセラレーションを利用することができます。ffmpegでも利用可能なので,これを試したこともあるのですが,速度は大幅に向上しつつもエンコード品質があまりにひどく,使うことはありませんでした。

 そんなこともあってMacBookProを買い換える気も起きず,今回の祭りは静観していたわけですが,先日真面目に調べたところ,ようやく詳しいことがわかりました。

 x265は,NEONに対応していなかったのです。

 NEONはARMのSIMD命令セットです。それなりに昔からあるものなので,まさかこれにx265が対応していないとは思っていませんでした。AppleはHandBrakeというソフト向けに,M1のNEON対応パッチを出しているのですが,ffmpegで利用することは現時点では出来ていません。

 これを使えば速度は品質そのままで3倍になるという事ですので期待出来るのですが,まずは本当かどうかを確かめてみる必要があります。

 調べてみると,ffmpegでもNEONに対応したバイナリを配布してくれている奇特な方がいらっしゃって,ビルドが面倒な私はこれで試してみることにしました。

 すると確かにエンコード品質に影響なく,3倍の速度になりました。ファンレスのMacBookAirで,ファンが唸るMacBookPro2016と同じ結果が得られるというのは,確かにすごいです。しかし,fdkaacを使えないので,このバイナリを常用することはあきらめざるを得ません。

 ならばとHandBrakeを試してみたのですが,こちらも同じ結果です。M1のMacBookAirとMacBookPro2016は,ほぼ同じ速度でした。

 うーん,そうなると,新しいMacBookProのM1 PROとM1 MAXが俄然気になってきますよね。どれくらい高速化されるのだろう,この際買い換えちゃうかとか・・・

 ということで,M1シリーズについて,少し辻褄が合うように調べてみました。

 まずM1から。

 M1は高性能コアであるFirestormが4つ,高効率コアであるIcestormが4つの8コアのプロセッサで,TDPは15W,クロック周波数は最大3.2GHzです。

 この1年で様々なベンチマークが発表されていますが,シングルコアの性能は,インテルの現行のアーキテクチャであるTigerLakeとFirestormがほぼ互角となっています。(一世代前のIceLakeに比べたらFirestormは圧勝です)

 高効率コアのIcestormは,ベンチマークの結果からざっくりForestormの0.3倍と考えてよさそうです。そうすると,M1のパフォーマンスはシングルコアの5.2倍と計算出来そうです。(ちなみにIcestormの電力はFirestormの1/10ということですので,随分電力効率の良いコアなんだなあと思います)

 インテルのCPUではノート用では4コアですからこれが4倍となるわけで,M1との差は約1.3倍。これはMacBookAirが登場した時によく見たベンチマークの結果とほぼ一致しています。

 で,当時は,インテルだと20万円のマシンがファンをぶん回しているのに,M1だと10万円でファンレスというのがすごいという話だったのですが,今数字を並べてみるとなるほどと思います。

 メモリについてはLPDDR4-4266で128ビットで繋がっているということでしたから,4266*128/8=68.2GB/sという帯域幅です。これでCPUからGPUからなにからなにまで面倒を見ます。

 次に本題です。M1 Proです。

 M1 Proは,FirestormもIcestormもM1と同じと見て良さそうです。だからM1という名前を継承しているんだと思いますが,M1 ProではFirestormを8コア,Icestormを2コアと,高性能コアに割り振っています。

 よってTDPは60W台ということらしく,M1に比べて大幅に大きくなっています。

 さて,問題のパフォーマンスを考えてみます。M1 ProはFirestormが8コア,Icestormが2コアですので,シングルコアの性能の8.6倍ということになります。M1が5.2倍でしたから,M1に対して65%ほど高速という計算になりますが,これはAppleの公式発表の70%や,各種ベンチマークの結果である60%程度という数字と大体合っています。

 インテルですが,8コアのTigerLake-Hが今年の5月に発表になっています。TDPは65Wということですので,M1 Proと性能も電力もほぼ互角なんじゃないでしょうか。

 ところで,M1 Proには8コア版もあります。一番安いMacBookProに搭載されるM1 Proがそれなのですが,これは先程の計算だと6.6倍となりますので,10コアのM1 Proとの性能差は約25%となりますが,これも実際のベンチマークの結果によくあっています。

 メモリ幅についてはM1 Proは大幅に向上していて,LPDDR5-6400を256ビット接続しているとのことです。ざっと計算すると6400*256/8=204GB/sと,Appleの公式発表の数字に合います。

 私はGPUにはあまり関心がなく,それはつまりグラフィック関連で重たいソフトを使わないということなんですが,それにしても200GB/sという数字は強烈だと思いますし,M1 MAXになるとさらにその倍ですから,そりゃ高くもなるわな,と思います。

 ということで,名前はM1のままではあるのですが,搭載するコアの能力を選ぶ事でハイパフォーマンス向けのCPUも作る事が出来るということがわかったのですが,これがコアそのものに手が入るM2世代になると,一体どうなることやらと思います。

 よく考えてみると,CPUをインテルに委ねていたAppleは,MacBookAirに適したCPUとMacBookProに適したCPUを,今あるラインナップから選ぶしかなかったわけです。

 しかし,M1ではFirestormとIcestormの構成比率を変更するだけで,パフォーマンスも電力も調整可能になりました。しかもその調整幅が10万円の生活マシンから,40万円のプロ用ノートまでカバー出来るようになるわけです。

 Appleがやりたかったことは,まさにこれなんだろうと思うのです。

 これも,Firestormがインテルのシングルコア性能に匹敵するものであるからこそ成り立つ作戦であって,従来Armはインテルのコアにはパフォーマンスでかなわなかったことを知るものとしては,多くの人が言うように,大した設計能力だと感心せざるを得ません。

 さて,Appleは2年かけてApple Siliconへの移行を宣言しています。今回のMacBookProはちょうど1年経過して登場したメインストリームでしょう。あと1年でMacProまでサポート出来る強烈なCPUが出てくるのと同時に,もっと安価なモデル用のものも出てくるかも知れません。

 私はと言うと,結局MacBookProを買い換えるには高すぎるし,MacMiniにM1 Proが搭載されることを期待しつつ,もうしばらく様子を見ようと思っています。


 

独自ドメインで甦った艦長日誌・私的記録 DS9

 長年自分のホームページを自宅のサーバーから公開することを続けていましたが,いよいよレンタルサーバを契約して自宅のサーバーの公開をやめました。

 そもそも,20年近く前に私が夢にまで見た常時接続の環境を手に入れた時,せっかく双方向でインターネットに繋がっているわけだから,WEBサーバーで公開しないと面白くないなという技術的興味から始めたことがきっかけとなり,ここまで続けてきました。

 当初は自宅にB5サイズの中古ノートPCにWindowsを動かして標準のWEBサーバーで公開を始めました。ダイナミックDNSやらNATやらIPマスカレードという言葉を覚えたのもこのころです。

 自分のドメインを持つにはどうすればいいのかなあと調べてみて,その壁の高さにため息をついたことも思い出されます。

 その後セキュリティの問題や信頼性の問題,パフォーマンスの問題もありLinuxに移行,懐かしいVineLinuxを同じノートPCにインストールしてApacheで運用を始めました。

 以後マシンを買い換えたりして同じ方法を続けていましたが,QNAPのNASを導入したことをきっかけに,NASから公開することにしました。コンテンツのバックアップも信頼性もメンテも格段に楽になりました。

 ずっとこれで来たのですが,自分のサイトでお金儲けを全く考えておらず,面白半分でやっていたのでお金はかけられません。自分のドメインを取るなど全く考えられず,ダイナミックDNSさえも無料のものばかり使っては,サービス終了の度にURLが変わるという面倒くさい話に付き合わされてきました。

 SSLについてもそうで,証明書は最初は有料のものを使いましたが,契約が切れてからは無料のものを使っていました。

 すべて無料のものですのでサポートはなく,何かある度に試行錯誤で徹夜なんてのは当たり前,なにかあっても自己責任です。

 しかし,昨年末に光ファイバに移行,IPoEで繋がっているのでIPv4で外にサーバを公開出来なくなってしまいました。IPv6でなら公開出来るので騙し騙しやってきましたが,繋がらないという文句もあちこちからもらうようになりましたし,実際googleも検索対象と見なしてくれなくなって,すっかりさみしい状態になっています。

 光ファイバに移行するときにすでにこのことは覚悟していたので,レンタルサーバにかかる費用は光ファイバへの移行費用として考えていましたから,あとはいつ契約するかという話になっていたのですが,IPv6環境でルータに穴を開けるのも怖いですし,夏休みの自由研究としてWEBサーバをレンタルサーバに置き直すことを計画しました。

 さて,どこのレンタルサーバにお願いする課という話から始めないといけないですが,繰り返すようにあくまで趣味のページですし,お金儲けをすることもないので,出来るだけ安くないと継続出来ません。

 先入観で結構かかると思っていたのですが,調べてみると安いものは1ヶ月100円程度でいけそうです。競争が激しいんですねえ。

 結局あれこれ探して,大手で老舗のロリポップにお願いすることにしました。Wordpressがちゃんと使えるようなプランでも3年契約なら1ヶ月200円ちょっとと,趣味で公開するブログでも負担は大きくありません。光ファイバの接続料が200円余計にかかったと思えば納得です。

 で,話はこれで終わりません。なんと独自ドメインまで無料で使える事がわかりました。もちろん審査が必要なco.jpなどはダメですが,.comや.netなどは無料で取得可能,しかもサーバ契約期間中は更新料も無料というサービスなので,私は驚きました。

 独自ドメインがとうとう我が手に・・・

 思い起こせば,大学でインターネットを体験し,電子メールにもう物理的距離も時間的制限もなくなったと感激,netnewsとgopherとftpで多くの情報とソフトを味わってから,いつ個人で使えるようになるのかなあと心待ちにしていた30年前・・・

 インターネットの商用利用が解禁されてIIJが先頭を走り,当時のniftyがインターネットのメールのやりとりが可能になり,その後雨後の竹の子のようにインターネットプロバイダが乱立して行く時代になりました。

 ダイアルアップでも自分にIPアドレスが付与されるなんてすごいなあと感激してプロバイダと契約,とはいえ付与されたIPアドレスは実は他の人たちと共用で自分専用ではありませんし,ドメインもそのプロバイダのものを使うだけで,自分のドメインなど夢のまた夢という感じだったわけです。

 それがです,毎月わずか200円でサーバとドメインを用意してくれる時代になったんですね。すごいです。

 サーバは自分でメンテをやっていればわかりますが,速度は出ないしトラブルで動かなくなるし,あちこちからアタックされて穴を塞ぐのも大変,バックアップも必要になるしそもそも設備にお金もかかるしで,個人で自宅に持つもんじゃありません。

 なんといってもルータに穴を開けることの危険性を考えると,なんでも自分でやってみたいという人以外はやるべきではないし,仮にトライするなら知識と経験は言うまでもなく,それを受け止めるだけの機材も必要でしょう。

 加えて,自宅にWEBサーバを置けば,自宅のローカルアドレスからアクセスする時と,外部からグローバルアドレスでアクセスする時でIPアドレスが変わりますから,ローカルアドレスを返す自宅専用のDNSまで立てないといけなくなります。

 うちはRaspberryPiでローカルDNSを立てていました・・・いよいよ,これも停止出来るんです。

 ということで,ずっと止まっていた私のwebページも,新しい場所で公開することが出来ました。

 しかも,ドメインはg-shoes.netです。とうとうここまで来たんだなあ。
 
 さて,せっかくだから全部Wordpressで作り直そうかなあとも思ったのですが,過去のこのブログを移行させるのが大変で,結局CMSであるfreoごと引っ越しすることにしました。

 別にfreoに不満はないし,Wordpressも今は盤石ですが10年後どうなっているかわかりません。過去記事の検索の便利さもあるので,今後もfreoでいきましょう。

 ただしトップだけではWordpressで設定します。そこからfreoはリンクで飛ぶ感じです。なんか美しくないし,新しさも感じませんが,趣味でやってることですのでこれでいいんです。

 方針を決めたらさっさと移行作業です。

 freoは新規インストールを行ってからコンテンツのフォルダを丸々コピーすればとりあえず動くようになります。画像などのリンクが切れるので,これはデータベースを一度エクスポートし,エディタで一括変換しインポートして対応です。

 ただ,どういうわけだかサイトマップの生成がうまくいかないので,既存の記事は手動でgoogleに登録,新規の記事はRSSを使って登録することにします。

 大した作業をしていないのに,ここまでで1週間。ようやく独自ドメインにSSLも使えるようになって,いよいよ切り替えです。ルータの穴を塞ぎ,NASのサーバの公開を停止,サイトマップをせっせと登録して,これで一段落です。

 自分のサイトを他者のサーバを使って公開する以上は,相応の責任が発生します。独自ドメインを使って公開しているのですから,「なんじゃこりゃ」と思われうようなサイトでは恥ずかしいですしね。

 そんなこんなで,人並みにレンタルサーバで復活した「艦長日誌」。

 もうG-SHOESは死んだんじゃないか,と訝しんでいた皆さま,ちゃんと生きていますので,これからも見に来てやって下さい。

 

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