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MacBookProのキーボード修理とユーザー体験


 2016年の秋に購入したMacBookProは,もうすぐ購入後4年になります。

 新しいアーキテクチャに切り替わるタイミングを今か今かと待ちわびて,予約までして購入したマシンですが,この4年間は十分に活躍してくれています。

 この世代のキーボードにはあれこれと難癖がついていて,1つはバタフライ式キーボードの問題と,もう1つはESCキーがない事への不満です。

 いずれの問題も後にユーザーの意見が通って変更されているので,Appleの設計者は悔しい想いをしていると思いますが,数の少ない高級機のユーザーの意見を,それまでにかけた開発費用を捨ててでも取り入れる誠実さ(とお金持ちっぷり)には,アップルらしさを感じます。

 そのキーボードですが,使い心地は別にして,壊れやすいというのが深刻です。構造的にホコリを噛み込みやすく,その結果押し心地が大きく変わってしまう,何度も入力される,入力されない,というトラブルが高確率で発生します。

 この問題はプロの道具としては致命的で,先にアメリカで問題になった後,リコールがかかっています。日本でも同様の対応が取られており,購入後4年を期限とし,減少が見られた場合には修理が無償で行われることになりました。

 私のマシンは幸いにして深刻なキーボードの問題はなかったのですが,カーソルキーのdownキーが,半分くらいの割合で入力されないという問題が出るようになってきました。

 以前から入力されないことはあったのですが,これほど確率で入力されないようになってきたのは最近のことで,作業効率が大きく低下して困っていました。

 改めて調べてみるとそろそろ期限が切れるではありませんか。そこでアップルのサポートに問い合わせることにしました。

 とりあえず電話しようと調べてみると,申し込みをすると先方から折り返してくれる仕組みです。すいていたようですぐに折り返しがありました。

 話をするとあっけないくらいに修理の手続きが進みます。あれこれと疑われたり,ストレージの初期化からOSの再インストールをやれと言われたり,無償にならない場合があるという細かい説明を繰り返されたりといううんざりする定番のやりとりは全くなく,すぐに修理受付に進みました。

 近くにアップルストアがあるのですが,コロナ禍という事もありますし,その場で修理が出来るわけでもないので,引き取りをお願いしました。

 とても丁寧で気持ちの良い対応を頂き,こちらが恐縮したわけですが,最速でお願いした引き取りは翌日土曜日の午前中に,付属品も書類もなし,ただ本体だけをそのまま梱包もせず,ヤマト運輸の担当者に手渡して完了しました。

 まあ,土曜日の午前中に渡しましたから,日曜日に到着しても作業は行われないだろうし,最短で火曜日受け取りかなあと思っていたら,なんと月曜日の9時過ぎに私の手元に戻ってきました。

 まさか修理されていないじゃなかろうなという心配は杞憂に終わり,めでたく私のMacBookProのキーボードは完調になっておりました。

 よく知られているように,このリペアはキーボードの交換だけでは済まず,トップケースとバッテリーも交換が必要になります。万が一有償になると6万円近くかかる大修理なわけですが,これがすべて無償です。4年も前に購入したマシンですからね,なんだか申し訳ない気がしてなりません。

 もちろん気分良く使えていますし,見た目も新品に生まれ変わったみたいでうれしいのですが,それにしてもこのアップルの対応,すべてがこちらの期待を越えるもので,これまで受けたいろいろな会社のサービスやサポートのなかで,最高のものであったと思います。

 きちんと修理されていることはもちろん,高額な修理費用が無償になったこと,電話の対応,迅速な手続き,土日に関係のない修理作業,,発送から返却までわずか50時間という驚異的な短さは,すべてがユーザーの不安を解消し,実害の発生を最低限にとどめ,それらに対する覚悟が肩すかしに終わるような,素晴らしい体験だったと思います。

 日本はおもてなしの国だとかなんだとか言う人もいますが,日本のメーカー,それも日本を代表するような名だたるメーカーのサービス対応はとてもさみしい物で,ユーザーを疑うことから始まり,なかなか非を認めず,ごねた人には「特別対応」をして逃げ切るかと思えば,修理そのものも適当で直っていない,他を壊して戻すなども頻発しています。

 購入後すぐに修理が必要になることも問題でしたし,修理期間が最低でも10日,私のケースでは3ヶ月もかかり,その間全く使えないことも当たり前だと開き直ります。

 工業製品ですから完全を求めるわけにはいかないものですし,その結果安価に製品が買えているわけですから納得もするのですが,それでも結局誰が一番損をしているかといえばユーザーです。

 さすがにUX先進国のアメリカだけに,製品を売って終わりということではなく,買う前からその商品を手放すまでの間のユーザー体験を最大化しようという発想が根底にあるんだなと,今回の事で本当に感心しました。

 同時に,そうしたユーザー体験を提供するために,莫大な費用を用意出来るアップルという巨大企業の,お金の使いどころに恐ろしささえ感じました。

 製品にお金を支払うというのではなく,その製品と共に過ごす時間を買うのだという意識は,日本のメーカーとだけ付き合っていては見えてきません。

 amazonもここ最近,急激に使い心地が良くなっていると感じます。私はヨドバシの方が断然いいと思っていましたが,最近のヨドバシの劣化も相まって,amazonが本当に気に入ってきました。

 かつてはサポートの電話番号も非公開ですぐに連絡をする方法がありませんでしたし,運送業者に渡してしまえばあとは知らんというスタンスでしたが,それも今では信じられません。

 買うときのワクワクだけではなく,買うときの心配を取り除く工夫,買った後の後始末まで,マニュアル通りの対応ではなくそれぞれのケースで最善を尽くそうという方針に,これもユーザー体験を買っているのかも知れないなあと思うようになってきました。

 アップルもamazonも北米の会社です。日本での対応は本国の許可が必要なはずですし,日本市場を重視するとは言え日本のメーカーや小売店を越える必要はありませんから,彼らのワールドワイドの方針に従っているのだろうと思います。

 とすれば,それはグローバル化の1つ,ということになります。

 日本の持っている物が良い場合(多くの場合その通りでした)において,グローバル化というのは後退を意味するケースもあったでしょう。しかし日本の持っている物は良くないものになっていたり,海外の方がもっと良いものだったりすることも増えていて,いつの間にやらそれらが「標準化」された結果,非常に良いものに改善されることが,日常的に起こっていると気が付きました。

 もともと私は日本だ海外だと区別してものを考える事を不自然に感じる人でしたが,国内の状況が少しずつ悪くなって行くことは肌で感じていて,海外において行かれているなあという焦りのような物を感じる事も増えてきました。

 それは発展の著しい国々の猛追だけではなく,もともと日本の先を走っていたアメリカやヨーロッパとの間が,また少しずつ開いてきているという実感です。

 しかしながら,私は心配していません。日本国内の会社がだめでも,これまで通りアップルとamazonに頼めば済むだけの話なのですから。
 

キッチンの水栓を交換することで考えた

 コロナですっかりカタツムリになってしまった私ですが,毎日の夕食を担当するなかで劣化がひどくなってきたものに,キッチンの水栓があります。

 そりゃもう7年も使っているんですから,悪くもなるでしょう。

 一番ひどいのは,シャワーとストレート,そして浄水の3つを切り替えるレバーが,ギーギーと鳴くようになり,気持ちよく切り替える事が出来なくなってしまったことです。

 切り替えそのものは出来ているので実用上はなにも問題はないのですが,レバーが重くなったことに加え,クリック感がなくなりきちんと回しきるのが大変になったこともありますし,気分的にもよくありません。

 この部分の分解清掃をやってはみたものの,効果は数日で薄れてしまいます。

 ならばと,子部分の部品交換を考えたのですが,シャワーの付いたヘッドを丸ごと交換しないといけないらしく,あろうことか24000円もするというんですよ。

 高いなあと思いつつ,ちらっとamazonがお奨めする物を見ていると,水栓丸ごとでも2万円まで買えるようです。もともと6万円ほどする物ですからね,パチモンかも訳ありかも知れないですし,取り付けをどうするんだという話もあるので,あまり真面目に見ることはしません。

 しかし,このヘッドの交換を検討する時に,TOTOのWEBで後悔されている部品構成図などを見ていると,この製品の後継機種をたどっていけるようになっており,まさにこの機種が18000円ほどで買えることが分かりました。

 水栓は10年くらいでもう使えなくなるものと考えても良いので,交換出来ればそれは歓迎すべき事なのですが,古い物が製造中止で安く出ているかと思って探してみると,それはむしろ高価なくらいです。

 どちらかというと,現行商品が安く出ているようなので,思い切って交換してみることにしました。後継品種ですから,基本的にはリプレース可能でしょう。

 交換前の機種名は「TKHG38P」,後継の現行品は「TKS05308J」らしいです。

 取り付け穴も同じ,配管の長さはちょっと違うのですが,まあどうにかなるでしょう。

 デザインは大きく変わっているので慣れるのに時間はかかるでしょうが,悪い物ではなさそうです。

 TOTOのWEBサイトに取説など一式アップされているので到着までの時間で予習しておきます。

 ということで,土曜日の午前中に,新しい水栓が届きました。欠品がないかを確認し,揃っていることを確認出来たら作業開始です。

 まず古い水栓を取り外します。いやー,綺麗に使っているつもりでも汚いですね,水回りは触るのが嫌になります。

 先に配管を外します。この時代の水栓はワンタッチカプラーなる物で配管されているので,これを流用出来れば簡単だったのですが,現行品には採用されず,ナットで接続するタイプに戻っていますから,カプラーごと外してしまいます。

 シャワーの接続も外してしまい,その後水栓の下部にあるネジをアレンキーで外して,慎重に引き抜きます。おお,なんだかイカの解体みたいです。

 取り付け用の台座も流用出来そうにないので外して,新しい物に交換です。これは簡単簡単。

 続けて新しい水栓を取り付けてしまいます。配管を穴に通し,台座にネジ留めします。配管を通すのがちょっと面倒ですが,別に問題はありません。

 次からはもうシンクの下側の作業で,座りっぱなしです。配管を上手く取り回し,ナットで接続していきます。実は過去の水栓がシンクの裏側の面から370mmの位置に接続点があったのですが,新しい物は400mmを指定しています。3cmの違いならどうにかなるだろうと思っていたのですが,あまった配管を取り回すにはちょっと中途半端な長さで,冷水側の配管を少し急に曲げてしまい,折り曲げ跡を作ってしまいました。

 問題なさそうなので気にせず先に進めます。シャワーの接続も終わると,後はもう開栓しても問題はありません。きちんと水が出てきて,漏れないことを確認したら,あとはもうお片付けです。

 ここまで1時間ほど。さすがに予習をしただけあって,スムーズに作業が進みました。

 使い勝手は大きく変わりましたが,あっという間になれてしまいますし,快適な操作性なのでなにも文句はありません。通常,6万円の定価に工事費用が数万円で合計10万円コースだろうと思うのですが,最終的に2万円以下で済んでいます。

 「安く上がって良かったですよ」という話をしたいわけではなく,私が考えたのは,一体何が適正な価格なんだろうか,と言う疑問です。2万円なら私のように壊れる前に交換しようと思う人がいるでしょう。5万円なら壊れてからの交換になるでしょうが,納得して出せる価格ではないでしょうか。

 しかし,10万円の出費というのは,ちょっと抵抗がありませんか?いや,積み上げれば仕方がない金額になるんだろうし,工務店の方々がぼっているっていう話をしたいわけではなく,あくまで私の金銭感覚で10万円は簡単に出ないよという話です。

 10万円が納得出来ないからやめときます,という話にならないのが住宅設備関連です。水道が壊れてしまえばそりゃ生活が出来ませんから,30万円ですと言われても出さざるを得ませんよね。

 こういうことを悪用する人々がいても,不思議じゃないかも知れないと私は思ったのです。

 私の推測はこうです。工務店は本来,工事を2万円くらいで引き受けていたら赤字です。そこで,品物の利益でそれを補填します。2万円くらいで仕入れるが出来る水栓を,メーカーの標準小売価格である6万円で売るのです。

 これになにも問題はありません。かつての水道工事というのは現物合わせが主体となる大変な作業ですので,以前なら納得する人も多かっただろうと思います。

 しかし,2つの変化が訪れます。1つは工事を簡素化するために,メーカーの製品が標準化を進めていき,取り付けに際する現物合わせを極力排除したことです。このことで作業時間は短縮され,交換品の在庫も流用も持てるようになり,しかも作業スキルによって仕上がりが変わったり,スキルの低い人でも工事が出来るようになりました。

 しかし一方で,誰でも出来るようになったことから,素人でも簡単にできてしまうようになりました。

 2つ目の変化は,製品の購入です。かつては工務店しか買うことが出来なかった住宅設備関連品ですが,どういうルートか楽天でもamazonでも買うことが簡単になりました。

 買うことが出来るようになったと言うだけではなく,とても安いのです。おそらく,工務店への卸値に近い価格ではないかと思います。工務店の中には,amazonから仕入れる人もいるんだとか。

 こうして,独占されていた製品の購入が開放されたこと,そして工事も素人に出来るくらいに簡素化されたことで,一気にDIYに敷居が下がったのです。

 私は水栓の交換に1時間ほどかかっていますが,交換しようと決めてからわずか24時間です。工事の決定から支払い,そして工事完了まで1日ですからね,プロの頼むよりも早いというメリットも大きいのです。

 こうして環境が整ったことで,消費者としては選択肢が一気に増えました。安いけど手間がかかる,高いけど楽ちん,様々な選択肢がある事は,消費者にもメリットがありますし,選んでもらうための競争が起きますから,業界全体が良くなる方向に向かうことは疑いようがありません。

 そう考えると,これまでがおかしかったんだなあと気が付きます。そしてそれらが変化し,現在の地点に来ることが出来た要因に,製品のメーカーが進めた工事の簡略化と独占販売をやらなくなったことがあり,結局メーカーなどの大きな会社が作った道筋に流れていくんだなあと思いました。

 今年でなんと20周年を迎えたamazonがあけた風穴には多種多様なものがあり,誰かがそれをまとめるだろうと私は期待しているのですが,絶版の本さえ注文を受けては後になってごめんなさいをするいい加減さに辟易したサービス開始直後のamazonが懐かしく思い出されます。

 必要不可欠なインフラとして定着したamazonですが,実はもっともっと根深いところで,それまでの商習慣を数多く壊していることに改めて驚くと共に,その多くが直接には消費者のメリットになっていることを思うと,amazonというプラットフォーマーが消費者の見方でいてくれて良かったなあと,思わざるを得ません。

 そう,高度経済成長期ではなくとも,明日は今日よりも良くなっている,は,ちゃんと実践されていたということです。

 さて,ここでもう1つ見えにくい問題を議論せねばなりません。

 そう,ゴミの問題です。工務店に対して支払う費用には,廃棄物の処理費用も含まれます。今回の水栓も,工務店に工事を依頼すれば古い物は当然引き取ってもらえます。

 しかし,amazonへの支払いは当然品物の代金だけであり,ゴミの処理費用は含まれません。素人のDIYではこのゴミの処理が問題です。

 個人が出すゴミで,事業者が仕事で出すものではありませんから,余程の事がなければ個人のゴミとして処理できるので心配ないのですが,本来事業用ゴミとして処理されるものが個人のゴミとして出てくるようになるのが当たり前になると,ゴミを処理する地方公共団体の処理能力が想定を越えることもあるだろうなと思ったりします。

 また,大きい,重いなどで粗大ゴミになれば当然有償ですし,そこに化学物質や有害な物,あるいはリサイクルが義務づけられているような物が含まれれば,個人で出すゴミとはいえ,産業廃棄物として処理しないといけないケースも出てきます。これらの処理費用は安くはありません。

 ここまで考えると,実は工務店に頼むことが割高になるとは言えないケースも出てくることに気が付きます。さらにいうと正規の方法で処理されることで,環境負荷を下げることにもなる場合があるでしょう。

 さて,どうします?

 

macにとってCPUとはなんなのか

 先日のWWDCで,これまで公然の秘密であった,macのCPUをARMに切り替えことが正式にが発表されました。

 この発表で,ARMのサポートを開始する新OS,そして互換性維持のための仕組み,開発者がなにをしなければならないか,さらにスケジュールについても同時に発表がありました。

 この手の発表についていえば,そのうちやりますよ,いずれやるつもりです,というのを「発表」したりしますから,2年というスケジュールとそのための準備,そして技術的に破綻がなく,「ほんまに出来るんかいな」と懐疑的になることがない施策を見るに,アップルが用意周到に準備を重ねてきたことが伺えます。

 しかしながら,これだけの変更を行う動機や,理由,そして実際に苦労をするだろう開発者に対するメリットについて,あまり十分な説明があったとは言えません。だからこそ名うてのライターたちがここぞとばかりに,似たような内容の推測記事を書き上げることになるわけで,私に言わせれば実際に負担を強いられるエンドユーザーに対する説明がないことそのものに,アップルの視線がどこに向いているかを感じて,ゲンナリするのです。

 ただアップルとmacのユーザーが持つ信仰心というのは,かつてほどではないにせよそれなりにありますし,今macを使っている人は何らかの形でmacを気に入ったかmacでPCを初めて体験したかのどちらかでしょうから,こういうユーザーの厄災への耐性は,それなりにあるものです。かくいう私もそうだったりします。

 話が逸れますが,今アップルを支持する人達というのは,純粋に製品の魅力で支持している人が大半でしょう。そういう人達はにとっては,製品を使用することへの我慢や辛抱がないどころか,むしろアップル以外を使うことがストレスになるでしょうから,アップルが嫌いでもiPhoneが好きな人はいるんじゃないかと思います。

 年寄りの昔話ですが,アップルにこんな時代が来るなど想像も出来ず,いつも少数派で周辺機器もソフトも揃っておらず,選択肢も少ない上,新しい技術を取りこむ速度も遅く,使いやすさや信頼性というコンピュータとしての重要な性能が,明らかに他に劣っていた時期もありました。

 つまり,かつてのアップルやMacintoshのファンというのは,製品の魅力以外の別の理由で彼らに付き従っていたわけで,今のアップルウォッチャーとは異なる,優しくも厳しい視点を持っていると思います。

 なにが言いたいかと言えば,そんなロイヤルティの高い人々にとって,CPUが変わることは避けようのない災害のようなものではあったけども,だからといってそれが他のコンピュータに乗り換えるような理由にならなかったということです。

 よく知られているように,Windowsの世界はその前身のMS-DOSのころから x86でした。今のx64になるともうさすがに8086の色は薄まっていますが,それでもそこここに当時の面影が見え隠れするものです。これはハードウェアにおいてもそうです。

 しかし,Macintoshは,当初モトローラの68000からスタートしました。68000は内部32ビット/外部16ビットのCPUですので,Macintoshは最初から32ビットへの移行が約束されていたと言えます。Windowsが16ビットから32ビットへの移行にとても長い時間をかけたこととは対照的だと思います。

 しかし,性能の限界と供給メーカーの問題で,アップルはPowerPCへの移行を決めます。完全に異なるアーキテクチャですので,もちろん大混乱です。

 ハードウェアでは,設計が進んでいた同じモトローラの88000系のバスインターフェースをPowerPCに持たせる事で初期の混乱を乗り切りましたし,ソフトウェアはPowerPCのバイナリで書かれたライブラリを徐々に増やすと共に,ダイナミックトランスレータである「Rosetta」をOSに組み込み,かつての68000のコードをそのまま実行出来る仕組みを使って乗り切りました。

 そしてOSがMachベースのMacOSXになる時にも大混乱です。この時にはPowerPCへの移行は完全に終わっていましたし,その粘りのあるパワーは,重たい映像や音楽系のクリエイターの仕事を支えてくれました。

 MacOSXでは,古いMacOS9との互換性を持たせるために,様々な施策を打ちます。1つは,OSXとOS9共通の暫定的なAPIの準備です。これを使えばどちらのOSでも動作するアプリを作る事ができます。

 ただし,強力なOSXの機能を使い切ることは出来ないので,あくまで暫定的なものでした。

 そんなAPIを使っていない古いアプリのために,OS9がOSXで動くような仕組みまで用意して,互換性を維持していたのです。

 OS9は信頼性が低く,モダンな設計になっていませんでしたから,アプリもない,重たい,メモリもいっぱい必要というOSXが,まだ使い物にならないころから,輝かしい明日を夢見て,Macと付いていなければもう完全に別OSであったOSXを,それこそ砂を噛む思いで使い続けていたのです。

 そうしてOSXはやがて使い心地のよいOSに成長しました。やっと落ち着いて「使うこと」ではなく「なにかを生み出すこと」に専念出来ると思ったところへ,今度はまさかのx86へCPUを替えると言い出しました。

 PowerPCはとてもよいCPUだと思います。少なくとも32ビットのx86よりはずっと美しく,パワフルです。しかしインテルは,出来の悪い息子を力業で世界最高の頭脳へ押し上げることに成功していました。

 アップルの信奉者はまだx86とWIndowsを目の敵にしていた(しかし勝敗が付いていたことも潔く認めていた)ので,さすがにこのCPUの変更には面食らいました。しかし,同時に彼らが渇望していた小さく軽く電池が持つモバイルマシンを,PowerPCのままでは実現することが出来ないのも,また事実でした。

 かくして,巨大な市場が鍛えたインテルのCPUを,そのおこぼれをもらうように,アップルがMacintoshに使い始めたのでした。

 この間,Windowsは非常に落ち着いており,災害の少なかった時代だったと思います。ビジネス用途のコンピュータとはかくも静かな世界なのかと思い知ったわけですが,大きな変動はx64への移行くらいだったように思います。

 この時はインストールするときに32ビットにするか64ビットにするか決めねばならず,OSが両対応するMacOSXを誇らしく思ったものですが,これもまあ移行が済んでしまえば過去の話で,Windowsは今や64ビットが普通ですし,macもCatalinaで32ビットを切り捨てて64ビット専用になってしまいました。

 そして今,ARMへの移行です。

 私個人は,すでにCPUの命令セットの違いなどもう気にしなくていいほど抽象化が進んでいると思っていますので,機能が揃っていればどんなCPUでもいいと思います。

 そもそもARMも64ビットの命令セットは,32ビットの命令に比べて明らかに「普通」になっていて,当時の設計思想「小さく軽く電気を食わない」を色濃く反映した32ビットの個性的な命令セットとは,もう完全に別物になっています。これをARMという理由はどこにあるのか,と思うほどです。

 命令セットの違いによって,内部の実装は当然違ってきます。得意なこと,不得意なことが出てくるのは自明ですので,ARMは64ビット化で普通のCPUになり,ようやくインテルと同じリングにあがるための切符を手に入れたと言えるでしょう。

 そうして,かつてインテルと死闘を演じたスーパーエンジニアたちが紆余曲折をへてアップルに集まり,そこで作り上げたのが,今のAシリーズです。これを育てて,強力なCPUにしていくことは,今の彼らには簡単でしょう。

 事実,同じ世代の他のCPUが4コアだったのに,アップルだけは2コアで戦えていたわけで,コアあたりの処理能力を高める技術力を,きちんと備えているということです。

 一方で,インテルはインテルでARMに負けていた電力を大幅に改善し,もはやARMなみの物を作る事が出来るようになっています。電力あたりのパフォーマンスを比較しても,ARMが絶対だとはいえなくなってきていることに,我々が気付くべきかも知れません。

 なら,アップルはなんでCPUをARMにするのか,です。これはもう,内製したいから,に尽きます。そう,コンピュータをやる人々は,CPUを内製することを必ず夢見るものなのです。

 SoCの内製は,お金があればどうにかなります。しかし,CPUコアの内製は,もう一部の選ばれた人の特権です。アップルはスマートフォンでそれを実現しましたが,今度は正真正銘のコンピュータで,それをやろうとしているのです。

 私は,Windowsも良くなってきているし,無理にmacでないといけないとは最近思わなくなってきています。それでも,ARMへの移行は面白そうだし,特にモバイルノートが進化することに期待して,当事者としてこの祭り(もしかしたら災害)にのろうと思っています。

 ここから先はよくある未来予測なのですが,CPUの変更という大事業をOSのサポートを受けながら影響を小さく乗り切る事が出来る事は,ハードウェアとOS,そしてアプリケーションを持つ会社の有利な点です。

 懐かしの名前を復活させたダイナミックトランスレータRosetta2,かつてx86への移行時にも活躍した仕組みを復活させARMとx64の2つのコードを1つのアプリケーションに持たせるUniversal2をOSに組み込んで,互換性を維持します。

 OSだけではなく開発ツールを握っているのも強みです。同じソースをリビルドするだけでARMに対応出来る新しいXcodeを用意して,開発者の負担を軽減します。。

 そして,視点をずらしてみると,iPhoneやiPadとアプリケーションを共通化することも見えてきます。Catalistと呼ばれる,macOSとiOSの両方で動作するアプリケーションの仕組みを用いれば,アップルの圏内にいる人達は,それがiPhoneだろうがmacだろうが,アップルの持つ製品を自由に行き来出来るようになるわけです。

 こうしてみると,過去数年かけて32ビットアプリを排除し,Catalinaで32ビットアプリを「動かなくした」ことも,説明がつきます。わざわざ動かなくする必要性は,技術的には全くなかったのですから,そこには政治的な意図があるはずです。

 それが,ARMとの互換性です。Universal2でサポートするコードが3つになるのを避けることもそうですし,それ以上にRosetta2がサポートするコードを64ビットに限定したかったというのが,一番大きな理由ではないでしょうか。

 こうして登場する新しいOSは,それまでのmacの世界を過去にするという強い意志でVersion10という意味を込めて名付けられたMacOSXはmacOS11と名称を変え,同じくここから先が全く新しい世界になることを我々に期待させます。

 CPUもかわる,OSもかわる,そしてiOSと共通のアプリケーションが動く,そんな全く新しい世界が,多くの犠牲を払ってやってこようとしています。

 これまで,iPadProとMacBookAirとの境界が曖昧で,私がいい加減買い換えたいと思っている11インチのMacBookAirが出てこなくなってしまいました。しかし,これがもしかすると,復活するかも知れません。

 ARMの特徴は,休んでいるときの消費電力の低さです。長い駆動時間,あるいは電池を小さくすることで全体を薄く軽くした新しいMacBookAirが登場するなら,私はとてもうれしいです。

 モバイルとエントリクラスはARMによって大きなメリットを受けるでしょう。MacBookProも時間をかけて,その名前に相応しい性能を持つようになると思います。

 しかし,デスクトップの最高峰であるMacProはどうでしょうか。消費電力を気にせず,価格を気にしない,最高性能を目指すマシンにとって,電力やコストに魅力のあるARMを使う理由は,それほど強くないでしょう。

 ここでアップルは,その時々のインテルのCPUに対し,純粋にパフォーマンスだけで勝利しなくてはなりません。インテルはARMとの差別化において,ひょっとしたらパフォーマンスの向上にリソースを集中するかも知れませんから,そうなってしまうとアップルのCPUはインテルに勝つことが難しくなります。

 しかし,ここでアップルが負け惜しみとも思えるおかしな屁理屈を並べ立て,結局パフォーマンスに劣る自社製CPUを搭載して,MacProを最高性能と言い切るなら,果たしてMacProを手に入れる事の出来る(あるいは手に入れねばならない)ユーザーに,どれほど支持してもらえるのでしょうか。

 今後ともインテルのCPUを使い続けるだろうWindowsの世界では,その時点で世界最高性能になることがはっきりします。ここでアップルはMacProへの期待を裏切り,その市場を失う事になるわけです。

 最終的にたどり着くのは,MacProの終焉と,macのカバー範囲がミドルクラスまでという図式です。そう,アップルの顧客から,シンのプロフェッショナルがいなくなるのです。

 それでもアップルは困りません。iOSのユーザーがmacに取り込めるのですから,その方が遙かにメリットがあるでしょう。これが私の思う5年後です。

 高い電力性能でラックマウントを復活させてサーバー市場に打って出るかもしれませんし,日本のスーパーコンピュータの富岳がARMベースである事からHPCの分野に出てくるかも知れません。

 ただ,アップルが自分たちの立ち位置をコンスーマーに近い場所(それはコンスーマーがコンテンツを消費する仕組みと,コンスーマーが消費するコンテンツを創る仕組みの両方を意味します)と考えて続けている限り,特殊とも言える用途への進出はほとんど考えられないと思います。

 コンスーマーに近いところ,というアップルのぶれなさこそ,アップルの魅力なのかも知れません。マイクロソフトがあれほどコンスーマーの目に触れた存在だったのに,彼らの目にはは今やオフィスにいるサラリーマンしか見えていません。

 今年の年末のmacはどんな姿をしているのでしょうか。そして新しいOSはどんな使い心地なのでしょうか。2年後アップルはどうなっていて,5年後のパーソナルコンピューティングはどんなものになっているのでしょう。

 ワクワクします。

 

写真とカメラ雑感

 カメラがなぜ面白いのか聞かれたと仮定して,はて何故なんだろうと思って,ふと考え込んでしまいました。いろいろ思うのですが,やっぱり自分が見せたいと思うものを整理して記録するという行為に創造性を強く感じているからだと思います。

 我々の見ているもの,あるいは脳が最終的に知覚したものは膨大な情報を持っています。これを2次元にするだけですでに奥行きの情報が落ちてしまいますし,色や明暗も同様に削られます。

 細かい部分も裏側も記録されませんし,大きさだって形だって正確に記録されません。もっというと重さも臭いも,柔らかいか硬いか,冷たいか暖かいかも記録されませんし,もっと大事なもの,つまり時間の経過が落ちてしまうので,変化している状態がまったく残せません。

 こう考えると情報の大部分が欠落する静止画の写真は極めて不完全で窮屈な記録方式だと言えるのですが,人間がすごいと思うのはここから先の話で,そんな小さな器にどうやって自分が知覚したものを入れ込むのかを必死になって考えるのです。

 できるだけたくさんの情報を入れられるように,技術的な進歩もさることながら,どの情報を入れ込んだらいいかを長年かけて模索し確立して,写真はハードとソフトの両面で進歩してきました。特に後者は先行する絵画との親和性もあって,すでに表現としての芸術として認知されています。

 芸術ですから,あるレベルからはその人の能力や才能による個性の勝負になるわけですが,それまでは学習と経験が必要なものであることに他の表現方法となにも変わることはなく,その習得も容易ではありません。

 ただ,写真が絵画とちょっと違うと思うのは,写真は芸術であり趣味であると同時に,記録を残すという実用的な性格が強いことです。カメラが自動化の道を歩んできたことの理由は,確実に意味のある記録を残すためという明確な目的があったからです。

 とはいえ,完全自動化などはやっぱり無理で,自動化できるところから自動化を進め,そのことで空いた手を人手でやらねばならないところに振り向けてきたのが,今に至る写真事情ではないかと思います。

 そして,これがとても楽しいわけです。面倒な事は誰だってやりたくないし,面白いと思う事をじっくりやりたいと思うのも,また当然です。

 考えてみると,多くのことが自動化され,デジタル化される事により,面倒な事,時間のかかること,難しい事から我々はどんどん解放されてきました。今急に暗室に入って写真を焼いてこい,といわれたら,私は断ると思います。

 その昔のダゲレオタイプなんか,感剤の劣化が早かったため,銀メッキした銅版を持ち歩き,撮影直前でヨウ素の蒸気にさらしてすぐに撮影,何十分も露光にかかるから被写体は動かないように固定されて,撮影が終わったらすぐに水銀蒸気で現像,そして定着という,本当に生ものを扱う大変な作業だったわけですが,それが今やパソコンの中で出来てしまうんですから,どれほど省力化が進み,どれほど失敗なく記録出来るようになったか,思い知ります。

 話を戻すと,実物から多くの情報を削り,器の小さい静止画の写真に落とし詰め込んで,それがなお記録や芸術として成立するためには,見る側にそれを見て想像し理解する力がなくてはなりません。本を読むために文字と単語が読めねばならないというのと同じで,そこにある写真を読み解くための方法を知る必要があります。

 こうしたリテラシーを身につけると,確かに写真を鑑賞できるようになりますが,そうした機会はなかなかなく,特に日本は写真を鑑賞するという文化がないなあと思います。私もそうした習慣は持っておらず,若いときにやっておけば良かったなあと後悔している口です。

 例えば,時間の流れを記録出来ない写真で時間を表現するためにはどうすればよいかが撮影者に問われるのと同時に,見る側にもどういう画像になっていたらそこに時間の経過があると解釈するのかを知っておいてもらう必要があります。

 それ以外に,すでに柔らかいと知っているものが写っていればそれが柔らかいと想像するにたやすく,それがとても大きいものであるなら,写真にあるものはとても大きいものであると理解でき,かように実は見る側が知っておかねばならない事というのは,多岐にわたるのです。

 多くは我々が普通に生活をしていれば理解出来るものですが,例えば凄惨な戦場であるとか,宇宙であるとか,顕微鏡写真であるとか,あるいは100年前の写真であるとか,ごく普通の人達にとっては想像も出来ない状況で撮影された写真は,とても理解が難しいと言わざるを得ません。

 だからこそ撮影者の腕が問われるわけですが,果たして戦場を扱う報道写真が見る人に寄り添っているのか私には疑問がありますし,一方で見る側は報道写真を見るためのリテラシーを学べていないように思うのです。

 そう考えると,写真というのは,撮影者と見る人との間のコミュニケーションだよなあと考え至るわけで,さらに見る人というのは未来のまだ見ぬ人さえも対象にするんだと気が付き,私などは足がすくんでしまうのです。

 

富士フイルムがフィルムフィルムメーカーでなくなる日

 少し前から噂になっていた,富士フイルムの黒白フィルムと黒白印画紙の販売終了が公式にアナウンスされました。

 やはりフィルムが深刻で,最後の砦となっていた135と120のネオパン100ACROSが今年10月に出荷終了となります。

 ISO100の白黒フィルムというのはとにかく写真の原点ですが,個人的にはこれほどその役割が変わってきたフィルムもないんじゃないかと思います。

 ISO100でも高感度,超微粒子と呼ばれたその昔,最新技術としてもてはやされました。やがて日常に使うフィルムとなりもっとも身近な存在となります。ネオパンSSといえば,戦後のカメラブームを支えた立役者です。

 カラーネガが普段使いフィルムになると安価で自家現像ができるメリットから,写真の学校や学校の部活動で入門用に避けて通れない存在になりますし,現在のようにデジタル全盛になると,白黒でしか表現出来ない芸術性であるとか,長期保存性の高さから重要なアーカイブ用にと,役割が変わってきています。

 色情報を持たない写真がそれでもしぶとく生き残っているのが不思議なくらいですが,やっぱり白黒には白黒の良さがあります。

 ただ,これを産業として維持することは現実的に不可能なほど,需要が減っているのも想像に難くありません。具体的な数字を見ているわけではありませんが,フィルムを死に追いやったデジタルカメラが,スマートフォンによって急激に数を減らしているというのも,因果な話です。

 とはいえ,フィルムも印画紙もこなれた工業製品といえますし,コストを考えなければ手作り出来るものでもあるので,数を絞れば細々と続ける事が出来るんじゃないかと思います。そもそも,製造が始まった頃のフィルムの需要は非常に少なかったはずです。

 なので,ちょっとうがった見方をすると,富士フイルムの公式リリースにある「需要の継続的な減少により安定的な供給が困難になった」というのは,彼らの事業規模において採算を維持できる数を割り込んだ,と言うことであり,もっと少人数,もっと小さい工場,もっと小さな規模なら,生産を終了することはなかったのかも知れません。

 なら規模を小さくしろよといいたいところですが,そこは工業製品である以上,ある程度の規模がないとダメで,こういう化学製品はそれなりの規模で一度に作らないと,製品の品質も安定せず,コストも下がりません。想像ですが,富士フイルムの製品はどれも高品質,高性能で,規模を小さくするとこれらを維持できなくなってしまうのでしょう。

 もっと現実的な話をすると,すでに白黒フィルムでは儲からないわけで,今後事態が好転するとは考えにくいです。すでに余計な費用はかけられない状態であり,規模を縮小するために設備を変更したり,あるいは製品の性能を変更したりと言った後ろ向きな変更でもお金がかかってしまうわけですから,何もせずにやめる,が最善策であるという考えに,反論しにくいものがあります。

 おそらく,事業の売却や移管なども検討されたのではないかと思いますが,文化を支える,ファンを支えるという理由で火中の栗を拾うような人は少ないわけで,このあたりが工業製品でありビジネスであるフィルムの限界かなと思うのです。

 とはいえ,ホビーとアートとしての銀塩写真は必ず残ります。経済的合理性だけでいえば,どう考えてもデジタル写真の勝利ですが,経済的合理性など問題にせず,面倒な事をむしろ楽しむのがホビーでありアートです。そこに楽しさがあったり,手間をかけないと手に入らない「何か」があれば,ずっと支持されるはずです。

 あまりに昔の話で的確とは言えないのですが,その昔,画家というのはお金持ちの肖像画を描くのが仕事でした。しかし写真の発明によって,彼らの生計を支えた肖像画の仕事はほぼ消失しました。

 写真によって高価な肖像画しか選択肢がなかった時代が終わり,誰でも自分の肖像を残し,家族の記録を残すことの出来る大衆化の時代がやってきましたが,では食い扶持を失った画家はどうしたかというと,写真では出来ない表現を編み出して,写真と対抗(共存)する道を模索したわけです。

 そして,現在も絵画は芸術として残っていますし,画家を目指して頑張る人も絵画を趣味に嗜む人も多くいます。

 きっと銀塩の写真も同じでしょう。肖像画や日常の記録と言ったマスを狙えるマーケットはすでにデジタル化が完了しました。でもフィルムでないと出来ない事,フィルムの写真を楽しむ人は,必ず存在し続けるでしょう。

 大きな需要に応えるための製造設備は,現在の縮小した市場では維持できないかもしれません。しかし,世界中にまだまだ小さなフィルムのメーカーは存在します。だから,私はあまり悲観的に考えていません。

 ただ,富士フイルムの撤退はもう少し後で,まだその良質なフィルムは安価に手に入るものと思っていました。そのための作戦として,消費期限を延ばすということも考えてくると思ったのです。

 ご存じのように,フィルムも印画紙も化学製品であり,製造時点から時間の経過と共に劣化の進む「生もの」です。たくさん作っても期限が切れてしまえばゴミになります。

 今の生産規模ならたくさん作られることは避けられず,一方で売れる数は減っているので,かなりの数が廃棄されてしまう現状があります。ならば10倍の価格に出来るのかといえばそれも出来ない,と言う八方塞がりが製造中止の理由であるなら,期限を2倍3倍に延ばし,販売店を絞って市中の在庫を減らすという作戦は,なかなかいい方法だと思ったのです。

 口では簡単に言いますが,期限を延ばすのは昔から検討されていたことでしょうし,難しい事だったのだと思います。

 技術力も高く,かつ商売上手な富士フイルムなら,技術的な工夫と他の事業で稼いだお金で銀塩写真を支えてくれるものと思っていただけに,あっけないもんだなあと思います。

 2006年に富士フイルムは銀塩の生産継続を発表した際に,「写真文化を守り育てることが使命」と宣言しています。文化を語っておきながらわずか12年でやめます,というのはちょっとずるいというのが,おそらくこのモヤモヤの原因でしょう。

 一方,公式リリースには出てきていませんが,実は現像剤などのケミカル用品は,まだ当分製造が続くという話です。富士フイルムのケミカル用品は安価で性能が良く,どこでも手に入るという素晴らしいもので,私も随分お世話になりました。

 いずれ自然になくなっていくのだろうと思いますが,それでも「やめます」とこの機会に宣言しなかったことに,私は安心しましたし,富士フイルムの良心に感謝したいと思いました。

 こういう話をすると,自分との関わりを書くものなんでしょうが,実は私は白黒のフィルムはコダックのユーザーだったので,フジのネオパンはほとんど使った事がありません。ネオパンはあまりに凡庸で,わざわざこれを使う理由がなかったということと,中高生にありがちな話ですがコダックの方が格好いいと勘違いしていたからです。

 印画紙もフジではなく,月光(私の時はGEKKO)を好んで使っていました,

 とはいえ,1980年代から90年代は日本の工業製品が圧倒的な性能と持った時代です。カラーフィルムはどう転んでもコダックよりフジの方が性能が良く,反骨精神あふれる当時の私をもってしても,フジのカラーネガを選ばざるを得なかったのです。

 コダックはコダクロームを持っていて,フジは結局外式のリバーサルには参入しなかったですから,コダックが選ばれる理由にはコダクロームにありました。しかしそのコダクロームは戦前の生まれであり,新しい製品や技術で選ばれているわけではありませんでした。

 こうなると,次はカラーフィルムがいつまで残るのか,心配になります。カラーネガフィルムについていえば,フィルム単体の話ではなく,現像とプリントを安価に短時間に,しかも失敗なく行う仕組みがインフラとして維持されています。

 しかしそれも,需要の減少によって20年前のようにはいかなくなっています。

 現像液などの薬品は保存が利かず,次々と現像やプリントが行われないと低コストを維持できません。だから廃業する写真屋さんが相次いだのです。

 まず最初に,こうした当たり前だったインフラが崩壊し,気が付いたら現像とプリントに2週間かかると言われるようになるでしょう。価格も高騰してしまうでしょうし,品質も安定しないかも知れません。

 その後,フィルムと印画紙,薬品の製造がなくなるでしょう。

 それがいつになるのか,私も少し気にしておきたいと思います。

 お,ヨドバシで注文した「FUJICOLOR SUPERIA PREMIUM 400」の3本パックが届いたようですよ。CLEとSuperAに詰め込んで,1枚1枚大事に撮影してみましょう。

 

 

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