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速さは力

 なにやら,事業仕分けとやらが,毎日盛況のようです。

 ここ最近,毎晩のニュースを見ていても,この話が取り上げられない日はありません。

 確かに,無駄な予算にズブズブだった役人達が,上から目線の仕分け人の前で一刀両断にされる姿がテレビで放送されているのは実にわかりやすく,高圧的な突っ込みにあたふたしてファイルをめくる役人の姿は,政権が変わったことを強く印象づける「演出」としても,強烈な効果があります。

 まるで,大岡裁きとでもいうんでしょうか,いつの時代もお上や役人というのは民衆から遠いところにいて,なにかあるとやり玉にあがるものです。大岡裁きだって,厳格な法の適用という原則に反して弾力的運用を行ったことは,本当はあまりよいことではないはずですが,庶民感覚を重視した彼の判断が,多くの脚色の末,後世に名を残すほど下々の者に強いインパクトを与えたということだけは事実でしょう。

 今回の仕分け作業を非公開で行ったりすると,我々大衆は「やはり政治は密室で」と思う訳で,民主党は半ばあきらめかけていた庶民の政治への参加意識を復活させた点で,確かに素晴らしいものがあると思います。

 ただ,事業仕分けの内容を見ていると,ちょっとどうかなと思うものも散見します

 例えば,次世代スーパーコンピュータの開発予算です。廃止に近い縮減となったことが先日報道されています。どうも私はしっくり来ないのです。

 金額が減ったことが問題なのではありません。金額を減らしたその理由が,あまりに幼稚だと思うからです。

 いわく,

  世界一を目指す理由は何か

  2位ではだめなのか。一時的にトップを取る意味はどれくらいあるか

  一番だから良いわけではない

  ハードで世界一になればソフトにも波及というが分野で違う

 ということで,廃止に近いところまできたというのを耳にして,私はまあなんと幼稚な議論であることかと,ちょっと情けなくなりました。

 おそらく,スーパーコンピュータがどういうものか,スーパーコンピュータがなにを計算しているのか,スーパーコンピュータがある場合とない場合の違いがどんな所に出るのか,というあたりが,リアルに見えていないんだろうなあと思います。

 居並ぶ先生方がどの分野のご専門で,どういうバックボーンをお持ちなのか,私にはわかりません。わかりませんから批判は避けたいと思いますが,もしスーパーコンピュータが庶民レベルで「そりゃ絶対必要だ」と言われるような国は,それはそれでかなりやばい国ではないでしょうか。

 スーパーコンピュータは道具に過ぎず,裏方です。しかもお金も人も時間もかかります。結果は一般の人には体験しづらく,あった場合となかった場合の効能の差が,使っている人以外には想像も出来ない分野で使われています。

 繰り返しますが,スーパーコンピュータは道具です。本当に欲しいのは,強力な計算力です。そのためのお金であることを,なぜ分かってもらえないのかなあと思う訳です。

 だから,

  世界一を目指す理由は何か
    -> そんな理由はありません。欲しいのは世界一ではなく,計算力です。

  2位ではだめなのか。一時的にトップを取る意味はどれくらいあるか
    -> 2位でも3位でも全然構いません。自分達が成し遂げたい
      目的のために必要な計算力があれば順位は無関係です。

  一番だから良いわけではない
    -> その通りです。しかし自分達の欲しい計算力は
      結果として世界最高水準になります。

  ハードで世界一になればソフトにも波及というが分野で違う
    -> 当たり前です。世界一などどうでもよくて,とにかく
      今後も継続的に世界最高水準の計算力が欲しいのです。
      そのために,この事業を中断してはいけません。

 と,私なら反論するのですが・・・

 例えば,ある動画のエンコードに90分かかるとしましょう。10倍高速なマシンを導入すると,わずか9分で同じ結果が得られます。残りの81分は他の作業にまわせます。これはすごいことです。時間をお金で買う,と言うことそのものです。

 この事実があるからこそ,我々はお金と時間を天秤にかけ,どこまでならお金を出せるか,検討する事が出来るようになります。90分待てる人は安いコンピュータで待てばいいし,短縮した時間で稼いだお金が,かけた費用を超えるなら,それは迷わず10倍高速なコンピュータをすぐに買うべきです。とても単純な話です。

 以前は,いくらお金を用意しても5倍までしか買うことが出来なかったものが,今は10倍のものが買えるようになったとすると,技術的な限界ではなく,お金をいくら出せるかという経済的な限界に支配されるようになりますが,まさにこれが今起きていることだと言えます。

 もし,計算能力の需要がないなら,計算能力の供給に余力があっても(つまり技術的にその計算能力の供給が可能な状態にあったとしても),誰もその計算能力を供給しようとしないでしょう。

 しかし,これだけ頻繁に世界一が入れ替わり,ランキングに登場する顔ぶれも毎度コロコロ変わる状況は,計算能力の需要が旺盛である証拠であり,その需要に応える形で供給側がどんどん計算能力を高めるからです。

 先進国である日本だって例外ではなく,膨大な計算能力が必要とされています。世界一のスーパーコンピュータが必要かどうかを理由にするのではなく,それだけの計算能力がなぜ必要で,どこに使われ,どういう成果が期待できるのかということにこそ,議論を集中させねばならないのではないでしょうか。

 いや,私が知らないだけで,すでにやってるのかも知れません。そういう地味なところはカットして放送しているのかも知れないです。

 でも,そうだとしても,世界一とか,そんな無駄な話をする必要は全くありません。世界一が目的です,なんていうから,「それがどうした」っていわれちゃうのです。

 「ただ高速な計算機が欲しかったから」という理由で,ENIACは作られたでしょうか。弾道計算に使うから,という理由で予算が付いたわけです。

 Cray1はどうでしょうか。クレイ本人の動機は技術者として「世界最高の演算スピードを実現する」でしたが,同時に強力な計算能力が必要な人々に提供され,きちんとビジネスとして成立していました。つまり理由は需要があったから,です。

 で,次世代スーパーコンピュータです。理由は何ですか?で,世界一です,なんて,今時脳みそが筋肉で出来ているやつしか言いませんよ。こういうことに使います,だからこれだけお金がかかっても十分価値があるのです,と言わないと,お金なんて出てくるはずがないじゃないですか。小学生が親から小遣いをせびるときだって,同じでしょう。

 冒頭,「おそらく,スーパーコンピュータがどういうものか,スーパーコンピュータがなにを計算しているのか,スーパーコンピュータがあった場合とない場合の違いがどんな所に出るのか,というあたりが,リアルに見えていないんだろうなあと思います。」と書きましたが,これは仕分け人に対してというより,役人に対して強く言いたいことなのです。

 世界一などどうでもいい,しかし今必要な計算需要は結果として世界最高レベルである,今後継続してこの計算需要を満たすためには継続的な開発が必要で,中断すると海外にその計算能力を求めねばならなくなる,計算能力の低下と海外への依存は国家として大問題だが,その問題意識はあるのか?

 なぜ,こういえないのかなあと,本当に不思議です。

 幸いなことに,現時点でも富士通だけはこのプロジェクトに残ってくれています。しかも富士通は世界最高性能に匹敵するマイクロプロセッサの開発に成功しています。こうした基礎的な技術を持っていることで,荒唐無稽な夢物語に予算を求めることもなく,現実的な数字で予算の獲得が可能だったはずです。

 悪い癖で,神戸に次世代スーパーコンピュータ用の建物の建設が始まっているそうです。またしても役人は箱物から,なんですね。そこが重要なんじゃないでしょう。

 宇宙開発しかり,Spring8しかり,どんなことでもそうです。民主党の言う費用対効果というのは,こういうことでしょう。長い目で見ないといけないとか,短時間の費用対効果を求められても困るとか,そういうのは科学技術の性質を悪用した最悪の言い訳です。科学技術に無知な人ほど,こういう言い訳を考えるものです。元宇宙飛行士やノーベル賞受賞者の落胆が世の中を変えるわけではないのです。

 税金は無駄に使って欲しくありません。それは我々国民から集めたみんなのお金であり,有意義に使われることを望むからです。無駄に使うのではなく,有意義に使ってほしいから,私は科学技術に対する投資をやめて欲しくはありません。次世代スーパーコンピュータの役割をもう一度定義し直し,その計算能力は時間を買うことに繋がるという,投資を国から受ける形で,再検討されるといいなと思います。その結果,やっぱり必要ないな,という事になれば,それはやっぱり無駄だったということになるわけですし。

 まあ,こういう建前ででも,スーパーコンピュータに熱意をもつ若いエンジニアが育つ土壌できれば,いいですね。所詮人間は競争せずにはいられません。コンピュータが時間を買う道具である以上,同じ金額でどれだけの時間を買えるのかが常に競われるもので,それはつまり,あくなき計算能力の向上を意味します。

 計算能力が向上するという事は,同じ計算能力なら安く買えるということを意味しています。コンピュータの計算能力の向上があったから,我々の身の回りにコンピュータがあふれているのです。

 少しでも高速な計算機を・・・クレイが唯一目的にしたこのロマンを,次の世代にも引き継いで欲しいなと思います。NECが90年代に使っていたコピーを引用します。

 「速さは力」

映画と技術と体験

 PS3導入後,映画をBlu-rayで見る事が出来るようになり,私の映画体験も少しずつ変わって来たような気がします。

 オーディオにおけるLPレコードからCDへの移行や,カセットテープからMDを経てiPodに至る過程も進化だったと思いますが,映像,とりわけ映画というものを収める器としての物理メディアの変遷には,消費者のマインドを大きく変化させるものがあったなあとつくづく思います。

 それまで,能動的に足を運んでしか見る事が出来ず,かつ記憶の中に生きるもの,だった映画は,テレビの登場で自宅にいながら受動的に見る事が可能になりました。

 1980年代のVHSの普及により,1本15000円と非常に高価ではありましたが,欲しい映画をきちんと手元に残す事が許されるようになり,いつでも好きなときに見る事が出来るという全く新しい世界が実現しました。ただこの頃は,レンタルビデオが主流ですから,その点では映画を所有することは一部のマニアの趣味であったわけです。

 DVDの登場は,映画がレンタルされるものから購入され所有されるものへの変化を遂げる,本当に大きなきっかけでした。欲しい映画をいつでも見ることが出来るという夢が一部のマニアから解放されたことは,技術的視点から見た時の高密度光ディスクとMPEG2というディジタル圧縮技術の登場以上のインパクトがあったと思います。

 DVDを作って推進した人々も,映画のディスクが1枚1000円とか2000円になることまで想像できなかったと思うのです。ディスクの製造コストが下がることは分かっていても,それが下がれば下がるほどコンテンツそのものの価格が売価を支配するようになりますから,最終的な売価がそれほど下がるとは考えなかったと思うのです。

 しかし,今や音楽CDより安いDVDはごく普通です。こうして購入されることが前提となった映画は,全く新しい市場を創造され,映画制作の資金集めの手法さえも変えられてしまったわけです。

 こうした,映画と映画に対する対価との関係が大きく変化した次のステージとしてBlu-rayが登場するのですが,技術的にはDVDの延長上にありながらも,高画質化・高音質化によって与えられた仕事はDVDの時とはまた違って,制作者サイドの意図をDVDとは比べものにならないほど細かくかつ大量にユーザーに伝える「メッセンジャー」としての役割が大きくなったように感じます。
 
 一般に映像は扱うデータ量が大きいので,どうしても音楽よりも一歩後ろを進むことになりがちなのですが,技術が体験を変革していく可能性を残した最後の市場ではないかと,若干複雑な気持ちもあります。

 このように映画ソフトをめぐるユーザー体験は,まさに不連続です。テレビ放送が映画を一人でも楽しめるものに変え,VHSが映画をいつでも見られるものへ変化させ,DVDが借りるものから買うものへの革命を行い,BDが映像から意図を感じる本来の映画のあるべき姿に生まれ変わらせた,という具合に,ただ単に綺麗になった,便利になった,安くなったを越えたところで,我々の体験は不連続に劇的に変わりました。

 もちろん,BD自身はただの入れ物に過ぎませんから,それに見合うだけの再生環境がなければせっかく入っている制作者の意図をきちんと引き出すことは出来ません。ただ,昨今のディスプレイ技術は非常に高度なものがあり,買ってきてすぐに高画質が楽しめるように作られていると思います。マニアにはお金をかけて深掘りする楽しみが,一般の人には電源スイッチを入れるだけでそこそこ楽しめる環境が用意されているというのは,実に素晴らしいことだと思います。

 液晶のテレビも安くなりました。どんどん高画質化しています。大きな画面はBlu-rayをもっと楽しく見ることが出来ます。PS3も安くなりました。ぜひHDMIケーブルでPS3とテレビを繋ぎ,好きな映画をもう一度見直して欲しいなと思います。

やるべきこと

 このところ活動が鈍ってしまい,張りのない生活に甘んじているわけですが,D-70の修理とリモコンの修理(どちらもフレキの破損)に区切りを付けて以降,これといって仕掛かりの案件もなく,暑さも手伝ってだらけている毎日です。

 とはいえ,いろいろ頭の中では「やらねばならぬ事」が浮かんでいるわけで,まとまった時間が取れたらぜひやろうと画策しています。

(1)カセットデッキの不安

 私はA&D(というかAKAI)のGX-Z9100EVというカセットデッキを新品で買って以来,ずっと手元に置いてきました。さすがに最近は年に一度か二度かという程度の通電ですが,ピーク時には毎日のように使っていた記憶があります。その割には故障もなく,現在まで(感覚的には)初期の性能を維持できているように思われます。

 しかし購入後18年も経過すれば,さすがにおかしくなっていないわけがなく,とりあえず音がちゃんと出てくるというだけでも大したものだと自画自賛したくなります。裏を返すと,いつ壊れてもおかしくないわけで,その時の準備をしておく必要があると考えています。

 1つには,いわゆる持病と呼ばれる壊れやすい場所の把握です。GX-F91以降のカセットデッキのメカの場合,どうやら左側のピンチローラーの固着が持病らしく,これが起こるとピンチローラーとテープガイドを外さないといけないらしいのです。

 テープガイドを外してしまうと,テープパスの調整が必須となるわけで,そのためにはテストテープが必要になる・・・てなわけですが,このテストテープというのが現在宝物級の貴重品です。素人には入手不可能,しかもこれらは消耗品です。現在でも製造と販売は行われていますが,国内では実質1社だけがやっているような感じです。需要がなくなれば作られなくなるのは明白ですから,あと何年テストテープが市場に出されるのかと,不安になります。

 いずれにせよ,素人には販売されていませんので,オークションや海外からの輸入を行って手に入れるしかないようですが,もし信頼できるよいカセットデッキがあるなら,これで信号を録音してテストテープとしてもなんとかなります。

 幸いなことに,現在はPCをオーディオ用のオシレータとして使い,十分使い物になる信号を用意できるようになったので,これを録音すればなかなかよさそうです。

 問題は信頼できるカセットデッキですが,結局私の場合,現状を1つの基準としてテストテープを作るしかありません。ただ,仮に故障して調整を今作ったテストテープで行った場合でも,少なくとも現在と同じ水準までは戻せるということになります。これは大きいです。

 GX-Z9100EVはクオーツロックによるキャプスタンモータの回転制御を行っているので,ベルトの劣化がない限りテープ速度は狂いません。ヘッドの摩耗や劣化は基本的にフェライト製であるスーパーGXヘッドですから心配なし。バイアスが狂ってしまうことも問題ですが,そこは3ヘッドでバイアス調整機能があるので,これも問題なし。

 アジマスやヘッドの位置,テープパスはさすがに初期位置のままというわけにはいかないでしょうが,10年前に録音したカセットテープの音が,CDと聞き比べて大きく変化していないということなら,十分実用レベルにあると考えて良いでしょう。

 テストテープにふさわしい新品のテープを選ぶ作業が悩ましいですが,サービスマニュアルを見て考えたところ,とりあえずヘッドの高さ調整に1kHz,アジマスとイコライザの調整に10kHz,再生出力レベル調整に315Hzを用意し,ついでにテープ速度調整の3150Hzを作っておこうと思います。

 2ヘッド機だと録音レベルと再生レベルの一致が面倒な訳ですが,3ヘッドの場合には出力レベルが狙ったところに来るように,録音レベルを合わせれば良いわけですから,現在のカセットデッキのコンディションを「記録」するには,ぴったりのシステムだと思います。

 高温多湿の季節のまっただ中で,春頃にやっておけば良かったと反省しきりですが,近いうちにとにかく現状におけるテストテープを4本作ろうと思います。


(2)ゴムベルトの不安

 カセットデッキ繋がりでもあるのですが,なにせディスクとかテープとか,回転ものというのはゴムベルトの世話になるものです。このゴムベルトというやつ,経年変化で伸びるは溶けるわで,必ず劣化するものです。

 個人的に思うのは,プラスチックとゴムによって作られた部品が多く使われた製品は,安くて初期性能も良いのですが,5年もすれば必ず壊れます。金属部品の多かった昔の製品は,10年くらいは壊れずにいたし,壊れてもなんとか修理が出来たものです。こうした有機物に頼る製品というのは,必ず壊れる運命にあります。

 私が長く使っている旧式のDVDレコーダもそうですが,ドライブのトレイが出てこなくなり,分解するとやはりゴムベルトが伸びてスリップしていました。その時は偶然交換出来るゴムベルトが手元にあったので修理が出来たわけですが,太さ,長さが一致するベルトが手元にある可能性など,ほとんどありません。

 しかし,真っ先にダメになるのはゴムベルトです。

 手軽に交換が出来れば別によいのですが,実のところ入手が案外難しいのです。秋葉原で数件取り扱いのある店がありますが,ここもいつもあるというわけではなく,欲しいサイズが必ずあるとは限りません。

 それに,交換してもまた数年でダメになるわけですから,なんだか馬鹿馬鹿しくなってきます。

 根本的には,もう回転ものは買わない,と言うことになるのですが,今あるものでお気に入りのものは,なんとか維持しなければなりませんが,生命線であるゴムベルトの確保に,数年前から決定打と思われる素材が手に入るようになりました。

 バンドー化学(そう,かの有名なBANDOです)の,バンコードというものです。

 私は日本橋のお店で買いましたが,問い合わせが多いのか,今は東急ハンズでも買えるようです。

 これは熱可塑性ポリウレタンで出来たオレンジ色の紐で,直径は一番細い品種が1.5mmです。

 結局の所,ゴムベルトというのは,ベルトとして機能するために輪っかになっていないといけないわけですが,そのサイズが様々なので,入手も難しい訳です。代用が利きませんからね。

 なら,必要な大きさのベルトを作れるようにすればいい,という話になるわけで,この夢のような作戦を実現するのが,バンコードなのです。

 バンコードを必要な長さに切り,両端をハンダゴテなどで溶かします。素早く両端をくっつけ,1分ほど固定します。

 冷えるとちゃんとくっついているのですが,まだ完全にくっついているわけではないので,焦らず一晩放置すると,引っ張っても簡単には取れないくらいの強度になります。

 溶着部の盛り上がったところを削ってなめらかにすると完成,ということですが,実は私は数年前に購入し,一度もうまくいったことがありません。

 基本的に鈍くさい私は,失敗ばかりです。

 熱し方が下手なのかうまくくっつかない,くっついてもまっすぐ繋がっていない,今度こそ出来たと思ったら少しねじれていた,もう一度頑張ってみたらぽろっと溶着部が外れてしまった,今度こそ完璧だ!と喜んでいたらちょっとサイズが小さかった・・・等々,なかなかうまくいかないのです。

 そんなこんなであきらめて,とにかく機会があるごとに様々な太さや大きさのゴムベルトを集めるようにしてここまで乗り切ってきましたが,それもさすがに不安になってきました。これからどんどんベルトが劣化してくる機材が列をなしています。

 目下の問題は,Walkmanです。テープ式のWalkmanなどもう使う事はありませんが,やはり完動品として手元に置いておきたいものです。WM-EX60という当時もWalkmanのなkでは廉価版だったモデルですが,これがもう惨めなくらいゴムベルトが伸びていて,どうにもならないまま放置してあるのです。

 交換したいのですが,非常に細いゴムなので,簡単に手に入る1.0mm程度のベルトではちょっと無理があるようです。

 0.8mm位のベルトを自作出来ればいいんですが,いろいろなアイデアを考え中です。糸ドライブなんてのはどうですかね,高トルクにはスリップして耐えられないだろうし,そもそも糸をどうやって結ぶのか・・・いやー,難しいものです。

 0.8mmの厚さのゴムシートを切り抜いて作るというのもいいアイデアだと思ったのですが,残念な事に内周と外周の間が1.0mm以下に出来るほど,私は器用ではありません・・・

 アルミの板にコンパスでV字の溝を彫り込み,ここにゴムを流し込んで作ってみると良いかもしれません。問題はどんなゴムを使うか,ですね。

 どっちにしても,一筋縄ではいきそうにありません。


(3)フィルム現像の不安

 カメラやレンズの修理からちょっと遠ざかっていたことと,すっかり引きこもりになってしまったことで,フィルムの消費量が激減したため,ようやく半年以上経過した現在,10本ほどの未現像フィルムがたまりました。

 カラー現像キットは薬品を作ると2週間ほどで使い切らないといけないわけで,出来るだけ現像液の寿命に達するだけのフィルムをためないと,もったいないです。

 そうこうしているうちに半年近くも経過してしまえば,撮影済みフィルムが劣化してしまいますよね,困ったものです。しかも,修理や調整の最終テストに使ったフィルムが大半なわけで,現在に至るまでそれらの結果をみていないというのは,非常に問題があると自分でも思います。

 特に,先日のオリンパスPENです。どれくらい映っているのかまったく分からないまま,現在防湿庫に鎮座しているわけですから,もし現像後の結果が芳しくないならどうしようかと,不安になるものです。

 現像は時間がかかる作業です。カラー現像はそれでも短時間で出来るのですが,どんなに効率的に進めても,1時間に3本が限度です。

 ただ,タンクから引き上げ,リールからほどいて,おもりのついたクリップで吊した時に見える「コマ」を見ると,いつでも感激します。やっぱり現像直後に「おお」と感動するのは,我々からは姿を見ることの出来ない,光の届かない世界でずっと生きてきたフィルムが,現像という魔法によって明るい日の光を浴びる世界にその姿を見せるという,まさにその瞬間に立ち会えるからではないかと,思ったりします。

 そう考えると,自動現像機のなんとつまらないことよ。写真から神秘性を奪った張本人かもしれませんが,その自動現像機も絶滅の危機に瀕しているので,もう批判はよしましょう。

 オリンパスPENがどれくらいの状態であるのか,早く知りたいのは山々ですが,これもやっぱり,取りかかり始めるのに勇気が必要なだけに,どうしたものかと思っているわけです。


(4)音楽CDの不安

 若い頃,CDは20年は大丈夫と言われ,まさに永久の命と思えたものですが,あれからすでに20年が経過し,どんなものにも例外なく死はやってくると知ると,なんとかせねばならんと考えるようになります。

 一応,音楽業界としては,我々が支払った対価は音楽そのものではなく,音楽を入れた器に対する対価,と考えているそうで,つまり器にひびが入り,中身がこぼれそうになるから,新しい器に入れ替えよう,と言うごく普通の考えが通らないらしく,私はしっくりきません。

 一応,個人でのバックアップというのは認められているという考えもあるので,それに従い自らの所有物を,可能なうちに守っておこうと考えています。

 我々が知った事は,結局器はいつか壊れてしまう,しかし中身は永遠であるということです。

 従って,その時々の器に,中身を移し替えて維持することは,中身を所有する人間の義務とも言えるかもしれません。

 CDをCD-Rにコピーするのではなく,HDDにデータとして記録しておくこと,もっというと器にはもはや価値はない,というお話です。

 考えてみて欲しいのですが,CDでもレコードでも,「何枚」という単位で数えますよね。ビートルズのCDを3枚持っている,という言い方はごく普通です。

 しかし,これはCDという器にフォーカスした視点であり,その中身を的確に表現しているわけではありません。慣例として,アルバムの単位を「枚」といっているだけです。

 これをHDDにいれてしまうと,ビートルズのアルバムを3タイトル持っている,になるわけで,これこそとっても我々にとっても,またビートルズにとっても,正しい表現であると思えてきませんか。

 我々は工業製品としてのCDではなく,芸術作品としての音楽にお金を支払っているからこそ,同じ規格のCDであっても売れるものと売れないものが出てくるわけで,その対価はCDに対してのものであるという理屈に,どうもしっくり来ないのはこういう理由から,なのです。

 まあそんな理屈はともかく,私のBlizzard of Oz(輸入盤ですでにアルミの蒸着面にポツポツと穴が空いている)が読み取り不能になる前に,手を打たねばなりません。HDDは1GB位を買って来ると間に合います。しかしエンコードはどの形式で行うべきか,管理はどのソフトで行うべきか,悩むべき要素がまだまだ残っています。


(5)歪率計の心配

 歪率計が欲しいと思って数年が経ちました。オーディオ専用の測定器だけに,新製品が出ることも少なく,また高価ですし,ついでにいうとプロの現場でも主力測定器として扱われることが減りました。その証拠に,レンタル落ちの歪率計が出にくくなっているように思いませんか?

 買うと高価な割に出番が少なく,しかし他に代用が利かない測定器が,ずばり歪率計です。

 そこで,この際だから作ってしまうか,と考えたのが3年ほど前の話です。作るといっても歪率計を自分で設計するのはちょっと自信がないですから,雑誌の製作記事を探して見ますと,1987年のトランジスタ技術になかなか適当なものが掲載されているようです。

 0.001%が測定出来るようなものはさすがに自作出来ませんが,そもそもそういう測定器は個人で買うのも難しいくらい高価ですし,校正も必要です。まあ0.05%くらいが測定出来れば,素人の真空管アンプ製作には十分です。

 ということで,部品はすでに集めてあるので,作るだけなのですが,これがなかなか取りかかれません。作業にかかると2,3日はこればっかりになると思うのですが,それはそれで楽しそうな反面,相応の覚悟が必要です。


(6)スキャンの心配

 実家から1986年のトランジスタ技術を持ち帰ってあります。目的はもちろん,スキャンのためです。

 もともと,1980年代以前の雑誌はスキャンしないことにしていました。貴重だからと言う意味でですが,トラ技についてはすでに広告が失われていますし,内容も今読んでも面白いものが含まれているので,一応1986年以降をスキャンし廃棄することにしました。

 12冊に加えて他の本も数冊持ち帰ってありますが,これ全部をスキャンすると,実は半日以上かかります。スキャンそのものもより,スキャン後の確認作業に時間と忍耐が必要なのです。

 しかし,持ち帰っている以上ほっとくわけにはいきません。まずこれから処理していくしかないかなあと思っています。


(5)他の心配ごと

 本がたまっています。10巻セットの文庫,2巻セットのビジネス書,技術書が数冊に,毎月出る雑誌に毎週出る「鉄道データファイル」と,こなすべき本が多くて困ったものです。特に鉄道データファイルはいよいよグランドフィナーレに向かっており,残り20号を切りました。

 そのせいでしょうか,途中で随分と駄文を展開したツケがたまっており,1号あたりのページ数が増えています。また,1つ1つの説明も薄くなっており,正直にいって面白くありません。でも,読まないでおくとたまってしまうことはわかりきっているので,とりあえず読むようにするという,この苦しさです。

 そんなに苦しいならやめればよい,それもその通りです。しかし,あと少しで300号をコンプリートするという,その達成感のために,私は頑張っているのです。300号か・・・1冊560円として・・・


 そんなわけで,いろいろ考えているうちが楽しいのかもしれません。なにから片付けるのが幸せでしょうか。

電子楽器の進化の渦中にいて

 友人がCDジャーナルを買ったので一緒に見ていたのですが,特集の電子音楽の世界,の突っ込みの浅さには,少々がっかりしました。

 電子楽器ではなく電子音楽ですから,範囲の広さが半端ではないし,技術志向と言うよりは芸術を軸足に置いた立ち位置ならやむを得ない所があるとは思いますが,電子音楽を支える電子楽器が,従来の楽器達とは違う育ち方をしたことに注目しないことは,少々物足りなさを感じずにはいられません。

 ここから先は電子音楽と言うより,電子楽器に向けた話をします。

 我々は,今その時代に生きているので余り意識することもないのですが,思うに我々は,音楽と楽器において実にダイナミックな時代にいるのではないかと思うのです。

 楽器は工業製品である以上,設計や生産をする技術者が必ずいます。彼らはその昔職人と呼ばれていたかも知れませんが,その役割は同じです。

 一方で楽器は,それを使って音楽という作品を作る芸術家が存在します。作曲家,演奏家と呼ばれる人々です。

 いずれの職業も高度に訓練された特殊技能を必要とする職業であり,少ない例を除き,基本的に分業がなされます。ピアニストはピアノを作る事はしないのです。

 楽器の開発は,大なり小なり過去の楽器の問題点を解決するという目的があります。異論はあるかも知れませんが,全くの新規で誕生したものは少なく,何らかの起源を持つと考えています。

 そうして時の技術者が楽器の改良を重ね,改良された楽器を演奏家なり作曲家たちが使いこなし,それがさらに楽器を改良に導く,と言うのが楽器の発展の歴史です。どちらか一方だけが頑張っても残りません。楽器と音楽は,両者ががっぷり組み合って初めて,残るものです。

 電子楽器を見てみて下さい。電子楽器の代表であるシンセサイザーが登場して30年ちょっとが経過していますが,この30年,まさにそうした組み合った状態が,現在においても続いていることがおわかりになるでしょう。電子回路によって発生した音は,演奏者や作曲者を鼓舞し,彼らのやむ事なき要求が技術者を挑発することを繰り返しています。

 こんな事は,そうそう滅多にあるものではありません。確かにエレキギターは偉大な発明であり,アンプとエフェクターも含めたシステムで考えると,音楽シーンを一変させてきたことは確かです。しかし,根本的な音楽のあり方をも変えてしまった影響力を考えると,電子楽器の比ではありません。もっというなら,電気ギターはエフェクターに入る時点でディジタル信号に変換され,以後電子楽器と同じ仕組みで音が出ているケースも多いのです。

 例えばピアノを考えてみると,いわゆるチェンバロの音量が小さく,強弱も付かなかったことで表現力に限界があったものを,コンサートホールでも十分響くだけの音量と,強弱を自由に使い分けることが出来,しかもたった一人でオーケストラに匹敵するだけの音域をを操ることの出来る楽器として「改良」されることで,演奏者や作曲家の魂に火を着け,ここまで発展し,今やなくてはならない楽器として不動の地位を誇っています。

 18世紀に誕生した時や,いわゆるモダンピアノへと進化した19世紀にかけての劇的に変化したその時の,感動と興奮はいかほどのものであったか。そしてこうしたダイナミックな時代は,そんなに何度もやってこないのです。

 電子楽器の世界は,今まさにそうした,人類にとって希有なる感動と興奮の時代にいるのではないかと,私は思っています。

 ところが,従来の楽器の進化と,電子楽器の進化の間には,決定的に異なる事があります。それは,発展の原動力が,多の産業と深い関連を持っていることです。

 シンセサイザーは,トランジスタという半導体素子の発明と発展がなければあり得なかったでしょうし,概念的にもアナログコンピュータの考え方がなければ誕生しなかったでしょう。デジタルシンセサイザーへの過程では,LSI技術とデジタル信号処理技術がなければならなかったでしょうし,現在主流のサンプリング方式はメモリーの劇的な大容量化と低価格化がなければなりませんでした。

 特にデジタルシンセサイザー以降は,膨大な演算能力と膨大な記憶容量によって,その進化が加速されてきたという事実があります。気をつけねばならないのは,その両方が,楽器のために生まれた技術ではないということです。むしろ,他の産業の要求によって発展し,その応用として電子楽器に転用されたという事実を無視できません。

 もちろん,デジタル技術によって,あらゆる情報が数値化され,同じベースで処理できるようになり,それが楽器の世界でも例外なく行われたと見る向きもあるでしょうが,電子楽器専用のCPUや電子楽器専用のDSP,電子楽器専用のメモリが必要だったとしたら,ここまでの発展はなかったでしょう。

 こうして,電子楽器は他の産業との強い関連性を持つ事で,過去に例を見ないスピードで進化してきました。楽器製造が単独の産業であった時代とは,ここが根本的に異なる点です。

 ところで,ピアノについても,モダンピアノへの発展には,強いテンションでも切れることのない強い弦の開発と,その強いテンションをしっかり支える金属製のフレームの開発がなければならず,いずれも他の産業によって生まれた新しい素材によって実現しているわけで,その点で言えば電子楽器の発展の歴史と比べて,程度の差はあれ根本的な違いはないと考えることは可能でしょう。

 つまり,産業革命以降,工業製品の発展が楽器という芸術分野の道具についても積極的な影響をもたらすようになったと考えることが出来るわけで,機械工学や金属加工技術が最先端だった当時ならではの応用がピアノであり,電子工学やコンピュータ技術が最先端である現代ならではの応用が電子楽器であるということなのです。

 しかし,電子楽器の,他の産業への依存度は,あまりに大きなものがあります。すでにパソコンをソフトウェアでシンセサイザーにすることは日常的に行われており,ハードウェアはすでに事務用品と同じものを使うに至っています。ピアノのフレームにしても,弦にしても,その素材の源流は他の産業からの要求で生まれたものとはいえ,やはりフレームに適した鉄,弦に適した鉄として生産されているわけであり,電子楽器用の部品が他の産業で使われることを前提とした,全くの汎用品であることとは,ちょっと違っているように思います。

 私は,こうした理由で電子楽器の世界を大変に躍動的な分野と見ています。電子楽器が現在進行形で音楽という芸術世界を大きく変化させていることと,楽器の歴史の中で過去にないほど他の産業との結びつきが強い中で発展していることを,極めて特徴的であると考えているからです。

 こうしてみると,CDジャーナルの特集の突っ込みが,あまりに物足りないものであることが分かって頂けるのではないかと思います。もちろん技術論に偏ることはせず,かといって文化的側面ばかりを手厚くするわけでもなく,100年単位でしか訪れることのない楽器と音楽双方のせめぎ合いの現場を,もう少し客観的にまとめて欲しかったと思います。

Palm雑感

 palmTXを入手し,約1ヶ月が経過しました。最近はすっかり動作も安定し,安心して各種データの管理を任せることが出来るようになりました。

 それまで使っていたクリエのTH55は完全に引退し,現在のいつでも電源が入る状態から,保存の状態に移行するのも時間の問題でしょう。

 いろいろ手を焼いたpalmTXですが,動き出してしまえばあっけないもので,ここから先は壊れやすいとされるタッチパネルをはじめとする故障が起きないかどうか,持ち歩くものなので破損しないかどうか,経年変化による傷みや電池の劣化がないかなど,そういう心配事に切り替わっています。

 宿題の1つであった革製のキャリングケースはちょっと高価だったのですが薄型の手作り品を入手しましたし,あとは何かの機会に予備のスタイラスとHotSyncケーブルだけは確保しておこうと思います。

 実際こうして使い始めてみると,驚くほど不満がないのがPalmのいいところです。特にpalmTXは,今時遅いとはいえ,Xscaleの312MHzですから,TH55に比べるとサクサク感がちがいます。

 ただ,やはりNVFSに起因する欠点だけは目立ってしまいます。推測でものを言いたくはないのですが,予定表への書き込みを行う場合,起動後最初の1回目だけは,数秒間入力を受け付けてくれません。おそらくデータをフラッシュメモリとやりとりしているからだと考えているのですが,これさえなければ,と思うことも多いです。

 手に入れた時のうれしさで,最初はあれもこれもと試みてはみますが,結局使わなくなってしまうもので,ゲームなどは全く遊ばなくなりました。他のユーティリティについてもほとんど起動することなく,最終的に予定表とアドレス帳,そしてメモ帳の3つだけがあれば,もうそれで私には十分なんでしょう。

 つくづく考えてみると,今から15年ほど前,日本のビジネスマンは電子手帳やザウルスをこぞって手に入れ,予定やアドレスを手帳代わりに記憶させていました。検索機能,編集機能,そして毎年毎年買い直さなくてもよいというメリットをおそらく享受したから,そこから10年ほどPDAの文化がすんなりと受け入れられたのだと思いますが,今電車の中でも全くと言っていいほどPDAを見る事はありませんし,使っているという話もほとんど耳にしません。

 はて,みんな,どうやって,あの面倒な予定やアドレスを管理しているのでしょう?

 かつてのように,紙の手帳にみんな戻ったのでしょうか?

 携帯電話で管理できるようになりましたから,それでやっているのか?

 あるいは,Outlookを使って,完全にPCで管理するようになった?

 紙の手帳は,確かに電車の中でも頻繁に見ます。紙の手帳に戻った人は多いと思いますし,年末に本屋さんの見る手帳コーナーはPDA全盛の頃よりも盛況のように思います。確かに紙はすばらしいメディアですが,私は検索,編集,そして10年近いデータが手のひらにすべて収まるというPDAのメリットを手放したくはありません。

 携帯電話も重要なツールになっていると思います。電話帳から派生したアドレス帳も,カレンダーから派生した予定表も,PCをつかって編集することが可能ですし,PCのデータと同期させることも可能です。

 しかし,いかんせん出先での入力や編集があまりに辛いです。スタンドアロンでも十分動くことは私にとって大事なことですが,携帯電話にはそれが欠けているように思います。

 もう1つは信頼性でしょうか。落として壊すということが特別なことではない携帯電話に,数年分のデータを入れて置こうという気にはなりません。また,携帯電話は必ず買い換えるものです。その時データをどうやって次の機種に移行させるか,これが案外頭の痛い問題です。

 Outlookを使ってPCで管理というのは,実は案外一番良い方法かも知れません。ただ,それも持ち歩き前提ですから,palmと同じようなサイズのPCが安価に手に入ったら,考えてみてもよいかも知れません。とはいえ,OutlookはExchangeサーバがないと成立しませんし,全く個人的なデータをサーバに預けるにはちょっと抵抗があります。同じでgoogleに預けるのも,私は気が進みません。

 ということで,人それぞれ,好き好きだと思いますが,個人的な好みの問題はさておいても,合理的に考えてPDAを使う以上に予定とアドレス,ちょっとしたメモをうまく管理する方法が見あたらないと思うのです。みんな,私の知らない良い方法を知っているんじゃないかと不安になってきました。

 少し気になって,シャープとカシオの電子手帳の現行品を調べて見たのですが,残念ながらゼロです。電子辞書がかつてのページを占領しており,簡単な電子電話帳ですら見あたりませんでした。もっとも,その程度の機能なら,本当に携帯電話の1機能で済んでしまいますから,必要ないのは確かでしょうが・・・

 そう考えると,やはりスマートフォン,つまり携帯電話のデータ管理機能を大幅に拡張させたもの,こそが本命になるということでしょうか。(iPhoneはその点で全然役に立ちませんから,私は欲しいと思いません。枯れたなあ・・・)

 いやはや,つくづく「人それぞれ」な世界なんだと思い知りました。

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