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マイクロコンピュータ小史~その3 16ビットマシンの登場と台頭

 さて,今回で最後,16ビットマシンの台頭とPC-9801の終焉までの流れです。

・16ビットマシンの登場と台頭(1985年~1995年)

 1981年にはIBMから8088を搭載した16ビットパーソナルコンピュータ,IBM-PCが登場し,翌1982年には日本電気のPC-9801が8086を搭載して登場した。これらの16ビットCPUを用いたパーソナルコンピュータが主としてビジネス用に向けて発売されていた。

 本体価格はもちろん,システム一式の価格が高価であったこと,ゲームなどのホビー用ソフトウェアが少なかったこと,サウンド機能やジョイスティック端子などのホビーマシンに求められる機能を持たなかったこともあり,それまでの8ビットマイクロコンピュータとは明らかに異なるものとして認識されていた。

 しかし,ゲームやホビーの分野においても,BASICでプログラムを書く事が次第に行われなくなり,その処理能力やメモリ容量,高いグラフィクス能力を生かしたゲームが発売されるようになって,徐々に8ビットマイクロコンピュータは市場を縮小し,16ビットパーソナルコンピュータがあらゆる用途に利用されるようになる。

 日本の標準機であったPC-9800シリーズは,何度かの仕様拡張が行われたが,1985年に登場したPC-9801VM0/2/4以降は互換性がほぼ維持され,この機種をもってPC-9800シリーズの基礎が完成したと見る向きが強い。

 インテルのCPUの進化がそのままシステム性能の向上に繋がり,初期には8086やV30であったPC-9801も,80286,80386,486,PentiumとCPUの世代交代が起こる度に順当に性能を向上させている。

 ただし,あくまで処理速度の向上が主たる変更であり,MS-DOSで使用されるメモリの最大値はあくまで640kバイト,グラフィックは640x400ドットで4096色中16色の表示能力,漢字表示用のテキストVRAMを持つ事や,低速の拡張スロットを持ち続けていること,周辺LSIにほとんど変化がないことなど,基本仕様の変更は最小限にとどめられていた。

 一方,8ビットのマイクロコンピュータではホビー用途にも厳しくなるなか,シャープからCPUにモトローラの68000を採用したX68000が,X1シリーズの後継品種として1986年に発売になった。X68000は標準で2Mバイトのメモリを搭載,最大1024x768ドットのグラフィックと,最大65536色を同時に発色できる表示能力に,強力なスプライト機能,8和音のFM音源にADPCM音源を持つ,当時のゲームセンターのゲームマシンに匹敵するハードウェアを備えていた。

 すでに最大1Mバイトでは頭打ち感の強かった8086搭載のパーソナルコンピュータに対して,X68000は16Mバイトのメモリ空間を持つ68000の特徴を生かし,大容量のフレームバッファに広大なメモリ空間を用意していた。

 開発環境も整備され,その強力なハードウェアを徹底的に叩いたソフトウェアが長く作られ,主としてゲームなどのホビー用途やゲーム開発のマシンとして支持されたが,ビジネス用のソフトウェアが少なく,PC-9801用のソフトウェアに太刀打ち出来るものが存在しなかったことで,ビジネス用にはほとんど普及することがなかった。

 また,68000というCPUを採用したにもかかわらず,32ビット化が遅れたこと,最終のマシンであるX68030でさえも初代X68000の基本仕様をほとんどそのまま踏襲していたことから,当時の急速に進歩するコンピュータの世界において魅力を失い,一部の熱狂的なマニアに支持されたのみに終わってしまう。

 これとは別に,シャープは16ビットのビジネス用パーソナルコンピュータとしてMZ-5500とMZ-6500シリーズを発売したが,こちらもPC-9801の敵ではなく,すぐに市場から消え去った。

 一方の富士通は,1982年に6809と8088を搭載可能なFM-11を発売,これがFMシリーズにおける16ビットパーソナルコンピュータの最初のモデルとなるが,実質的には1984年に登場する8088のみを搭載したFM-11BSと,同年登場した後継機種であるFM-16βによって本格的に16ビットの市場に取り組む事となった。

 FM-16βは,PC-9801に席巻された市場を奪うべく用意された戦略的モデルで,CPUには80186を搭載,グラフィック描画に専用LSIを搭載するなど意欲的であったが,初期のOSとしてCP/M86を選んだことからソフトウェアの充実が図られず,PC-9801の牙城を崩すことは出来なかった。

 FM-16βをベースにさらに拡張を行ったのがFM-R50シリーズで,PC-9801シリーズの直接の対抗に当たる。このFM-R50をベースに,ホビー用途にも利用出来る家庭用パソコンとして,FM TOWNSが登場する。

 FM TOWNSは当初から80386をネイティブモードで動作させていたため16ビットパーソナルコンピュータではなく明らかに32ビットパーソナルコンピュータであったのだが,多色表示,スプライト機能,FM音源の搭載,そしてCD-ROMの標準搭載といったホビー用途を意識したものであり,PC-9801の不得意とする分野においてX68000とはライバル関係にあった。

 FM TOWNSはインテルのプロセッサを採用したことからその性能向上の恩恵を受けられた事もあり,1995年まで新機種が発売され,一定の支持を集めていた。

 こうして,日本国内では巨人NECのPC-9801シリーズがビジネス,ホビー共にパーソナルコンピュータ市場を制覇し,これにシャープと富士通という2弱による,独自アーキテクチャのコンピュータが,それぞれの支持者に支えられていた。

 海外ではIBM-PCとその互換機が市場を押さえており,1995年に登場するWindows95の登場によって,日本でもこれら独自アーキテクチャのマシンが急速に衰退することになる。


・互換機ビジネスとPC-9801

 IBM-PCは汎用品を組み合わせて作られた上に,オープンアーキテクチャを選択したため,互換機を開発することは容易であったが,著作権のあるBIOSをコピーするわけにはいかず,公の市場に互換機が登場することはしばらくなかった。

 しかし,著作権に抵触しない,安全なBIOSを供給するメーカーが現れ,互換機メーカーがここから合法的なBIOSの供給を受けることにより,IBM-PCと互換性のあるマシンが市場に投入出来た。

 本家であるIBMは互換機の持つ低価格,高性能なマシンに打ち勝つことが出来ず,やがてパーソナルコンピュータからの撤退を余儀なくされるが,IBM-PCとこれをベースに発展した現在のPCは,Windowsというハードウェアを隠蔽化する仕組みを持つOSの登場によって,すでにハードウェアの違いを意識しないようになっている。

 市場を寡占したメーカーの利益は莫大であり,価格競争に巻き込まれることもないため,当時の日本市場を押さえていたPC-9801シリーズの互換機を,大手メーカーとしては初めてセイコーエプソンが発売する。

 当時最新で,NECのPC-9801VX2に採用されていた80286をCPUに搭載したPC-286シリーズがPC-9801VMの互換機として発表されるが,ROM-BASICに著作権違反の疑いがあるとしてNECが発売差し止めを訴え,PC-286mode1からmodel4は発売を中止した。

 問題となったROM-BASICは,電源を入れると立ち上がるBASICインタプリタのことで,フロッピーディスクのサポートもないため,直接このBASICを使う事はほとんどなくなっていた。しかし,多くのソフトウェアがこのROM-BASICに格納されたサブルーチンを使っていたこともあり,互換性を維持するには避けて通ることの出来ないものであった。

 急遽ROM-BASICをオプションにしたPC-286model0を発売したが,その後著作権問題を解決し両社は和解,PC-286VとPC-286UからROM-BASICを搭載して互換性を高めている。

 この後PC-286シリーズは低価格,高性能を武器に売り上げを伸ばし,セイコーエプソンの主力商品の1つとなるが,PC-9801の衰退する1995年には撤退,以後はIBM-PCの互換機を販売するようになる。

 NECは自社がPC-9801用に発売したMS-DOSに,PC-286では動作しないようにチェックをかけていたが,エプソンはこれを解除するソフトを配布していた。ソフトハウスによってはこの「エプソンチェック」を行うものもあったが,後にこのチェックは廃止される。

 1987年当時,PC-9801の互換機はセイコーエプソン以外に数社が開発を行って,発売を検討しているという噂が流れていたが,実際に互換機を発売した大手メーカーとしてはセイコーエプソンのみであった。なお,シャープがMZ-2861という機種でPC-9801の互換を実現したことがあったが,これはあくまでPC-9801のエミュレーションを専用のソフトウェアで行い,特定のアプリケーションだけが動作するというもので,互換機として考えない場合がほとんどである。


・ホビーを志向した16ビットパーソナルコンピュータ

 NECはPC-8801シリーズを16ビット化したPC-88VAを1987年に発売する。Z80とV30の両方に互換性のあるカスタムLSIを中心に,グラフィック機能とサウンド機能を強化したホビー用マシンは,PC-8801シリーズとの互換性を売りにし,X68000をライバルとしたマシンであったが,ホビー用途がPC-9801シリーズに移行する流れには逆らえず,3機種の発売で終息する。

 1989年には,PC-9801VM相当とPC-8801MH相当の機能をそのまま1つの筐体に格納し,スイッチで切り替える事の出来た,PC-98DOが発売になる。翌年の1990年にはCPUをV33にして高速化を図ったPC-98DO+も投入するが,すでにPC-8801は不要になった時期でもあり,主流とはならなかった。

 富士通のFM TOWMSについては,キーボードやハードディスクを省き,CD-ROMで供給されるソフトウェアを「再生する」ためのマシンとして,小型のMartyを発売する。ちょうど当時はPlaystationとSEGA Saturnといった次世代ゲームマシンが登場する直前ということもあり,CD-ROMによって供給されるマルチメディアタイトルを,家庭用テレビで再生するための需要があると分析されていた時期でもあって,そのプラットフォームとしてFM TOWNSを応用したものであったが,そもそもFM TOWNSにそうしたソフトが揃っていたわけではなく,市場に受け入れられることはなかった。

 また,先に触れたX68000は常にマニアの方を向いたマシンとして,ハードやソフトを自作出来るスキルのある人,目の肥えたゲームマニアの期待に応えてはいたが,新しい仕様,拡張された機能などがほとんど用意されず,後継機種において進化したのはCPUのクロック周波数と搭載されたハードディスクの容量くらいのものであった。

 ただし,筐体の小型化は進み,バリエーションの1つとして3.5インチフロッピーディスクを搭載したcompactシリーズは68030モデルでも併売され,最終的に事実上の標準となった観さえある。

 X68000シリーズは,PowerPC搭載モデルの試作まで完了していたという話もあり,当時からそうした次世代モデルの噂が絶えなかったが,最終的にメーカーとしての判断から開発を中止,結局後継機種は出ないまま1982年に登場したX1の系譜は途絶えることになる。


・PC-9801シリーズ終焉

 主力機種の価格が約40万円という伝統を長く守ってきたPC-9801シリーズであったが,IBM-PCの互換機でもDOS/Vによって日本語表示が可能になったことから,一気に低価格のパーソナルコンピュータが流入する。

 そこで,従来路線を踏襲する高機能なモデルをPC-9821シリーズとし,基本性能をMS-DOSから使うユーザーに向けた廉価版をPC-9801として残す2ラインナップが1990年代初頭に見られた。

 PC-9801シリーズは後に終息,ほぼ全ての機種がPC-9821シリーズとして登場し,WIndowsへの対応やIBM-PCとの共通性を少しずつ高めていくことになるが,独自アーキテクチャであることが最終的に足かせとなり,ハードウェアもソフトウェアも,その開発が負担となっていった。

 また,Windowsの登場は,独自のアーキテクチャであることを隠蔽化するものであり,ユーザーがWindowsの動作を目的としている場合は,安価なIBM-PC互換機を買えばそれで十分という状況が生まれていた。この場合,PC-9821シリーズでなければならない理由はもはや存在せず,次第に市場規模が縮小する。

 そして1997年,NECはPC98-NXというPC97規格に準じたシリーズに軸足を移すが,2003年にはPC-9821シリーズの新規受注を停止,ここに長く日本のパソコンの代名詞であったPC-9801シリーズは,完全に終了する。


・MS-DOSとWindows

 汎用のOSとして販売された8086用のOSであるCP/M86は,当初MS-DOSに比べて優勢であったが,IBM-PCのヒットと共に,その優位性が高まってゆく。日本国内においては,MS-DOS2.11までアプリケーションを格納したフロッピーディスクにプリインストールされており,フロッピーディスクを入れて電源を投入すれば,MS-DOSからそれぞれのアプリケーションまでが起動するという一連の流れが実現した,唯一のOSであった。

 MS-DOSもバージョン3以降はこうした「バンドル」を許さなかったので,ユーザーは別にMS-DOSを購入し,自らインストールを行う必要があったが,この時すでに優秀な開発環境,低価格化したハードディスクへの対応,デバイスドライバによる拡張,日本語フロントエンドプロセッサの登場など,MS-DOSの優位性は揺るぎないものであった。

 当初,フロッピーディスクとファイルの操作,キーボードやマウスと言った入力デバイスの管理を行うだけのOSだったMS-DOSは,日本語入力手段の提供,EMSメモリによるメモリの拡張,ハードディスクやCD-ROMといった大容量デバイスへのアクセスといった機能を提供し,それぞれのアプリケーションに提供するようになる。

 それでもMS-DOSはシングルユーザー,シングルタスクのOSであり,GUIやマルチタスク環境を提供するものではなかった。

 マイクロソフトがアップルのLisaやMacintoshのGUIに触発されて開発したとされるWindowsは,MS-DOSの後継OSとしてIBMと共同開発を行っていたOS/2に対し,MS-DOSの拡張という形で細々と開発が行われていた。しかしIBMとの関係が悪化し,マイクロソフトはOS/2からWindowsへと軸足を移してゆく。

 Windows1.xはDOSのアプリケーションに過ぎず,また貴重なメモリを圧迫してしまうためほとんど使い物にならなかった。2.xではEMSメモリに対応することでメモリの問題には1つの解決策を提示したが,8086,80286,そして80386の3つのプロセッサを別々のパッケージで対応し,それぞれに機能差があった。

 Windows3.xになり,基本的には80386のみを対象とした上で,80286におけるプロテクトモードで動作するようになったことでようやく実用レベルに達し,特にWindows3.1とDOS/Vにより,海外製の安いIBM-PC互換機が国内でも売れるようになってゆく。

 そして80386のプロテクトモードで動作するWindows95が登場し,本格的なWindowsの普及が始まった。


・このころのCPU

 すでに16ビットのマシンが当たり前になったこの時代,インテルの8086の系列とモトローラの68000の系列が主軸となっていた。

 8086は現在のx86の原点とも言える16ビットCPUで,64kバイトごとに区切られたセグメントによって最大1Mバイトまでのメモリをアクセス出来る16ビットCPUである。命令セットなどのアーキテクチャに,8ビットである8080や8085を色濃く残していたため,これを揶揄する人も多かったようだが,そもそも8086が当初目指したのは8080からの受け皿であり,16ビットでアクセス出来る範囲をセグメントとして分けたこともその1つの方法である。

 8088は8086の外部データバスを8ビットにしたものである。当時のDRAMは1チップで1ビットの入出力端子を持つ構成であり,16ビットバスに接続するには最低16個のチップを必要とした。仮に64kビットのDRAMを用いた場合,最低でも128kバイトからの実装となってしまうため,そんなに必要ないという用途には無駄になってしまう。8088はこういった要求から生まれたもので,64kビットのDRAMを最低8個から構成できる事から低価格,小規模なコンピュータに向く。

 80286は8086の後継CPUとして登場した16ビットCPUであり,16Mバイトのメモリ空間に階層化されたメモリ保護機能を持つものであった。ただしパソコンでの使われ方は高速な8086としてであり,80286の機能を生かしたものはほとんどなかった。

 80386は80286を大幅に強化した32ビットCPUで,8086,80286との互換性も維持している。80386は完全な32ビットCPUであり,メモリ空間は4Gバイト,保護モード,ページング方式のMMUを内蔵しており,x86の完成形として現在のインテルの礎を築いた。

 68000はモトローラの16ビットCPUであり,M68000というアーキテクチャを実装したプロセッサの第一号である。16Mバイトのリニアなアドレス空間に直行性の高い命令セット,内部完全32ビット構成と,当時のミニコンピュータをお手本にしたCPUとして,他と比べて抜きんでた性能を誇っていた。68008は8ビットバス版,68020は32ビットバス版である。

 68030は68020の改良版で,キャッシュメモリとMMUを内蔵し,処理速度を向上させたものである。

 V30はNECが開発したCPUで,8086の互換CPUである。ピンコンパチではあるが電気的な仕様がやや異なるためそのままの差し替えは行えない場合が多い。オリジナルの8086に比べ一部の命令が処理クロック数が削減されており,同クロックの8086に比べてわずかだが高速化されていることが特徴。著作権侵害をインテルに訴えられた訴訟は長く続いたが,最終的に侵害の事実はないと判定され,和解した。

 65816はAppleIIやファミリーコンピュータに採用された6502の後継CPUで,6502との互換性を持つ16ビットCPUである。パーソナルコンピュータとしてはAppleIIGSにしか採用された例はないが,スーパーファミコンに採用された。

 Z8000はザイログが開発した16ビットCPUであるが,Z80との互換性はない。8086に比べてミニコンピュータのアーキテクチャに近く,68000が登場する前には本命とされていた。パーソナルコンピュータへの採用は例が少ないが,専用ワープロの書院などに採用された例がある。


・その他の日本の16ビットパーソナルコンピュータ

 三菱:MULTI16・・・CPUに8088,フロッピーディスクドライブとCRT,キーボードを一体化したオールインワンのマシンで,1981年に登場した日本の16ビットパソコンの草分け的存在。MS-DOSを採用したパソコンとしても最初期にあたり,マイクロソフトがMS-DOSを移植する際に,漢字を取り扱うために用意した文字コードが後にシフトJISと呼ばれるようになる。

 日立:ベーシックマスター16000・・・CPUに8088を搭載した初期の16ビットパソコンであり,驚くべき事にベーシックマスターJrやLevel3と一緒に広告が掲載されたこともある。実はIBM-PCの互換機である。

 東芝:PASOPIA16・・・PASOPIAシリーズの16ビットマシンで,CPUには8086を装備していた。やはりビジネス用途に向けたものであり,強力なOA-BASICが用意されていた。東芝はこの後,IBM-PCの互換機を展開,ラップトップマシンのJ3100シリーズや,世界初のノートPCであるダイナブックを投入し成功する。

 シャープ:MZ-2861・・・前述のMZ-5500や6500が,MZ-3500やPC-3200を源流に持つものであったのに対し,MZ-2861はMZ-2500(つまりMZ-80B)を源流に持つマシンである。CPUには80286とZ80Bを搭載し,MZ-2500モードに切り替える事で完全にMZ-2500として動作した。基本性能は高く,同梱のワープロソフト「MZ書院」も評価が高かったが,現在はPC-9801のエミュレーションを行ったマシンとして記憶にとどまる程度である。

 三洋:MBC-55・・・8088をCPUに持つパーソナルコンピュータである。1983年当時としては,128kバイトのRAMとフロッピーディスクドライブを1台内蔵して178000円と非常に価格が安く,家庭用テレビに接続出来る,フロッピーディスクは片面倍密度という安価なものを採用するなど,トータルコストを低く抑えてホビー用途も視野に入れたものであったが,ビジネス用途には必須であったソフトウェアの不足によってほとんど知られることなく市場から消える。なお,後継機種のMBC-5800はPSGやボイスシンセサイザを内蔵したが,こちらはさらにマイナーで知る人も少ない。

 松下電器:PANACOM-M500・・・富士通のFM-R50のOEMで供給されたシリーズである。

 松下電器:MyBrain3000・・・1983年に発売。松下通信工業が開発したビジネス向けの16ビットパーソナルコンピュータで,CPUには8088を採用していた。日本で最初にMS-DOSを採用したパーソナルコンピュータとして知られる。

 ソード:M68・・・パソコンベンチャーとして知られたソード電算機システムは,主としてビジネス用のパーソナルコンピュータを発売していたが,このうちCPUに8086と68000の2つのCPUを搭載したモデルが,このM68である。ソードはPIPSという簡易言語の評価が高く急成長を果たしたが,アプリケーションは自作するものから買ってくるものへと時代が変わり,急激に存在感を失っていく。現在は東芝の子会社となっている。

 NEC:PC-98LT・・・PC-98とついてはいるが,PC-9801とは互換性のないモデルで,NEC最初のラップトップマシン。PC-9801のサブセットという位置付けで,専用のソフトしか動作しなかったために,PC-9801LVというPC-9801シリーズと互換性のあるラップトップが出ると同時に消滅するが,その後この機種を小型化したPC-98HAが登場することになる。

 NEC:N5200モデル05・・・PTOSというOSが動作するオフィスコンピュータのシリーズの1つで,大型機の端末にもパソコンにもなることが売りであった。基本的な構成には同時期のPC-9801と共通する点も多かった。8インチフロッピーディスクドライブを2機装備し,CPUには8086を搭載していた。

 NEC:PC-100・・・PC-9801とは別のラインとして1983年に登場した16ビットマシンで,CPUには8086を装備していた。設計と製造には京セラが深く関与した言われており,ビットマップディスプレイに縦置き可能なCRT,マウスを標準装備し,OSにはMS-DOSを採用するなど,時代を先取りするかのような意欲的な仕様が多く盛り込まれた。しかしNECはPC-9801を主流として位置づけており,価格が高価であったこと,アプリケーションが揃わなかったこと,当時としては決して処理性能が高いわけではなかったことから売れず,営業的には失敗とされる。

 日本IBM:JX・・・失敗作といわれたIMB-PCjrをベースに,日本向け独自仕様を盛り込んだもので,当時の日本IBMとしては異例の個人向けに販売された機種。PC-8801程度の価格で16ビットマシンが買えることが売りであったが,動作は緩慢であり,ソフトもほとんどない中苦戦を強いられ,後継機種も出ずに撤退。

 カシオ:FP-3000・・・8086を採用した16ビットマシンで,1983年に148000円という低価格で発売されたマシン。ビジネスと言うより

 トミー:ぴゅう太・・・8ビットのマイクロコンピュータの範疇に入るホビーマシンであるが,CPUは16ビットのTMS9995を用いているため,16ビットマシンとして扱う場合もある。ただ,TMS9995は8086や68000に比べると明らかに一世代前の16ビットCPUといえ,16ビットマシンとして当然の処理能力が不足しているため,一般には16ビットマシンとして考える事はない。VDPにはMSXと同じTMS9918を採用し,初期のモデルはカタカナによる日本語表記のBASICインタプリタを装備するという異色のコンピュータであった。ROMカートリッジでゲームを楽しめる点はMSXやM5,SC-3000などと同じゲームを志向するマシンであったが,同時に販路の関係からおもちゃ屋さんの店頭に並ぶこともあり,コンピュータ専門店がなかった地方などでも実際に触ることが出来た数少ないマシンの1つである。

マイクロコンピュータ小史~その2 第二次マイコンブーム

 今回は第2回目,日本の,世界のマイコンが熱かった,あの時代を振り返ります。

・第二次マイコンブーム(1978年から1980年代中盤)

 電子工作の延長で始まった第一次マイコンブームは,その動機がコンピュータを作り,所有するという点にあり,コンピュータそのものの実用的利用を念頭に置いたものではなかった。

 しかし,ワンボードマイコンが完成品として安価に手に入るようになって,自分で部品を集め,組み立てる必要がなくなり,また拡張機器が充実することにより,やがて実用的な利用を動機とする人々向けのコンピュータが主流になる。

 それまでワンボードマイコンを販売してこなかった家電メーカーや事務機メーカーなど,多様な会社の参入があり,多くの機種が誕生し,雑誌にも多くの広告が掲載されるようになった。

 また,この時期のマイコンの使用目的としてBASICを使ったプログラミングとゲームに加え,家計簿や住所録,学校教育のアシストといった真面目な用途ついても期待されたが,これらはそもそものコンピュータの性能が低いことやプリンタやフロッピーディスクといった外部記憶装置を含む周辺機器が本体並みに高価だったことから実現出来ず,結局BASICプログラミングとゲームが主な用途となっていた。


・この頃のマイコンの特徴

1.8ビットのCPUを搭載している

 かつては多くのCPUが存在していたが,このころになると8ビットCPUはインテルの80系か,モトローラの68系の2つに集約される。80系の代表は8080上位互換のザイログ製Z80であり,68系の代表は8ビットCPUとしては最高性能とされた6809である。

 8ビットのCPUは,一度に管理できるメモリ空間が64kバイトであり,当時主流となりつつあった64kビットのDRAMチップと相性が良かったことに加え,フロッピーディスクやハーフVGA程度までのグラフィクス,あるいは3和音程度の音楽機能を持たせるには適当だったということもあり,どうしても高価なシステムとなる16ビットCPUは「ビジネス用途」のコンピュータに限定される時代が長く続いた。

2.OSは存在せず,BASICインタプリタがOSとエディタの機能を持っている

 OSは存在せず,電源を入れると即座に起動するBASICインタプリタがOSとエディタの機能を包含していることが,この時代のマイコンの最大の特徴である。

 これ以前のワンボードマイコンの場合,モニタからBASICインタプリタを起動する必要があるなど,BASICインタプリタが単独のソフトウェアとして位置づけられていたが,ベーシックマスターやPC-8001の登場によって,電源を入れると即座にBASICインタプリタが動作することが標準となった。

 これは,BASICインタプリタがダイレクトモードによってコンピュータに指示を出せたこと,外部記憶装置や画面制御などの資源を管理出来るようになったこと,スクリーンエディタの機能も持つようになったことで,これらを区別せずに実装する方が,より使いやすかった上に,メモリも小さくて済んだことによるものと考えられる。

 また,現実的な問題として,高級言語としてBASICは習熟が容易であり,扱いの難しいコンパイラではなくインタプリタとして実用になったことも,BASIC以外の言語を選択する必要がなかった理由であると考えられる。

 ただし,シャープのMZシリーズやX1シリーズはBASICインタプリタをROMに持たず,メモリ空間の大部分をRAMに割り当ててあった。ユーザーはブートローダによって外部記憶装置からBASICインタプリタをロードしなければならなかったが,反面BASIC以外の言語を利用出来たり,CP/MなどのOSを簡単に動かすことが可能であった。

3.メーカー間,あるいは機種間の互換性がない

 異なるCPUを選択したマイコンに互換性がないことは当然として,周辺LSIの違いやメモリマップといったハードウェアの違いや,BASICの言語仕様の違い,BIOSコールのアドレスやROMサブルーチンの仕様の違いといったソフトウェアの違いによる機種間の非互換性は,当時はごく当たり前のこととされていた。

 機能の違いや使いやすさ,価格の高低などはこうした違いから生まれるものであり,むしろ積極的に他との違いをアピールすることが普通であった。

 結果として,マイコンごとに得意なことや不得意なことが生まれることになり,用途や目的を満たすために最適なマイコンを選ぶことから始める必要があった。

 また,このことがユーザーの派閥を生むことに繋がり,特定の機種に入れ込む熱狂的なファンが他機種を非難するなどの行為が,実質的なパーソナルコンピュータのアーキテクチャの統一が図られる1995年頃まで続くことになる。


・このころのマイコン

 1978年に登場した日立製作所のベーシックマスターは,その名の通り電源を入れれば即座にBASICインタプリタが立ち上がる,後のマイコンの源流となった記念すべきコンピュータであり,この点において日本で最初のパーソナルコンピュータと位置づけられる。CPUには6800を装備し,多くのユーザーによって支持されたが,絶対性能の低さ,市販ソフトのスクなさゆえ,次第に存在感が薄くなってゆく。

 1980年には日本で最初に6809を搭載したマイコンとしてベーシックマスターLevel3が登場,1984年にはその後継となるS1が登場するが,意欲的な機能と性能に評価は高かったものの,大ヒットすることはなく日立製作所は独自アーキテクチャのマイコンから撤退することになる。

 同じ1978年にはシャープからMZ-80Kが登場する。CPUにはZ80を搭載し,ディスプレイとキーボード,カセットデッキまでを1つの筐体に格納したオールインワン設計と,BASICインタプリタをROMに持たず,メモリ領域の大部分をRAMに割り当てたクリーン設計によってヒットする。

 MZ-80Kはキーボードの組み立てにハンダ付けが必要なセミキットとして販売されたが,このアーキテクチャを踏襲するMZ-80C,MZ-1200,MZ-700,MZ-1500などの機種では完成品として販売されることとなる。

 1981にはMZ-80Kを大幅に機能アップしたMZ-80Bが登場する。オールインワン設計とクリーン設計を踏襲しつつ,メモリの拡張,高解像度グラフィックのサポートなどで高度な処理に対応し,後にMZ-2000,MZ-2200,MZ-2500といったマシンの源流となる。

 一方,MZシリーズとは異なる事業部において,テレビとの融合を図ったX1シリーズが1982年に登場する。クリーン設計は引き継ぐもディスプレイとキーボードは本体から分離したデザインで,当時の家電を意識したデザインとレッド,シルバー,ホワイトのカラーバリエーション,サウンド機能や640x200ドットで8色カラーのグラフィクス,PCGといったゲームに有利な機能と業界標準であったマイクロソフトBASICに近い文法を持つ高機能なHu-BASICを搭載し,独自のユーザーを獲得する。

 1984年にはZ80ファミリを全面採用し,16ビットマシンに匹敵する表示能力を持ったX1turboシリーズが登場し,8ビットマイコンの終息期まで生き延びた。

 1979年には日本電気からPC-8001が登場する。PC-8001はこの当時求められた機能の多くを搭載した完成度の高いモデルであり,かつ168000円という低価格によって大ヒットとなり,その後の日本電気のパーソナルコンピュータ事業の礎となった。

 CPUにはZ80,カラー表示とセミグラフィックを備えており,世界標準であったマイクロソフト製の強力なBASICインタプリタをROMで実装,電源投入で即座に利用可能となっていた。

 1981年には基本的なアーキテクチャを踏襲して日本語の表示機能や大容量メモリを搭載したPC-8801と,機能を落としより低価格にしながら,グラフィックとサウンド機能については強化を図ったPC-6001が登場し,この後しばらくのラインナップとなる。

 1985年にはPC-8801の後継機種であるPC-8801mk2SRが登場し,他メーカーを押さえて8ビットマイコンの覇者として君臨する。ゲームを始めとしたソフトウェアはこのPC-8801mk2SR向けに優先的に開発される傾向が強くなり,当初のビジネス向けの性格からホビー向けの性格を強くしてゆく。

 この後,PC-9801などの16ビットマシンに移行するに従い,8ビットマイコンはその使命を終えることになる。

 1981年に富士通から登場したFM-8は,CPUには6809を2つ用い,マイクロソフト製のBASICをROMに持つ8ビットマイコンとして登場する。当時最先端だった64kビットDRAMを採用し,大容量メモリを標準で実装し,オプションでJIS第一水準の漢字ROMまで搭載できた。

 グラフィックは640x200ドットの8色カラーであるが,48kバイトにもなるVRAMの実装と高速化のためにグラフィックを担当するサブCPUを用意し,ここにも6809を搭載したことを大きな特徴とする。

 また,バブルメモリという当時期待された外部記憶装置のスロットを本体に装備しており,豊富なオプションと共にどんなことにも対応出来る意欲的なコンピュータであった。

 1982年にはFM-8からADコンバータなどあまり使用されない機能を省き,サウンド機能を追加,処理速度を向上させた下位機種のFM-7が発売になる。126000円という低価格で20万円近いライバルと真っ向勝負が可能というコストパフォーマンスの高さにより大ヒットとなる。このことで富士通はNEC,シャープと列んでパソコン御三家と呼ばれるようになる。

 1985年にはFM-7を源流に,大幅にグラフィック性能を向上したFM-77AVが登場し,このアーキテクチャが8ビットマイコンの終息まで生き残る。


・MSXの流れ

 こうした個性的なコンピュータが販売される一方で,8ビットマイコンの共通規格を策定し,各メーカーはこれに従ってハードウェアとソフトウェアの互換性を維持する動きもあった。

 BASICインタプリタで圧倒的なシェアを持つマイクロソフトと,日本のアスキーによるMSXがそれで,CPUにはZ80を,VDPにはTMS9918,PSGとしてAY-3-8910を採用し,これに強力なMSX-BASICインタプリタが搭載され,各社から1983年に発売された。

 ゲームを主な用途に据えていたこともあり,ROMカートリッジによってソフトウェアが供給されるような仕組みを備えていたほか,BIOSによってBASICのバージョン違いやちょっとした非互換部分を隠蔽化する仕組みも持ち,機種間の互換性は非常に高いものがあった。

 しかし,実際にはMSXという単一の8ビットマイコンがいろいろなメーカーで製造され,販売されただけのことといえ,それぞれのメーカーでは個性を出すことと互換性を維持することの両立に頭を痛めていた。

 結局NECとシャープはMSXの発売を行わず,富士通も1機種出すにとどまった結果,パソコン御三家対その他の弱者という構図が定着することとなる。

 ただし,MSXは世界展開を視野に入れ,韓国やヨーロッパでは一定の成功を収めた。また1985年にはグラフィック性能を向上したMSX2が登場,1998年にはグラフィック周辺を改善したMSX2+が登場し,MSXにおける事実上の標準となった。1988年にはCPUを高速化したMSXturboRが登場するが,10万円以上という価格と絶対性能の低さ,また結局松下電器1社しか発売しなかったことなどからこれを最後にMSXは消滅した。


・周辺機器の進化

 1980年代は,劇的な技術革新による価格の低下により,それまで高嶺の花だったものが民生品として手に届くようになっていた。

 1980年代初期には本体価格よりも高価だったフロッピーディスクドライブは1980年代後半には5万円台の本体に内蔵されるようになり,メディアの価格も大幅に下がることで,爆発的普及を果たした。

 プリンタについても,日本語ワープロの爆発的普及に端を発した高精細な日本語熱転写プリンタが安価に提供され,カラー印刷も可能になっていった。

・機能の進化

 複雑な処理と高度なグラフィックに不可欠なRAMも大容量化が進み,1980年代初頭には16kビットが標準だったDRAMは,1984年頃には64kビットに,1980年代後期には256kビットのものが使われるようになった。

 また,サウンド機能も大きな進化を遂げ,初期にはビープ音のみだったものが,タイマICを使った音程を可変出来る仕組みに発展,やがて3和音を奏でるPSGと呼ばれた専用LSIが標準的に搭載されると共に,これをBASIC上で駆動するためのMMLというマクロ言語が普及することで,コンピュータによる自動演奏への道が開けた。

 さらに,LSI化することが容易という特徴を生かして,ヤマハによるFM音源を搭載したデジタルシンセサイザLSIが搭載されるようになると,多くの和音を多種多彩な音色で演奏することが可能なり,その豊かな表現力によってマイコン利用の1つのジャンルとして定着するに至った。


・表示能力の進化

 初期の代表機種であるPC-8001は160x100ドットのセミグラフィック(1つの文字に2x4ドットのグラフィックパターンを書き込んでおきこれをテキスト画面に並べることで擬似的にグラフィック表示を行うもの)を持っていたが,メモリの価格が下がることで256x192ドットや320x200ドットといったフルグラフィックが利用出来るようになる。

 そして高解像度グラフィックとして640x200ドットのフルグラフィックが1つの到達点となり,高級機種はこの表示能力を持つことが標準となる。16ドットの漢字が1行に40文字表示することが出来るこの能力は,特に国内のコンピュータに強く求められるものであった。

 PC-8801などは,水平周波数を15kHzから24kHzにした超高解像度表示をサポートしており,モノクロながら640x400ドットという表示能力を持っていた。このモードでは16ドットの漢字を40x25文字という十分な文字数表示することが可能であり,特にビジネス用途において必須となっていった。

 しかし,この画素数は,処理速度やメモリ容量から8ビットCPUには荷が重く,本格的に利用されるようになるのは16ビットコンピュータが主流になって以降の話で,ディスプレイとして家庭用テレビをそのまま利用したり,専用であっても安価であった200ライン表示が,この頃の標準であった。


・ファミコンとゲーム

 8ビットマイコンによって,ゲームを作る,ゲームで遊ぶことが家庭で実現したが,それでもゲームセンターにあるゲーム機に比べてハードウェアもソフトウェアも貧弱だったマイクロコンピュータで作ったゲームは大きく見劣りするものであった。

 そんなおり1983年に登場したファミリーコンピュータは,ゲームセンターのゲーム機を基本性能を損なわないような形で簡略化し,徹底的なコストダウンによって14800円という低価格を実現し,大ヒットとなった。

 それでも,いわばプロ仕様であるゲームセンターのゲーム機の進化は激しく,ゲームセンターでヒットしたゲームがどのくらい家庭用の機器で忠実に再現できるのかが,そのゲームソフトの評価基準の1つであったといえる。

 また,基本的にゲームセンターのゲーム機の開発を専門とするメーカーが,ファミコンなどの家庭用ゲーム機に参入してソフトウェアの開発と販売をビジネスにするのも,このころの大きな転換点の1つであった。


・ポケットコンピュータの存在

 科学技術計算の現場や大きな金額を取り扱う事務所などでは,処理能力の高い電卓がしばしば利用されていた。これらは自動計算を行うためのプログラムが可能だったり,複雑な関数を持っていたり,小型のCRTディスプレイで高い表示能力を持っていたり,プリンタを内蔵したものもあった。

 これらの中には,プログラム電卓専用の言語を引き継がず,BASICを搭載するものも現れた。電卓を源流に持つマイクロコンピュータの誕生であるが,一般の量販店では販売されることが少なく,高価なものが多かった。

 やがてこれらの電卓はポケットサイズになってゆくが,通常の関数電卓とは違った流れとして,BASICを搭載したプログラム電卓という独自のジャンルを形成し,ポケットコンピュータと呼ばれるようになる。

 最初のポケットコンピュータは1980年に登場したシャープのPC-1210である。小型で安価,フルキーを備えBASIC言語が扱えるマイクロコンピュータとしてヒットしたが,翌1981年には弱点であった処理速度とメモリ容量を改善し,本格的なBASIC言語を装備したPC-1500を登場させ,この分野を確立した。

 また1981年にはカシオがfx-702Pを発売,翌1982年にはシャープがPC-1210の後継であるPC-1250を発売し,速度,メモリ容量を拡大,またさらにサイズを小型化して真のポケットコンピュータと呼べるものが登場するようになる。

 そしてカシオから,14800円という低価格で1982年にPB-100が登場し,BASIC言語を扱えるコンピュータとして初めて15000円を切った価格で衝撃を与え,多くのユーザーを獲得した。

 ポケットコンピュータはその後,PC-1250を源流に持つもの,PB-100を源流に持つものを軸に1990年代中頃まで販売が続けられるが,BASIC言語に対するニーズが激減し,工業高校や理工系の大学における教育用のコンピュータとしての役割もほぼ終えたことから,現在新品でポケットコンピュータを入手することは難しい。

 ポケットコンピュータは,BASICによってプログラムを作成出来るプログラム電卓の一種であり,当然関数電卓としての基本機能を失っていない。よって多くの機種で電卓モードとプログラムモードを備えており,電卓モードでは通常の電卓同様に扱うことができる。

 学校で教材として触れた学生もいれば,安価なマイクロコンピュータとして手に入れた人も,また持ち運びが可能なコンピュータとして活用した人もおり,現在も一部の人々の間で重用されている。

 
・このころ参入した8ビットマイコンメーカーと機種

 東芝:パソピアシリーズ・・・Z80を中心に構成されたパソコンで,特に後期に登場したパソピア7は,高いグラフィック能力とサウンド機能を武器に一定の存在感を示したが,販売台数が伸びず,市販のソフトも少ないまま消滅。その後MSXに軸足が移る。

 三菱:マルチ8・・・Z80を中心に構成されたパソコンで,ビジネスにも対応出来る能力を備えてはいたが,いかんせん市販ソフトがほとんどなく,存在感を示すことなく消滅。こちらもMSXに参入するが,ここでも存在感を示せず撤退。

 松下電器:JR-100/200・・・実際には松下通信工業が開発した初心者向きのマイクロコンピュータで,CPUには6800を使っていた。JR-100は54800円という廉価な価格でBASICを学習できるホビーマシンで,モノクロでグラフィックを持たないがPCGを装備していた。JR-200ではカラー対応とサウンド機能を持った後継機種である。JRシリーズは松下電器産業がMSXに参入する際に終息している。

 ソード:M5・・・ゲームを志向した小型のマイクロコンピュータで,CPUにはZ80,VDPにはMSXと同じTMS9918を使っていた。Z80のモード2割り込みを使った数少ない機種の1つ。TMS9918の機能であるスプライトや,サウンドジェネレータをフルサポートしたゲーム作りに最適なBASIC-Gが別売りで用意され,人気のあった機種であった。しかしMSXと似たようなスペックであったことと発展型の後継機種が出なかったこと,メーカーであるソードの経営不振などもあって,早い時期に市場から消える。

 タカラ;ぴゅう太・・・オモチャメーカーであるタカラが作った16ビットマイクロコンピュータで,CPUにはTMS9995,VDPにはTMS9918を搭載していた。国内仕様ではBASICがすべてカタカナによる日本語で記述することになっていた。その後英語表記のBASICに戻した後継機種も出ているが,これもMSXと似たようなスペックだったこともあり,それ程普及せず終息。

 バンダイ:RX-78・・・バンダイが発売したマイクロコンピュータで,ゲームを主な用途としていた。製造はシャープが請け負ったが,ヒットせず市場から消える。

 セガ:SC-3000・・・ゲームメーカーのセガが発売した廉価版のマイクロコンピュータで,29800円という低価格で発売された。SC-3000からキーボードを省いた専用ゲーム機がSG-1000であり,セガの家庭用ゲームマシンの源流である。CPUにZ80,VDPにTMS9918というMSXと類似の仕様となっており,ほぼ同時期に発売されたファミリーコンピュータからは見劣りした。
 
カシオ:FP-1000・・・カシオが発売したセパレート型のマシンで,CPUはZ80 ,内部BCD演算の高精度なBASICを搭載,PC-8801に匹敵する性能をはるかに安い価格で実現した良心的モデルであった。計算機のカシオらしいマシンであったがシリーズ化されることなく終息。

ソニー:SMC-70・・・CPUにZ80を搭載,アナログRGBによる中間色を扱える高度なグラフィック機能に,新開発の3.5インチフロッピーディスクが用意された,CP/Mを思考した意欲的なマシン。後に低価格化したSMC-777も登場したが,MSXへの参入をきっかけに終息。

エプソン:HC-20・・・電池で長時間駆動するフルスペックのマイクロコンピュータとして注目された,世界初のハンドヘルドコンピュータ。CPUはCMOS版のHD6301Vで,メモリを含むほとんどのICがCMOSで構成されていた。強力なマイクロソフトBASICを装備し,RAMもバックアップが行われ,内蔵のNi-cd電池で50時間の動作が可能,当時としては大型のLCDとフルキーボードを装備,プリンタやカセットデッキも内蔵していた。HCシリーズはその後長く機種展開を続け,周辺機器として音響カプラも用意され,今で言うモバイルコンピューティングを具現化した記念碑的マシンと言える。

三洋電機:PHC-25・・・CPUにZ80,VDGに6847というPC-6001によく似た構成を持っているが,BASICで作られたプログラムに多少の互換性があるという程度であり,よく言われるような互換機ではない。サウンド機能などを省いて価格を下げたホビー向けのマイクロコンピュータであった。この後PHCシリーズはMSXに移行し,独自アーキテクチャのマシンは終息する。


・このころの外部記憶装置

 当初,外部記憶装置と言えば,音楽用のカセットテープであった。FSKを変調方式に使い,300bps程度のシリアルデータと音を相互に変換し,この音をカセットテープに録音する仕組みであったが,低速で信頼性が低く,また寿命も短い上にランダムアクセスが出来ないなど,致命的な欠点を持っていた。

 8ビットマイクロコンピュータとはいえ,64kバイトを越えるメモリを搭載するようになると,高速化されたカセットテープであっても10分程度の待ち時間を要する場合もあり,フロッピーディスクへの憧れがユーザーの間で高まっていった。

 フロッピーディスクは当初8インチのものしかなかったが,高速大容量であった一方で非常に高価であり,扱いも決して楽ではなかった。ほぼ同じ構造を踏襲し小型化した5.25インチのフロッピーディスクが登場し,Apple][で標準的に利用されるようになると,マイクロコンピュータの外部記憶装置として手頃なものとして急激に普及するようになった。

 1980年代中盤にメディアは1枚1000円エイド,ドライブは2ドライブのもので20万円弱というのが相場であったが,徐々に値段も下がり,1980年代後半にはメディアは1枚100円程度,ドライブも2ドライブで6,7万円で手に入るようになった。また10万円程度のマシンにドライブが標準されるようになったことも大きい。

 後に固いジャケットとシャッターを備えた3.5インチフロッピーディスク,5.25インチの互換性を重視した3インチフロッピーディスクなど,小型化されたものが登場するが,最終的には5.25インチと3.5インチが生き残ることになる。

 一方,カセットテープ並みの安さ,手頃な記憶容量と,ディスクの高速性を両立した手軽なメディアとして,クイックディスクの存在がある。大きさは約2.5インチで,渦巻き状に記録される。片面64kバイトという8ビットマイクロコンピュータにぴったりな容量を持ち,8秒でセーブとロードが完了する高速性と,特にドライブが安価であったことから,MZ-1500やファミリコンピュータディスクシステム,電子楽器などに用いられた。

 バッテリバックアップが可能になったC-MOSのSRAMを用いたRAMカートリッジやRAMカードを採用したケース,バブルメモリという時期バブルを応用した新しい記憶装置を採用したもの,MSXのようにマスクROMをカートリッジに収めたものなど,高価なフロッピーディスクの代わりになるメディアがいくつも提案されたが,結局フロッピーディスクの低価格化によってそれらはほとんど消滅した。


・このころのデバイス

 ロジックICはTTLの74LSシリーズが多く用いられたが,マイクロコンピュータ用の大規模なLSIはnMOS化が進み,ほとんどのLSIが5V単電源のnMOSとなっていた。

 DRAMは16kビットから64kビット,256ビットと順調に集積度が上がり,また扱いやすく改良されるようになって,多くのマイクロコンピュータで使われるようになった。

 一方のSRAMは低消費電力でバッテリバックアップ可能なC-MOSで作られた6116シリーズが登場し,DRAMとは別の用途に用いられるようになる。特にポケットコンピュータやSRAMカードといったバッテリバックアップという性能を十二分に生かした用途は,これらがなければ成り立たなかった。

 CPUはもちろん,周辺LSIの充実もこの時期に行われ,PPI,UART,DMAC,タイマといった基本機能を実現するファミリLSIを始め,PSG,CRTC,LCDC,FDC,GDC,GPIBコントローラや浮動小数点演算を行うプロセッサなど,多くの品種が揃っていた。

 ROMについては大容量で安価なマスクROMが主流であったが,紫外線で消去し,専用のライタで書き込むUV-EPROMが書き換え可能なROMとして主役の座にあった。また,マスクROMにあらかじめJIS第一水準や第二水準の漢字フォントを書き込んだ状態のROMを漢字ROMとして販売していた。

 1980年代後半から,nMOSやTTLよりも消費電力を引き下げ,かつ高速動作が可能なC-MOSのICを製造する技術が確立し,TTLシリーズと肩を並べるようになった74HCシリーズがロジックICとして急速に普及を果たす。同時にnMOSで作られたCPUなどもC-MOSで作られるようになり,電池駆動が可能なマイクロコンピュータが実現するようになった。


・このころの汎用OS

 8ビットのマイクロコンピュータでは,一般にOSを持たず,BASICインタプリタがその役割を果たすことは既に述べた。しかし,汎用のOSを動作させて,この上でプログラムの開発や実行を行うケースも多く,一部のマニアや技術者が利用していた。

 このころのマイクロコンピュータ用OSは,特定の機種専用という形ではまだ販売されておらず,ハードウェアに依存した部分をユーザー自らが変更して,自分のコンピュータで動作させるのが普通であった。

 CP/Mはデジタルリサーチが開発した8080用のOSで,当時ようやく利用出来るようになってきたフロッピーディスクを前提にした,マイクロコンピュータ用の汎用OSとして世界最初のものである。CP/Mは8080やZ80では標準となっていたOSであり,FORTRANやCOBOL,Cをはじめとした各種高級言語,マクロアセンブラやリンカ,Wordstarなどの高機能なエディタなど充実したソフトウェアが揃っていた。

 OS/9はマイクロウェアが開発した6809用のOSで,6809の高い性能を生かすことの出来る,非常に優れたOSであった。もともと6809用の高級言語であるBASIC-09が開発され,この言語が動作する環境として整備されたOSという経歴を持つ。マルチタスク,リエントラントといった特徴を持つもので,その信頼性の高さから製造機器の制御などの工業用途にも多くの採用例があった。

マイクロコンピュータ小史~その1 第一次マイコンブーム

 今でこそ,手元に必ずあり,家電量販店の一角で主力商品の1つとして販売されるようになったパーソナルコンピュータですが,こうなるまでに紆余曲折が随分とありました。

 電子工作が大好きで,作る事と使う事を楽しめた私も,何度か訪れたパソコンのブームにはそれなりの経験をしていますが,その頃を語る資料や書籍に目を通すと,必ずしも自らの記憶と合致するものとは限らないことがままあります。

 これは,住んでいた場所,周囲の人々との関わり合い方,お金持ちだったか貧乏だったかという経済状況,他のことに興味があったかなかったかに大きく左右されるところがあって,特に1980年代中盤を少年として過ごした人々にとって,それこそ千差万別の記憶として残るものだからと思います。

 というところまで考えた上で,私なりに少しまとめてみることにしました。今後不定期に書いていこうと思います。

 私は1971年の生まれで,住んでいたのは大阪の郊外,両親はどちらも文系で,どちらかというと貧しく,私自身もそれほど勉強が出来たわけではありません。ま,当時としてはごく普通の家だったんじゃないでしょうか。

 まず第1回目は,第一次マイコンブームです。

 そもそも,マイコンブームとは何だ,と言うところから考えなければなりません。諸説ある中で,私自身が考えるマイコンブームを定義し整理します。また,本来その中心地であるアメリカの状況を無視して考えるわけにはいかないのですが,とりあえず国内の状況を軸にします。

 なお,私自身は第一次マイコンブームは経験しておらず,どんなものかをリアルタイムでは知りません。第二次マイコンブームはの渦中にいた時,一昔前の話として当時の雑誌や人づてで知った事が中心になっているので,例えばこの時すでに30歳代だったミニコンのSEの人たちの感じた印象と食い違っていることは,当然あり得るでしょう。


・第一次マイコンブーム(1970年代中盤から1979年)

 1971年に登場した4004というマイクロコンピュータをきっかけにし,それまで大きく高価だったコンピュータが,個人で所有出来るようになったことから,マイクロコンピュータが技術者だけではなく,学生や一般の人々を巻き込んだ一大ブームになった。最初のマイコンブームだったことから,これを第一次マイコンブームと呼ぶ。

 それまで,トランジスタやゲートICなどの部品を多数集めて作らざるを得なかったコンピュータは,専門の知識,技能,そして相応の経済力を持たなくては買う事も作る事も出来ず,きちんとした利用目的を持った専門家が購入するものであった。

 しかし,半導体技術の進歩によって登場したマイクロコンピュータを利用すれば,LSIを数個から数十個組み合わせるだけで小型のコンピュータを作る事が出来るようになり,アマチュアが趣味で取り組む事が可能になった。

 初期は処理能力も低く,高価だったマイクロコンピュータも,1976年頃になるとミニコンピュータの下位機種程度の性能を持つ8bitのCPUが1つ数千円で購入できるようになり,またその入手や取り扱いも簡単なものになってきた。

 このブームの中心にいたのは,電子工作を得意とするホビーストやアマチュア無線家,理系の学生や企業の技術者など,すでにコンピュータとは何かを知っている人たちであり,コンピュータを自分達で作り,また所有して独占使用するという憧れが,強い動機になっていた。

 CPUやRAMなどを部品で購入し,これをハンダ付けして組み立てる事は,個人が趣味で出来るようになったとはいうものの,やはり技術力と根気,そして大きな資金が必要であった上,組み立てた後のソフトウェアを作る事も当然自分達で行わねばならず,基本的には全てが手作りであった。

 この頃創刊されたマイコンに関する雑誌として,I/O,ASCII,マイコンなどがある。これらはまだまだ少なかったコンピュータを作るという作業に必要な情報を発信する,非常に貴重な存在であった。

 このブームの後半である1976年には,日本電気からTK-80というトレーニングキットが登場する。これは面倒なハードウェア製作の手間を減らし,マイクロコンピュータの利用と習熟を目的とした,CPUを売る立場の半導体メーカーが用意したキットの1つだが,当初顧客であるメーカーの技術者をターゲットに想定したTK-80は,その思惑から外れアマチュアが秋葉原などの小売店で購入し,自ら組み立てるという形で異例のヒットを記録し,NECのパソコンビジネスの途端を開いた。

 TK-80のヒットに触発され,日立製作所やシャープ,富士通といったCPUメーカーから相次いで同様のトレーニングキットが発売され,これらは総じてワンボードマイコンと呼ばれるようになる。

 こうしてワンボードマイコンは,本来の技術者のトレーニングにも使われる一方で,一般の消費者にも小売店で販売され,フルキーボードやTVモニタ,大容量のRAMやBASICといった高級言語が利用出来るようになるなどの拡張が行われていった。そして,誰でもお金さえ出せばコンピュータが手に入るワンボードマイコンによって,第一次マイコンブームはピークを迎えることになる。

・このころのCPU

 国内外の半導体メーカーから多種多様なCPUが登場し,価格も性能もまちまちであったこの時代,自分で気に入ったCPUを探してこれを中心にコンピュータを作り上げるのが普通であったことから,まずどのCPUを選ぶかがコンピュータを手に入れる,最初の作業であった。

 8080はインテルの8ビットCPUであり,現在まで続くx86の原点と言えるもの。この当時の代表的CPUの1つであり,64kバイトのメモリ空間やスタックポインタの実装など,当時の8ビットCPUの基準となった。ただしハードウェアの設計はやや難しく,これが大きく改善されたZ80が登場すると,主役の座を降りることになる。

 6800はモトローラの8ビットCPUであり,現在小型の組み込みマイコンとして使われるフリースケールのHC08の源流である。ミニコンピュータの設計を手本にしたアーキテクチャで知られる。6800は後に6809となり大幅に機能が強化され,究極の8ビットと呼ばれるようになる。

・このころのメモリ

 大容量を実現出来るダイナミックRAMはまだまだ扱いが難しく,また高価で信頼性も低かったことから,もっぱらアマチュアにはスタティックRAMが用いられた。スタティックRAMは現在のような低消費電力を特徴とするものではなかったため,わずか4kバイトのメモリを実装するのに1kビットのSRAMが32個も必要なるなど,規模の大きな回路と大きな消費電力,そして発熱に悩まされた。

 ROMはUV-EPROMがまだ一般的ではなく,マスクROMが主流であったが,ユーザーの手元で書き込みが出来るROMとしてはヒューズROMもしくはEEPROMが使われた。

・このころのデバイス

 ミニコンピュータを始め,多くの電子機器で大量に使われたICがTTLであり,特に当時最新だったLSシリーズが消費電力と性能を高次元でバランスしており,主流であった。

 現在主流のCMOSは,低速でも低消費電力で,広い電圧範囲で動作するといった特徴を有した特殊なICであり,腕時計やおもちゃなどに限定的に使われたに過ぎない。また,pMOSやnMOSについては集積度が上げられること,TTLに比べて消費電力を下げられることから次第に大規模なLSIに使われるようになっていった。

・このころの技術な流れ

 マイクロコンピュータが普及するに至り,民生品へのマイコン搭載が当たり前になってくると,技術者達に求められる技術として,デジタル回路とソフトウェアが求められるようになる。しかしその主流はまだまだアナログ技術であり,完全なリアルタイムで動作する電子回路を複雑に動作させることで,所望の仕様を実現していた。

・このころのヲタク

 第二次ベビーブームの少年達の趣味は,豊かになった親の世代に支援を受け多様化する。ブルートレイン,テレビゲーム,アマチュア無線,電子楽器,カメラ,生録音,ステレオ,BCL,スロットレーシング,簡単なラジコン,電子工作,Nゲージ鉄道模型,などが流行った。総じてエレクトロニクスの発展が新しいホビーを生み出すきっかけになっていた。

梅雨の花

 東日本も梅雨に入り,しとしとと雨が降るようになって来ました。

 私は雨が大好きで,晴れた休日にある慌ただしさもなく,気温もそれほど上がらず,じっとしていればそこそこ過ごしやすい梅雨時は,引きこもるには魅力的です。

 昨日,ふと玄関先で,お隣の紫陽花の美しいグラデーションを見かけたので,DP1sで撮影してみました。

ファイル 382-1.jpg

 28mm,F4,現像はPhotoshopCS5です。トリミングをしています。

 つくづくDP1sというカメラのポテンシャルにはうならされます。そしてその性能に自分の力が全く追いついていないことを痛感します。

 ところで,クローズアップレンズを使ってみたのですが,画質やボケはそこそこのものだったのに,オートフォーカスの精度が甘く,フォーカスがきちんと来ていませんでした。

 マクロ撮影ではフォーカスが難しくなることをうっかり忘れていたせいもありますが,さりとてマニュアルフォーカスはこのLCDでは簡単とはいえず,なんだかこういう理由でもこのレンズが「寄れない」仕様になっているようになっているのかも知れないなと思いました。

メーカーに煽られる消費者と3Dテレビ

 AV業界は3Dでもちきりです。

 タモリ倶楽部じゃないですが,そっちのAVではありません。(それはそれでどんなものか見てみたいですが)

 国内外のテレビ関連メーカーで,テレビの3D対応が進んでおり,2010年はその元年と言われています。

 わずかに高いだけでかつてない経験が出来るという触れ込みで一気に普及させたいとするメーカー側に,当初否定的だった評論家達が,ここへきてどういうわけだか「いいんじゃないの」と提灯をぶら下げるようになって,風向きが変わりつつあるように思います。

 私としては,商機を逃さないと頑張るメーカーさんには,B-CASやら補償金やらダビング10やらの問題を常に提起し続けて,とっとと解決してもらった方がみんなが幸せになるのではないかと思うのですが,考えて見るとこれは国内問題であって,海外で苦戦を強いられている日本のメーカーとしては,世界的潮流である3D化を進めないわけにはいかないのでしょう。

 最初に断っておきますが,私は3Dには極めて否定的です。ただし,映画館でも3Dを体験したことがない人ですので,その上での否定です。

 理由をごちゃごちゃ書くことすら無駄だと思われるほどバカバカしい話だと思っているので箇条書きにします。いや,メーカーや提灯評論家たちはすでにここで書くことなど,論破したつもりでいるので,私は声高に主張しません。

・メガネがいる
 -> 家族揃って大晦日に,3Dメガネをみんなしながら紅白をみるんですか?
   なんちゅうサイバーな家族ですか,そいつは。
   生まれてからずっと「テレビはメガネをして見る物だ」と思って
   育つ子供の気持ちになってみて下さい。

・家族の崩壊が進む
 -> メガネが足りない場合,メガネをしたくない場合,メガネをしていない人は
   普通に家族揃って一緒にテレビを見られません。
   よくも大画面テレビが「一家団欒の中心」などといえたものです。

・コンテンツがない
 -> 徐々に揃うでしょうが,そんなことより先にBlurayの普及じゃないですか。

・手軽な無料放送である地デジで試せない
 -> 一般の人たちは地デジで十分なんですよ実際。

・体に合わない人がいる
 -> 頭痛,めまい,疲れ,違和感,吐き気,肩凝り・・・
   そこまでして3Dでみたいかと。

・3Dでみたいものがない
 -> ひな壇バラエティーで奥行きを感じたいですか?
   ニュースで奥行きが必要ですか?取材映像は3Dじゃないですよ。
   北朝鮮からの映像は未だに4:3のSD解像度ですし。

・テレビの役割
 -> テレビの役割は,映像の伝送であって,仮想現実の伝送までは
   多くが望んでないじゃないでしょうか。

・画質の低下
 -> 3D(2Dの疑似3D化も含む)のために演算パワーや消費電力,
   帯域をあてがうより先に,もっと先にすべきことがあるんじゃ
   ないですか。

・そもそも誰のため
 -> 消費者が欲しいといって用意されたものではなく,メーカーの
   都合で出てきたもので,うまくいった試しがありません。

・そもそもテレビをみない
 -> みなさんテレビみてます?


 先日,朝電車の中でつらつらと,「押しつけられる違和感」を感じながら,昨今の3D化に煽られる状況を考えていると,過去に似たような違和感を感じて成功した事例って本当にないのかなあと考え込んでしまいました。

 例えば,白黒テレビを見た人は,しばらくするとやっぱりカラーが欲しいと思います。メーカーはカラーテレビを作り,消費者のニーズに応えるわけです。

 アナログテレビが誕生したとき,その解像度は14インチ程度のテレビを前提に決められたわけですが,消費者は大画面テレビと,大画面化によって必要になった高画質化を望みました。

 それらはテレビの主流となったわけですが,繰り返すとおり消費者のニーズが先にあったということが共通しています。ごく自然な流れです。

 では,消費者のニーズが少なく,メーカーの押しつけの結果大失敗に至ったものをちょっと探してみましょう。今回のテーマは,本来はこれです。


・4チャンネルステレオ

 ステレオがブームになり,立体音響の素晴らしさが浸透したあと,単純に後ろにもスピーカーを置こう,と安易に消費者を煽った4チャンネルステレオ(あえて当時の書き方であるチャンネルと書きます)は,1970年代に各社がこぞって実用化しました。
 最悪だったのは,真面目に4チャネル分の音を記録できるようにフォーマットに手を入れたメーカーがある一方で,ステレオの音から残響成分を取りだしただけのなんちゃって4チャンネルステレオも存在し,これらがメーカーごとに「うちのが一番」と展開されたことで,用意しないといけないものや実際の効果の違いが大きくバラツキ,消費者にそっぽを向かれたという事実です。
 後にサラウンド,などといって10年ごとに手を変え品を変え,似たようなものが出ては消え出ては消えして現在に至っていますが,消費者は音に包まれることよりも,音を持ち歩いて個人で楽しむ事を選んだのです。


・Lカセット

 これも1970年代ですね。コンパクトカセット(いわゆるカセットテープです)を一回り大きくしたもので,テープの幅を広げ,かつテープの走行速度を速めて高音質化し,オープンリールの性能とカセットの使いやすさを兼ね備えたものとして登場しました。
 しかし,消費者はカセットテープの性能向上を望み,Lカセットはあっという間に死に絶えました。後に登場するメタルテープによるカセットテープにより,オープンリールさえ完全に消え去りました。それだけあのサイズの使い勝手が良かったということでしょう。


・クリアビジョン

 アナログテレビ放送の高画質化を行う手法として,映像信号の隙間に高画質用の信号を挟み込み,対応のテレビで見れば高画質になるという触れ込みで1980年代後半に始まりました。でも,結果は一目瞭然。消費者は微々たる高画質化を地上放送で期待などしてなかったのです。


・FM文字多重放送(みえるラジオ)

 1990年代に始まったFM文字多重放送ですが,今放送されている音楽の曲名やキャンペーン情報を一緒に放送できるということで,それなりに期待されたようです。しかし,ラジオを聞いている人が常に文字情報を見られる環境にいるのか,と言われればそんなわけもなく,やっぱりラジオを聞いている人がどんな人なのかを見誤った結果ではないかと思います。


・AMステレオ放送

 1990年代に鳴り物入りで始まったAMステレオ放送は,始まって10年もすると,受信機の入手さえ難しくなりました。AMラジオを聞いている人がどういう人たちで,何を望んでいるのかを完全に見失った結果でしょう。個人的には残って欲しかったんですが・・・


・キャプテンシステム

 もうね,恥ずかしくって「ニューメディア」なんて,口に出来ませんよね。超ナローバンド,低解像度,少ない色数で貧弱な表現力,緩慢な動作,それでいて結局なにが出来るのかさっぱりわからないのに,トップダウンですごいすごいと言われ続けた代表格でしょう。知らない?ええ,知らないままで結構です。


・レーザーディスク

 それでも普及してた,と言う人もいるでしょうが,冷静に考えるとレーザーディスクなどは,マニアしか持ってませんでした。
 光学ディスクに映像を入れるということで得られるメリットは,頭出しが素早いことと,画質が優れていること,あと製造が楽で値段が下がることだったはずですが,そもそも映画で頭出しをすることは少なく,高画質化と言っても所詮525i,しかも値段は全然下がらず,では一般への普及などあるはずはありません。
 だから,カラオケ用に偏ったわけです。


・DCC

 音質云々は別にして,コンパクトカセットをディジタル化したDCCは,ミニディスクに敗れました。これは勝ち負けというより,DCCが少なくとも国内の消費者のニーズを無視していたことにあると思います。消費者は十分高音質になったコンパクトカセットのディジタル版が欲しかったわけではなく,録音と編集のできるCDを欲しがったということなのです。


 ・・・まだまだあると思いますが,AV関係だけでもぱっとこれだけ見つかりました。まあ,メーカーもそんなに悪意があったわけではないでしょうが,古今東西,消費者というのは案外賢く,あざとい考え方でものを売ろうと思ってもダメなものです。

 そう考えていくと,3Dテレビっていうのも,似たようなもんだと思えてなりません。

 私はむしろ,3Dは映画館で楽しむもの,と言うことになるんじゃないかと思っています。大画面,大音響,そしてあの独特な雰囲気と,映画を見るということだけを目的に足を運び,お金を払い,2時間拘束されるあの覚悟が,映画を映画館で見ることの意義であり価値であるわけですが,ここに3Dによる非日常が加わるということの方が自然です。

 一方で,個人で映画館を持つ事など出来ませんが,ミニ映画館を作るための方法として,プロジェクタやサラウンドシステムが売られています。でもそれはマニア向けで,そうした設備に価値を見いだせる一部の人の趣味の世界なわけです。しかも,どんなにお金をかけようとも,結局のところ映画館のサブセットに過ぎません。

 3Dが家庭に入ることがあるとすれば,この世界からになるのではないかと思います。普通は映画館で楽しむ,マニアはそれを自宅で再現する,再現することそのものも目的になる,という形で,細々と使われていくのではないでしょうか。

 消費者というのは賢いくせに,面倒くさがりです。おそらくメガネをすることを面倒くさがり,次第にメガネをしなくなります。メガネをしないと,3Dにならないのですから,3Dテレビの必要性も出てきません。そうするとコンテンツ,特に地デジでは3Dになる可能性は低くなり,3Dテレビは絶望的状況になります。

 別の言い方をすると,3Dで見たいときだけメガネをしますが,それってプロジェクタで映画を見ることと,同じ気分ですわね。せっかく映画を見るんだから,できるだけいい状態で楽しみたいということです。ですからAVマニアも,ニュースや天気予報は普通のテレビで見ているんです。

 そんなこんなで,私は3Dテレビは黒歴史になると思っているのですが,声高に3Dを叫んでいないメーカーを良心的だとも感じています。

 引っ越ししたら,いいテレビを買いたいなあとずっと思っていましたが,もうすぐ引っ越しという絶好の機会が訪れます。実は,もう新しいテレビを手配済みで,今回のテーマは,そのテレビの選択を正当化する屁理屈だった,というオチなのです。

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