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年末年始

 2010年になりました。新年おめでとうございます。

 さて,年末年始に数日間実家に戻ったのですが,その間にあった話を少しまとめてみたいと思います。

・実家の地デジ対応

 これがこの年末年始の一番大きなテーマだったのですが,結論からいうととても簡単に解決しました。

 DXアンテナから出ている「UHA-800」という平面アンテナを秋頃に調達し,実家に送ってあったのですが,このアンテナが思いの外性能が良く,魚の骨のような八木アンテナをわざわざ買う理由はもはやないのではないか,と思うほど満足な製品でした。

 カタログスペックでは一般的な八木アンテナと同じ程度のゲインを誇り,BSやCSのパラボラアンテナと同じ感覚で取り付けできるように考慮されている点で,アンテナもここまで進化したのだなあと感慨深いものがあったほどです。

 昨年の秋に室内アンテナでもなんとかギリギリ受信出来ることを確認してありましたから,UHA-800なら間違いなく受信出来るだろうという目処は立っており,気になるのは取り付け場所と向き,そして配線という点でした。

 まず実際の取り付けですが,現在は使っていないCSアンテナを外し,その場所にUHA-800(どうでもいいことですが「さようならどらえもん」で登場したUSO-800とかぶるネーミングですね)を固定しただけでおわりました。

 向きを調整するチェッカーも持っていったのでいちいちテレビとアンテナの間を往復することも必要なく,とても簡単に向きも合わせることが出来ました。

 問題は屋内配線です。ここで頓挫することも覚悟したのですが,実家の新築の際に予備の配線を1本通してくれてあることがわかりました。惜しいのは,この予備の配線は分配器もブースタも通っておらず,直接リビングの2つ目のアンテナコネクタに繋がっているため,他の部屋では見る事が出来ないという点です。

 しかし,現実的に,現在実家にある地デジが受信出来るテレビはリビングにあるものだけです。その他はアナログのままだったりするので,変に配線をいじる訳にもいきません。

 本来なら,難視聴対策の共聴システムからやってくるU/V混合波からUとVを分離し,このVとUHA-800のUとを再混合,ブースタで増幅してBSと混合し分配器で各部屋に分配するのが正しい方法だとは思いますが,そこまでの手間をかけて結局2011年までしか役に立たないというのは割の合わないお話です。

 なら,2011年になってアナログ放送が止まってから,完全に共聴システムからのU/V混合波を切り離し,UHA-800の信号をブーストBSと混合して分配する方がよほど綺麗です。なので,母親と相談して,2011年にもう一度考えることにしました。

 もし,他の部屋で小さい地デジテレビを買った場合には,不要になった室内アンテナを使ってもらうことにします。

 母親の話では,アナログ放送では難視聴対策が必要だったケースでも,地デジになると個別のアンテナで十分高品質で受信出来るという話が出ているらしく(そりゃそうですね),共聴システムを改修する費用が非常に大きいことを考えても,おそらく個別でアンテナを用意してもらうことになりそうだということでしたから,100%完璧ではないにせよ,実用レベルで何ら問題のない地デジ移行に,随分喜んでいました。

 最初は地デジへの切り替えなど,なんと余計なことをするものだと思ったものですが,受信障害が軽減されること,高画質であること,アンテナが小型になること,そしてトータルの費用が随分安くなったことを考えると,ようやく最近になって移行する価値があると思えるようになってきました。


・日本橋を歩く

 伊丹空港から実家までの間に寄り道して,年末恒例の日本橋を巡ってきました。ここでなんども書いていますが,私は16歳と17歳の夏にジャンク屋として知られたデジットでアルバイトとして使って頂き,当時の店長さんから多くのことを学びましたし,19歳から22歳までの3年間,OAシステムプラザでアルバイトとして使ってもらい,主に中古パソコンとMacを得意として,仕入れからサポートまでを一通り勉強させて頂きました。

 浪人中は難波の予備校でしたから,その頃を含めほぼ毎日日本橋に通っていたわけで,何かを作る時でもこまめに部品を買いそろえることが出来ますし,買い忘れれば翌日昼休みにまた買いに出かけるということが出来ました。それに,新しいお店が出来れば出向き,つぶれれば残念がりと,その時期の街の変化を随分楽しんだものでした。

 ですから,私にとっての日本橋は電気街でもヲタクの街でもなく,通天閣でも黒門市場でも大阪球場でもなく,生まれ育ったふるさと,のような感じがしています。

 それだけに,昨今の寂れっぷりを見るのは正視に耐えないものがあるわけですが,電子部品屋さんが全国区のお店として知られるようになってきたことと相まって,ここ数年で少々落ち着きを取り戻した感があります。

 自販機が撤去されていよいよ地下に潜るかと思っていたマジコンも,「マジコンR4」と書かれたのぼりを立てて堂々と店頭販売するあたり,アキバとは違う文化だなあとちょっと笑ってしまいました。

 私もあちこち回るほど元気ではなかったですし,お店の数も場所も随分と変化しているので,結局立ち寄ったお店は5つほど。完成度が高いと評判だったトミックスのC57が,ジョーシンのキッズランドに1つだけ残っており,10%割引のはがきと組み合わせてトータル3割引で買いました。


・デジットへ向かう

 次に向かったのはデジットです。私がいた頃に比べて随分小綺麗なお店になりましたし,怪しいジャンクの数が減ったことは,過去にはやばいジャンクを出していた会社がまともになってきたことの証でしょう。思わず遠い目になります。

 磁気カードのリーダ/ライタとか,工業用の高出力炭酸ガスレーザとか,ATMの部品とか,ちょっとここではかけないようなものもゴロゴロしていた当時に比べ,随分まともになったものです。

 ただ,消費税を取らないことは当時のまま,店員さんも大きな声で愛想良く,知識も豊富で気軽に相談できる雰囲気と,居心地の良さは我々の頃からの伝統です。うれしいですね。

 ここで見つけたのは,大型の16セグメントLEDです。1個50円。安いので買い占めようかと思いましたが,多くの人に使って欲しいので6個だけにしておきました。それでも300円ですからね。1個100円でもいいと思うのですが,このあたりがデジット(というか共立電子産業)の欲張らないところです。ちなみにこれ,シリコンハウスにも置いてありましたし,通販でも買えるようです。

 あとはICで74LS181という,その筋では結構貴重とされているICを3個ほど調達しました。それとデジットには,誤差1%のポリプロピレンコンデンサが安価で売られています。0.001uFと0.1uFをかってきました。0.1uFで確か150円だったと思います。

 というのも,AVRを使ったコンデンサ容量計を作ろうと画策していて,その校正用のコンデンサが必要だったのです。素人が使うものですから,まあ1%程度でも十分でしょう。それより,温度特性や浮遊容量の方が深刻ですよ。

 そうそう,ダブルバスレフのスピーカーのエンクロージャのキットの音を聞いてきました。なかなかしっかり出てくるものです。置き場所さえどうにかなれば,私も1つ欲しいと思いました。


・シリコンハウス共立に向かう

 デジットでのアルバイトは,当初シリコンハウスに「バイトしたい」といきなり電話をした時に,シリコンハウスはいっぱいなので,デジットならどうですか,と言われたことがきっかけでした。

 当時の社長さんに,簡単の口頭試験をされたことを覚えています。A級,B級,C級増幅の違いは何か,だったですかね。

 今はどうか知りませんが,当時はシリコンハウスもデジットも店員さん同士は同じ場所で働いているという仲間意識も強くて,私も閉店後にシリコンハウスでカウンターの中に入れてもらい,自分で欲しい部品をせっせと棚から出して,他の方にレジをうってもらったりしていました。そういえばバイト初日は,シリコンハウスで自己紹介したなあ。みんな大人だったから,随分かわいがってもらいました。

 そのころのシリコンハウスとはお店も変わっているし,若干ですが雰囲気も変わっているので,今のお店には懐かしさはありませんが,日本を代表するパーツ屋として,すでに有名な存在です。

 失礼ながら,私が子供の頃は,電子部品はアキバが本拠地,日本橋はその代用品くらいの感じだったのですが,最近は拮抗しているというか,綺麗に棲み分けがなされているという感じがします。ネットや物流の進歩によって,もはや地域性より個性こそ重視されるようになったという,1つの例でしょう。

 2階で電池ケースをいくつか買って,3階で30円と処分価格だったスタンダードTTLの74181を6個買ってきました。これでも32bitのALUは作る事ができないんですねえ。

 あと,TC9245Nも5個ほど買ってきました。1つ210円というのは安いと思っていましたが,昔からこの値段なんですね。しかし冷静に考えてみると,48kHzまでしか対応しない民生用のDAIレシーバICなど,5個も買う必要があったのでしょうか・・・

 他にも数点トレイに入れてレジをお願いします。シリコンの店員さんはデジットの店員さんと違って声も小さく,愛想がよいとは言えません。こころなしか内々に籠もっている感じがします。それで,会話を楽しもうなどと言う気持ちは全くなかったのですが,デジットと2階での買い物をみた店員さんが,青い色のしっかりしたバッグを用意してくれました。

 ついでにカレンダーも入れておきます,と言ってくださったので,この時期恒例の味マップもお願いしました。

 味マップは年末の楽しみの1つで,私が子供の頃から名物になっていました。なんと37年も前から続いているそうで,これだけ続けばそれだけで立派なものだと思っていると,「実は今年は危ぶまれたんですよ」と店員さんがいいます。

 え,どうしてですか,と聞き返すと「昨今の経済状況ですから」と答えが返ってきたのですが,確かに直接売り上げに繋がらず,また以前のように食べるところに全く困らなくなった日本橋では,あまり必要とされていないのかも知れません。

 そういえば年々,店頭で目に付くことも減ってきたなあと思ったりしましたが,「楽しみにしているので来年もお願いしますね」といささか無責任ではありますが,エールを送って来ました。やや無愛想だった店員さんも,このころにはすっかり和やかな表情をしてらっしゃいました。

 4階では,0.2mmのポリウレタン線500gをリールで買いました。おそらく死ぬときにも残っていると思われますが,こういうのは残りを気にして使っていたらダメです。湯水の如く使って初めて作業に没頭できるというものです。

 私の勘違いでなければ,デジットが200gで2200円,シリコンハウスが500gで2500円ちょっとだったと思うので,随分値段が違うものだと思いました。どおりでデジットではホコリをかぶっていると思いました。

 今年はシリコンハウスで随分と気持ちのいい買い物をさせて頂きました。これはもう仕方がないことなのですが,以前店員さんの知識のなさで簡単に在庫切れ,とされて,釈然としないまま引き下がることが度々ありました。

 説明をしてようやく出してもらっても,プライドの傷ついた彼はその後無言でレジを打つ,ということが何度か続き,もうシリコンハウスには行かないでおこうと思ったことがありました。しばらくぶりの今回も,明るい雰囲気だとは思いませんが,売る側と買う側が対等で楽しく過ごすという商売の原点が戻ってきたような気がします。

 これは,もしかすると,電子工作復権の兆しかも,知れません。


・4時まで飲んだ

 高校時代の友人と会うことになり,彼と会うときにはいつもいく居酒屋に向かいましたがあいにく満席。数件まわりましたがどこも満席で,地方都市でもこんなことがあるのかと彷徨っていたところ,どういうわけだかガラガラのお店を発見。

 ここで11時ごろまで飲んでいたのですが,そろそろ場所を変えようと店を出ました。

 我々は話し込むと長いので,基本的に追い出されることがお開きのトリガなのですが,まだ追い出されないのかなあ,とふと時計を見るとすでにその時点で2時をまわっています。どうも一晩中やっているお店だったようです。

 いつもの居酒屋は12時には閉店するので,ごく一般的な飲み会になるのですが,今回は大変なことになりました。私を含めダラダラと酒を飲み,友人の一人が「もう眠い!限界!」と白旗をあげてようやく終了。4時を回っていました。

 どんな話をしていたのかも覚えてなければ,いったいいくらだったのか,誰が払ったのかも覚えていません・・・

 4時ですから電車はなく,タクシーで帰ることになります。私を除く二人は地元で歩いて帰ることの出来る人だったのですが,こんな時間にタクシーなどつかまるはずもなく,さりとて私を真冬の4時過ぎに一人で放置するのも悪いと思ったのか,しばらく一緒にタクシーを探してくれました。

 しかし,タクシーはおろか,自動車も人影もありません。こりゃ絶望だなあとあきらめて,1時間ほどかかる実家まで歩こうと腹をくくったとき,友人が「迎車」とサインを出しているタクシーを見つけ,すたたた,と駆け寄ったと思ったら,おもむろにゴンゴンとガラスをノックをしているではありませんか。

 「それはなんぼなんでもあかんて」とさすがに焦ったのですが,友人は自らも早く帰りたい一心でさっさと交渉を成立させ,果たして私の目の前でドアが開いたのでした。

 めでたく私はタクシーに乗り込むことが出来て,友人達に見送られたのですが,その後運転手さんと話をしたところ,どうやら私がタクシーを呼んだ,まさにその人だと思ったらしいのです。

 要するに,友人は「あんたを呼んだのは私らや」とウソをつき,私を乗せたということになります。いやー,酔っぱらいってのはたちが悪いです。ああはなりたくないものですねえ。おかげで助かりましたが・・・

 しかし,彼らはいいけども,その後家まで送ってもらう私が運転手に怒られるとか,そんな風に考えなかったんでしょうか。

 私の家までは10分ほど。少し待たせてしまうけれども,私を降ろしてからまた引き返します,といわれていましたが,謝る私に全然怒った様子もなく,私が高校時代の友人と一緒にいた,という話をすると,それはよかったですねえとニコニコしてくれたことが,かすかな記憶として残っています。

 なお,4時半過ぎに家に戻った私が母親に怒られたことは言うまでもありません。この年齢になって,まさかこんなことで怒られるとは思っても見ませんでした。

・ということで

 ということで,数日間を過ごした実家では,それなりに楽しく過ごして戻ってきました。少し気が滅入っていたこともあって,いい気分転換になりましたが,最大の誤算は4時まで飲んだことでしょうか。その後数日の間,しばらく調子が悪く,もう若くないんだなあと思い知った次第です。無茶はやめましょう。

 コンデンサ容量計については,部品を揃えたつもりだったのですが,金皮抵抗を買うのをすっかり忘れてしまい,また当分お預けです。

 年々正月気分が薄れているなあと感じるのですが,それでも1年の節目には変わりません。今は毎年実家で過ごしていますが,それもいつまで続くかわかりません。どちらにしても,慌ただしい年末が過ぎれば年が明け,そしてまた普段の生活がやってきます。

 今年もどうぞよろしくお願いいたします。


 
 

鉄道データファイルが完結

 長く続いた「鉄道データファイル」がいよいよ最終回を迎えました。

 長かったです。辛かったです。毎週火曜日にやってくる「こなさねばならないもの」を1週間かけて読むことは習慣にこそなりましたが,できればその習慣は,一日も早く断ち切りたいと思う,忌むべきものでした。

 ならさっさとやめればいいじゃないか,と思われるでしょうが,途中で辞めてしまう事への純粋な不安,これまで頑張ってきたことが無駄になることの怖さと,希に面白い記事に巡り会う事への期待があって,もう少しだし頑張って見るかと,買い続けてきました。これが,ディアゴスティーニの本当に怖さでしょう。

 当初200号だか250号だかで終わる予定だったはずなのですが,スイッチバックをやたら詳しく説明したり,私鉄のロマンスカー(いわく,一方方向に向きを揃えたクロスシートを備えた優等列車をロマンスカーというのだそうです)を会社・時代ごとにまとめ直してみたり,ダイヤ改正を地域ごとに詳細に書いてみたりと,はっきりいって冗長な内容に気持ちよくお金が払える状態ではありませんでした。

 開いた口がふさがらないのは,ロープウェイやらケーブルカーが追加されたことです。確かに鉄道には違いないですが,問題は読者がそれらに興味を持ち,それらの情報を求めているかどうか,です。スキー客が激減してロープウェイの存在が薄くなる昨今,スキー場にぶら下がるロープウェイの写真を見せられて「知らんがな」と思った人は私だけではないでしょう。

 280号くらいからでしょうか,途中で辞められないようにするためと思われる,歯抜けにしてあったシートの補完がやっつけ仕事で急激に進められ,計画性のなさにため息が出ました。そうやって膨大な補完を行うため,ページ数が増えても内容は薄く,しかも出てくる記事があちこち飛びまくっているので,読了するのが本当に辛くなっています。

 よく言われているように,誤字脱字などの間違い以上に,著者の知識不足や誤った理解も目に付きますし,作者の趣味を反映した東南アジアの旅行記などをだらだらと作文のように読まされることも苦痛だったりしましたが,そもそもこのあたりの週刊誌に過度な期待をする方がおかしいと,私は思っています。

 悪いことばかりではありません。アメリカやヨーロッパの鉄道に興味を持たせてくれたことはきっかけとしてありがたいものですし,車輌だけ,あるいは駅だけ,というものではなく,全般を一通り取り扱っていることから,システムとしての鉄道に関心が沸いたことも事実です。

 とはいえ,さすがに300号買い支えた私は,本当にバカだと思います。あまりに恥ずかしく,一号も欠かさず買い終えた事は,死んでも黙っているべきです。

 しかし,300号までの道程をしみじみと思い返してみると,まさに私の平坦な人生において,激動期と重なっていたように思います。

 ちょうど創刊号が出た頃,ちょっとした鉄道ブームが起こっていました。理由は分かりませんが,1つには団塊世代の引退があるのではないかと思います。

 私は団塊の世代もなく,まして退職したわけでもないのですが,たまたま立ち寄った家電量販店のオモチャ売り場で,処分のワゴンに入っていたマイクロエースのED17が特価で売られており,私がNゲージで遊んでいた子供の頃とは精密度が全然違うことに驚き,買って帰ったことに端を発します。

 以後,次々と鉄道関係の本が出たり,魅力的で個性的な車輌が模型化されたり,DCCという鉄道模型に革命を起こすシステムが一般化したりと,まるで私を狙い撃ちしたかのような状況になっていきました。

 おそらく,このED17を買うことがなければ,鉄道に興味を示すことはなかっただろうと思うのですが,ひょっとすると,こんなふとしたきっかけで鉄道に回帰した人が多く,それがブームに成長したのだとしたら,私もブームに乗っただけの人だったことになるのでしょうか。

 鉄道データファイルの第1号が登場したのは,2004年2月3日でした。それから約6年,毎週毎週出続けたことになります。最終号を手にとって,この6年間の自らの境遇を,ちょっと思い出してしまいました。

 2004年は,自分の希望で慣れた職場を飛び出したはいいが,すっかり行き詰まってしまい,毎日が沈んだ日々を送っていた年でした。その職場の近所の本屋に毎号買いに出かけていました。この職場はやがて解散となってしまうのですが,ここで出会った,一生の宝となる方々には,後日随分と助けて頂くことになります。

 2005年は,結局もとの職場に戻ることになり,自分の居場所を見つけた時でした。自分が思い描いていた仕事をフルパワーでやっていた時期です。毎日が楽しく,難しい事にも果敢に挑み,充実した日々をおくっていました。仲間も出来ましたが,敵も作りました。この頃,毎週出る鉄道データファイルが楽しみで,職場から少し離れた本屋に出向くのが楽しくて仕方がありませんでした。

 2006年は,心血を注いだ仕事が水泡に帰し,その上職場を追われた時でした。別の部署に引き取られましたが,私はここで干されてしまい,ろくな仕事のない時でした。そのうち「ここにはあなたの仕事はないから」と部長に言われて職場を追われました。

 2007年は,次の職場を選んでいた私が,かつての上司に言葉巧みにだまされて,おかしな職場に引っ張り込まれた時でした。当の上司は私が異動した初日にとっとと逃げ出してしまい,私だけが置き去りとなりました。事前に聞いていた話とは全然違い,わずか1ヶ月でプロジェクトから外され,この年の夏には席まで隔離されてしまいました。そういえば「会社に残りたければ雑巾がけをやれ」と人事に言われたのもこの年でした。本当に辛い時期でした。

 2008年は,設定された期日を過ぎても異動先がなく,退職の覚悟をした後に,全く縁もゆかりもなかった職場に本当に偶然拾ってもらった年でした。ここで自分の得意な小型マイコンを使う事があったり,今も友人として親しくしている社外の方とも出会う機会があったりと,朽ちる寸前だった私の心に少しずつ血が通い始めた時でした。

 2009年は,リストラのあおりをうけてその職場も追い出され,今の職場に流れ着いた年でした。会社に対して,あるいは人間に対しての,不信感と言うよりそれらへの虚無感を抵抗なく受け入れて,まあ世の中そんなもんだと割り切って生活するようになった時期です。もっとも,一番よい仕事の出来る時期を成果も無しに過ごしてしまったことは決して取り返すことは出来ず,そのことをふと思い出した時に,ダメ人間というのはこうやって出来上がるんだなと,しみじみ思うのです。

 かくてこの6年,長かったようで短かった時間でした。いろいろあって,生きること以外のすべてを否定されても,それでも生きていかねばならないことの辛さを知った,そんな時だったように思います。

 そんな日々を送っていても,毎週火曜日には必ず鉄道データファイルの号数が1つずつ増えていきました。思い起こすと,どんなに辛いときにも,どんなにうれしいときにも,必ず枕元には鉄道データファイルがありました。無神経とさえ思うことがありました。

 鉄道データファイルが自分を支えたとは全く思いませんが,変わってゆく自分と同じ時間軸にある変わらないものに,もしかしたら,少しはもたれ掛かっていたのかも知れません。

 さてさて,これで終わったと思ったら,来年からはシリーズ第2弾「鉄道データファイル プラス」が始まるそうです。いやー,まさかの続編とは。~プラスって流行ってるんですか,もしかして。

 定期購読をお願いしているいつもの本屋さんに,いつものように火曜日の朝,最終号を取りに行くと,すっかりおなじみになったいつもの店員さんに「今日でおわりなんですよね。ありがとうございました。またきてくださいね」と,言われました。

 私も,「またきますよ」と言って,お店を後にしました。

 変わらぬ事が変わってしまった,瞬間でした。

疑惑のエコナ

 花王という洗剤メーカーが放ったエコナという食用油は,脂肪が付きにくいという触れ込みで市場に投入された,ベストセラーです。特保指定という役所のお墨付きまでついていれば,効能に半信半疑な人であっても,まさか危険な食べ物とは思わないでしょう。

 しかし,数年前,ヨーロッパで報告されたある報告が,エコナを地獄に落としました。

 私は電気屋であって化学屋ではありませんから詳しいことはわかりません。それゆえ無責任な話になるかもしれませんが,私の理解ではこうです。

 エコナを製造する過程で出る生成物の濃度が結構高く,悪いことにこの生成物には発がん性が指摘されている,というお話です。

 まあ,生成物を全部除去していたら純度100%になってしまうわけで,そんな非現実な話もないでしょうから,既知のやばそうな不純物だけ除去して出したら,後日別のやばいやつが見つかった,ってなもんでしょう。

 花王としても,そう易々と危険性を認めるわけにもいかないので,化学屋としての客観性とメーカーとしてのプライドにせめぎ合っている状態ではないかと思います。

 個人的には,安全安全といいつつ,その根拠は「実験方法が国際基準と違うから危険とされるデータは信用できない」といったような,危険というデータの否定が中心であるかのうような印象をもちました。そんなに安全というなら,自分達の客観的なデータで説得すればいいんじゃないかと思います。

 その上,来年2月に当該成分を減らした改良品を出す予定だとか,特保指定を自主的に取り下げたとか,ほんまに安全なんか?と思うような動きを見せています。

 どうも,この改良品を2月に出すというのがひっかかります。私たちの世界でも,密かに改良品を出す事はありますが,それでも改良前の製品が危険だったり欠陥を持っていることはありません。もっというと改良はコストダウンや生産性の向上,耐久性や外観の改良であって,その製品の性能を期待して買って下さった方を裏切るようなことはありません。でもエコナの場合,どうもその辺が不透明な気がしてならないのです。

 消費者はバカではありませんから,こういう話があると敏感に察知するものです。花王は返品に応じるようになりました。最初は電話をした人だけに返送先が伝えられたようですが,最近は電話無しでもホームページにある住所に送れば返品できるようです。

 実は私も,未開封のエコナクッキングオイルを1本持っていました。今使っている1本は自分で買ったもので,もうすぐなくなります。これは使い切るつもりです。

 未開封のものは,母がお歳暮かお中元で頂いたもので,たくさんあっても困るからと分けてもらったものです。

 正直,エコナはおいしい油ではありません。コーン油のような香ばしさとか,紅花油のさっぱり感とか,そういう感覚からは遠い油だと思いますが,そこは健康のためと割り切る現代人が多いという事でしょう。

 危険な可能性があり,メーカーも回収をしている,しかもいずれ改良品が出て特保指定を自ら取り下げるなどという話を聞かされてしまうと,わざわざ新品を開封して食べようという気が起きないのも無理からぬことで,かといって油ですから気軽に捨てる訳にもいきません。

 そこで,申し訳なかったのですが,別の荷物を持ってきてくれたクロネコヤマトのおっちゃんに,エコナを着払いで持っていってもらうことにしました。

 4日ほど経過し,花王から私に宅急便が届いていました。中身は1000円分の商品券です。送料に1000円ですからね,花王も大損害です。大丈夫なんやろか。

 それに,一般消費者もさることながら,OEMや業務用に出荷したエコナの対応も大変なはずで,関係者はもう寝る間もないくらいの状態ではないかと,お察しします。

 さらにびっくりしたのは,印刷された定型文に書き添える形で,手書きの謝罪文がかかれていたことです。安全性云々は別にして,心配をおかけしたという内容なわけですが,私としても心配なので返品したのですから,その誠意は十分に伝わって来ます。手書きの謝罪文というのは,想像以上のものがあります。

 改良品を頑張って出します,とあるので,思わず頑張ってくれと思ったのですが,この1000円分の商品券で改良強化新型エコナを買うことが,この誠意に対する私のお返事になると考えています。
 

さようならプジョー306,さようなら

 私の所有する自動車,プジョー306style(97年式,N3最終型)が,先日の土曜日に私の元を離れていきました。

 私が新車で買った最初の車で,私が初めて手に入れた外国車です。ついでにいうと私が最初に乗ったフランスの車でもあります。

 1997年と言えばインターネットが家庭に入り始めた時期でもあり,個人のホームページが少しずつ立ち上がっていた頃だと記憶していますが,当時よく見た306のページも,今ではほとんど見ることがなくなりました。

 そりゃそうです,306が世の中に登場したのは1993年で,日本では女の人の前髪がまだエビの触覚のようになっていた時代です。後期型のN5の販売が終了したのでさえ2001年ですので,そこからだってすでに8年が経過し,最初の車検で買い換えをするのが普通な日本の自動車事情において,未だに306を乗り続けている人はもう心中する覚悟の人だけといってもいいはず,です。

 私はN5が投入される1997年8月に,N3の国内在庫最後の3台を滑り込みで衝動買いした人でした。どうもN5のフロントマスクが好きにはなれなかったことと,ずっと昔から馴染みのあったPEUGEOTと306というロゴの切り抜き文字がの意匠がN5で随分変わってしまったことが気に入らなかったというのが大きな理由でした。

 プジョーも激動の自動車業界にあって,何年かごとに節目を迎えていますが,私にとっての憧れのプジョーは,つまるところN3が最後だったのだろうと思います。今でもN5とN3のどちらか,と言われれば迷わずN3を選ぶだろうと思います。

 まあ,N3にしてもN5にしてもそうですが,フロントがマクファーソンストラットとごく普通のもの,リアに至ってはトーションバーという旧世代のサスペンションは,実際に乗ってみると実にしなやかで,これがあのネコ足なのか!と思わせるものです。ボディ剛性も低くなく,ドアを閉める音やボンネットを締める音に,高音が響くことはありません。 運転の下手な私ですが,この車がボディ剛性とサスペンションの存在を意識するようになったきっかけになったなあとつくづく思います。

 がちっと切り立った端整なプレスラインはピニンファリーナとプジョーデザインチームの共同で引かれたものであり,個人的には306の柱となる線だと思います。ピニンファリーナがかかわらなくなったと言われる206以降のデザインとは,このプレスラインの主張がやや異なるように感じるのですが,これが1990年代初頭に登場したデザインかと思うくらい,少なくとも私の目には古くさいものは見えません。


 前置きが長くなりましたが,事の顛末はこうです。

 始まりは1週間前の日曜日の夜,滅多に話をしない父から電話がありました。こんなことをいうのも何ですが,父親というのは友達や同僚のような気安い存在ではなく,いわば会社の偉いさんのような存在ですから,父と話をするときと言うのは自分ではどうにもならないことを相談するときだけ,です。

 父が言うには,自分が乗っているイギリス製の高級乗用車(以前父は某ドイツの某最高級車メーカーの最上級クーペに乗っていたことがありました・・・)に故障が頻発,面倒臭いので手放すことにしたと,普段の足に使っている軽自動車が便利なので別に困るわけではないが,ゴルフバッグを積むときや,友人を乗せるときなど軽自動車ではまずい(しめしがつかん),かといって新しい車を用意するのはお金もかかってしまう,良く考えたら私がほとんど乗っていないプジョーを持ち続けていて,しかも結構負担に感じているという話を思い出し,そういうことなら自分が譲り受けようと考えたらしいのです。

 私は1997年に新車登録をしたプジョー306を,丸12年経過した現在において,走行距離がわずかに8300キロちょっとと,ほとんど走らせていません。別に特別に大事にしていたわけではなく,自動車がなくとも生活が成り立つ場所に住み,どんどん自動車を生活から外れた場所においてしまい,自動車を動かす事が億劫になってしまった結果です。

 ポルシェとかフェラーリとか,そういう資産価値のある自動車がほとんど走行しない状態であることは珍しくないそうですが,306のような車でこの走行距離は異例中の異例でしょう。

 おかげさまで2年に一度の車検を含み,トラブルらしいトラブルはほとんどありませんし,屋根のない駐車場に12年間おいていましたがカバーをずっとかけてあり,直射日光や砂埃を避けてきたことで,そんなに見た目も悪くないと思います。加えて私はタバコを吸いませんので,内装も綺麗です。

 経済的な理由も含めて維持できなくなったときには手放そう,でも維持できる環境にあるうちは乗るか乗らないかに関係なく持っていよう,そんな風に割り切ったのが5年ほど前でしょうか。ちょうど個人がそれぞれに自動車を持つ事が無駄に思えた時期でもあり,自動車としてプジョー306以上を望まない気持ちに変わりはなくとも,そもそも自動車を持つ事に疑問を感じて揺らいでいた時でした。

 ただ,今のプジョーは小型の207でも安全基準の関係で3ナンバー枠に拡大していて,私の好きな全長4000mm,全幅1700mm,重量1000kg程度のハッチバックという,以前なら珍しくも何ともなかったサイズが存在しません。また,1800ccのNAという普通のエンジンも,5速MTというこれまた普通のトランスミッションも,今や絶滅寸前です。

 プジョーには熱狂的なファンも多く,こうした今では珍しい自動車を持つ事には,それなりの理解があると感じます。中でもある意味でとてもお手頃なこの306という車は,今のプジョーにはない魅力がいっぱいで,10年経過すると誰にとっても無価値となる国産車に比べ,特定の人種には理解をしてもらえるのではないかと思います。

 私がへこたれて手放してしまうと,また306の個体数が減ってしまいます。

 それに手放してしまったら,もう二度と手に入れる事など絶対に出来ないでしょうし,さらにいうと200万円以下でプジョーはおろか1800ccクラスの普通の自動車が新車で買えることは実はそんなにありません。(といいつつ本日207の一番安い設定が189万円になりました・・・)

 遠のいているとはいえ,ごくたまに自動車を運転すれば,それはそれでとても楽しいことには変わりありませんから,例えば職を失うとか,引っ越しをするとか,修理代に100万円かかるとか,そういう事でもない限り,私が維持するのが責務のように感じていたのです。

 幸い経済的な負担には耐えることが出来る状況にありますが,楽器やカメラのような小さいものとは違い,気軽に捨てたり修理出来ません。保管場所には不動産契約が必要になるほど大げさであり,その潜在的な能力は時に人の命を奪うことさえもあります。外の雨風に晒された機械製品が10年以上も放置されれば,どこかがおかしくなるのが普通でしょう。

 持っていたいから持っていよう,というようなお手軽なものとは違い,持つ事にもそれ相応の責任と義務が発生するのが自動車です。ここから先,資産的な価値も消え失せた古い自動車に,いずれやってくる廃棄処分の負担の大きさを想像すると,気が重くなってしまいます。

 その負担から逃げると言うより,今の私の生活では,その負担に見合うだけの利便性を,自動車を所有することから得られないことに悩んでいたというのが正しい言い方で,社会的に見て私が自動車を所有するのは(個人の勝手ではあるけども),とても贅沢なことだという後ろめたさを感じていました。

 父は続けます。もし自動車がなくても困らない生活をしていて,なんらかの負担を感じているのであれば,自分が自動車を必要とするであろうあと数年間代わりに乗ろう,名義の変更もちゃんとして,保険から車検から維持費から全部自分が引き受けよう,悪い話ではないと思うんだけども・・・

 確かに破格のお話です。資産的価値のなくなった自動車を,元々全車種中最低グレードの,しかも12年落ちのプジョーのマニュアル車で,さらに左右の横っ腹がへっこんでいる不細工な車に乗ってやろう,しかも50年以上自分の生活の中心であり続けた自動車生活を締めくくる,最後の車にしようというのですから。

 急な話に戸惑い,即答できずにいると父はさらに,心残りというなら,他の人に売ったりあげたりすることはしないと約束するし,車検が切れてしまった後でも廃車せず,保管しておいてもいいだろう,そして気が済むまで持っていたらいい,と言います。

 そして最後に,恩着せがましい言い方をするつもりはないが,下駄代わりに乗り潰すつもりはないし,乗らないときでも毎日エンジンくらいはかけてやる,と。

 この,毎日エンジンをかける,で私の心は動きました。今の自分が出来ない事を,父は簡単にやってのけることができるのです。私がこの車を持つ事は,半ば意地になっていたところがありますが,それは果たして,車のためになっていたのかどうか。

 車検の次に車を動かすのが次の車検だなんて,非常識にも程があります。それでも2年経って,キーをひねれば何事もなかったようにエンジンは一発でかかります。アイドリングは軽快で,やっと起こしてもらえたよ,と言っているように聞こえます。

 私はすでに,ドライバーとしてはもとより,オーナーとしても失格でした。

 自動車は,言うまでもなくモビリティのための道具です。人や物を少ない労力で動かすことが存在の理由です。置物でもなければ,意地で持つようなものでもありません。いわば生き物です。毎日乗って,調子を見て,それで初めて愛着だってわくものです。私のような距離感で愛着などわこうはずはありません。もし愛着を感じたとしても,それは私がただ「惜しい」と思うだけの,さもしい根性に過ぎません。

 私は数日考える時間をもらい,電話を置きました。一緒にこの車と時間を過ごした親友に連絡し,車を手放すことを伝えると,彼女はいろいろ思い出してポロポロ涙をこぼしました。そしてお別れの時には写真を残そうと言いました。

 翌日,父に改めて電話をし,父の申し出にありがたく甘えることを伝えました。父のことですから,気が変わったとかどうしても欲しい人が現れたとか,そんな話で誰かに譲った,という話もあったりするかもしれませんし,実は父の手元に渡ってから急にあちこちが壊れてしまい,修理代に何十万円もかかるとわかり結局廃車にすると言う結末があるかもしれません。

 ただ,父は,私よりもはるかに運転がうまく,自動車に対する情熱を持っています。父の古い友人には腕のいいメカニックがいて,私もお世話になりましたが,とても心強い方です。

 それだけでなく,周りには自動車に関係のある人たちがたくさんいるので,ひとりぼっちだった306は急に賑やかになったことに驚くことでしょう。あと少しの間ですが,最後にそういう境遇に置いてあげられるのは,とてもよかった事なのかもしれません。
 
 話としては,土曜日の夕方に,私の住んでいる場所の近くにある,父の知り合いの輸入車の中古車販売会社の店員さんがわざわざ306を引き取りに来られ,そのお店が東京から大阪に運ぶ予定になっている他の車と一緒に,トレーラーで陸送されることになっています。

 先日の土曜日の夕方,もう薄暗くなっている状態でしたが,その前日から続いた雨もすっかり上がり,時折晴れ間も見せつつ,綺麗な夕焼けが暮れてしまう頃に,306は軽快なエンジン音を響かせて,私の元を離れていきました。本当にあっという間の出来事でした。

 私はこの時生まれて初めて,自分の買った車が他の人の運転で走る姿を眺めることが出来たわけですが,買ったときからお気に入りだったリアエンドの丸い感じが遠くに消えていくのを見て,もうこれでお別れなのかと,言葉にならない寂しさを感じました。

 一方で,これでもう心配することはない,そんなすっきりした感覚も否定できずにわき上がってしまい,複雑な思いも感じました。

 現実に戻って駐車場の解約,JAFの退会など手続きを済ませ,名義の変更が終わってから保険の手続きをすることにしています。

 こうして,私個人は自動車社会との直接の接点を失います。そもそも居心地の良くなかった自動車社会ですから,そこに未練はありません。しかし工業製品として,あるいは文化の1つとしての自動車と,決定的な別離は寂しい限りです。

 自動車は今,大きな転換点にいます。化石燃料を動力源にする仕組みはもう限界に達し,経済的合理性をトリガに,次世代の自動車が覇権を競っています。ハイブリッドは過渡的な車なのか,本命は本当にEVでいいのか,動力源以外にインテリジェント化はどこまで必要なのか,ドライビングプレジャーを我々は失わずに済むのだろうか,環境や経済性,安全性と次の100年も両立出来るのだろうか,不安は尽きません。

 馬車の代わりにヨーロッパで登場した自動車は,当時最先端技術であった機械工業をバネにして上流階級の高貴な趣味として育ち,自由の国アメリカに渡ってからは大量生産されて生活に不可欠な移動手段となりました。そして大衆化し多くのバリエーションが生まれ,その人の人となりを示す装飾品という役目をも担うようになった自動車は,命を持たない人類の唯一の友人,といっても良く,やっぱり特別な存在だなとつくづく思います。

 私が今でも大好きなプジョー306。この車が教えてくれたことはたくさんあります。急激に身近に感じた世界,文化,異国への想い,当事者として考えさせられた車と社会の関わり。1つ1つが得難い経験でした。次に大阪に戻ったときに,少し様子を見させてもらおうと思います。もう自分で運転することはしませんが。

IrisBrowserの終焉

 いろいろ出来る事はわかったし,環境構築にそれなりの時間もかけたアドエスですが,例えば帰省とか旅行とか出張には便利でも,普段の生活ではそれほど便利にならないことがわかってきました。

 やっぱり,安定性の問題と,通信速度だけではなく端末そのものの動きも緩慢であることから,結局Twitterマシンとしてしか使い道がないことがわかり,それなら別に携帯でもいいんじゃないのかと,まあ理由はいろいろ考えつくでしょうが,やはり自然と遠のいたことが私にとってのアドエスだった,ということでしょうか。

 自ずとメンテもサボりがちなのですが,久々に私にとっての標準WEBブラウザであるIrisBrowserをアップデートするかと公式サイトに行ってみると,なんと開発元のTorchMobileが,BlackBerryのRIMに買収されてしまったのですね。

 BlackBerryの会社がWindowsMobileのソフトを配布するはずもなく,現在ダウンロードも出来なくなっています。残念です・・・

 これで,ますます選択肢が狭まってしまいました。もうアドエスはダメかもなあ。

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