目の前に伝説の人がいるという驚異
- 2008/02/19 13:23
- カテゴリー:できごと
先週土曜日は,かのバート・バカラックのコンサートに行ってきました。大ファン(というかいわゆるポピュラーミュージックに触れるきっかけになった特別な存在だそうです)の友人が「もう80歳だからね,今回の来日は奇跡だ」と声をかけてくれたのです。
出不精の私としても,せっかく東京近郊に住んでるわけですし,これはやはり見ておくべきだと,そのお誘いにのることにしました。
繰り返しますが御年80歳。存命なのは普通の話として,失礼ながらステージに立てるのでしょうか・・・それも東京で2回,神奈川で1回,大阪で1回も,です。
しかし,そんな心配は杞憂でした。2月16日18時。予定通りそのステージは幕を開けました。
オーケストラに囲まれ,グランドピアノの前に座るその人は,間違いなくバート・バカラックでした。いやー,全然80歳にみえん!
半世紀以上にわたって,まさにポピュラーミュージックシーンの先頭を走り,まさに道なき道を切り開いてきたその偉大な「発明者」は,演奏する曲があまりに多すぎて,フルコーラスを演奏した曲は少なく,何となく気ぜわしいメドレーが中心です。
しかし,そのメドレーも違和感なくスムーズに繋がるのはさすが。あれよあれよといううちに,彼の世界に引き込まれていきます。
注意力が削がれてしまうような夢心地に浸りながら,私は彼の「節回し」に思いを巡らせていました。
私見ですが,バート・バカラックほど,受け手によって評価するポイントが大きく違う人もいないのではないでしょうか。ある人はコード進行の素晴らしさ,ある人は美しいメロディー,ある人は独特のリズム,という具合にです。
それは受け手の勝手な解釈によって意見が割れるという意味ではなく,まして評価が定まっていないという事でもなく,これらすべての完成度が一様に高く,受け手がたまたまどれに感動したのか,という「第一印象」によるところが大きいという,そういう意味です。
私の場合,コード進行でバカラック節」を意識するようになりました。
面倒臭いのでキーをCにしますが,
C -> F -> G7 -> C
という3コードは,あまりに普通すぎてつまらんのですが,これを,
Cmaj7 -> Fmaj7 -> FonG -> Cadd9
とするだけで,随分中間色になる,といいますか,雰囲気が変わるんですね。
私は,これを誰が最初にポピュラーミュージックに投入したのか,すごく気になっていたのですが,ひょっとするとバート・バカラックがその先駆者ではないかと,今回思ったりしました。本当にところは専門家に任せますが・・・
同じようなコード進行は,カーペンタースにもよく見られますし,コードとして確立される以前には,オーケストラ出身のアレンジャー達によって普通に行われていたのですが,コンポーザーがこれを意識してスコアに明記するようになった現代とはちょっと事情が違うと思われ,アレンジの1つとして和音を組み立てるのではなく,作曲家が意識してこれらのコードを使いこなす時代が来たのは,やはり彼がきっかけになってるんではないかだろうかと思うわけです。
カーペンタースについても濃いマニアがいるので,彼らからの異論は当然あると覚悟の上であえて言いますが,結局リチャード・カーペンターも,バート・バカラックのフォロワーに過ぎないということです。そして,それがカレン・カーペンターの声と組み合わさって,彼らの世界として定着しました。私の理解は,あくまでバート・バカラックが源流にあります。
今回,彼の最初のヒット曲を演奏してくれました。まるで子供向けの音楽のような無邪気な曲だったのですが,彼が演奏前のMCで言うような「私の曲とは思わないかもしれない」という言葉と裏腹に,きちんとコード進行は後のバカラック節を彷彿とさせ,これはどう考えてもバート・バカラックの作品だと思わせるものでした。
これを半世紀以上も前にやってるなんて,と私は絶句しました。
今回のコンサートで耳にしたコード進行として,
Fmaj7 -> Em7 -> Fmaj7 ->Em7
みたいな,坂本龍一が大好きな進行も
F -> GonF -> Em7 -> Am7add9
みたいな,「威風堂々」のような進行も
C -> Cmaj7 -> C7 -> Fmaj7
のような,ビートルズ(つかジョージ・ハリスン)の「Something」のような進行も,彼の引き出しから出てくる出てくる。
あと,
C -> F
なんかも,いきなりいかず,
C -> Gm7 -> C7 -> F
ときちんとつないでいく丁寧さ。CからFだとトニックからサブドミナントへの移行に過ぎませんが,Fの前にC7を置くと,ここでCmajからFmajへの転調風味を加えることが出来て,ダイナミックな場面展開を印象づけることができます。
でも,いきなりすぎるので,お客さんは戸惑います。そこでC7の前のGm7を入れて,CmajとFmajへの変化に階段を付けてお客さんを丁寧に導くのです。
Gm7 -> C7 -> F
という後半部分はFmajだったとすると結局Fに着陸していますけど,もしこれがCmajだとすると,
Dm7 -> G7 -> C
となり,この部分だけで独立して,きちんと終止形に落ち着くように構成されていることがよく分かります。Dm7は機能としてIVと同じですから「これからいくぞ」と思わせ,G7で終わりを予見させて,そして予定通りCできちんと終わるという道筋ですが,これを本来の「CからF」という流れの中に劇中劇として組み込むことで,さらにドラマティックになるんですね。
音楽というのは,聞き手の期待に沿いつつ,適度に裏切ることが心地よい条件だと言われていますので,こうした組み立て方は聞き手に感動を呼び込みます。これに覚えやすいメロディーと印象的なドラム,そして美しいアレンジが加わることで無敵の曲が完成します。
考えてみると,バート・バカラックの曲は,どれもこれに該当します。
いやー,参りました。
・・・とそんなことを考えながらじっと彼のパフォーマンスに聞き入っていたわけですが,他にも,特にベースとドラムがうまかったということ,ストリングスに全くバラツキがなく,まるで1つの楽器のように鳴っていたことが素晴らしかったことも
付け加えておきます。
しかし,なにより素晴らしかったのは,彼の肉声です。私はボーカリストとしての彼が大好きで,もっと彼の歌を聴きたかったのですが,もう80歳ですからね,あれだけ歌ってくれただけでも感動的でした。「Make It Easy On Yourself」を聞けなかったことがとても残念ではありましたが・・・
ただ,3人のボーカリストは私の好みに合いませんでした。声も歌い方も好きではありませんが,なによりあの美しいメロディーを勝手に変えて歌っていることが受け入れがたいものでした。まあ,バート・バカラック自らの意志で彼らを選び,やりたいことを表現しているのでしょうから,私がとやかく言えるわけではありません。
やはり,あらゆる世代から尊敬を受ける彼のような存在は,あまりに大きすぎるとしか言いようがありません。貴重な公演でしたから,きっと有名人もたくさん見に行かれたんだろうと思いますが,あの場所では少なくとも観客全員が「ファン」として同じ立場に立てたわけで,バート・バカラックという人の存在なくして味わえない連帯感のようなものに,改めてその特別さを痛感した次第です。
一緒に行った友人は,ボロボロ泣いていました。感動というのは素晴らしいものです。
コンサートでは,昔の曲だけではなく,新しい曲も聞くことが出来ました。アレンジも楽器も今風で,コード進行はより挑発的なものでしたが,こうして過去の栄光に安住せず,新しい挑戦をする彼のスタンスに,本当の「発明者」の姿を見たような気がしました。