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ちょっと昔のこと~その2

  • 2015/05/14 16:14
  • カテゴリー:備忘録

 ちょっと昔のこと,の続きです。今回は学校のことを書きたいと思います。

 最初に書いておきたいのですが,私は自分の出身大学も学部も,とても誇りに思っています。隠すようなことでもないので,聞かれればきちんと答えます。

 ただ,日本では学歴について話をする事は憚られますし,自慢をするようなことでもないですから,自分から積極的に話して回りません。

 学校に対してはとても感謝していて,前回書いたように,勉強がさっぱり出来ない私に対しても「まあ来たいのならおいでよ」と拒まず迎えてくれて,私に賭けてくれました。

 勉強が出来るか出来ないかは大した意味を持たず,それぞれがどうしようとどうあろうととても寛容であり,ルールを守っている限りは自由が許される一方,それぞれのやりたいことには積極的な支援をきちんと用意してくれているという,非常に懐の大きな学校で,私はのびのびと勉強させてもらいました。

 勉強がさっぱりだった私のような人間でも,人並みに働いて自立できていること,しかも子供の頃から夢見てきた「技術者ですと自己紹介する自分」でいられることの大きな要因は,紆余曲折の末にここで学べたからだと,思っています。

 さて,父親の命令で,不本意ながらK大学の夜間に行くことになったことは前回書きました。今でこそ全国に名前を知られるようになったK大学ですが,当時は関西だけで知られる大学で,それも「大したことないでかいだけの大学」という感じでした。

 私の印象でも,勉強するところというよりも,社会人になるまでの余暇を過ごす場所,という認識の学生が集うところ,という感じでしたから,大学で好きな電子工学をきちんと学びたいと思っていた私が,まさかここの学生になるとは思っていませんでした。まして,一癖も二癖もある事情を抱えた人が集まる,夜学です。自分には完全に縁のない別世界が,急に自分の住む世界になるというのですから,その急激な変化にめまいがしました。

 この学校と最寄り駅までの通りは,通称「親不孝通り」と呼ばれています。ゲームセンターや雀荘が建ち並び,学校にたどり着くまでに,ほとんどの学生がこれらに吸い込まれてしまうからです。

 こういう話を聞いたりすれば,もうここは私の居場所じゃない,もっとも私が関わりたくない場所だったと,考えたことも無理からぬ事です。

 この学校の校風は,先程も書きましたが,一言で言えば「自由」です。自由というのは文字通りの意味ですが,大切な事は自由であることが許される雰囲気があったということです。それは,制度として許されると言う意味ではなく,先生も生徒も職員も,みんなみんな,とても寛容だったということなのです。

 この大学は,いわゆる偏差値は高くありません。総合大学ですので,それはもうたくさんの学生がいます。勉強できる人も出来ない人も,勉強している人も遊んでいる人も,10代もいれば30代もいて,白衣を着ている人と演劇を習っている人とが,日常的に同じ食堂でご飯を食べているような学校です。

 話は飛びますが,K大学の当時の食堂の最安メニューは素うどんの60円で,これはもちろん缶ジュースを飲むより安いです。ゆえに,友人達とは「ジュースでも飲むか」ではなく「うどんでも食べよか」でした。

 もちろん学校ですので,成績の良い人も悪い人もいますが,成績の良い人は悪い人をバカにはしません。悪い人も良い人をバカにしませんし,もちろん勉強の邪魔するようなことは絶対にしません。

 そんなことに興味がないといえばそこまでなんですが,つまりこの大学では,もともとそんなに勉強の出来る人が集まっていないので,成績が個人の優劣を決めはしないのです。成績がよくても自慢にならず,それに価値はありません。そんなことより「おもしろい奴」かどうかが最大の評価ポイントです。

 こうなってくると,勉強したい人は思いっきり勉強できますし,遊んでいたい人はそれはそれで徹底的に遊べます。幸いにして学内には様々な人がいて,最強の価値観である「おもしろさ」を競い合っています。いくらでもおもしろい体験は可能でしょう。

 この校風をして,外の人は不真面目だといいますし,ぱっとしない学校だと思われてしまうんだと思うのですが,学生がそんなことを全然気にせず,のびのびやっていたことは,今思えばとても良いことだと思うのです。

 私自身は,大学生というのはみんなそういうものだと思っていたのですが,後年,学校によって窮屈さに差があることを耳にして,自由でおおらかなのはこの学校の個性だったのだと,気が付いたのでした。

 いよいよ入学式を終えて,新入生向けのオリエンテーションです。忘れもしません,私はこの日,インフルエンザにかかり,40度近い熱を出して全身の寒気が収まらず,腰や関節が激しく痛み,体をまっすぐ伸ばして歩くことも出来ない状態でした。

 それでもこの日に休むとまずいだろうと,母親は私に付き添って,学校まで一緒にきてくれたのです。夜学ですのでオリエンテーションも夜ですが,母親はオリエンテーションの間,外で時間を潰して私を待ってくれていました。

 帰りも,私は電車に朦朧としながら座っていましたが,母親が私の前に立っていたことを覚えています。

 ですが,このオリエンテーションは,私にとても重要な意識を与えてくれました。

 お歳を召した学部長の先生が,我々に強い口調で挨拶をします。

 大学というのは最高学府である,諸君はその最高学府で学ぶことになったのだ。卒業すれば学士の資格を得ることになる。その自覚を持ってもらいたい。

 夜学ではあるが,文部省のモデルケースとして,4年で大学卒業の資格を取得出来るカリキュラムになっている。通常夜学では卒業に5年かかったり,短期大学の卒業資格になることが多いが,諸君がもらう卒業証書には「学士」とかかれ,昼は夜かはどこにも書かれない。

 取得単位は昼と全く同じ,カリキュラムもほぼ同じなのでとても厳しいが,夜学だからと考えずに,胸を張って学んで欲しい。

 熱でぼんやりしていた頭で聞いた私は,この言葉がウソではないことを,後日知る事になります。

 学部長が言われたことは,こうです。

 文系の学部ならまだよいのですが,私が進んだ理工系の学部では,取得単位や履修が必須な科目が多く,また実験や実習も避けられない関係で,時間の限られる夜学で,しかも4年で昼間部と同じ卒業資格が取れるところは希でした。

 私の学校でも,確か機械工学科が先行し,私が進んだ電気工学科は私が1期生だったんじゃないかと思います。

 文部省のモデルケースだったかどうかはわかりませんが,確かにこういう珍しかったと記憶しています。

 とはいえ,絶対時間が少ないのですから,全く同じというわけではありません。まず授業時間が少しだけ短いです。通常1コマ90分ですが,確か80分だったと思います。これで一日3コマあり,毎日きっちりあります。

 理系に付きものの卒業研究は,これに類する卒業レポートという形になります。この点だけは昼間部と大きく違う所です。

 これ以外は全く同じです。同じ教科書を使い,同じ単位を決まった数だけ取得せねばなりません。

 勘のいい人はここで気が付くと思いますが,1日3コマで毎日びっしり4年間ということは,もしも単位を落とすと,翌年に再履修する科目が本来取るべき科目と重なってしまうので,自動的に留年が決まってしまうということです。

 特に必修の単位を落とすことは,他で代替できませんから,もう留年決定です。みんな目の色を変えて勉強をしていました。出席率も高いままでした。逆の言い方をすると,一度脱落するともうリカバー出来なくなるので,そういう学生は二度と顔を見なくなってしまいます。

 また,毎日びっしりと授業が並んでいますので,昼間部のように興味があるから履修しようとか,同じ単位を取得出来る複数ある科目からどれかを選ぼうとか,そういう自由はありません。また,例えば教職課程のような特別な科目も,時間的に履修できませんし,そもそも開講されていない講座も多いです。

 そういう意味では厳しいものでしたが,私はもともと,自分の大好きな電子工学を学ぶのが楽しみで大学に行きたかった人ですから,むしろこうして効率的に勉強させてもらえることは,ありがたいくらいでした。

 しかも,学費が半額以下でした。

 そして,さすがに巨大な総合大学だけあって,設備はそれなりに充実していました。夜学とはいえ,この大学の学生ですので,図書館も食堂も生協も利用資格があります。見たこともないような大きな歴史ある図書館で,貴重な本を見る機会に恵まれたことは,本当に良かったと思います。

 実験設備などは昼間部とは別でしたので大したものはありませんでしたが,それでも後述するように,インターネットがまだ学術利用しか許されていなかったころに,私はac.jpのドメインのアドレスをもらって,電子メールで他校の友人とやりとりをし,SunのワークステーションでSystemVをさわり,viを使えるようになって,TeXでレポートを書き,ftpでフリーウェアをダウンロードしていました。

 特筆すべきは,教授陣のすばらしさでした。

 正直なところ,偏差値が50を割るようなボンクラばかりが,仕方なく集まった夜学ですから,教える側も「仕方なく」教えることになった人ばかりだろうと思っていたのです。無難に簡単な試験をして,適当に卒業させればいいか,くらいに考えていると,私は誤解していました。

 もちろん,そうい先生も中にはいたと思います。昼間部の講師だけでは食えないので,夜間もバイトとして働くとか,そういう若い先生もいらっしゃいました。でも,こういう先生はもともと優秀な方ですし,若いだけに話も洗練されていて,面白いのです。

 ですが,なんといっても,お歳を召された先生方です。年齢的に大学を退官なさったような方か,民間企業を定年退職されたような方なんですが,調べてみると京都大学で教授をやっていた電気工学の重鎮だとか,その先生の弟子でこれまた重鎮が恩師に口説かれてやってきたとか,シャープの研究所にいた半導体の専門家だとか,そういう立派な先生が多いのです。

 なにが悲しくて,地位も名誉もお金もある方が,その年齢に抗って毎日毎日夜の9時半まで働かねばならんのか。

 これは,先生方も言われていましたが,使命感からだそうです。夜学の生徒はやんごとなき理由で夜に勉強している,とても真面目で意欲も高く,自分達もこういう生徒をぜひ教えたいという,そういう熱意から,我々生徒と一緒に夜遅くまで一緒に頑張ってくださいました。

 一人二人という話ではなく,少なくとも私が学んだ先生方は,ほとんどこういう熱意のある方でした。

 熱意があるから,指導にも身が入ります。学生も少なく,部屋も小さいので,先生も我々の顔と名前を覚えてくれます。それはもう,中学高校の延長です。

 また,我々の大学特有の事情もありました。我々の大学はスポーツが強く,多くのアスリートが推薦で入学してきます。彼らはスポーツで好成績を期待され,実質的にクラブ活動が本業となります。

 そうなると,昼の大部分をクラブ活動にあてるため,なかなか授業に出ることができません。そこで、我々の大学には昔から夜学があるのです。

 それでも取得単位の多い理工系の学部で夜学というのは当時も珍しかったのですが,私の学科にも野球部の学生が数人いて,とても頑張っていました。考えてみると,自分の運動能力という才能を伸ばすために,二十歳そこそこその若者がこれほどの努力を律して続ける事が出来るというのは,本当にすごいことだと思います。

 そして,こうした努力に応えるだけのインフラを,大学側がきちんと用意していることも,我々の大学の自由な校風を育んでいたのだと思います。

 もともと夜学は,学校にいる時間が短く,それぞれに仕事を持っている人が多いため,友人達と授業前後に一緒に遊ぶことも少なく,休日もあわない事から,学校で友人が出来る事は少なく,私の場合も1年の秋頃までは,一人で行動していました。

 もともと私は一匹狼でしたし,高校までの友人はほとんど私の元を去って行ってしまいましたから,一人でいることが苦になりませんでした。

 唯一助け合いが必要なテスト対策だって,普段からきちんとしておけば少なくとも私が誰かに助けてもらうことなど,ありません。

 ですが,声をかけてくれる友人はいるもので,彼を核として親しくなった友人3人と私の4人は,卒業までいつも学校で行動をしていました。この4人は成績も上位で,卒業後も良い就職先に就職しました。付かず離れずでおかしな下心もなく,年齢もまちまちだったことを考えると,とても居心地が良かったことを覚えています。

 おかげさまで,昼のバイトはとても楽しく,ここでも多くの友人に恵まれましたが,学校の勉強も良い先生のおかげで楽しく出来,特に高等数学や量子物理についてはその本当の意味を教えてもらいました。

 すでにある程度の知識を持っている,電子回路や論理回路については独学に誤りがないことを確かめるチャンスでした。

 実験は客観的なデータの取り方とレポートの書き方を学び,不都合な結果が出てもそれはそれで正直に,誠実にレポートすることが大切だと学びました。

 夜学でも一般教養はちゃんと履修せねばならず,当初面倒だと思っていた私は,履修後に目から鱗が落ちました。

 専門課程の先生なら熱意も理解出来ますが,一般教養の先生方に熱意など期待していなかったのです。しかし,少人数で行われるだけに,まるで市民講座のような良い雰囲気がありました。

 覚えているのは日本史で,江戸時代の出版業についてでした。先生の著作を読むだけの授業と言えば印象が悪いのですが,そもそもこの本が面白く,これに軽快な語り口の先生の講義が加わるので,とても面白く毎週楽しみにしていました。

 この先生のことを調べてみると,私が学んでから6年後に他界されていました。講義に使った著作は最初の版元のものは絶版,別の版元から復刊したものが在庫のみになっていました。寂しいものです。

 社会学も面白かったです。基礎的なことしか習っていないのだと思いますが,新しいものの見方を学びました。経済学は簡単でしたがこれも面白く,心理学も大変興味深いものでした。

 語学で言えばドイツ語が面白かったのですが,先生が長くドイツにいらした先生で,ドイツの文化をニコニコしながら話してくれます。これが,当時のアメリカ一辺倒な空気に違和感のあった私に1つの答えを示してくれて,ヨーロッパに目を向けさせるきっかけになったと思っています。

 そうそう,体育もあるんですよ,夜学にも。私は苦手で,面倒だったのですが,人数の関係から他の学科との共同で行い,そこで普段顔を合わせる事のない人達と一緒に体を動かしたことは,貴重な機会だったと思います。

 専門課程は当初は期待した程面白いものではなく,電気工学についてはたいくつな交流理論に辟易していました。しかしこれが今も役に立っているんですから,大切な事だったんでしょうね。電気機器は要するにモーターですが,これが今,とてもホットなキーデバイスになっていることを当時想像できたでしょうか。

 半導体工学は,例えば青色のLEDが商品化されない理由が理解出来たことをよく覚えていますが,これもすでに過去の話。LEDが世界を一変させてしまいました。

 私は電子工学を独学で学んでいましたが,学科は電気工学科です。発電所の作り方や大きな変圧器の設計など,強電の分野を学んだことは,自分の幅を広げるのにとても役に立ちました。

 電子計算機の実習というものがあり,私はこんなもの必要ないと生意気な態度を取っていましたが,理工系の人間にとって当時はまだFORTRANが避けて通れない時代でしたから,自分だけでは絶対に知り得なかった知識を得たチャンスでした。その代わりCを実習で取り扱わないのは,当時としても問題だったかなと思います。

 もう1つ大事な事を忘れていました。数学です。手書きのテキストを使って熱心に指導して下さった,これまたお歳を召した先生だったのですが,解析学などの数学と,量子力学を教えて下さいました。

 私はそれまで,数学は嫌いではなかったけどもさっぱり出来ずにいたのですが,ここで数学の面白さに触れたことで,その意味を知り,学ぶことに大きな価値を見いだしました。今でも数学は好きですし,道具として活用すべき存在です。これは,本当に感謝です。

 そして2年経過し,私は学科でトップの成績を維持していました。入学時は昼間部への転部試験を受けて,3年次からは「普通の大学生」になることを考えていた私でしたが,学科長の先生の「転部試験を受けたらどうか」というアドバイスに対し,はっきりと「いえ,ここでずっと勉強させて下さい」と,即座に意思表明を行う事になりました。

 当時一緒にいた6名の仲間のうち,2名が転部試験を受けて昼間部にいきました。他の4名ははっきりいって彼らより成績上位でしたが,それぞれの事情もあり転部しませんでした。

 私は,この時までに,自分が在籍する夜学が,とても好きになっていました。誇りを持つようにもなっていました。なにより,目の前にいる学科長の先生も含め,夜遅くまできちんと向かい合ってくれる,熱意のある先生方の講義を,もっともっと受けたいと思っていました。

 即座に転部試験の受験を断り「君なら確実に転部できるんだけどな」と言った先生は,「そうかそうか」という満足げな表情を隠しませんでした。ここに至って,私は夜学に通う自分を,積極的に肯定するに至ったのです。

 3年次の終わり頃,昼間部の卒業研究と同じ,卒業レポートのテーマと指導教官を決めるときが来ました。実習や実験を担当していた講師の先生や,先の学科長が指導するテーマも魅力的でしたが,私はあえて,全く知らない先生を指導教官に選び,ここでソフトウェアとUNIXを学ぶことにしました。

 先生はまだ講師で,しかも他の学校から移ってきたばかりでした。新参者で階級の低い先生が,始めて教えるのが夜学の学生ということで,随分遠慮がちな感じもありましたが,私は先生を実に尊敬していました。

 4年次の4月,初日の研究室でのテーマの説明と,習得すべきものを始めて顔をあわせたメンバーに話された先生は,「この中でUNIXとVIを触ったことがある人」と尋ねて,私一人がそろそろと手をあげたことで,ちょっと驚いていたようです。

 1994年といえば,パソコンと言えばPC-9801にMS-DOS,ようやくWindowsが選択肢として認知され初め,DOS/Vと言われたIBM互換機がメジャーになりつつあった頃の話です。

 インターネットはまだ学術用途に限定されており,無線LANはおろかEthernetも特殊なものでした。コンピュータネットワークといえばパソコン通信がすべてで,14400bpsのモデムでホストコンピュータに電話回線で繋いで,電話料金に戦々恐々としながら,文字だけの画面で外に繋がる浮遊感を満喫した時代です。

 UNIXはパソコンで走らせるにはまだまだ厳しいOSで,ワークステーションやミニコンで動く雲の上のOSでした。それらの高性能マシンはとても高価で大きく,個人で所有することは非現実でしたから,当時の学生でUNIXもVIも触ったことがあるという答えは,先生にとっても予想外のことだったでしょう。

 ではなぜ私が触ったことがあるのかといえば,これはPC-9801に用意された,NEC純正のUNIXであるPC-UXを格安で手に入れたからです。とても古いバージョンのものを,ある商社が不良在庫の処分として持ち込んだのですが,興味本位で買って帰ったのです。

 80286搭載機であるPC-9801VXをターゲットに用意されたものですが,さすがに高価なOSだけあって,マニュアルの分厚さがものすごかったことを覚えています。

 ここで一通りインストールを行い,VIで編集してCコンパイラを使った記憶があるのですが,スタンドアロンで使っていたこと,テキストベースであったこと,マルチタスクを実感するような使い方をしなかったことで,ちょっと遊んで終わりでした。

 なにより,その異質な臭いが,鼻について仕方がありませんでした。

 ですが,私はここでUNIX大好きな先生とすっかり仲良くなり,UNIXの洗練された仕組み,ネットワークで繋がることで倍増する価値をすることになります。

 ようやくRISCになった頃の古い古いSun4(Solarisではない)に,複数の人間がターミナルとして用意されたPC-9801からログインして,UNIXとCを学ぶことから始まった講座ですが,私は特別に自分の使い慣れた端末としてMacintosh SE/30を持ち込み,これを先生が使っていたSPARC Classicにシリアルで繋がせてもらい,最初からSystemV系を使う事が許されました。

 今にして思えば,当時としてもSPARC Classicの能力は低く,本当なら独り占めしたかったはずなのに,私に接続を許してくれたことは,私を歓迎してくれていたんだろうなと思います。体が大きく,目つきも悪くて,ぶっきらぼうで言葉の少ない先生でしたが,一方で大変に気が付く,優しい,それでいて学生を自分と対等に扱う,とてもよい先生でした。

 私はここで,FFTを学んで実装し,パターンマッチングの基礎を考察したことと,これを通じてUNIXとワークステーションでインターネットにこぎ出すこと,そしてC言語を学びTeXでレポートを書くことを覚えました。

 自宅にはPC-9801で動くSystemVのUNIXであるPANIXをインストールし,X-WindowsでGUI環境を手に入れて,その心地よさを満喫していました。Linuxもまだまだマイナーで,PC-UNIXといえばBSD系のものが大半だったことを考えると,私は偶然にも,今に続くUNIXへの好感をこの時に培ったのだと思います。

 確かに,大したことではないかも知れません。大学院の先輩もいなければ,徹夜で実験ということもなく,またUNIXでもシステム管理をやっていたわけではありません。しかし,夕方から夜までの限られた時間の中で,出来るだけ最新の環境を味あわせてやろうという,先生の配慮があったからこそ,私はこれだけの恵まれた経験をすることができたのだと思います。

 そういえば,ある時私は,電車でぐっすり眠ってしまい,乗換駅を寝過ごしてしまいそうになりました。日々の疲れが溜まったのでしょうね,

 そうすると,ある方が「おきなさいよ」と私を起こしてくれました。あわてて飛び起きて電車を降りたのですが,冷静に考えてみるとなんで彼が,ここで私が降りると解っていたのか,不思議でなりません。

 おそらくですが,教科書を広げては眠りこけて,あわてて降りていくのを毎日毎日見ていたのでしょうね。周りの方々の暖かさにも助けられていたのだと思います。

 そうして私は4年次を過ごしつつ,就職活動,そして卒業することになりました。

 ここまでに落とした単位はなく,成績も学科では一番,学部でも二番でした。就職は昼間部を含めてほとんど入社したことがない「まさか!」の某一流企業に決まり,教授のツテもなく,学校の推薦もなく,まったく縁もゆかりもないなかで,この事実に一番驚いていたのは学校の就職担当部署だったと思います。

 当時は大阪に本社のあった電子楽器メーカーを第一志望とし,ここは最終面接まで進んだところで,他が決まってお断りしました。

 もう1つ,これも在阪の大手メーカーの子会社が,私を熱心に誘ってくれていたのですが,こちらもお断りをしました。お断りをする時に,直接出向いてお詫びをしたのですが,この時も熱心に誘って下さいました。

 この時,うちに来るかどうかは別の話として,と前置きした上で,期待と不安と申し訳ない気持ちで一杯の私を,こう励ましてくれました。

 「就職というのは,高速道路と同じで,合流するときが一番難しい。けれども一度流れに乗ってしまえば,あとはすいすいと走れるようになるものだ」

 この言葉は,今でも私の支えになっています。

 就職で大金星をあげ,成績もトップだったことから,私はありがたいことに卒業式で総長賞を頂きました。

 ゴミくず同然で入学を許してもらった私が,夜学で学んだことを誇りにし,数年後にこうして賞まで頂いて,胸を張って卒業し社会に出たことは,なんと不思議なことかと思います。

 勉強が出来ないという事実だけで,学ぶチャンスを得られないことは間違っているとは思いません。しかし,勉強が出来ない人間でも,こうして立派な成績で卒業できることが自分の経験として存在すると,決して正しい事だとは思えないのです。

 その点で,K大学は,勉強が出来ないという理由で私を拒むことなく,求めに応じて学ぶ機会と環境を与えて,育ててくれました。この大学の懐の深さに私は救われ,自分の人生を切り開いていくことが出来たのだと思うと,心の底から感謝をし,そして誇りに思うのです。

 残念な事に,K大学の理工学部2部は,平成13年で募集を取りやめており,現在は存在しません。わずか10年ほどの間だけ存在した,希有な存在の「理系のフルスペック夜学」は,卒業証書に夜学である事を記載されず,公式の記録にほとんど残ることなく,ひっそりと消えていき,我々卒業生と関係者の記憶の中だけの存在となりました。

 確かに,この4年間は,時間的には楽ではなかったかもしれません。

 しかし,私は,自分に与えられた環境としてこれほど自分の適したものがあっただろうかと,思います。講義は毎日短時間でしたが集中的に無駄なく行われ,昼はまとまった時間として働く時間に割り当てて自分を磨くことができます。

 そして一度学内に入れば,するもしないも自由という寛容な空気,学びたい学生には総合大学らしい強力な支援が約束され,これに高い志を根拠に夜学という特別な環境に自らを置いた先生方に恵まれるという,素晴らしい環境が私を育ててくれました。

 今,私が若い人に夜学をおすすめするかと言えば,出来ません。おすすめしたくても,もうこうした夜学は,ほとんど残っていないからです。

 わずか10年だけ,まるで私のために用意されたかのような錯覚さえしてしまうくらいの短い期間ですが,このタイミングでもし私がもう少し勉強が出来ていたら,あるいはもう少し勉強が出来なかったら,きっと今の状況はなかったでしょう。

 当時はそんなに肯定できなかったのですが,今はこの環境を与えてくれたK大学に,心から感謝したいと思います。

ちょっと昔のこと~その1

  • 2015/05/13 15:38
  • カテゴリー:備忘録

 今年で社会人になって,なんと20年になりました。

 つい最近のこと,とまでは思っていませんでしたが,そんなに昔の話でもないと感じていただだけに,その考えは改めないといけないなと思っているところです。

 20年ですから,もう一昔以上もの時間が経過しています。自分の実感(というか勘違い)と,曖昧になりつつある記憶との間に,感覚的な違和感があることは,実は途切れ途切れになった記憶の方が正しいということを,正しく認識せねばなりません。

 私の場合,高校生の頃まではなにかと思い出すことがあるのですが,それ以降の事については「懐かしい」という気分でもないせいで,あまり記録していません。記憶もあやふやであることを考えると,このまま私の手元から消えてしまう情報となるかも知れません。

 それで,客観的な資料を思い出す手がかりにしょうと,google先生に聞いてみたのですが,ちょうど20年くらい前というのは,インターネットがまだ普及しておらず,情報の電子化も中途半端だったこともあり,あまり残っていないんですね。もう少し古いとマニアがちゃんと調べて残してくれているのですが,1990年代から2000年代というのは,案外ミッシングリンクになるように思います。

 そこで,少し詳しく,私の大学生の頃の話を,思い出しながら書くことにしました。思い出しながら書くことを一度もしなかった時代なので,いい機会です。


 まず,高校で遊びほうけた私は,ほぼ全員が有名な大学に進学する進学校において,完全な落ちこぼれになりました。勉強がさっぱり出来ず,運動もクラブ活動も全然だった私は,やや偏屈な性格が呼び込む厳選された友人達と3年間を,それなりに楽しく過ごしていました。

 先生や先輩達の「うちの高校は4年制」と自重気味に話すのは,もともと勉強出来る人間が集まっているのに,ちっとも現役時代に勉強せず,おかげで現役で大学受験に失敗するものが大半,一浪して本気を出すという,誠になめ腐った伝統があったからで,これを「まあどうにかなるさ」と解釈してしまうところに,大きな問題がありました。

 なるほど,大半はそうかも知れませんが,何事にも例外というものはあり,一浪しても本気を出さない人,本気を出しても駄目な人,というのはあるもので,私がまさにその例外でした。

 考えてみると,例外なんて言い方はおかしくて,勉強しなかったんだからその結果は当たり前です。他が勉強している間に私は自分のしたいことだけをやっていたんですから,これを例外なんて言うのは甚だおかしいでしょう。

 そういうことはちゃんと当時の私も解っていて,都合2度味わった挫折感に「世の中どうにもならないことってあるんだな」とつぶやいたことを,よく覚えています。

 うちははっきりいって貧しかったので,一浪することも大きな負担だったので,まさか二浪することなど考えられませんでした。

 「このままでは大学に行けない」と焦り始めたのが,もう寒くなり始めたころで,確かにそのころの集中力は現時点でも最高のものがありましたが,時既に遅し。勉強したことが血と肉になるには,最低2ヶ月くらいはかかることもこの時学んだのでした。

 センター試験もまさかの惨敗,3月の国公立は受けるだけ無駄という状況で,2月の私大が全滅したことで,私の2シーズンに渡る受験は幕を閉じました。

 当時はバブルの終盤で,まだまだ製造業が強かった時代です。トラ技の広告も分厚く,求人広告などいくらでもありました。高卒でも大丈夫,実家から通える電子系の仕事ならなんでもいいと,本気で就職を考えていたのですが,これもそこらへんの大卒者よりは知識があると自負していたからです。

 浪人中になにをやっていたかといえば,これはもうひたすら電子回路の設計です。ちょうどこの頃アナログ回路の面白さに目覚め,トランジスタの動きが手に取るようにわかるようになってきた時です。高校で習った数学や物理が,電子工学や音響工学とリンクし始めたのもこの頃で,なんて楽しいのだろうと夢中になっていました。

 通っていた予備校がまた難波にだったこともあって,予備校の行き帰りに日本橋で部品を買って帰り,家で実験して翌日また足りないものを買いに行く,なんてことを繰り返していたせいで,勉強はさっぱり出来ないけども妙な自信と達成感だけは持っていたのです。

 ですが結局「今必要なものは,それではない」と,どこの大学も私を拒んだことで,自分の失敗を悔いたのです。

 見るに見かねた母が,新聞の切り抜きを持ってきてくれました。1つはO大学の短期大学部の,もう1つはK大学の夜学の,2次募集の案内でした。私大の受験はとっくに終わっていましたが,欠員が出ていたところを目ざとく見つけてくれたのです。

 母は,まだあきらめるなと言ってくれました。

 どちらも,まったく想定していなかった短期大学部と夜学でしたが,就職よりもすっと素晴らしい選択肢に見えた私は,2つとも受験し,合格しました。

 どこも私を「おいで」と言ってくれなかったのに,この2つは「きてもいいよ」と言ってくれたのですから,それはそれはうれしかったことを覚えています。

 問題はどちらに行くかです。私は,短期大学とは言え電子工学に特化した単科大学であるO大学に行きたいと強く思っていましたが,父は総合大学であるK大学へ行くように,私を叱責しました。最初はアドバイス程度だったのに,最後は命令になり,打ちひしがれた私をまたも母が慰めてくれたことを,よく覚えています。

 そこまで父が頑なになった理由ですが,誰に効いてもK大学の方が通りがいいと,そういうことでした。父自身がどうかというより,人に聞いたところ,というのが,今も昔も変わらない父の根拠の軽蔑すべき特徴なのですが,この時も私の説得材料として振りかざしました。

 子供の頃は感心した父の人脈の広さですが,この頃になると自分を持たず,人の意見を強い根拠に出来てしまう,弱い人間だったと気が付いていましたから,速く自分の考えが対等に扱われるような年齢になりたいものだと,思ったものです。

 ただ,これは私が直接聞いたわけではありませんが,短期大学部から転部して4年制大学の卒業資格を得るのと,夜学で卒業資格を得るのとでは,学費が倍以上に違っていました。もしかすると,当時の夜学の学費は国立大学よりも,安いくらいだったかも知れませんが,ここが最大のポイントになっていたのではないかと思います。

 かくして,私はK大学の夜学に進みました。どうせ落ちこぼれだし,可能なら昼間部に転部して普通の大学生になろう,駄目でもさっさと卒業してしまおう,と,割り切って考えていました。

 ただ,昼間遊んでいるわけにもいかないので,日本橋のとあるパソコンショップで夕方までアルバイトをすることにしました。ここは今はもう潰れてしまったのですが,今の私を形作った,とても重要な場所です。

 そもそも,高校1年の夏休みにアルバイトをしようと,ダメモトで電話をしたシリコンハウス共立で,デジットなら雇ってやると言われ,二つ返事でOKしたことが,電気街を働く場所にしたスタートでした。

 高校2年でも夏休みにお世話になったデジットですが,現役の受験に失敗し,2ヶ月近く出来てしまった自由時間にまたお世話になろうと思ったら,アルバイトは足りているので必要ないと断られてしまい,その足でいきなり店頭で「雇ってください」とかけあったのが,このパソコンショップでした。

 いきなり大きな甲高い声の,とてもスピード感のある店長が即決で採用を決めてくれて,晴れて私はここでアルバイトすることになりました。ここは,店頭での接客はもちろん,買って頂いた商品の発送,お持ち帰りでお客様の自動車までの荷物運び,入荷品の検品や荷さばきなど,何でもやらねばなりません。

 偉いとか偉くないとか,担当とか責任とか,そういう話はほとんど無関係で,手が空いた人がどんどん片付けていく,そういう活気にあふれていました。私もここで,最初は力仕事から,徐々に接客を学んで行きましたが,自分が接客したお客さんは,きちんと自動車まで運んで,その自動車が走っていくまでお見送りすることを,モットーとしていました。最初から最後まできちんと接客をすることが出来たのは,この店が大きすぎず小さすぎずだったからで,とても良いお店で働かせてもらったと思っています。

 浪人中にアルバイトはさすがにまずいので一度辞めさせて頂き,忘れ去られないようにちょくちょく顔を出しながら,翌年には夕方までの勤務を毎日こなすアルバイト店員になったというわけです。

 なにせ繁盛記の緊急バイトではなく,レギュラーメンバーです。お客さんの少ないときの仕事も見せて頂きましたし,中古パソコンの買い取りと商品化の担当を持たせてもらいましたし,名刺も作って頂きました。「本業は学生」というおかしな自負が,同じように毎日朝から出勤しているフリーターの卑屈さをかき消していたので,おかしな空気を醸し出していたんではないかと思います。

 こうして私は,高価な最新のパソコンやソフトウェアに触れ,ミナミに働く場所として毎日通い,ハードロックと夜遊びを覚えて,自分の小遣いを本気で稼ぐ数年間を過ごすことになります。

 とはいえ,朝は10時前にお店に入り,17時まで仕事をし,18時からの授業の前に軽く腹ごしらえ,授業が終わると21時30分をまわって,帰宅すると22時半,風呂に入って23時のニュースを見ながら遅い夕食を摂る,と言う生活を続けていました。土日は学校がないので,朝から夜までフルタイムです。その代わりお休みは平日で,普通は火曜日と木曜日にお休みを頂いていました。この時も夕方には学校に行きますので,一日家にいる日というのは,ほとんどありません。
 
 不思議とこれが苦にならず,楽しかったのです。母親などはこういう生活の私を見て後に「不憫だった」などというのですが,当の本人はまったくそうは思っていませんでしたが,社会人になったらこういう生活はなくなり,休みは土日,夜はもっと早くに家に帰ってくるのだろうと,漠然と思っていました。

 長くなったのでとりあえずここまで。次は学校のことを書こうと思います。

チェキと銀塩

 私がカメラを構えているのを見て,娘も小さなデジカメを見よう見まねで構えるようになりました。

 しかし,撮影をしても,すぐに紙になって出てくるわけではなく,LCDに表示させるには別の操作が必要になったりするので,結果を見ることが出来ずに今ひとつ楽しい者とは思えないようです。

 そこでふと思い出したのが,チェキです。

 フジフイルムが独自仕様で作った名刺サイズのインスタントフィルムである,インスタックスminiを,安価でポップなデザインのカメラに仕上げて出したものがチェキで,今から15年ほど前の話だったと思います。

 私は,福袋か何かで手に入れたものを嫁さんにあげたのですが,物持ちの良い嫁さんはまだそれを持っており,押し入れを探して引っ張り出してきました。

 残念ながらフィルムはもう死んでいます。撮影してもなにも出てきません。

 そこでちょっと時間を見つけて,渋谷のカメラ屋さんに出向くと,とてもわかりやすいところに売られていました。10枚入りが2パックで1500円ほどだったと思います。

 それにしても,チェキのカメラ本体がまだまだ結構な種類があり,それなりの値段で売られているんですね。チェキが実は人気があり,今でも新製品が出ては売れて続けているという話は聞いたことがありますが,コンパクトデジカメがここ数年で「なかったことになる」ほど市場が縮小しているのに対し,立派なものだと思います。

 本体がこれだけ出ているのなら,フィルムの方はまだまだ安泰だと思いながら,買って帰りました。早速チェキに装填し,撮影してみます。

 沈胴式のレンズを引っ張ると電源が入ります。フォーカスはパンフォーカス,絞りもなくて,明るさに応じてフラッシュが自動で動作します。結局操作するのは,レリーズボタンだけです。

 これで本当に綺麗に写るのかと思いきや,考えてみるとこれほど大きな撮像エリアを持つデジカメはそうそうなく,レンズの解像度が低くても高画質,無理をしない設計が出来るから素直な描写と,大きなフォーマットである事のメリットはそれなりにあるだろうと,ウイーンと吐き出されてきたフィルムをしばらく眺めてみます。

 お,ゆっくりゆっくり画像が浮かび上がってきました。最初は青,そして緑,最後に赤が出てきて,綺麗な色調に整います。こんなもんかな,と思うところから,さらにくっきりと発色し,びっくりするほど綺麗な写真が出てきました。

 娘も,この変化に大はしゃぎ。チェキから吐き出された白い紙に,じわじわと画像が浮かび上がってくるのを,ワクワクしながら見ています。

 そうそう,インスタントカメラの面白さは,今も昔もこれなんですよ。

 銀塩時代は言うに及ばず,実はデジカメになっても,結局紙に出す事は,すぐに出来ません。自分で出来る人も限られています。だから,チェキの優位性,チェキの面白さといったオリジナリティは,今も昔も変わっていないんですね。ここに気が付くのが遅すぎました。

 そもそも紙に出すことはないんじゃないのか,と言う話もありますが,LCDに出してもみんなで見られるわけではないし,カメラ本体を持っていないとみることが出来ません。データを渡せばいいと言う話ですが,それでもそのデータを表示する機械がなければ,タダの数字の羅列です。

 人間の目にダイレクトに届く媒体は,やっぱり紙なんだなあと思います。

 ずっと遊んでいるわけではありませんが,娘はチェキで何枚か写真を撮りました。結果がジワジワと浮かび上がる楽しさは,直感的で説明不要な面白さがあります。これはいいですね。

 そんなことを考えていると,最近網にかからなくなった銀塩関係のニュースをふと見る事がありました。2014年の春にコダックがフィルムを値上げし,さらに2015年の初めに再度の値上げを行いました。

 今や,モノクロフィルムの100ft缶を買うと,15000円ほどするんですね。私が今冷凍庫で保管しているTRI-Xの100fは,確か3000円中頃の値札がついていたと思います。36枚撮りのT-MAXだって,1000円近くするんだそうです。

 ほんの数年前,カラーフィルムが1本100円で売られていたことが,ウソのようです。

 銀塩は,それを表現手段にする芸術家,それを楽しむ高尚なホビーになると以前からずっと思っていましたし,この結果は予想通り,販売が停止しないだけ予想以上の結果であると言って良いほどだと思いますが,それでもモノクロのフィルムが1本1000円というのは,さすがにおいそれと使えません。

 中判のフィルムは値上げがさらにすごいらしく,数倍の値段に改定されたケースもあるようです。35mmフィルムはデジタルに完全に置き換え出来るとしても,中判についてはまだまだデジタルは追いつかず,独自性が発揮されると思っていただけに,需要減少を理由に値上げされることについては,想像以上の厳しさでした。

 フィルムがこれだけ贅沢品になると,それまで頑張っていた銀塩カメラのユーザーが,もうくじけてしまうんじゃないかと思います。だから処分しようとする人が出てきます。

 でも,当時は非常に高価で,思い入れも一杯詰まった銀塩カメラはもはや二束三文の価値しかなく,本体よりもずっと安い値段で買った50mmの標準レンズの方の買い取り価格の方が高いという事が起きているようです。

 実のところ,私も時々フィルムを使いたい時があるのですが,冷凍庫からフィルムを出す前に,はて現像をどうするかなと思い至って,結局フィルムを出さずに終わってしまうのです。というのも,以前はお願いしていた近所のカメラ屋さんが少し前に閉店し,現像をお願い出来る場所が遠くになってしまったからです。

 フィルムの価格が上がる,打っている場所が限られる,現像してくれるところも探さないといけない,という環境の変化が,ジワジワと我々の周囲に迫ってきます。気が付いたら,もう銀塩カメラは,実用的な価値を失っているのです。

 かつて,ディスクカメラのボディを中古カメラ点で見ては,ゴミにしか見えなかったことをふと思い出し,これがまさかライカやニコンでも起きてしまうようになることを,私はため息をつきながら反芻するのです。 

Adobe税の季節

  • 2015/05/08 11:33
  • カテゴリー:散財

 Lightroomのメジャーアップデートがあり,バージョンが6になりました。

 AppleがApertureを突然大幅に値下げし,これに対抗する形でAdobeがLightroomを値下げ,しかも他の現像ソフトからの乗り換えキャンペーンで,実質的に1万円に値下げを行い,まさかの現像ソフトの価格破壊が起こりました。

 結果どうなったか。仕掛け人だったApertureは開発を中止し,この市場から撤退しました。一方のLightroomは他のAdobe製ソフトと同じサブスクリプションを導入し,CCをラインナップに加えることになりました。

 ついでにいうと,メーカー純正だったニコンのCatureNX2も開発が終了し,後継ソフトは機能が削減されて無償で配布されるという事態になりました。

 定評のあったSilkyPixは健在ですが,最近その評判をとんと耳にしなくなりましたので,存在感はかなり希薄になったといえるでしょう。主力商品が現像ソフトだけという小さなソフトメーカーでは,この戦いは厳しすぎたんじゃないでしょうか。

 平たく言えば,結局喧嘩を仕掛けたAppleが敗北し,これに巻き込まれて他のソフトも大きな傷を負ったということでしょう。勝ち残ったLightroomだって無傷ではないでしょうが,プロからアマチュアまで幅広く使われるようになったLightroomがデファクトになったことは,ユーザーはもちろん,Adobeにもそれなりのメリットをもたらしているはずです。

 で,私が恐れていたのは,Adobeが残存者利益を得ようとするだろうということです。そりゃ当たり前のことですし,正しい事だと思いますから,反対はしませんが,Adobeの「権利の主張」には昔から結構えげつないものがあって,勝者として好き買ってやるようなことがあったら残念だなと思っていたのです。

 その1つは,サブスクリプションへの全面移行です。従来通りのパッケージ版の販売は中止,月々数百円を払い続ける事でしかLightroomを使う事が出来ないという仕組みになってしまうなら,私はlightroomを使うのをやめようと思っていました。

 経済的な話をすれば,例えば月々1000円として年間12000円ほど。メジャーアップデートの周期が1.5年ごととしてその度に1万円のアップデート版のパッケージを買うとすれば,その間常に最新のものが手に入り,しかもPhotoshopまで使えてしまうのですから,かなりお得だなとは思います。

 しかし,私が抵抗があるのは,対価によってなにが手に入るのかという根本的な違いです。パッケージを買えば,そのソフトを購入することになるので,永久に使用することが出来ます。

 しかし,サブスクリプションは,使用する権利が手に入るだけですので,ソフトそのものの所有権は手に入らず,ソフトは手元に残りません。いわばレンタルですから,月々の料金を支払わないなら,そこでもう使用することが出来なくなります。

 試用期間が決まっているなら,サブスクリプションも結構でしょうが,その期間が過ぎたらもう全く使えないというのは,アマチュアには厳しいなあと思うのです。

 アマチュアは,それで収益を上げるわけではありません。これで作成したファイルやデータの価値は,プロのそれとは少し違っていることを考慮すると,10年後でも20年後でも,大きな価値を持っている場合が多いでしょう。

 確かに,PCもOSも変わってしまって,Lightroomが手元に残っていても動かせないかもしれません。しかし,PCやOSは工夫をすればどうにかなります。工夫の余地がないのは,手元に残っていないLightroomを入手することです。

 私は,Adobeが収益の改善にサブスクリプションを導入し,これに主なソフトを移行させたことで,完全にアマチュアを見てくれなくなったんだなあと思ったのです。同時に,Lightroomのようなアマチュアが使っているソフトは,まだそのままパッケージ版を残してくれていたんだと思っていました。

 だから,もしもLightroomがサブスクリプションに切り替わったら,Adobeはこれもアマチュアから取り上げてしまうんだなと,寂しく思ったのです。

 果たして,新しいLightroomはどうなったかといえば,サブスクリプションでも使えるようになりましたが,パッケージ版も残りました。価格も変わっていません。

 変わったことがあるとすれば,アップグレード版のパッケージ販売がなくなったことと,乗り換え版がなくなったことでしょうか。後者は乗り換えさせようという他のソフトが白旗を揚げたので当たり前として,アップグレード版がダウンロード販売で,しかもそれはAdobeのサイトからだけ可能というのは,かなり後退したという印象が拭えません。Adobeがアップグレード版の販売を軽く見るようになったということでしょう。

 そうそう,サブスクリプションはlightroomCC,パッケージ版はLightroom6という名称になりました。もしかすると,パッケージ版のLightroomは,6が最後になるかも知れません。

 ついでにいうと,lightroom5を今買うと,無償で6へのアップグレードが出来ます。乗り換え版を1万円ほどで購入出来れば,Lightroom6の乗り換え版を買うのと実質同じに出来ますが,もう在庫が残っているお店もないので,これは難しいでしょうね。


 さて,前置きが長くなりましたが,Lightroom6のアップグレード版がダウンロードでしか買えないのであれば,待つ必要もないと言うことで,発売当日に購入して最新版に移行しました。

 Adobeのサイトは,誰でもいつでも「わかりにくい」と言っていて,逆に使いやすいという話を誰からも一度も聞いたことがないくらい評判が悪いのですが,私も今回それを改めて痛感しました。これがAdobeの収益を落としていることは間違いないと思いますよ。買うのが面倒すぎます。というか,買うところまでなかなか到達出来ません。

 私の場合,Safariでは買えなくて,結局Firefoxをインストールしてようやく買うことができました。それも,9600円のアップグレード版を購入するのに,ほとんど勘に頼ってダンジョンを彷徨った結果で,よっぽど頭のいい人が作ったサイトなんだなあと,嫌みの一つもこぼしたくなります。

 ともかく,半日かかって手に入れたアップグレード版ですが,実際に移行してみると特に差を感じません。

 私は,表面的な違いを感じさせない新製品を評価するクセがついていて,これまでの操作の範囲で,その作業が快適になったり新しい機能が使えたりすることを歓迎する人です。操作系を変更せずに新機能を追加することは相反する事だけに困難なわけですが,ここをうまくやっているものは少ないようで,実は案外普通に目にします。

 自動車なんかはそうでしょうね。でも,発展途上のもの,特にPCはコロコロ変わって模索が続きました。

 でも,やっぱりメジャーアップデートだけに,違いに気が付きます。よく言われている新機能,例えば顔認識やHDRやパノラマ合成,フィルターブラシなどは私はありがたいと思っていないので使っていませんが,前のバージョンからの移行で気付いた点を少し書いてみます。

 まず,私が一番期待していたGPUを使った高速化ですが,私の環境では劇的な高速化が得られず,期待外れに終わりました。Early2008という非常に古いMacBookProで,もともと遅いマシンですし,GPUもGeForce8600Mですから,これで劇的な変化があるとは思っていませんでしたが,心持ち速くなったかなという程度の変化でした。

 現像でパラメータを変化させた時の,画面の更新の速度が上がったように思ったのですが,これはGPUをOFFにしても変わらなかったので,きっと根本的な改善が成されたのでしょう。

 一方で,その現像のプレビューは,ちょっと気になる挙動をします。これまでは,他の画像をプレビューした後,元の画像に戻った時に,キャッシュからあふれて解像度が下がっていたり,修正が反映されていない場合でも,プロファイルの適用は維持されたままでしたから,そんなに違和感はありませんでした。

 しかし,Lightroom6では,キャッシュからあふれるとプロファイルの適用も維持されなくなるようです。これは私にはかなり厳しく,違和感のある変更でした。

 そもそも,D800をRAWで使っているような人は,2008年のMacBookProなんか使っているはずもなく,もっと高速で,もっとメモリの大きいマシンを使うだろうから,こういう不満は私だけの問題なのかも知れません。

 全体として,Lightroom6は動作が少しだけ軽くなっていますし(他の方のレビューでは,CPUの占有率が上がっているので軽くなっているように思うだけだ,という意見もあって,本当はどうかわかりません),Lightroom5と同じことをするだけなら,全くなにも考えずに移行できます。

 少なくとも私の環境では,CanonのPRO-100はそのまま問題なく使用できましたし,初期のバージョンにありがちな不安定さもなく,空気のようなアップグレードだったと思います。

 使い込んでいくことと,バージョンアップが行われることで新機能が追加されていくことで,どんどん良い体験ができるようになるでしょう。考えようによっては1万円でこれだけ楽しみな買い物もないかも知れません。

ドットサイト照準器EE-1

  • 2015/04/28 16:18
  • カテゴリー:散財

 4月24日に発売され,その筋で話題になっているものがあります。オリンパスから発売された,「ドットサイト照準器 EE-1」です。デジタルカメラのオプションで,ホットシューに取り付けて使うものです。お値段は実売で12000円くらいです。

 正直に言いますと,私もこれ,全く知りませんでした。発売当日になって「おお,これは」と思ったくちで,それを昨日ようやく購入したというわけです。

 そもそも,「ドットサイト照準器」ってなんじゃという話から始めないといけないと思うのですが,乱暴な言い方をすると,真ん中に印のついた素通しのガラスです。

 照準器というだけあり,もともとライフルなど射撃に使われる,あの「ターゲットスコープ」のことです。

 一眼レフは,撮影レンズを通した画像をファインダーで見る事が出来るのが最大の特徴であり利点です。被写体を探す「ファインダー」という機能に加えて,フォーカス,被写界深度,画角,フィルターの効果などを,撮影された画像と(ほぼ)同じ物がリアルタイムで確認出来ることが,高い汎用性と機動性を生んでいます。

 いやー,レンジファインダーの時代に,超望遠レンズとかマクロレンズとか,厳しかったと思いますよ,本当に。

 ですが,やってみればわかるのですが,望遠レンズ,それも300mmを越えたあたりから,あまりに画角が狭いことで被写体を見失うことが増えるのです。見失ったらもう最後,ファインダーを見ながらその被写体をとらえることはもう無理です。

 だって,画角が狭すぎて見える範囲が小さく,フレームアウトしたらもうどこに行ったか全然解らないんですから,当然です。

 そこで反射的にぱっと顔を上げて,被写体を探すことになるのですが,見つかったところで,それを望遠レンズでつかまえるのがとても難しいです。

 だって,肉眼で被写体を見つけたところで,レンズをどの方向にどのくらい向ければいいのか,わからんでしょう。画角が狭い超望遠になればなるほど,困難になります。というより,素人には無理です。

 ということは,どこが撮影されているかを示す印がついている,画角が肉眼と変わらないものがあれば,被写体を追いかけることが簡単になりそうです。

 ここに気付いた人は,野鳥や飛行機といった「飛びもの」の撮影に心血を注ぐ人達です。さすがだなあと思うのですが,こういう便利なオプションはカメラ専用には存在しないので,先程のライフル用の照準器を流用することが,なかばその世界では常識になっていたそうです。でも,こんなの職務質問されたらいいわけが厳しいですよね・・・

 近年,センサのサイズが小さくなっていることもあってか超望遠が手軽に楽しめるようになりましたし,その上ミラーレスやコンデジのように,光学ファインダーを持たず,背面のLCDで被写体を追いかける必要が出てきていることもあり,飛びものに限らず,一般撮影でも便利に使えるということで,少しずつ知られるようになってきていました。

 こういう背景もあってでしょう,おそらくカメラの純正オプションとして始めて,オリンパスがこの照準器を製品化したのが,ものEE-1です。

 EE-1はオリンパス純正という事ではありますが,別にオリンパスのカメラ専用というわけではなく,ホットシューがついているものなら,何でも使えます。他社の一眼レフ,コンパクトデジカメ,ビデオカメラでもかまいません。噂では,汎用品として使って欲しいという願いを込めて,「OLYMPUS」のロゴが薄めに印刷されているそうです。

 EE-1は,素通しのハーフミラーを持っており,斜めから赤色のLEDを照射して,目印を「スーパーインポーズ」してくれます。あくまでハーフミラーですから,画角は変化しません。そして,このLEDによる目印(レティクルといいます)の場所と明るさは,調整が出来るようになっています。

 外付けのファインダーでもいいんじゃないの,と思うかも知れません。確かにそれでもいいのですが,2つ問題があります。1つは,どこが撮影されるのか,印がないのです。中央でいいなら話は早いのですが,構図を調整したり,AFの測距点が真ん中以外に設定されていると,もうお手上げです。

 しかも,後述しますが,被写体が近い時には大きな視差が生じてしまいます。

 2つ目は,外付けのファインダーには,装着するレンズに応じた画角が設定されていることが問題です。前述のように素通しであることが望ましいわけですから,勝手に28mmとか105mmとか,そういう画角に調整して欲しくないわけです。

 どんなものかはわかった,私にとってどうかを考えないといけません。

 まず最初に考えたのは,PENTAX Q7に純正のKマウントアダプターを介してKマウントレンズを装着した場合の,撮影の大変さから解放されるのでは,という期待です。ざっと5.5倍の焦点距離相当になるQ7では,例えばFA77mmと付けると420mmという超望遠になります。以前これで撮影を試みたのですが,簡単に被写体を見失います。その上フォーカスがマニュアルですので,もう大変でした。

 はっきりいって,最初に被写体がフレームに入っているかどうかは,私くらいの素人だともう運次第です。最初に入らないと,モタモタといつまで経っても撮影に入れません。

 D800でも,300mmにテレコンを使えば400mmを越えますし,有益なアイテムになるのではないかと思います。

 ということで,届いたEE-1を使ってみました。

 先に結論を書くと,視差が小さくなる遠くの被写体を,ファインダーから外れてしまうくらい大きくとらえる場合に,革命的とも思える便利さを提供してくれそうです。
 
 まず,視差が大きいと,EE-1を覗いた角度でレティクルの位置が大きくずれてしまうので,使い物になりません。十分遠い,少なくとも10mとか20mとか,それくらい離れた被写体でないと厳しいです。

 そのくらい離れた場所の被写体なら,ファインダーでも十分追いかけることが出来るくらい小さく見えるかも知れませんが,被写体そのものが大きいとか,被写体が高速で予測不可能な動きをするとか,あるいは600mmを越えるような超望遠なら,有用でしょう。

 思うに,このEE-1という照準器は,光学ファインダーともLCDとも,はたまたレンジファインダーとも違うもので,構造や原理の違い以上に,撮影手法を新しく増設するようなものだと,とらえるべきです。

 ファインダーにせよ,LCDにせよ,構図とフォーカスを確認する目的が必ずあります。しかし照準器には,それらを確認することができません。構図を見るには画角が一致しておらず,フォーカスを確認するにはレンズを通した画像が出てこないからです。

 ということは,構図については「ど真ん中にとらえる」ことをまず考え,フォーカスについてはAFを信じる,ということになるのではないかと思います。撮影者がやることは被写体を追いかけるだけ,それ以外は機械任せにするということです。

 ファインダーを見ずにスナップする撮影方法がありますが,これに並ぶ新しい撮影方法と思える理由が,ここにあります。

 そして,この撮影方法が使えるのが,超望遠で遠距離の被写体をとらえるとき,にほぼ限定されてしまうということです。

 今のところ,この機材に出番はありません。しかし,いずれ出てくるでしょう。こういうのは,長く売られて定番化するという事が少ないでしょうから,買えるうちに買っておくのが望ましいです。

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