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小さい会社が巨大企業に飲み込まれる時

 ここ数日で報道された技術的なニュースについて,少し感じた事を書こうと思います。

(1)パイオニアのプラズマディスプレイ事業を松下電器に統合

 パイオニアのプラズマディスプレイは,その技術力に突出した物があり,内外で高い評価を得ています。私も実物を見てみましたが,KUROの素晴らしさには,プラズマディスプレイのポテンシャルの高さを感じずにはいられません。

 私は現在主流の液晶テレビにはさっぱり魅力を感じず,特に欲しいとも思っていないのですが,大画面テレビを買うときになったら,できればプラズマディスプレイを買いたいなあと思っていました。

 松下電器の一人勝ちを見ていると,松下電器のテレビ屋としての意地を感じるのですが,技術的にというより,そのスタンス的に,パイオニアとは全く違う考え方をしていると思います。

 松下電器くらいになると,プラズマディスプレイでもそこそこの数が見込め,数を売ることで利益を出すことが現実的に可能です。でもパイオニアにはそこまでの数を見込めません。それでパイオニアはプレミアム戦略で,数は出なくとも単価を上げる作戦で乗り切ろうとしたのですが,これは素人の私でも間違いだと気が付きます。

 所詮,大画面のディスプレイ事業というのは,設備産業なのです。

 となると,やはりお金を持っていて,数を売ることの出来る会社しか継続できません。技術力の高さと製品の性能だけで生き残れるようなものでは残念ながらないということです。

 しかし,松下電器も,おそらくパイオニアには一目置いていたはずです。例えば予備発光をなくすといった,その技術力は,松下電器もライバルとしては物足りなくとも,盟友としての尊敬はあったはずです。

 しかし,そのパイオニアは,技術力とは裏腹に,それを事業に結びつけるだけの体力を持っていません。すでに決着の着いているライバルが退場するのですから,松下電器の勝利で終わっていいはずなのに,パイオニアの技術者の転籍を基本的に全員受け入れ,パイオニアの作った技術を自社に融合させるとまでいうのですから,勝者としては破格の対応であると思います。

 それだけ,パイオニアは価値があった,もっといい言い方をするとパイオニアの作った技術が優れていたのだ,ということなんだろうと思います。つまり,松下電器の技術陣が,技術者として公平だったということでもあるのでしょう。

 とはいえ,松下電器が火の車で,転籍を受け入れるだけのゆとりがないとそういう話にもなりません。ここが重要なのですが,松下電器は昨年から大量の中途採用を行っています。数百人単位,しかも長期的な採用を行っているのですが,その大部分は技術者,中でもディスプレイ事業にはかなりのてこ入れがあるようです。

 優秀な人材を確保するために,企業はお金と時間と手間を信じられないほど投入します。松下電器も例外ではなく,それだけのリソースを投入して,果たして本当に優秀な技術者なのか,優秀であっても即戦力としてディスプレイ事業に貢献してもらえるか,さっぱりわからないわけですね。

 実績のある技術者を採用できたとしても,前の会社の技術を手土産に持ってきてくれることはありません。それは契約違反ですし,マナーとしても許されません。

 ところがです,高い技術力で知られたパイオニアから,まとまった数の現役エンジニアが,その技術を手土産に転籍してくるのです。ディスプレイ事業に貢献すること間違いなしの技術者が一度に揃うなんて,千載一遇のチャンスでもあるわけです。これはおいしすぎます。

 さらに大事なことは,パイオニアのプラズマディスプレイが,理論や特許だけではなく,実際の製品,しかも量産品として市場に導入されていることです。そのエンジニアは量産品を作っています。松下電器は量産品で食べている会社ですから,量産できる技術と人でないと,値打ちがないのです。

 ということで,結論から言うと,パイオニアの技術は間違いなく生きると思います。彼らの技術は尊敬を受けていますし,その技術を生み育てた人もそのまま残ります。松下が持つ大量生産を行う技術,製造能力と組み合わせれば,まず間違いなく進化したプラズマディスプレイが世に出てくるでしょう。

 松下電器での扱いにもよりますが,パイオニアからの転籍者のモチベーションもそれほど下がらないでしょう。むしろ,プラズマディスプレイ陣営の大同団結と考える前向きな技術者もでてくるのではないかと,私などは感じます。

 また,パネルの性能以外にも,松下電器は基礎研究能力,半導体の開発能力で世界の先端にいます。パネルの高いポテンシャルを生かし切る駆動技術,そしてテレビ屋としての画造りのノウハウが結集し,これまでにない高画質を見せてくれるはずです。

 松下電器が勝者として奢らず,パイオニアが敗者として卑屈にならず,偉い人はともかくせめて技術者は技術に公平であり続け,お互いの仕事を尊敬し合って,よりよい物を作るという最終目的に向かって突き進んで欲しいと,私は願ってやみません。


(2)アップルが買収した会社

 先日,アップルが決算を発表しましたが,例によって絶好調だったようです。いちいち数字は書きませんが,絶好調であることはもはや当たり前で,以前のような大騒ぎもないようです。

 私も決算についてはそんなに興味もないのですが,問題は同時に出た話で,P.A. Semiという半導体会社を買収したという事実です。

 P.A. Semiという会社,私は直接話をしたことはないのですが,あるルートで一度紹介を受けたことがありますし,個人的にも興味のある会社でしたので,それが今頃,しかもアップルに買収されるという形でお目にかかるとは考えてもみませんでした。

 このP.A. Semiという会社,さすがに普段は偉そうなアナリスト達もノーマークだったようで,過小評価も過大評価も様々です。そういう少ない情報からアップルの買収劇を邪推する話もあちこちで出ていて,ちょっとうんざり気味です。

 P.A. Semiは,低消費電力マイクロプロセッサの開発を目的に設立されたファブレスの半導体会社です。ISSCCでも論文を発表するなど,技術的には定評のあるベンチャーです。

 DECはその昔,世界最速のマイクロプロセッサであるAlphaをVAX11の先にある21世紀の理想郷として開発,その割り切ったデザインに起因するソフトウェア開発上の制約と引き替えに手に入れた爆速クロックで,尖ったユーザーからの支持を受けていました。

 Aplhaは結局終焉,その遺伝子は多くの設計者が移籍したAMDでK7やK8に受け継がれるのですが,DECはAlphaとは別に,低消費電力プロセッサでも強烈な製品を作っていました。

 それがStrongARMです。ARMはイギリスのプロセッサメーカーで,低消費電力で動作する組み込みプロセッサとして世界を席巻しています。自身は製造を行わず,その代わりどこで作っても同じ性能が出るように設計を行っていることで,世界中の会社がARMのライセンスを購入して,作りまくっています。

 ARMにとってその設計データは最重要資産です。製造に必要な形で提供されるデータはいわばソースリストではないため,中身についてはさっぱりわかりません。

 ただ,ARMは,世界で数社だけ,その中身を公開しています。

 ARMが技術力を認め,内部を改編することを許している,本当に特別な会社,その1つが当時のDECだったのです。

 改編した内容はARMにもフィードバックされ,次の世代のARMプロセッサにも反映されます。もちろん,多額のライセンス料も必要でしょうが,お金だけではどうにもならないものでもあります。

 DECは,当時のARMプロセッサを改良し,組み込みプロセッサとしてはにわかに信じがたい高クロックと,考えられないような低い消費電力を両立させて,これをStrongARMと名付けました。

 ARM7から改良されたStrongARMの成果は,後のARM9にも取り入れられることになります。

 しかし,DECは解体され,StrongARMのチームはライセンスごとインテルの手に渡ります。当時,インテルはStrongARMそのものより,欲しくても手に入らなかったARMのライセンスを手にれるのが目的だったと言われるほど,この当時いろいろな憶測を生みました。後にStrongARMはXScaleと呼ばれ,それなりの進化を遂げますが,破竹の勢いで急成長するBroadcomに売却,組み込みプロセッサから撤退するのかと騒がれた直後にXScaleと競合する組み込み用x86プロセッサであるATOMを発表するという流れに,妙な納得をした記憶があります。

 いずれにせよ,インテルが買収を行う段階で,自由闊達な文化を謳歌していたDECのエンジニアの多くは,インテルへの移籍を断り,AMDに行くか,別の会社を立ち上げることになります。

 その1つに,AlchemySemiconductorという会社がありました。StrongARMの設計者が結集したこの半導体会社は,ARMの高額なライセンスフィーに納得出来ず,MIPSで低消費電力の組み込みプロセッサを作り上げることにしました。

 出来上がったAu1500などの組み込みプロセッサは,評判通りの低消費電力と処理能力を両立させ,個人的には当時ARMをしのぐ性能だったと記憶しています。

 Alchemyは結局AMDに買収されてしまいますが,同じようにStrongARMを手がけたエンジニアが興した会社が,P.A. Semiなのです。

 創業者でCEOのDan DobberpuhlさんはStrongARMの設計者です。StrongARMはその設計ツールもDEC社内で作られたもので,それゆえ極限の性能をたたき出していたのですが,P.A. Semiは市販のツールで,強力で低消費電力のプロセッサを作ることにしているそうです。

 そして彼らが選んだプロセッサアーキテクチャが,POWERです。IBMがPOWERをオープンにしたこと,その性能が高いことが決め手になったということなのですが,やはりPOWERの持つプロセッサとしての素性の良さがあったのではないかと思います。

 完成したプロセッサの性能は,PowerPC970互換で,クロック2GHzのデュアルコア,周辺チップを取り込みつつ消費電力は13Wと,これを使えばPowerBookG5(しかもDualコア!)があっという間に完成してしまうんではないかと思われるようなものになっています。うーん,これは欲しいかも。

 こんな会社だから,アップルが買収したというニュースが流れると,それはちょっとした憶測合戦になるのです。インテルを裏切るのか,iPhoneに採用されるだろう,UMPCに参戦するではないか,などなど・・・

 でも,アップルは彼らのプロセッサ,つまり製品に魅力があるわけではないと思います。自前でプロセッサを作ることのメリットはないですし,まして外販まで考えたプロセッサメーカーになろうというのもばかげた話です。

 では結局何が欲しかったのかというと,やはり彼らの高い技術力です。間違いなく世界を代表するプロセッサアーキテクトがいる会社です。半導体の設計能力も最先端。こういう人材を半導体会社でないセットメーカーがまとめて手に入れるのは,やはりなかなか難しいものですが,彼らのような人たちが生み出す「カスタムLSI」を作って製品の差別化を図ることは,セットメーカーとしては非常に重要な戦略です。

 アップルはこれまで,こなれた部品を上手に使って,差別化はソフトウェア,とりわけ優れたユーザーインターフェースで行って他を圧倒してきたわけですね。カスタムLSIというハードウェアで差別化を図って優位に立ってきたのがソニーや松下などの日本のメーカーであり,特にポータブル音楽プレイヤーではソニーが熱心に取り組んできたものです。

 結果はご承知の通り,ハードウェアの負けでした。大事なことは,ハードウェアかソフトウェアか,という択一の選択の結果,ハードウェアが敗北したということです。どちらも可能なリソースがあるなら,最強であることに代わりはありません。

 アップルが,世界屈指の半導体スペシャリストを囲い込んだ事実は,アップルにソフトウェア,ユーザーインターフェースに次ぐ第3の差別化技術をもたらすこととなり,私の目には彼らの戦略転換のメッセージに聞こえるのです。

 現実的に,ポータブル音楽プレイヤーの伸びが鈍化しています。この結果NANDフラッシュの需要も減るだろうという予測が出ているくらいで,アップルもiPodでいつまで食べていけるか,不安になっていてもおかしくはないです。

 iPhoneで食べていけるのか,それとも別の物を仕込んでいるのか・・・これから仕込むのかも知れませんが,いずれにせよアップルが次の一手を打ってくることは,間違いないと思います。それも,他社の真似できないような「独自ハードウェア」をひっさげて・・・

 

そうこうしているうちに

 そうこうしているうちに,東芝から正式にHD DVDからの撤退が発表されてしまいました。

 個人的にはやっぱり残念です。規格統一の話が決裂したあたりで,技術的にというより,子供のケンカのような意地の張り合いが目に余るこの争いが,こういう形で収束するしかなかったのかどうか,私には疑問が残ります。

 ただ,東芝としては,集中と選択を進めている中で(ちなみに今の東芝の社長の西田さんは,大変スピード感のある方で,海外からの評価の高い経営者です),今後大した貢献も出来そうにないこのカテゴリを,綺麗に収束させる方法を模索していたように思いますので,この時期にこういう形が」ベストだったのではないかと,そんな風にも思います。

 東芝という会社は,光学ドライブの世界では一定の存在感のあるメーカーでしたから,BDに与することはないという今回の発表は,業界全体にとってマイナスになるような気もします。

 メンツもあるでしょうからやむを得ませんが,ライバルであるソニーはもちろん,DVDでは共に戦った松下も,内心残念であったに違いありません。

 まあ,ソニーはβで,松下もDCCで,ビクターもVHDで,それぞれ痛い目にあっています。これに懲りず,また東芝さんの元気な姿を見たいものです。

HD DVDが収束するという話で思うこと

 先週の土曜日に突然報道された盟主東芝のHD DVDの撤退騒ぎで,週明けのIT関連のニュースは持ちきりでした。

 普通,記者やライター達は,すでにつかんだ様々な情報を,こうした報道がなされることで事実上の解禁として一気に放流するものなんですが,今回そうした動きがない,つまりたくさん上がった割には内容が憶測や過去の事実のまとめにとどまっているところをみると,やはり正式な物ではなくリーク,それもある程度意図したリークであったと考えるのが自然なようです。

 そもそも,ユニバーサルやパラマウントなどのコンテンツホルダーや,早くから支持してくれていたHPやマイクロソフトよりも先に「やめます」と言う,まるで船長が真っ先に救命ボートに乗るような話が正式に出るはずはなく,発表があるとすればそれらへの根回しが完了してからになると思います。

 私も記者ではありませんし,関係者ですらないので憶測も憶測,妄想といってもいいくらいのことしか書きませんが,せっかくですので思っていたことを適当に書こうと思います。

 最初に書いておきますが,私の予測はHD DVDはROMだけで生き残って,映画などコンテンツ配布用メディアとして使われ,一方のBlu-ray Disc(以下BD)は家庭用の録再機に搭載され,結局両規格はその役割の違いで棲み分けることが自然になされる,でした。

 HD DVDにはDVDで実績のある完成度の高さがあり,その確実な記録性能と扱いの楽さは市販されるパッケージメディアとして最適です。一方BDの高密度記録と設計思想の高さは,常に高い要求を続けるコンスーマに今後数年間応え続けるものだと思いますし,単純に容量が大きいことだけ考えても,録画という用途にはありがたい話です。

 しかし,残念なことに,BDで一本化されることになってしまいました。

 1万円近い映画コンテンツを収める配布メディアとして,BDはまだまだ未成熟で信頼性に乏しいんではないか,子供はディスクを乱暴に扱うものですが,大好きなディズニーの映画が割と簡単に見ることが出来なくってしまうのはかわいそうだなとか,技術的に無理をした分,耐久性が落ちるのは最初は仕方がないところで,またそこを見極めないといけないのは面倒きわまりないなあとか,まだまだBDに対する不信感が拭えません。その点では,私はHD DVDには残って欲しかったと思う人です。

 HD DVDがBDに負けるのは,技術的には既定路線でした。

 私は技術者で,かつてはCDを回す仕事をしてたので光学ディスクに関する基礎知識は持っているつもりですが,HD DVDがDVDの技術の延長にあり,乱暴な言い方をすれば青色レーザーによる高密度化にだけに頼った無難な(裏を返すと安全で確実な)ものであったのに対し,BDはそれだけではなく,さらに難しい技術を導入して容量を増やすことに挑戦したことが見て取れます。

 これはどちらが優れているという話ではなく,基本的な思想の違いです。

 HD DVDは必要とされている要件を十分に満たしつつ,従来からの移行を基本に安く安全に作ることを目指したもの,BDは次の世代にふさわしい少し先の技術でその時必要とされている以上の大容量化を貪欲に目指したもの,という感じです。

 物理的な話だけではなく,論理的な規格についても,BDの方が確かに難しいことをやっているように見える方は多いのではないでしょうか。

 考えてみると,DVDの次を作るために青色レーザーを使うというのは何の疑問もない「前提」になっていたわけですし,その開発はレーザー屋さんの努力に頼るところが大きいわけです。

 しかし,光ディスク技術者としては,青色レーザーだけではなく,それをとことん使いこなすということにも意地を見せたい,という熱意があって,BDの「レンズの開口数を大きくする」という挑戦に結びついたんじゃないかと思うのです。

 開口数というのは,簡単に言うとどれだけ光を一点に集めることが出来るかというレンズの性能を表す数字です。CDでは0.45,DVDでは0.6,HD DVDではやや大きくなって0.65,BDでは0.85と随分大きくなっています。

 光をより小さな点に集めることが出来れば,それだけ高密度の記録ができることになります。ですから,同じ青色レーザーを使ってもHD DVDは片面15GByte,一方のBDは片面25GByteと結構な差になっているのです。

 しかし,話はそんなに簡単ではありません。開口数を0.85にすることで,BDには2つの壁が立ちはだかりました。1つはレンズの問題,1つはディスクの問題です。

 開口数0.85というレンズは,非球面レンズを複数枚使うなどの高価な光学系を使えば実現可能だったわけですが,1枚の,それもモールドという金型を使って大量生産するレンズで作るのは非常に難しく,そんなことが本当に出来るのかどうかも当初は危ぶまれたそうです。

 しかし,もともとCDだって,そしてDVDだってかつてはそう言われていたわけで,今回も関係者の努力によって克服されたのでした。これで,安価で小型の民生品に,大量に安定してレンズを供給する目処が立ったことになります。

 次にディスクの問題ですが,開口数を大きくすると,いろいろ理由があってレンズとディスクの記録面を近づけなくてはなりません。このためCDで1.2mm,DVDでは0.6mmもあった保護層が,BDではなんと0.1mmになってしまったのです。

 0.1mmの保護層を12cmの円盤に均一に作り込めるのか・・・ちょっと考えると音を上げてしまいそうな話です。HD DVDならDVDと同じく0.6mmの円盤を貼り合わせるだけですので,実績がすでにあります。

 それに0.1mmといえば,ちょっと深い傷が付くともう記録面に達してしまいます。ちょっとの傷が致命傷になってしまうディスクが本当にお茶の間に入り込めるのか,そこは私も疑問でした。

 覚えている方も多いと思いますが,BDは当初,ケースに入った状態でお目見えしました。しかし,こうしたケース(キャディといいます)に入って成功したメディアは未だかつてありません。従来通り0.6mmの保護層を持つHD DVDには,もちろんキャディなど必要ありません。

 しかし,BD陣営で気を吐いているあるディスクメーカーが,ちょっとやそっとでは傷の付かないハードコード技術を提供,これによりBDはキャディを脱ぎ捨て,いつしか裸で扱われることが当たり前になったのです。

 残念なことに,キャディに入っていた初期のBD-REは,現在の機器では扱えません。物理的には同じであっても,今のBD-REになるまでに追加された仕様があまりに多すぎ,互換性が切られてしまいました。初期のレコーダで記録したディスクが今の機器で再生できない,という現実は,HD DVDとBDの戦争以上にユーザーに対するメーカーの責任を問いたい気持ちです。

 ディスクについては,もう1つ問題があって,それはディスクの製造も難しくなるということでした。

 円盤形状のメディアは,複製を大量に作ることが出来る点が最大のメリットです。エジソンの筒型のレコードが,ベルリナーの円盤のレコードに完敗した理由はそこにあります。

 BDが登場した時,大量生産のラインは全くの未完成でした。一方のHD DVDはDVDと基本構造が同じであり,製造ラインも流用が可能とさえ言われていました。BDは製造装置も全部入れ替え,ラインを作り直す必要があり,その初期投資は莫大なものになると言われていましたし,本当にDVD並の歩留まりを確保できるかも未知数でした。

 しかし,これもやがて関係者の努力で解決に向かいます。製造ラインが一度立ち上がってしまえば,あとはそのラインでドンドン製造するだけです。

 BDがここまでくるのには,集った多くのメーカーが,自らの得意分野で成果を持ち寄り,まさに総力戦で不可能を可能にしてきた感動的とも言える歴史があったわけです。

 こうしてみると,HD DVD陣営がやり玉に挙げていた技術的な問題点は,非常に短期間のうちに克服されたことになります。思うに,技術というのはそういうもので,本気になればやがて解決されるものです。

 時間とお金がかかるのは当然としても,技術的問題点というのはいずれ克服される事が宿命である以上,今ある技術で無難に作って挑戦をしないことが,果たして次の10年を担う次世代DVDとして正しい事だと胸を張って言えるのかどうか,本当はHD DVDの技術者も悩んでいたんではないかと私は思います。

 ふと思いついたのが,CDからDVDへの世代交代で,容量は約6倍となりました。ところがDVDからHD DVDでは3倍程度と,ちょっと見劣りしますわね。これだと移行するには物足りない,次の10年持たないよ,と考えられても仕方がありません。

 そこでBDの人たちはまずDVDの5倍を狙おうと考えて,25GByteという数字を目標にしたんじゃないのかなあと思うのです。

 盟主東芝の言い分で,BDよりも2層ディスクが作りやすいから実質30GByteだとか,そもそもHDの映画コンテンツを入れるのに25GByteもいらない,というのはちょっと説得力のない言い訳で,私はこの点については「将来を見据えた挑戦」を選んだBD陣営の技術者の良心を評価したいと思います。

 未来の商品を作るのに,今ある技術ばかりで作っても仕方がない,とBD陣営のある方がいったそうですが,この点についてはまさにその通りでしょう。こうして,大方の予想通り,技術的に楽ちんだというHD DVDの最大の優位点は,BDに完全に列ばれてしまったのでした。

 私ならどうしたか,と考えてみたのですが,これまで見てきたようにHD DVDには今ある技術で完成させたことで,先行逃げ切りが可能という強みがありました。一方のBDは技術的にこれから作らねばならないことが山ほどあり,やがて解決するだろうという楽観的な予測は出来ても,時間的に不利である状況は変わらなかったはずです。

 BDの方が性能が上回っている事実は変わらず,これが完成すればHD DVDが不利になることも明白だったわけですから,HD DVDがやるべき事はとにかくBDが完成する前にさっさと広めてしまうことだったはずです。

 とはいえ,ハイビジョン放送の普及度もまだ低く,録画用途での普及を待っているとBDに追いつかれます,

 とすると答えは1つ,映画コンテンツを格納する配布メディアとして実権を握ることです。

 コンテンツホルダーの意見として,既存の製造ラインを使えることのメリットを評価したところは多かったわけですし,従来のDVDとHD DVDを分けずに製造できる点は確かに合理的です。

 それに,すでに大量生産が可能であることを実績で証明していたHD DVDこそ,ディスクの製造にお金がかからない(つまりコンテンツホルダーの儲けがそれだけ増える)点で好都合だったわけで,大きな需要に応えることも出来る高いレベルでの生産能力も含め,HD DVDの「無難さ」を徹底的にアピールするべきだったんじゃないのかと思うのです。

 うまくすると,BDの製造ラインは家庭用の録画ディスクが本格的に必要とされるまで立ち上がってこなくなるわけで,歩留まりの改善も設備の安定も価格もなかなかこなれてこず,一石二鳥だったはずです。

 やがてBDが録再機に搭載され,録画メディアとしての地位を確立するでしょうが,それは映画配布メディアとして確固たる地位を築いたHD DVDとしては,もう関係ない話です。

 製造枚数で言えば配布用のROMの方が数も多く,利益もそれなりに確保できますし,製造も楽なわけですから,そこできちんと儲ける方法を考えることは難しくないはず。容量がBDよりも少ないことは,2層ディスクが安定して製造でき,より圧縮率の高いH.264を使うHD DVDにとって,映画のパッケージ用に使う分には全く問題にならなかったでしょう。

 著作権保護にもメリットがあったかもしれませんね。HD DVDに記録メディアや録再メディアを提供しなければ,コピーを作ることはできないわけですし,いわゆる海賊版を作る業者は製造業者に委託するかプレス工場を自前持つしかないわけで,それはどっちも足が付きますし。

 そもそも,HD DVDとBDはもう別物です。同じ土俵のものではありません。自ずと得意分野も目指す物も違ったはずなのに,なぜ排他的に雌雄を決する必要があったのか,私はその発想がそもそも疑問だと思うわけです。

 個人的には,HD DVDの陣営がよく口にしていた主張に共感する物が多くあります。もともとDVDの次世代としてHD DVDをみんなで考えていたところに,そのメンバーから突然BDという規格が出て来た事が理不尽とか,両面50GByteというユーザーもコンテンツホルダーも必要としない容量のために技術的に難しいことを無理に盛り込んで価格を上げたり品質を犠牲にするような話は技術者のエゴであって本末転倒とか,それはそれで筋は通っています。

 規格統一の話が合ったときも,東芝は筋を通しました。自分たちが本流であると,だから歩み寄るなら向こう側だと。それはそうですが,BDとしては技術的に解決が困難なものが1つでも残っていたら,おそらく東芝に頭を下げたと思いますが,おそらくあの時点で問題解決の目処はある程度立っていたのでしょう。そこは政治的な駆け引きでもあり,残念ながら流れを読み切れなかった東芝が「安くて安定して十分な容量を持つメディア」をあの時殺してしまったと,私は思います。

 仮にそこで物別れに終わっても,先ほど言ったように映画用のパッケージメディアとして棲み分けるという戦略をぶれずに進めていられれば,おそらくBDよりも長生きメディアになれたでしょう。しかし,それも欲張りすぎて失いました。

 しつこく続けたHD DVDのBDに対するネガティブキャンペーンも,BD陣営に対するだめ出しとして機能してしまい,なにを改善すればいいのかを明確にさせたにとどまらず,BD陣営の結束力を高めてしまっただけのような気がします。

 結果として,東芝は膨大な開発費を回収できないまま,HD DVDを放棄することになるでしょう。そしてなにより,BDの軍門に下ることを余儀なくされてしまうでしょう。HD DVDにはHD DVDならではのメリットがあり,それを信じたエンジニアが気の毒です。

 しかし,BDは本当に勝者でしょうか。

 先日,半導体関係のある方と話をしたのですが,「もうHDは儲かりません」とぼやいていました。

 BDとHD DVDのフォーマット戦争は終結し,今後はBDを普及させて開発費を回収するフェイズに入ります。しかし,すでにBDを含むHDの世界では部品の価格が下落し,儲けが出にくくなりつつあります。

 いわく,世代が変わるごとに,儲けることの出来る時間が短くなっています,とのこと。開発にかかる費用は世代が進むごとに大きくなるにも関わらず,すぐに他社に追随されてあっという間に価格競争に陥ってしまう,そういう構図がますます顕著になっています。

 BDは技術的にも難しいことをやっています。大量生産によって単価は下がるでしょうが,あっという間に中国などで生産されるようになり,開発費を十分に回収できないうちに価格競争に入ることは,もう避けられないと思います。

 悪い話はまだあります。BDの次の世代の話が全くないのです。

 BDが利益が出なくなってしまった時には,次の世代で稼ぐ必要があります。しかし,その次がないというのは,どうしたことでしょう。

 技術的にはいろいろ開発が進んでいるようです。しかし,それが加速しない理由に,そういう高密度大容量のディスクの使い道がないというのがあります。

 CDの次は映像と入れたいとDVDが出来ました。DVDの映像がHDならいいなあ,でBDが出来ました。ここまでは素人でもわかります。では,HDの映画の次に,あなたはなにが欲しいですか?

 BD以上にかかる開発費を回収できるくらい,誰がその高密度光ディスクを欲しがってくれるでしょうか?その高密度ディスクに入れる膨大なデータを,普通の消費者がどれだけ欲しがってくれるでしょうか。関係者の間では,BDは最後のコンスーマ向け光ディスクだと言い切る人さえいるのです。

 これで,BDは勝った勝ったと喜んでいられるのでしょうか?

 小さな勝負に一喜一憂することをやめ,原子力とNANDフラッシュに注力する東芝が結局勝者になるという可能性は,本当にゼロでしょうか?

 この話,光ディスクに限った話ではありません。LCDなどのディスプレイも,システムLSIなどの高機能半導体も,CCDやCMOSセンサなどのデジカメ用のキーデバイスも,HDDやフラッシュメモリなどのストレージも,みんな程度の差はあれ,同じ状況です。

 つまるところ,消費者が「今はこれで我慢しよう,来年になるともっといいものが出るよ」と未来に期待し夢を託すことが,もはや不可能な時代になったことを,私も含めた関係者は直視しないといけないと思うわけです。

図書館と理系の本の関係

 先日,地元の図書館に初めていってきました。ここに引っ越してきてから結構な時間が経っているのですが,なかなかきっかけがなかったのです。

 私は子供の頃,毎週のように図書館で本を借りていました。当時は3冊までという制限があり,返すときにまた3冊借りて,しかも同時に市内の2箇所の図書館をはしごしていました。

 小学校の4年生ぐらいの時だったと思うのですが,初めて出かけた市内の図書館で見つけた奥澤清吉さんの電気の本(書名は失念)を借りて以来,結局中学生の時ぐらいまでずっと自転車で通い続けたと記憶しています。

 当時は子供向けの電気電子関連の本がたくさんあり,いくら借りてもきりがないほどでした。今にして思うのは,ほとんど絶版になってしまっているこれらの本を買って手元に置いておくべきだったということですが,マンガが350円の時代に1500円の本はあまりに高価で,最終的に購入出来たのは4つほどでした。そして4つとも,私の宝物です。

 初歩のラジオや子供の科学で知られる誠文堂新光社と,ラジオの製作で知られる電波新聞社が双璧でしたが,子供向けの本,とりわけ図書館の定番となっていた本は誠文堂新光社のものが多く,内容も非常にしっかりとした物が揃っていました。

 初歩の製作技術,初歩のラジオ技術などの「初歩の」シリーズ,デジタルICを使ったゲームを作る本,奥澤清吉さんの「はじめて」シリーズ,泉弘志さんの簡単な電子工作のシリーズなど,今でも読んでいて楽しい本を,何度も何度も借りてむさぼり読んだことが懐かしいです。

 子供向けの本を読み尽くすと,今度は「電子展望」の別冊といった難しい内容の本や,コンピュータの本にも手を出しましたが,内容はさっぱりわかりませんでした。でも,当時の私は,トランジスタやOPアンプが出てくる回路図があれば,それで満足でした。

 働くようになり,ある程度のお金が自由になると,そのころの本を買いたくなって探してみましたが,電子工作のブームは過去の物となって,初歩のラジオも絶版になり,技術家庭科や図画工作の延長にあると考えられていたこの分野の凋落にあわせて,どの本も入手が難しくなっていました。

 古本を探してみましたが,図書館ではどこにでもあった本が,なかなか見つかりません。個人で買う人は少なかったのでしょうか。

 最近,またかつて読んだそれらの本を見てみたくなって,今住んでいる場所の図書館を探してみました。すると幸いなことに,自宅の近所にちゃんとあります。

 今時の図書館はすごいですね,インターネットで在庫の確認が出来たり,予約も出来るんですね。早速懐かしい署名を検索してみると,ちゃんと出てきます。発売から30年近く経っているこれらの本は,一体どれだけの人たちに読まれたことでしょう。

 それで,先日言ってみました。

 古い施設で,いかにも市の図書館という雰囲気です。低いカウンターも,張り紙に難しい漢字が使われていないのも,係の人がエプロン姿なのも,子供が走り回っているのも,においも,なんだか懐かしいです。

 大人のくせに児童書のコーナーに向かい,そこで電子工作の本を探してみます。少しだけ見つかりました。私が買った数少ない本も列んでいます。中を開くと,昭和58年からの日付印が連なっています。

 開架になっていない本を書庫から出してもらって全部で7冊借りてきました。昔は3冊だったのに,今は10冊までokなんですね。

 変わっていない図書館も,実は変わっていることがわかりました。まず,係の人が市の職員ではありませんでした。合理化のためだと思いますが,委託されていました。市内の別の図書館では大手書店に委託されていたりするんですね。

 それに本の検索。昔はそれをお願いできる図書館司書という方がいらっしゃったものですが,今は基本的に端末で調べられます。確かに署名や出版社が分かれば便利でしょうが,こんな感じの本が欲しい,というリクエストに応えられてるんでしょうかね。

 予約も端末で出来ます。他の図書館にある本を移動してもらうのも端末です。気軽ですが,顔を合わせてお願いするのも,子供だった私には楽しみの一つだったことを思い出し,便利になるのは結構だけど,今の子供は大人と話をするという機会がどんどん失われているんだなあと感じました。

 現在,本はたくさん売れるベストセラーか,全く売れない本の二極分化が起こっています。本屋さんも,大規模書店は元気でも,中小の書店は厳しい状態です。

 図書館もこれに関連して,ベストセラーに人気が集中し,私の街では1000人もの人が順番待ちをしているんだそうです。

 原則として,図書館は人気のある本は複数の購入を行って待ち時間を減らそうと努力するのですが,さすがに1000人ということになると,10冊も20冊も買わないといけなくなってしまいます。

 しかし,図書館の予算は限られていて,同じ本ばかりに使われてしまうことは,幅広い本を蔵書として持つことを難しくしてしまいます。

 高価であったり,特殊であったりするような本でも,図書館に入ることを計算に入れると3000部や5000部は作れます。しかし,本の購入予算が,どこでも買えるベストセラーに多くあてがわれると,こうした本は図書館にすら入らなくなります。

 短期的には買うことが難しい本を見る事が出来なくなりますし,長期的にはそもそもこうした本が出版されなくなってしまうでしょう。

 だから,最近の図書館の運営に対して,専門家からは問題提起もなされているようです。考えてみると,いわゆる大量消費の現在のベストセラーに,30年後に残しておく必要のある本がどれくらいあるのか,しかもそれを20冊も30冊も残しておくべきなのか,確かに疑問です。買おうと思えばどこでも買えるという手軽さもベストセラーの良いところでもあるわけですし。

 一方で,本の種類に限らず,読みたいと思う人に平等に読む機会を提供することも図書館の大事な使命の一つです。たくさんの蔵書があっても,利用してくれくれない図書館はそもそも存在意義を問われかねません。

 図書館という範囲ではなく,出版や流通,果ては文化という点にまで根ざした,難しい問題だなと思います。

 とりあえず私の街では,市で購入する最大数量を決めて,それ以上は買わないということにしたようです。

 ところで,懐かしい気分の私は,インターネットで古書を探すことが簡単にできるようになった事を知って,片っ端から調べてみることにしました。

 そのうちいくつかは購入することが出来たのですが,ちょっとした感動があります。気になったのは,図書館払い下げのものが見つかったり,図書券向けに特別に用意される上装版が売られていたりすることです。

 確かに,図書館も蔵書を処分することがあると聞いていましたが,資料性の高いこれらの本でも処分されてしまうというのは,ちょっとした寂しさを感じたものです。

 理工系の本が売れなくなっています。出版社も数を減らしたり,そもそも点数を増やそうとしません。CQ出版社のような大手でも初版3000部で絶版という本も珍しくありません。3000部といえば,全国の書店の数よりも遙かに少ない訳ですから,手軽にどこでも手に入るということは,すでに期待できないのが現状です。

 こうした本の引受先として,図書館の存在が大きかったといいます。その図書館も,予算の削減やベストセラーへの集中から,購入しないケースが増えているらしく,結局理工系の本は,ますます手に入りにくくなってしまうわけです。

 ですから,もし気になる本があったなら,その場で買っておかないと,次に目にする可能性はほとんどない,といっても良いわけです。

 つらつらと書いてみましたが,ベストセラーや雑誌を見ないで,わざわざ書庫から昔の本を出してもらうような人間がいた方が,図書館としても面白いでしょう。今借りた本を返すついでに,新しい本を借りてこようと思います。休日の散歩も兼ねて。

パンドラの箱

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 昨年のクリスマスに,友人からプレゼントされた一冊の分厚い本が,「ザ・ビートルズ・サウンド 最後の真実」です。

 発売以来,大変に話題になっていた本だということですが,恥ずかしながら私はノーマークでした。

 まず最初に,この本は大変に分厚く,読む前に圧倒されるのですが,読み始めても圧倒されっぱなしであることを覚悟しておく必要があります。

 時は1960年代後半から70年代前半,場所はロンドンはEMIのアビイロードスタジオ,封建的で旧態然とした組織の一員として働く主人公ジェフ・エメリックの目の前には,自由奔放で個性的,そして世界で最も有名で最もお金を稼ぐ4人がやりたい放題。

 ビートルズには有名税とも言える,様々な噂や風説があるわけですが,人づてであったり推測であったりで,信憑性に疑問符がつくことも多いです。それもそのはずで,彼らは仲間意識も強く,容易に外部に対し自分たちの本音を見せることはしませんでした。

 冷静に考えると,彼らは自伝らしい自伝を自ら記していません。彼らの作品や発言,当時の記事から間接的に構成された彼らの偶像を,我々は実物として語るほかなかったということでしょうか。

 それゆえ,解散前後のゴタゴタでは一様に悪い印象を与えたわけですし,その後に起こるジョンの暗殺にある種の神格化が行われたことも,不可避であったわけです。

 これは,プロデューサーであるジョージ・マーティンにも言えます。もっとも,彼は自伝を書いていますし,発言も多く,また多くのビートルズのベストアルバムを作っています。ビートルズのメンバー以外で,最もビートルズを知る人として広く知られることは,これもまた当たり前のことです。

 しかし,残念ながら,彼の言葉をそのまま鵜呑みする人はそう多くなかったようで,彼がビートルズと対極にいる(もしくはいることを周りが強要する)「英国紳士」であったこと(もしくはあろうとしたこと),そして彼がロックバンドとしてのビートルズの息の根を止めてしまったかも知れないという考え方も,その理由にあるように思います。

 私自身は,ジョージ・マーティンの存在には肯定的ですが,だからといって彼がリボルバーやサージェントペパーズを作ることに直接の貢献したかと問えば,やはり素直に首を縦に振ることは出来ません。

 では,本当の仕掛け人は誰なのか・・・

 ビートルズにとって,幸か不幸か,意外なところに「スパイ」がいました。あれほど正体を明かさなかった彼らの前に,彼らの活動をほぼ完璧に見ていた人がいたのです。

 それがこの作品の著者である,ジェフ・エメリックです。

 彼は,おそらく世界で最初に,録音技術者として創作活動に貢献したことを評価された人ではないかと思います。

 ただ,彼はあくまで技術者であり,クリエイターでもなければ,当然ビートルズのメンバーでもありません。だから,あくまで4人の注文に対し,満額の回答を用意することに徹底します。このスタンスこそ,プロ根性の最たるものです。常に相手の要望に応えること,このスタンスは古今東西,あらゆる技術者に求められる第一のことではないかと思います。

 ビートルズのあふれる創造性を阻害しないことと,一方で制約だらけの自分の立場とどう対峙するのかを,若いジェフはもがきながら,でも楽しみながら,進んでいきます。ネクタイの着用が義務づけられているEMI社員のジェフは,そのネクタイでビートルズの自由さを表現してみせる,といったささやかな反発から,高価な機材を非常識な方法で使いこなすといった無茶まで,その行動は創意工夫と反骨心,そして微笑ましさで,読む我々をまるで現場にいるような臨場感に包み込むのです。

 そして読み進むうち,タイトルの通りビートルズの真実は,音楽的にも,またそれ以外の所でも,かなりの部分で明らかになります。非常に興味深いのは,アルバムの制作方法だけではなく,その人間性や互いの関係という実に微妙な部分においてでさえ,鮮やかに見ることが出来るということにあります。

 録音技術に多少覚えのある人やミュージシャンが読んで面白いのは当然として,ビートルズに興味のある一般の人々が読んでも最高に面白いと思えるのは,まさにこの点であり,いわば下僕に過ぎない(しかし最強のスパイ)であるジェフが,ビートルズのメンバーを「暗い」だの「気分屋」だのばっさりと言い切ってしまうあたり,実に痛快です。そして同時に大いなる共感が生まれます。

 ジェフ自身の言葉も痛快ですが,ビートルズが互いに対して取った態度や言動も,推測によるものではないだけに,実にリアルです。意味ではなく,言葉1つ1つが歪曲されたり装飾されたものではないことが,この本の価値の1つではないでしょうか。

 物語はジェフが子供の頃から始まり,録音という行為と技術に魅せられていく過程が描かれます。大変な幸運を手にして夢が叶ったジェフは,EMIの社員としてその第一歩を踏み出します。

 そしてさらに幸運なことに,ビートルズの仕事を担当することになり,良くも悪くも彼らの流儀に飲み込まれて過ごします。この間,彼はエンジニアとしてその後の世界を変えることになる,画期的な技術を連発することになるのです。

 やんちゃな子供であるビートルズとジェフ,そして父親代わりであるジョージ・マーティンが織りなすドラマは,良質のホームコメディにあるような暖かさがあります。

 急な上り坂であるリボルバーを駆け上がり,頂点を極めたサージェントペパーズでタフな仕事をこなして,そこから急激に変わっていくビートルズを,やがてジェフは目の当たりにします。

 屈託のないロックバンドだったビートルズが,ポップミュージックを革新するクリエイター集団となる瞬間に立ち会ったことに,ジェフはある種の寂しさを隠しません。

 同時に,その革新が,ジョンとポールという巨星によってなされていく様を見せつけられて,むしろ畏敬の念さえ抱くようになります。

 そして2つの巨星の衝突,2つの巨星に押さえつけられたもう1つの才能の勃興,彼らを取り巻く容赦のない環境の変化が,とうとうその宇宙を崩壊へ導きます。

 ジェフの目を通して我々が見ることになるのは,自ら招いたその崩壊が,決して自身の望んだことではないのだという事実です。昔のままの屈託のない表情でセッションを繰り広げる彼らの顔に,深刻な対立を見る事は出来ません。

 しかし,自分のピザをヨーコに黙って食べられてしまうという,実に些細なことに激高するジョージの姿を見たジェフの目には,本当の意味でのビートルズの崩壊が映っていたことでしょう。

 自らの理想とかけ離れた現実をどうすることも出来ずに,もがけばもがくほど事態が悪化する焦燥感に飲み込まれていくアビイロード・スタジオ。「かつて見たことのある光景だな」と感じた我々は,直ちに既視感に飲み込まれていることに気が付き,はっとします。

 そして我々はこの時,後に訪れることになるジョンの死とジョージの死に直面したビートルが,その時どんな気分でいたのかに思い至ります。それは,「私ならこう思うだろうな」と考えていた事が,まさに彼らもそうだったのだと確信し安堵する瞬間でもあります。

 かくてビートルズは終わってしまいます。

 ジェフはポールのアルバム制作に関わるようになり,そこでも大きな仕事を何度もやり遂げます。バンド・オン・ザ・ランという大ヒットアルバムがどうやって生まれたかを知ることは,実はビートルズのアルバムがどのように生まれたかを知ることと同じくらいに,エキサイティングなものだと知ります。

 そしてジョンの死。落胆するポール。一つの時代が終わりを告げます。

 初期のビートルズは,いわばジョンのバンドでした。ビートルズがかつてないものを求めるに従い,ポールの実力と音楽と向かい合う姿勢が不可欠なものとなり,自然にその主導権はポールに移っていきます。

 ジョンはひょっとしたら寂しかったのかも知れません。同時にポールはジョンに対する尊敬の念を忘れません。そしてジョンは突然いなくなります。

 ポールは実にストイックな姿勢を貫く人ですが,一方でとても人間的に豊かな人でもあります。ジェフはポール寄りの人ではありますが,その立場がかえってビートルズの主導権の交代劇や,かつてのリーダーの死を鮮明にしていると感じます。

 時は流れ,ジョンが残した「フリー・アズ・ア・バード」を取り囲む3人とジェフは,ジョンが仕上げを任せてどこか休暇に出かけたと思うことにしようと,話し合います。彼らの痛みが我々にも伝わり,胸を締め付けます。

 アンソロジーの発売に至り,この長い物語はいよいよ幕が引かれます。ジェフがアンソロジーについてどう考えたか,そしてその考えがどう変わったか,おそらく多くの方が共感するのではないでしょうか。

 作る側にいたジェフの感情の動きが,なぜ与えられる側の我々にかくも合致するのか,彼の視点と我々の視点は根本的に異なるはずなのに,自分の経験と錯覚するほどになぜリアルで鮮やかなのか,本当に不思議としかいいようがありません。

 読み終えて感じるのは,一見すると極めてスキャンダラスな香りのするこの本が,実はイギリスのとある若者達が成長する過程を,等身大の目線で見つめた人間ドラマであったことに気付く点です。

 そこには「仲間」に対する信頼と「仲間」を失う悲しさという,人間性に根ざす普遍的なテーマによって,共感や感動という形で我々の経験や人生に重なって,ビートルズの真実に迫るという「パンドラの箱」を開ける行為が間違いではなかったと,しみじみと思わせる力があります。

 文章のうまさにも優れたものがあり,長い物語を一気に読ませる技があります。ジェフ自身が文章を書き起こしたのではなく,彼が口述したものを記述する形で作られたものなのですが,日本語版においてはその訳が秀逸で,テンポの良さと技術的な誤りの少なさについても素晴らしいの一言に尽きます。

 おそらくですが,この本を超える本は,もう出てこないでしょう。ジェフは最強のスパイでしたが,その目的がくだらないゴシップでもなく,私恨による暴露でもなく,ただ純粋に技術者として客観的に,この学び多き歴史を記録に残そうとしたことにあるからです。

 一部に「墓場まで持っていくべきだ」と批判的な意見もあるようですが,それも一理あると前置きした上で,私は,その「墓場まで持っていくべき話」が本当に伝えたかった話ではないのだ,という観点でこの本を読みました。これまでに書いた感想は,その結果です。

 最後に私個人の願いを1つ。ぜひ,BBCで,この本をドラマ化して下さい。映画化ではありません。あくまでBBCによるドラマ化です。ビートルズのそっくりさんを使って,この本を忠実にドラマ化して下さい。「愛こそはすべて」の世界同時中継のスリリングなやりとりなど,ぜひ見てみたいものです。

 いやなに,それはさほど大変なことではないはずです。なぜなら,この本は,読めば目の前に鮮やかな映像が飛び出してきますから,ただそれを実体化すれば良いだけの話です。

 いや,あるいは大変なことなのかも知れません。あまりに長すぎるこの物語は,どの部分をカットすることも出来ないからです。

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