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さようなら,東芝未来科学館~その3

 東芝未来科学館の興味深い展示シリーズ,今回は電子管です。

 はて,電子管ってなんやねん,と思う人もいるかも知れませんが,真空管なら聞き覚えのあるかがいらっしゃるかも知れません。真空管というのはラジオやテレビで使われた部品で,今のトランジスタやダイオードといった半導体に相当します。

 真空にしたガラスの筒の中に複数の電極を入れて増幅や発振などの機能を持たせたもの,ということなのですが,この真空管という名前はどちらかというと民生品に使われたものを指す俗称で,真空,あるいはなんらかの気体の中を電子が飛び交ってある機能を果たすような電子部品を,広く電子管と呼んでいます。

 懐かしのブラウン管もそうですし,電子レンジに使われているマグネトロンも電子管の一種です。このうち,ラジオやテレビ,オーディオと言った分野で使われる電子管を,特に真空管と呼んでいる感じです。

 電子管は人類が初めて手にした「能動素子」です。電子管によって我々は電力を増幅,発振,信号の処理に使うことが出来るようになりました。電球が光,モーターが動力を電気を原料にして変換するものだったわけですが,電子管は電気を原料にして音を大きくしたり,映像を遠距離に無線で伝送したり,足し算や引き算をしたり出来るようになりました。

 そんな電子管ですが,トランジスタが登場して80年を過ぎ,ほぼ半導体に置き換わりました。半導体が単機能の素子を複数組み合わせて「回路」としてなにかを成し遂げる傾向が強いのに対し,電子管はそれ自身が特定の機能を持つように作られてきた歴史があります。

 従って電子管の種類を眺めてその歴史をたどることは,実は産業や工学の歴史をそのままなぞることに繋がります。私が電子管にワクワクするのは,そのためです。


(3)三極真空管UN-100(1917年)

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 日本で最初に作られた三極真空管です。当時はオージオンバルブといいました。

 三極真空管は,小さい電圧を大きな電圧に「増幅」する機能を,人類が初めて手にした偉大な発明品です。これ以前に同類のものは存在せず,これ以後の人類史を書き換える,希有な発明品だと私は思います。

 増幅が出来れば発振が出来ます。発振が出来れば無線が出来ます。さらに増幅はスイッチングを可能にし,それは計数と計算の扉を開きます。増幅が出来なければ,エレクトロニクスという分野は何一つ実現しなかったのです。
           
 その偉大な発明は,アメリカのディ・フォレスト(ド・フォーレ)が1906年に行い,1907年には商品化に成功します。その商品名がAudionでした。

 日本でも各社がこの発明品に追随し開発を進めましたが,Audionが登場してから10年後,東京電気で今で言うデッドコピーが作られて,日本で最初の三極真空管が誕生しました。

 展示されているのがまさにそれで,UN-100という形式名が与えられています。電子管という最新の革命的デバイスの登場に注目し,デッドコピーとは言え形にしたこと(しかも1917年ですからね)は,いかに日本のエンジニアの視点が新しいものに向いていたのかを示すものであると同時に,実現の基盤となる金属加工,ガラス加工,真空,そして電気という最新の工学に対する基礎体力をきちんと育てていたことを示すものであると思います。

 事実,東京電気と合併後の東芝は電子管のトップメーカーとして君臨し,さらにトランジスタ,IC,LSIと現在に至る半導体と電子部品の礎となるわけです
 さて,少し話を脱線させます。アメリカのディ・フォレストですが露文で,フランス系移民の牧師の子供として生まれた彼は,エール大学を卒業,無線関係の論文で博士号を取得後,名門ウエスタンエレクトリックで無線の研究に取り組みます。

 無線の実験から,電極を炎の中に投じると検波作用が見られる事を発見します。彼はこの電極に電池を繋ぎ,検波出力を「ブースト」することを狙います。

 ガスイオンによるこの検波と増幅の作用は,炎を用いるという不安定さから再現性に乏しく,やがて彼は熱源として当時使われるようになってきた「電球」に注目します。

 試行錯誤はありましたが,彼は電球に電極を封入し,これに電圧をかけて検波と増幅を行うこのとできる真空管を誕生させます。

 この電極は当初,金属板に穴を開けたものだったのですが,やがて針金をウネウネと曲げた,魚焼き器の網のようなものになり,そこからグリッドと命名されます。

 ここに三極真空管が誕生しました。

 この時のAudionは片翼型と呼ばれるもので,プレートが1枚だけのものです。効率向上を狙ってプレートを2枚持つ両翼型が1909年に登場します。展示されているオージオンバルブは,これをコピーしたものです。

 この段階でディ・フォレストは,炎の実験から真空管の動作原理は熱電子ではなくガスイオンであると信じていて,完全な真空ではなく僅かに空気を残す方が農政が出ると思っていました。真空度の低い真空管のことをソフトバルブと言いますが,このあと1920年頃までソフトバルブの時代が続くことになるのです。

 ただ,この時の用途はあくまで検波であり,増幅や発振ではありません。これが増幅という一里塚に届くのは,長距離電話の中継器への応用を目指したウエスタンエレクトリックの基礎研究の成果です。

 ソフトバルブのせいで高電圧で扱うと放電して使い物にならなくなり,その対策として真空度上げることにしたところ,それでも十分機能する事がわかり,真空管は熱電子で動作する事が判明し,ここに増幅用の真空管が完成します。

 タイプAと呼ばれたこの真空管は,交換が簡単になるようにソケット式になり,TypeMに進化します。このTypeMこそ,後にWE101Aとなり,すべての米国系真空管の始祖となるわけです。


(4)送信管UV-171(1934年) 

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 1925年に日本でラジオ放送が始まります。無線で音声を届けるという画期的なサービスが初めってもうすぐ100年です。

 当然今で言う中波放送で,変調はAMですので,送信電力はそれなりに大きいものが望まれます。送信管という,最終的に電波を出力する電力増幅を担う真空管の開発も並行して進み,1919年には30Wの試作品が完成,1925年には水冷式の10kWものが誕生します。

 水冷式の送信管というのは真空管の世界ではロマンあふれるもので,人の背丈ほどあるUV-171というこの大きな送信管も,見ていて惚れ惚れします。

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 真空管の魅力の1つは,その複雑な電極が外から見えることにあります。UV-171くらいの大きさだと,普段オーディオやラジオ用の小さな真空管に見慣れた私には巨大な昆虫を見るようなおぞましさがあり,これに高電圧がかかり,水で冷やされるなんていうのは,恐怖さえ感じます。

 UV-171は水冷式の250kWで,ラジオ放送用に開発された真空管です。直径25cm,高さ165cmという大きなものでしたが,戦争の拡大による送信管の需要は増大,生産の増強を迫られるようなこともあったようです。

 東芝はこの時すでに電子管のトップメーカーで。1934年には28種類もの真空管がラインナップされています。まさにアメリカ生まれの真空管の国産化が定着したといっても良く,この時点で電子工学はヨーロッパ,アメリカ,日本の3極で盛んだったことが伺えます。

 

(5)万能真空管「ソラ」(1943年)

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 「ソラ」の話をするには,戦時中の軍用真空管に触れないわけにはいきません。

 第二次世界大戦は,電子工学,とりわけ無線を駆使した戦争でした。日本でもその認識は当然あり,無線通信だけではなくレーダーの開発も熱心に取り組んでいました。

 当時の電子デバイスは当然真空管でしたが,その先頭はアメリカ,そしてドイツでした。特にドイツの真空管は最先端で,短波を楽々扱うドイツ製の真空管を元に,日本無線で開発された軍用万能真空管がFM2A05Aというものです。

 海軍は品種を統一することを歓迎していましたし,性能も申し分なかったので東芝はもちろんNECにも量産するように圧力をかけていたそうですが,実のところ量産はかなり難しく,歩留まりも上がらないことが分かっていたので,東芝もNECも断り続けていたとのことです。

 当時の海軍のことですから,そうですかと引き下がるはずもなく,出来ない理由よりも出来る方法を考えろと,これまた無茶ぶりでエンジニアを困らせます。

 そんな中,東芝はこれまで海軍に納めてきたHシリーズのうち,シャープカットオフ五極管であるRH2をベースとし,量産性の向上を狙った万能五極管として,「ソラ」の完成で応えます。

 ソラはFM2A05Aの性能には及びませんでしたし,当然互換性もなかったのですが,程ほどに使いやすい性能と,素人でも製造できるという量産性と製造マニュアルの完備,材料もトタン板でもOKという合理性から,主に戦闘機の無線機用としてその需要に応えてきたという事です。


(6)X線管「ギバX線管球」(1915年)

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 ドイツのレンチェンが人の体を透過する放射線を発見し,X線と名付けたのが1895年。体を切り開くことなく内部を観察することの出来るX線診断装置は,日本ではレントゲンと呼ばれてどんな病院にも1台はあるというメジャーな医療機器となっています。

 当時のX線は,レンチェンが実験に使ったクルックス管そのものという感じだったそうで,ドイツのものが市場を抑えていました。第一次世界大戦前後という時代もあり,日本ではX管の入手が絶望的という状況でした。

 そこで国産化に踏み切ったのが,このX線管です。時代的に現在使われているものとは異なり,イオンX管と呼ばれる物だと思います。

 イオンX管は,陰極と陽極に高電圧が印加されたとき,内部の電子が封入されている気体の分子に衝突し,電離します。

 こうして電離によってできた電子は電界によって加速し,さらに電離を繰り返していきますが,このうち陽イオンは陰極に衝突するとき自由電子を発生,この電子がさらに陽極に衝突し,この時X線が発生します。回りくどいですねえ。これ,電子なだれといいます。

 このように,結局X線の発生に寄与するのは電子ですので,電子源としてのこんな不安定な仕組みを使うイオンX線管はすぐに使われなくなるのですが,さすが日本最初だけに,展示されているのはイオンX線管です。

 写真を見て,誰もがなにやら奇妙な形をしたガラス細工だと思うでしょうが,ちゃんと理由があります。

 写真の左側が陰極,右側にあるのが陽極でプラスの電圧をかけます。発熱して融けてしまわないように,膨らんだ部分に水を入れて冷却します。水冷式ですね。

 中央に見えているのが電子がぶつかってX線を出す対陰極,右側に伸びているのが補助陽極と呼ばれるプラスの電圧をかける端子です。

 下側にあるのがガス調整器と呼ばれる物で,内部にはガスをため込む性質のあるパラジウムやアスベストが入っています。その左側にちょろっとあるのが調整棒です。本来調整棒は陰極にくっつくくらいの長さがあるのですが,この展示品では短くなっているようです。

 X線管を使っていると,イオンが消費されてガスが減っていきます。こうなると電流が流れにくくなってしまうので,ガスを追加しないといけません。

 そこで調整棒を陰極に接触させて放電を起こし,その熱でパラジウムやアスベストからガス(水素らしいです)を発生させて,内部のガス圧力を調整します。

 簡単に言いますが,これがまた職人技らしく,電流の大きさから自動的に調整を行う装置が作られたりと,なにかと大変だったそうです。

 海外ではすでにこうした仕組みとは無鉛のクーリッジ管に移行していましたが,日本では第一次世界大戦の関係から輸入品が途絶えてしまい,この旧式のイオンX線管が使われ続けたという話もあります。

 こうして,日本で最初のX線管が東京電気から生まれたのは電球の生産技術があったからなのですが,それが後々レントゲン装置の有力メーカーからCTやMRI,超音波診断装置といった医療機器のトップメーカーになる,きっかけになるのです。

 

さようなら,東芝未来科学館~その2

 さて,東芝未来科学館の話,初回は大型の手作りコンピュータであるTACとKT-Pilotについて書きます。

(1)TAC(1954年)

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 個人的に,東芝未来科学館の最大の目玉と思っているのが,このTACというコンピュータです。日本のコンピュータの歴史を紐解くと,必ず登場するのがこのTACです。その実物がここにあります。

 TACは東大と東芝がタッグを組んで作った最初期の電子計算機だったのですが,実はなかなか動いてくれませんでした。当時のコンピュータは作ったらすぐ動くようなものではなく,必ず「調整」と呼ばれる工程があり,この調整が上手くいくかどうかで動作するかどうかが決まるようなところがありました。

 正直なところ,私も調整で具体的に何をやっていたのか正確には知りませんし,マニュアル類を見たこともないのですが,想像するに,当時のコンピュータはアナログ回路で構成されていて,これらに調整箇所が多かったという事ではないかと思います。例えば,メモリとして使われた遅延線などは完全なアナログでメカの要素も多かったですから,これらを細かく調整していただろうと思います。磁気ドラムなんかもそうでしょう。

 東芝が言うには,調整に使うトリガ式のオシロスコープにまともなものがなく,波形の観測がままならなかったそうで,結局動作する事なく1957年に東芝はTACから手を引いてしまいます。

 その後東大だけで再設計,製作までやってのけ,トリガ式オシロスコープを入手して調整も完了,無事に稼働まで持っていったそうです。その後3年間活躍したそうですが,ブラウン管メモリは当時高速で知られていて,これが安定動作するということで貴重な存在だったという話もあります。

 東芝は戦前から真空管やブラウン管のトップメーカーで品質,信頼性,ノウハウなどもずば抜けていましたから,TACのような真空管を大量に使うプロジェクトには最適なパートナーと東大も考えていたことでしょうが,1954年という終戦から10年も経過していない時点で,これだけの巨大システムを構築することの難しさを,関係者は痛感したことでしょう。

 さて,展示品ですが,最大の特徴であるブラウン管メモリがわかりやすい位置にあります。右側にある丸いカバーの中にあるのが,ブラウン管です。

 その横にはミニチュア感がずらーっと並んでいますが,高信頼管である4桁の真空管の名前が書かれています。希に6BQ5なんかの同じ皆名前があってホッとしますが,よく見るとフィリップス製の真空管が刺さっていたりして涙を誘います。

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 そうそう,上部には電源回路と思われるものがあり,真空管も一回り大きなレギュレータ管がささっています。おそらく6AS7(6080)か5998あたりでしょう。

 さてこのTACですが,裏側や横側を見ることも可能です。左側には電源スイッチだろうナイフスイッチがありました。電子計算機といえど,そこは1950年代の電気製品です。戦後まもなく,何もかも不足していたこの時代,身近なものをかき集めて電子計算機をなんとしても作ろうと燃えた先人達に脱帽です。

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(2)KT Pilot(1961年)

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 もう1つ目玉になるのが,このKT Pilotです。聞いたことないという人もいると思いますし,聞いたことがあるという人でも,京大が作ったコンピュータだということくらいしか記憶にないと思います。

 1961年ですからね,すでにシリコントランジスタが使われた商用機も存在していた時代で,コンピュータが社会に組み込まれ始めた時期でしたから,このKT Pilotが特別珍しい物ではないというのも事実でしょう。

 概略を言うと,日本で最初のマイクロプログラム方式を採用,非同期方式で高速,商用機であるTOSBAC-3400のプロトタイプ,というところです。

 このうち非同期方式についてはその後の主流にならなかったという点で,TOSBAC-3400のプロトタイプについては数ある商用機の1つのプロトタイプであることを特筆っすることはないという点でそそるものはない(失礼)のですが,問題はマイクロプログラミング方式です。

 CPUの命令セットをハードワイアードで定義せず,ROMなどを使って設定するこの方式は現在では知らない人などいないくらい当たり前の技術となっています。特にCISCプロセッサの代表である8086や80286,80386は,その複雑な命令をハードワイアードで作るには無理があり,マイクロプログラム方式を採用していました。

 もちろんマイクロプログラム方式は速度が遅くなります(というよりクロックの上限の足を引っ張る)から,80486では力業でハードワイアードだったそうですし,NECのV33も同様だったと聞いています。

 また,RISCプロセッサは命令セットが単純でハードワイアード出来る事もメリットの1つでしたから,その頃からマイクロプログラム方式は過去の技術みたいな雰囲気を持っていたように思いますが,現在はざっくりいえばx86の命令をRISC風の命令に変換しているので,これがマイクロプログラム方式の様なものといえば,その通りかも知れません。

 実際,このマイクロプログラム方式のメリットとして挙げられたのは,複雑な命令の実装が楽ちんであること,もしバグがあってもマイクロコードを修正すれば対応出来るというものがあり,後者については最新のCPUでもこっそり行われていたりします。

 そんなマイクロプログラム方式ですが,1950年代においては亜流も亜流,猫も跨いで通るような技術だったそうです。そんな中,京都大学ではマイクロプログラム方式を採用したコンピュータの実装が検討されます。

 目指すは命令の拡張や修正が可能なコンピュータです。当時,コンパイラやOSなどのプログラムを開発する過程で,こんな命令があったらなあとか,こういう動きをして欲しいのになあとか,ハードウェアに対しての要望がいろいろあったそうですが,要望が出る時はすでにハードウェアの開発がほぼ終わっているわけで,上流も上流である命令セットの問題など,諦めるほかなかったのです。

 しかし,マイクロプログラム方式にすれば,そうした要望を実現することが出来ます。こうしてハードウェアとソフトウェアが協調してよりよい形で完成していくことを狙ったのが,この時計画されたコンピュータでした。

 ただ,それだけでは面白くないと思ったのか,速度の向上も狙って,非同期式(動作の終了した回路が次のステージの回路に「終わったよ」というシグナルを出し,このシグナルを受けた次の回路が動き出すという仕組みで,いわゆるクロックを持たなず常に最速で動く)を採用し,かつ当時最新のデバイスだったメサ型のシリコントランジスタで動作速度そのものも上げちゃおうという試みでした。

 当時,高速なメサ型のシリコントランジスタの量産に成功していたメーカーとして東芝があり,こうした事情からのちにKT-Pilotと呼ばれることになるこのコンピュータは東芝と開発することになったということだそうです。

 マイクロプログラム方式は当時考案されたばかりで実験的な意味合いで実装されたわけですが,のちにIBMがシステム360で採用しコンピュータの世界を塗り替えてしまった後は主流の技術に上り詰め,それまで批判的だった人たちも手のひらを返したように賛成派に回ったということです。

 なので,その後のコンピュータのあり方を変えたマイクロプログラム方式という一点で大変興味深いKT-Pilotですが,その歴史的な意義が一般にわかりにくいにもかかわらず,その実物が残っていること,そしてそれが一般に公開されていることは,奇跡に近いことだと思う訳です。

 KT-Pilotの最大の特徴であるマイクロプログラムは,最終的にはプラグボードという配電盤のようなものを使って配線で行われてしまったのですが,当初の計画では大変面白い仕組みで実装されていました。

 「東芝1号機ものがたり」によると,

"マイクロプログラム用の固定記憶装置はダイオードによる記憶装置を用い、可変記憶装置としてはパッチボード方式およびフォトトランジスター(光センサー受光デバイス)による独自方式を用いた画期的なものであった。"

 とあります。

 命令を固定しておいても構わないものはダイオードを使うROMで構成,まあこれはわかります。

 しかし,可変する物をフォトトランジスタで実装というのはどういうこと?

 これ,実物を見ればよくわかります。

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 写真はKT-Pilotを横から覗き込んだものです。ちょうど正面のプラグボード(まるでエアコンの吹き出し口みたいなやつ)の裏側あたりです。

 網のように穴が開いている板がありますよね,この下にフォトトランジスタがあります。おそらくですがマトリクス状に組まれているので,手前にトランジスタが並んでいます。(一部交換されたものがあって微笑ましい)

 で,この板の真上には,ランプがあります。筐体の天井からぶら下がる形です。

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 SEALEDという文字が見えるので,反射板を内蔵したシールドランプだと思うのですが,こいつが強力な光を先程の網に照射します。で,マイクロプログラムはこの板の上に乗せた紙に,フォトトランジスタをONにしたい所は穴を開けて光を通し,OFFにしたい所は閉じたままにして光を通さないようにしておくというアイデアでした。

 なんと,マイクロコードを2次元の紙で実現するという面白いアイデアだったんですね。いやー,これは面白い。これだと確かにマイクロコードの入れ替えは簡単ですし,修正も楽です。いわばパンチカードの光学式読み取りのようなものですが,こういう手作り的な,というかアマチュア的な工作が創意工夫の結果として最先端の高速コンピュータに使われるというのが,黎明期のコンピュータ開発にはあります。

 残念な事にこの仕組みは上手く動かず,結局プラグボードという当たり前の方式に落ち着いたそうです。プラグボードは確実ですが修正は面倒ですし,全部を入れ換えるなんてことをさっと出来る訳はありません。

 とはいえ,マイクロプログラム方式であることを最大限に生かし,円周率πを100桁求めるマクロ命令を定義し,他のコンピュータがシコシコと100桁分をループで計算するところを,命令1個でだだーっと計算し,世界最速の称号を手に入れます。

 まあ,はっきりいってズルですし,チートです。かつてインテルはベンチマークテストで使われる命令を超高速で処理できるようにして,自社製品の高速性を謳ったことがあり,バレてから随分叩かれたことがあったわけですが,それをまさに地でやっていた感じです。

 でも,当時はずるいという話が出る以前の問題で,そんなに速く計算出来るわけがないとか,ウソだろうとか,そうした批判ばっかりだったということです。

 こうした考え方で作られたコンピュータを現代的な視点で見てみると,1つの命令で多くのことをこなすのではなく,単純な命令を組み合わせることでハードウェアを軽くして高速化を目指すという手法とは逆で,現代的ではないという味方もあると思います。

 しかし,一方で最新のCPUでもx86やx64といった複雑な命令を内部で単純な命令の組み合わせに置き換えて高速化を図っているという点では,同じ事をやっているともいえます。

 もちろん,どちらもその目的や動機はKT-Pilotとは異なりますので,単純な比較は出来ません。ただ,命令セット,処理速度,ソフトとの連携,という3つを跨いだ問題が,今も昔も重要かつ楽しい課題だということに変わりないように思います。

 さて,成功裏に終わったKT-Pilotは後に東芝の商用機TOSBAC-3400になり,ヒットします。ソフトの開発効率や互換性の観点から,マイクロコードを入れ換える機能はなくなり,固定化されてしまいましたが,非同期で高速という特徴はそのまま継承されて,ヒットしました。

 

さようなら,東芝未来科学館~その1

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先日,とても残念なニュースが目に入りました。

 東芝未来科学館が6月いっぱいで一般公開を取りやめるというものです。

 いち企業の展示施設が一般公開をやめるからと言って大騒ぎするようなものでもないのはずですが,ニュースになるくらいのインパクトがあるお話なのだと思います。

 東芝未来科学館は,10年ほど前からなにかとお騒がせな東芝が運営する施設で,川崎にあります。日本を代表する製造業の企業博物館ですので,その展示内容は自社の紹介でありながら,同時に日本の電気に関する産業の歴史を網羅します。

 前身であった東芝科学館(これは川崎駅からバスで10分ほどかかる東芝の事業所の中にありました)が1961年にオープン,2014年に現在の場所に移転して通算63年もの間,大きすぎて見えづらい東芝という会社と我々一般の人との間の接点を果たしてきました。

 大企業の展示施設でありながらその志は高く,その存在意義を「先端科学技術・事業の情報発信」「産業遺産の保存・歴史の伝承」「科学技術教育・啓発活動の推進」と定義し,本気で取り組んでいた様は東芝という会社の真面目さを象徴するものであったと思います。

 特に,産業遺産の保存と科学技術教育の啓発には熱心で,前者は日本初,あるいは世界初の製品を世に送り出した企業の足跡が即科学技術の歴史になるという希有な立場を負担に思うことなく,その責任を進んで果たしていたように思いますし,後者は特に子どもたちへの温かい視線が時代を超えても変わらず,多くの小学生の社会科見学を受け入れていたことからも頷けるものがあります。

 もちろん,時代と共に展示内容は変わりますし,子どもたちの興味も変わるわけですが,ちゃんと学芸員の資格をもつ方々によって「本気で」運営されていたガチの博物館という点は変わらず,自社の紹介を目的とした単なる広報施設を越えた社会的使命を長年にわたって務めてこられました。

 東京や川崎の周辺で子ども時代を過ごした人にとっては馴染みのある東芝未来科学館ですが,私のように大阪で生まれ育った人にとっては憧れの聖地でありました。

 大阪ですから,テレビも冷蔵庫も洗濯機も東芝よりは松下,シャープなわけですが,子供心に東芝という会社への「こちらを見てくれている」という安心感は強くあり,そのおかげか今でも東芝には特別な思いが残っています。

 というのも,東芝は昔から子どもに優しかったのです。サザエさんでその存在を知ったあとは,おもちゃを買えばついてくる電池は「キングパワー」です。

 キングパワーにはベルマークがついていて,遊んだ後は学校に持っていくと,それがいつしかボールに変わっていたりするわけです。

 やがて電子工作を始めれば「初歩のラジオ」で使う部品の多くは東芝製。古くは2SB56,2SC372,そして定番2SC1815です。C-MOSの4000シリーズも東芝のものが多く使われました。そして特殊なICになるリニアICも,なぜか東芝のものは頻繁に顔を出しました。

 本来,この手の電子部品というのは家電などの量産品を作るために用意されるものであり,大口の顧客相手にしか販売されないものです。1つ2つ欲しい人のために一般の販売店で小売りされるには価格が安すぎて商売になりません。

 だから電子部品のメーカーは(売ったもののサポートも含めて)小売りを嫌がるのですが,東芝は初歩のラジオに広告を出すほど,こうした小売りを大切にしてくれていました。

 いってみれば大口の客のおこぼれが工作少年の手元に届いていたわけで,それも東芝という会社の余力と気高いポリシーによるものだったんじゃないかと思います。

 とはいえ,電子部品ですのでその性能が悪かったり,品質のばらつきが大きかったり,はたまた高かったりしたら話にならないのですが,東芝の電子部品はアマチュアにはもったいないくらい高性能,品質も安定していてハズレなし,しかも安くて手に入りやすいということで,私にも「東芝なら安心だ」という気持ちがあったことを覚えています。

 子供の科学には家電品の仕組みを解説したページを長年持っていましたし,初歩のラジオには「東芝ラジオ教室」なる製作記事のページをスポンサードしていました。雑誌が広告の役割を強く持っていた時代ならではですが,自社の製品を売るためというよりは,もっと広い意味で子どもたちの目にとまることを期待していたように思います。

 そんなイメージの東芝が,まさに子どもをメインに考えて運営していた施設が東芝科学館でした。子供の科学を愛読していた小学生の私は,時折見る紹介記事を羨望の眼差しで眺めておりました

 しかし遠く大阪に暮らす私にはどう転んでも見学は無理な話です。いつか機会があったら行こうと心に決めたわけですが,就職して東京に来てみれば「結婚して子どもでも出来れば」と後回しになってしまいました。

 いざ子どもが出来ればそれどころではなく,やがてコロナがやってきて,そのうちにそのうちにと言っているうちに,一般公開終了のアナウンスです。

 あぁこうしてはいられない,ここで見学しないままいたら,死ぬときにきっと後悔すると思った私は,意を決して会社を休み,平日の見学を決行するに至ったのでした。

 そもそも,土曜日はすでに予約でいっぱいで見学できません。ですが仮に土曜日に予約が取れたとしても,平日は人数が少なく,じっくり見ることが出来る事も大きいので,会社を休むことに罪悪感はかけらもありません。

 ということで先日,念願の東芝未来科学館に足を運んだのです。

 もちろん,産業史が大好きな私は図録である「東芝1号機ものがたり」を事前に入手してあり,予習に抜かりはありません。しかし,そこにあった実物には,実物だけが持つ圧倒的なリアリティで強く訴えかけるものがありました。

 また,「東芝1号機ものがたり」にあったそれぞれの解説は,実物の前では非常に控えめであるとわかります。そう,実物を見て,アテンダントの方の説明を聞きながら当時の状況を想像すると,解説に書かれたことはかなり遠慮がちであり,実はもっと大きな意義がある事に気が付きます。

 東芝は,我々に,普段から,もっともっとアピールすべきだったと思います。

 そんなわけで,早速見学開始です。受付でQRコードをかざすだけで手続き完了。あとは好きなように見ていくだけなのですが,私は本命のヒストリゾーンから見学です。

 と,ちょうど私が入った時に,からくり人形の実演が行われる事になりました。人が集まってくるので静かに見学したかった私には複雑な気分があったのですが,言われてみれば滅多に見られるものではないですし,楽しみながら見させて頂きました。

 茶運び人形はテレビでも動く様を見ていましたし,原理も分かっているので復習のようなものでしたが,驚いたのは鳥かごに入った小鳥が鳴くからくり人形「からくりほととぎす」でした。

 ふいごを使って鳴くようになっていたのですが,実際の音(声)を聞いたのは初めてだったので,これは素晴らしい体験でした。

 いわゆる白物家電のうち,洗濯機と掃除機,扇風機は動かして頂いたのでこれも感激しましたし,電気蓄音機もその音を実際に聴かせて頂いたので,オーディオ好きとしては思いがけず感動。動く状態を維持することはとても難しいので,とても丁寧に愛着を持って収蔵品を管理されていることにもう一度感動です。

 こうしてみると,東芝という会社は,芝浦製作所の流れを汲む重電と家電品の流れと,東京電気の流れを汲む電球と電子部品の流れに加えて,合併後に生まれたコンピュータや放送機器といった別の流れがある事に気が付きます。

 特にコンピュータについては,大型コンピュータから早期に撤退したことで,後にドル箱となるシステム開発力を得ることが出来なかったと指摘する意見もあるようですが,富士通やNECなどのやり方が必ずしも正しいとは思っていない私は,東芝がとりわけコンピュータを苦手にしていたとは考えていません。

 もう1つ感じた事は,ヒストリゾーンが小さいなという事です。自社の製品の歴史を語る展示なのであまり大きくするのも憚られたのかも知れませんが,東芝ほどの歴史があり,東芝ほど世界初,日本初が多く,IEEE等からも表彰を多数受けるという実績があって,実際に多くの製品が我々の日常生活を豊かにしながら科学技術に大きな貢献をしている会社は決して多くなく,公平な目で見てもっとたくさんの実績を展示しないとかえって東芝という会社が正しく表現出来ないのではないかと思いました。

 具体的には,まず鉄道車両です。日本で最初の国産電気機関車については触れていますが,戦前の直流電気機関車EF52やEF53,戦後の新性能電気機関車の嚆矢であるED60,交流電気機関車であるED71,そして当時狭軌最大と呼ばれたEF66と,その開発に東芝の貢献は非常に大きいものがあります。

 のみならず,VVVFインバータでは日立と並んで先駆的な役割を果たし,現在も多くの車両に搭載されていますし,現役のEH200やEH800は東芝製です。鉄道車両では日立が最近なにかと表に出てきますが,いやいや東芝もすごいんですよ。

 それからトランジスタ。東芝は真空管に強くてトランジスタに乗り遅れたと言われていますが,それも最初の頃の話で2SB56では日本の標準品種になりましたし,2SC1815はラジオやテレビからモータードライブ,LEDのスイッチまで,まさになんでもこなす汎用品として安価に出回ったくせに,そこら辺のオーディオ用トランジスタよりもローノイズで音も良く,もはや究極の万能文化トランジスタと言っていいかもしれません。

 ICは自社のテレビやオーディオのために,非常に高性能なものが多数開発されていました。価格も安くなぜか入手も容易だったことで,自作のラジオが製品並みの性能を手に入れる,まさに魔法の部品でした。

 LCDも実はすごいものを持っていました。超高精細なTFTのカラーLCDを作る技術に長けていましたが,最終的に売却し東芝としてはLCDから撤退したのであまり紹介されていません。でも当時どれほど先頭を走っていたか・・・

 まだあります。そう,医療機器です。国産第一号のX管を開発したことはよく知られていますが,レントゲン装置でもトップメーカーでした。

 そしてイギリスEMIとの関係から国産のCTスキャナとMRIの開発に成功し,GEやシーメンス,フィリップスといった競合と熾烈な競争を繰り広げていました。世界のトップ集団にいたことは間違いなく,まさに抜きつ抜かれつだった伝統あるこのカテゴリを,あろうことか東芝は売却してしまいました。

 電池もおなじみでした。乾電池のブランドであるキングパワーは,松下のハイトップと並んでよく知られていましたが,子どもの工作に関係する雑誌にはなからずと言っていいほど広告が出ていて,子どもたちにはすっかりおなじみでした。

 プラス側の電極に紙の帯がかかっていて,使う前にはこれを破って端子を露出させます。不要なショートを防ぐと共に新品の証明になっていたわけですね。ついでにいうとここにベルマークがありました。

 ボタン電池,コイン電池,Ni-CdやNi-HMの二次電池は言うに及ばず,現在も産業用にSCiBという独自のリチウムイオン電池を作っていて,ハイブリッド車やN700A新幹線にも採用されています。これ,結構すごい電池なんですよ。

 電池に関して私が特に言いたいのは,ベルマークです。自分が小学生の時と,自分の子どもが小学生になったときしか意識しないベルマークは,その仕分け作業が過酷で無駄なPTAの仕事の代名詞としてやり玉に挙がることが多いのですが,その志は高く,実際にベルマークで学校の備品や施設が拡充されてきたことは事実です。

 そんなベルマークも近年協賛する企業にゆとりがなくなってきたからか,離脱する会社が後を絶ちません。もし関心があれば調べてみて下さい。昔当たり前のようにあったベルマークが,今や目にすることがなくなってきていることに驚くでしょう。

 TDKも富士フイルムも今やベルマークから離れています。そんな中,東芝は電池でベルマークを続けてくれています。Ni-MH電池の4本パックなどは高額なのでベルマークも10点を超える高得点なのですが,この電池に支払った金額の一部が学校に行くのかと思うと,決して楽ではないはずの東芝が未だにベルマークを続けている事に感心するほかありません。

 異色なところでは,音楽です。日本のビートルズのファンで,東芝EMIを知らない人はいないはずです。そしてつい最近まで,東芝は音楽レーベルを持っていて,クラシックからヘビメタ,歌謡曲から落語のテープまで,まさに幅広く音楽を作っていたのです。

 ソニーが後に音楽や映画で多くの利益を上げていることを考えると,東芝もそうできたはずです。残念でなりません。

 こうしたことをなぜもっと発信しないのか,それも東芝未来科学館という施設を持っていながら,なぜアピールしないのか,控えめにも程があると思うのです。


 さて,東芝未来科学館の見学記をこうして書いていたら,1回や2回で書いてしまうともったいないくらい面白い体験であったことがわかってきました,今回はこのくらいにして,展示品に関するお話は次回以降に続けていこうと思います。

 洗濯機や冷蔵庫などの家電品は身近ですしわかりやすいので,東芝未来科学館の紹介記事では必ず目にするでしょうし,アテンダントの方々の説明にも気合いが入ります。

 しかし,それ以外の展示品にも見るべきものがあります。だからこそ厳選されて展示されているのですが,記事にすらならないそれらは,知識や興味がないとその意味が見えてきません。

 次回以降では,私の心を震わせたマニアックな展示品を語ろうと思います。他では写真入りで取りあげることも少ないでしょう。

 一般公開がなくなれば,いよいよそうしたものを目にすることがなくなり,自ずと話題にも上らなくなります。社会的に消えてしまうのと同義ですが,私はそれが残念でならないので,せめてここで書いておこうと思っています。

 続きます。

RPi5とLakka5.0でうちのすべてのゲームを集めたマシンを

 RaspberryPi5がリリースされたのが昨年の秋,日本でもようやく普通に買えるようになってきました。

 私はRaspberryPiで高尚なことはなにもせず,Lakkaを入れてゲームマシンにすることで,その進化具合を味わうことにしていました。RPi3でガクガクしていたゲームがRPi4ではスムーズに動きゲームを堪能出来ると,そんな感じです。

 同じ話はGPiCaseにもあって,RPiZeroWだったものをRPiZero2Wに入れ換えて,あの小さな画面でアーケードゲームがグリグリ動く事に感激していました。

 そしてとうとうRPi5の登場です。数年前のノートPCくらいのパワーがあると言われているRPi5,どれくらい快適にゲームが出来るようになったのか楽しみにして,今年2月にいの一番に4GBモデルを購入しました。

 ところが,LakkaがRPi5にまだ対応していないことが発覚,安定版が出るまで待とうと放置していたら知らぬ間に正式版がLakka5.0と同時に4月末にリリースされていました。これはこのGWの仕事になるなと,ケースなどをぼちぼち集めて用意していました。

 果たしてGWがやってきて,死蔵していたRPi5をケースに組み込みテスト。問題ないことを確かめたら128GBのmicroSDにLakkaを入れて起動を試みますが,残念な事に起動しません。

 初回起動時にストレージを拡張する作業が入るのですが,どうもこれが走らないようです。詳しいことはわかりませんが,こういう問題はすぐに解決するだろうと数日待つも,全然解決しそうにありません。

 仕方がないのでnightly buildを試してみるとあら不思議,ちゃんと起動するではありませんか。この状態でアップデートをかけると正式な最新版になってくれるので,これで先に進めることにします。

 RPi4のLAKK4.3も起動して,ここからROMのデータをコピーします。RPi4もRPi5もGbitのEtherなので速くて助かります。

 ROMのコピーが終わったら早速評価に移ります。さっと確かめると,やはりパワーが上がっており,これまで苦しかったゲームがヌルヌル動き,もはや私が楽しんでいたゲームは全く問題なく遊べるようになっていました。

 ここでトラブル発生。画面が出なくなってしまいました。RPi5はRPi4と同じで,MicroHDMIで繋ぐのですが,私は変換コネクタを介してHDMIで繋いでいました。

 不思議なことに,RPi5は全く表示がでなくなりましたし,RPi4ではVGAでしか表示されなくなりました。このおかしな動作に半日悩んだのですが,もしかしてと変換コネクタを見ると,ピンが曲がっていました。

 こんなことってあるんですね,曲がったピンをピンセットで無理矢理伸ばして整形したところ,RPI5もRPI4も正常に表示されるようになりました。

 あわててamazonでMicroHDMIのケーブルを調達してこの問題は解決。

 さあこれでRPiのゲームマシン化はおしまいかなと思ったところで,ふと思ったのは,もしかしたらSegaSaturnやPlaystationも十分な速度で遊べるようになっているんじゃないかということです。

 手持ちのソフトをリッピングして試してみると,まったく問題なく遊べます。もう実機が壊れても構わないレベルです。

 さらに欲が出た私はDreamcastも試しましたが,こちらも全く問題なし。これで私の手持ちのSS,PS,DCのゲームが遊べるようになりました。素晴らしい。

 時間はかかりましたがリッピング,そして.chdに圧縮して転送,動作テストを行って,私は20年前に買った多くのゲームをまた遊ぶ機会に恵まれたのでした。

 さらにPlaystation2も遊びたいなと思って頑張りましたが,残念ながらこれは全く動作しません。起動すらしないのでもともとダメなのか,私の設定がまずいかなにかだと思います。全く動かないという報告を他でも見たので,ここは慌てないで時間が解決するのを待つことにしましょう。

 私がテストプレイと言いながら結構真面目にSegaSaturnのゲームで遊んでいると,中学生になったばかりの娘が興味深そうにやってきました。

 ダイナマイト刑事をみて,あまりの画像の悪さに文句の1つでも言うかなと思っていたらそうでもなく,ゲラゲラ笑ってみています。そう,ゲームの面白さというのが,グラフィックの良し悪しではないのです。

 あくまでグラフィックは脳への入力情報に過ぎず,我々が体験するゲームとはそこから保管されたイメージです。つまり,ゲームそのものがしっかり作られていて,見劣りするのがグラフィックだけならば,そんなものは人間の豊かな想像力によって,いかようにもなるということです。

 同じ事は,一世代前のゲームやパソコンに対して常に言われたことでした。モノクロのマシンに対しても,スプライトがないキャラクタベースのマシンに対しても,色数の少ないマシンに対しても,ポリゴンが出せないマシンに対しても・・・

 楽しさの本質は,画面の派手さではありません。楽しい物は時を超えて楽しいんだなとつくづく思いました。

 ぱずるだまって,こんなに難しかったかなあ・・・

CherryMX2Aに交換した結果

 キーボード(PCのやつです。楽器じゃないです。)に昔ほどのこだわりがなくなっている昨今ですが,毎日使う物ですから,やはり気持ちよく使いたいものです。

 今仕事用に使っているキーボードは上海問屋で買ったDN-915975という73キーのキーボードを改造したもので,もともとGateronの赤軸だったキースイッチを,元祖Cherryの赤軸に根性で交換した物です。

 改造したのが2020年の9月,今から3年半も前の話ですか・・・時間が経つのは早いものです。

 DN-915975というキーボード,当時5180円という破格値で売られていました。その後1500円ほど値上がりしているようですが,それにしても今では考えられないお値段です。

 ただ,今思えばGateronのキースイッチを持つキーボードの打ち心地は十分とは言えず,Cherryに交換してみて初めて,本物の良さを知る事になったわけです。

 配列も必要なキーが揃っていることも含めてですが,Cherryのキースイッチに交換したこのキーボードは,底打ちの時の音がカチャと大きい事以外は気に入って使っていて,会社においてあるRealForceよりも心地よいんじゃないかと思うこともあります。

でも,やっぱり音が問題です。自分でもこのカチャカチャという音はかなり耳障りで,ノイズキャンセリングヘッドフォンをしているとちょうどいいくらいです。

 自分でもこんなに気になるんだから,周りの人にはさぞや迷惑なことでしょう。

 なんとかしないとなあと思っていた所に,CherryMXの次世代品,CherryMX2Aが秋葉原で販売開始というニュースを目にしました。

 あのCherryMXの新製品です。気にならないわけはありません。見れば,ルブが最大のポイントみたいで,これまで自分でスイッチを分解して油を塗っていたマニアたちの苦労が,ようやく本家に伝わったということでしょう。

 スプリングの形状も変わったそうですし,精度も上がっているという話です。さらにズムーズな押し心地に高い信頼性と,試してみようと思うに十分です。

 そして,せっかく全数を交換するんですから,静音品を選んでみましょう。幸いお気に入りの赤軸には静音赤軸というバリエーションがあります。少し高いですが,これだと底を打ったときの音がかなり軽減されるそうです。(ただし噂ではステムがPOMではないらしいです)

 早速ヨドバシで注文。80個で8800円にポイント13%でした。73キーですので,70個では足りないんですよね。

 取り寄せという事で連休明けになるだろうと思っていたら,なんと数日で届いてしまいました。早速スイッチを見てみると,実にスムーズで期待が膨らみます。

 キースイッチの交換だけなら簡単で(簡単というわけではないんでしょうが,単純作業の繰り返しですので頭は使いません),すぐにも取りかかれる物なのですが,せっかくキースイッチを全部外すのですから,気になっていたキー配列の変更改造も計画しました。

 やりたいことは,スペースキーの左側にある無変換キーとその左にあるALTキーを交換するという物です。

 この変換/無変換キーは,私はCTRLキーに割り当てて,ショートカット用に使っています。MacでいうCMDキーなわけですが,これが一般の文字キーと同じ小さいサイズなことが気に入りませんでした。

 少し大きめだと,左手の親指が少々斜めになっても隣のキーに触れることもありません。親指の位置に自由度がないと,ショートカットキーが押しにくくて仕方がなかったのです。

 物理的なキーの入れ替えは大昔にもやっていて,PC-9801のキーボードで,Aキーの隣をCTRLだけにするという改造をやりました。この時はたまたまEWS-4800のキーボードも手に入り,ここから横長のCTRLキーのキートップを入手出来た事が大きいのですが,フレームを削り,基板にジャンパを飛ばして改造したキーボードが,実に使いやすくなったことを覚えています。

 ということで,物理的なキーの移動に抵抗のない私は,今回も改造を試みました。

 このDN-915975というキーボードは,アルミの天板がそのままフレームを兼ねています。キーを入れ換えるには穴を横方向に削り,スイッチをずらして固定する必要があります。そのためにはキースイッチを全部取り外し今が最適なタイミングです。面倒くさがっている場合じゃありません。

 まずはハンダ吸い取り機でLEDとキースイッチのハンダを吸い取ります。綺麗に吸い取れると基板だけを取り外す事が出来るので,基板が外れたらキースイッチをフレームから1つずつ外して行きます。

 フレームだけになったら無変換キーとALTキーの入れ替えを行う為に,寸法を出してヤスリで削ります。ALTキーの方が横に長いのですが,この2つを入れ換えただけですから,2つあわせて長さには変化はありません。

 削る作業は,柔らかいアルミですしヤスリを使って手でやっても良かったんですが,手間と労力と仕上がりの綺麗さから,ベルトサンダーを使うことにしました。

 2つの穴の左側を,右側のキーは2mmほど,左側のキーは1.5mほど削ります。実物をはめ込みながら慎重に手で削って位置を修正し,決まったところで1mmのアルミパイプを2本並べて右側の隙間を塞ぎ,接着します。

 我ながら上手く加工出来たところで,今後は基板です。スイッチの位置が変わるので基板はそのままでは使えません。まず4mmの大穴をそれぞれ左に広げて楕円にします。そうして位置が決まったら今度は新しいピンの位置に新しい穴をドリルで開けます。

 ここで失敗。続けてLEDの穴も開けないといけなかったんですがすっかり忘れてしまいました。後で気付いた時には,組み立てが終わってました・・・

 スイッチがおさまったら,他のスイッチも取り付け,基板をおいて一気にハンダ付けです。入れ換えたスイッチは穴を開けただけでハンダ付けは出来ませんから,そこはジャンパ線を使って配線します。

 で困ったのがLEDです。位置を交換したキーのLEDもずらす必要があることをすっかり忘れてしまいましたが,いろいろ考えて上側から1mmの取りつで足が通る穴を基板に開けることにしました。

 幸い,1本はこれまでのランドをそのまま使えそうなので,ハンダ付けによる位置の固定はできそうです。

 本当はFNキーとその左側のCTRLキーも入れ替えたかったのですが,ここはビスが通るため諦めました。しかし,FNキーも大きい方がよいので,となりのCTRLキーと並列に繋いで,どっちを押してもFNキーになるようにしておきました。

 そしてもう1つ,ずっと我慢していたことを解決しましょう。

 このキーボードは73キーと適度なキーが揃っているうれしいキーボードなんですが,標準で気に入らないことの1つにINSERTキーがないことがあります。

 INSERTキーなんか使わないという方も多いでしょうが,テキストの編集ではしばしば使いますし,アプリケーションによってはINSERTキーに機能を割り当てているケースもあります。私はこのキーをそれなりに使っていたので,FN+DELキーを押すことになれておらず,困っていました。

 一方で半角/全角キーは全く使わない(こんな変なキーがあるのはIBM互換機だけです)ので,それがINSERキーの場所にいることが許せずにいました。

 ただ,半角/全角キーはすでにESCキーとしてソフトウェアで割り当てを行っているので,半角/全角キーをINSERキーに割り当てることを,これまで断念してきました。

 しかし,物理的なキーの入れ替えをやると決めれば,これも解決しそうです。同様に使わないキーであるカナキーと半角/全角キーを物理的に入れ換え,カナキーにINSERキーをソフトウェアで割り当てるのです。

 こうすれば,DELキーの上という元の位置にINSERTキーが来ますし,カナキーは半角/全角キーとして,私の環境ではESCキーに割り当てられて機能することになります。

 この加工,なんでもないと思っていたのですが,実はそうでもなく,左右のキーを入れ換えるのと違って上下の段数も異なるキーの入れ替えなので,キーボードマトリクスのローとカラムの両方を入れ換える必要が出てくるのです。

 多くの場合,ローとカラムの両方が基板の片面に出てくることはなく,裏と表に配線されます。なので,基板をハンダ付けした今となっては,手が出せない場所のパターンをカットして再配線しないといけません,

 そこで,まずキースイッチの足のハンダを吸い取り,ここにビニルチューブを被せランドから絶縁,キースイッチの足に直接細い銅線をハンダ付けして再配線しました。

 テストも終わり,早速試し打ちです。

 おお,なんとスムースな打ち心地。まるでメンブレン式のキーボードのようなソフト感です。それいてストロークはしっかり確保されていて,さすがに静音だけあって底打ちの音もカチャンからポコ,という感じに調整されています。

 底を打つまでにキーが入るのも,メカスイッチの利点です。メンブレン式は底にぶち当たった時までキーが入ってくれませんから,ショートストロークのキーボードが主流になるのも頷けます。

 打ち心地に静音と,今回のキースイッチの交換は価値ある物になりました。いかにCherryとはいえ,油が塗布された部品の寿命や経年変化は気がかりですが,この心地よさが長く続いてくれることを願ってやみません。

 配列変更も快適そのもので,見た目のバランスの様さもようやく手に入りました。以前の赤軸の「かつーん」という底打ち感も懐かしいですが,とりあえず良かったよかった。これは癖になる打ち心地,REAL FORCEを越えたかも知れません。

 せっかくですからね,タイピングも楽しく心地よく,もっと触っていたと思うようなものに出会いたいものです。私のキーボードはすでに世の中に1つしかないオリジナルになってしまったわけで,そういう意味でも長く使いたいなあと思います。

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